1.下ヶ戸から覗岩
  2.四垂附から猿岩山
  3.へひ岩から竈場
  4.宗ヶ入と七曲り
  5.高山不動と奥ノ院
  6.四寸道道程図
  7.高山不動尊


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【四寸道を駆ける】 4.宗ヶ入と七曲り

越生氏の菩提寺・法恩寺には、寺の歴史を記した『法恩寺年譜』という記録が残されている。そして、その記述によると高僧・行基が越生の山々を和州三山に見立てて霊場を開き、法恩寺はその霊地に開山されたのであるという。行基云々はともかくとして、越生の山々が古くから霊場とされていた事に違いはない。さきにみたように越生の山々には修験にちなむ地名がいくつも残るし、法恩寺も修験と深く関わっていたようだ。なにより越生一族からも熊野修験を輩出している。そしてそれらを背景として黒山霊場を開いたのが山本坊だといえる。大高取山山塊が吉野金剛界だとすれば、山本坊は黒山を熊野胎蔵界とする事によって、越生郷一帯に拡がる霊場を現出させていったのだ。

七曲りへ向かう道が四寸道であるのは間違いないとして、一旦ここで尾根道について話を進めよう。竈場で道を別けた尾根道は小さなコブを越えた後、険しい急登となって嶽岩(熊野ヶ嶽)に辿り着く。そして岩稜となったその頂きには武巌琴宮が鎮座している。その嶽岩を乗り越え、宗ヶ入を左手に見ながら尾根道を行き、奥武蔵の尾根に乗れば高山不動奥ノ院はもう目前である。越生氏の氏神でもある琴平社が鎮座する嶽岩に、山本坊は執拗なまでにこだわった。山本坊(相馬家)の出自はこの宗ヶ入(そうがいり)だとし、自らを平将門の末裔と名乗る。この為、宗ヶ入を将監ヶ入あるいは相馬ヶ入ともいう。また、嶽岩を熊野ヶ嶽とも呼び、黒山熊野神社はもともと嶽岩に鎮座していたという伝承も残る。おそらく嶽岩は山本坊以前の越生熊野修験の聖地であったのだろう。いや、ここに限らずこの峰入りの道は、すでに古くから数多の修験が割拠する場所だったように思う。だからこそ山本坊は既存の勢力に対抗する為、あえて越生熊野修験を継承する形をとったのではないだろうか。


ちなみに法恩寺10世慶瑜は山本坊栄龍の実兄でもあった。そして、山本坊は後に毛呂の西戸村に本拠を移してからも、「越生修験山本坊」という署名を正式な文書に使っている。黒山霊場が開かれてからおよそ200年後の慶長8年(1603)、その栄龍が移り住んだ西戸村は、川角村から越辺川を渡ってわずかの所に位置している。それは鎌倉街道及びさかと道、かわごえ道の要衝となり、高山不動の一ノ鳥居が川角村に存在していた事をふまえれば、山本坊がより多くの信者を獲得する為に、越生の表玄関ともいうべき場所に本拠を移したのは、いわば必然であったのかも知れない。高山不動は醍醐寺当山派だが古くから一山五流といわれ、その中には勿論、本山派山本坊の霞下も含まれてはいた。しかし、龍穏寺の勢力も考え合わせると、やはりこの"峰入りの道"の支配をかけて、群雄が割拠していたといってもよさそうだ。 それでは再び四寸道に話を戻そう。四寸道は前述の尾根道との分岐点から七曲りに向かって下り始める。

猿岩林道がその道筋を踏襲しているが、実際には林道のガードレールのから一段下がって道は続いている。けれどもしばらく行くと、林道建設の際に投棄された土砂に行く手を阻まれてしまう。猿岩林道に戻るには、それを迂回して急登を登ればいいのだが、よほどの篤志家でもなければ、はじめから林道を歩くだろう。猿岩林道が尾根との分岐点から下ってきて、最初に大きくカーブするところが七曲りの入口となる。頭上に嶽岩が聳える右手の宗ヶ入沢から入れば、たやすく尾根道に乗ることもできるが、四寸道はそれより南に進路を向ける。前述の『御鳥居七ヶ所版木』に四十八曲りと記載されているのをみても、七曲りが四寸道の中でも際立った霊場であった事がわかると思う。しかしそこには隠れ不動は描かれてはいない。そしてそれは、隠れ不動が版木の製作以降に発見された事を示している。 七曲りに入って小沢沿いの道を上って行くと、岩上に馬頭観音が祀られている場所がある。この石仏は寛政十年(1798)に高山不動三坊の岩田権之進が建立したものだ。そしてその目前の断崖が、隠れ不動だといわれている。


四寸道・四十八曲りのうち、もっとも神秘的な雰囲気を醸し出す七曲り。その中心となっているのは何といっても「隠れ不動」だろう。口伝では「信心がある人が見ると、不動尊が断崖に浮び上る」という。けれども「見える、いや見えない」といった曖昧もので、先達に導かれた修行者が素直に納得したのだろうか。往時、高山不動には数多くの修験者が屯してはいたが、修験道が廃止されてからすでに130年以上の時が経っている。現地で聞き取りをしても判然としないのは、むしろ当然といえるかもしれない。それでは何故、不動尊を映しだすというこの断崖が「不動岩」ではなく「隠れ不動」とよばれているのだろうか。一般には「見る人によって隠れてしまうお不動様」といった解釈がなされてはいるが、実際にはそれほど安直なものではなさそうだ。時の流れに封印された謎を解くためには、まず神仏分離令が発布される以前に遡り、神仏習合が当り前だった事を思い出さねばならない。 

本地垂迹説により不動尊を本地とすれば、その垂迹は天手力男命となり、日本神話の天之岩屋隠れに登場する神となる。さらに密教教理によれば不動尊は大日如来の化身であり、その大日如来の垂迹は岩屋に隠れた天照大神であった。すなわち「隠れ不動」とは"岩屋隠れの不動尊"であって、その姿は不動尊が天之岩屋に隠れているというものなのだ。つまり神仏習合と密教教理による不動尊の姿を、自然の断崖が示現させているところに、本当の神秘が隠されているといえるだろう。そしてそれは、自らの感性を尊重する事が、結局は信心に繋がるものだと教えている。隠れ不動の前には円形の石積みがあり、そこがかつて禊の場であった事を物語る。あるいは深仙灌頂のような儀式が行われていたのかも知れない。七曲りには中ほどに炭焼竈が2つほど残されているが、それはおそらく昭和の中頃のものだと思う。高山不動のある吾野村には昭和4年(1929)に西武池袋線が開通した。高山不動への参詣道として賑わっていた四寸道にも、その頃から少しずつ翳りの色が見えはじめていたのかも知れない。

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