小説の導入ー『黒い雨』の場合ー                  

 
 



 はじめに
 
  わたくしは、2001年4月28日(土)の日記に次のように記した。
 「晴れ。6時起床。明け方、広島に修学旅行に行っている夢を見る。前日、隣席のSさんが、広島平和公園の資料を見ているのに触発されたためか。」
 また、翌日の4月29日(日)の日記に次のように記していた。
 「曇ときどき雨。3時起床。前日の夢に影響され、以前書いた草稿「小説の導入・・・『黒い雨』のばあい」がどこかにあるはずだと、あちこち、捜したが見つからなかった。」
 あくる、4月30日(火)、書棚から偶然、捜していた草稿が出てきた。上記の稿をここに記録しておくことにする。
 2001年(平成13年)、大学時代の指導教授N先生からいただいた年賀状で、「実践されてきたこと、教職のことなど、是非文章化され、やがては、一冊にまとめ、刊行されますよう期待しています。お忙しいでしょうがどうぞおすこやかに!」とのおことばをいただき、宿題をいただいたような心境で、ささやかながら、試みたことの、記録をとっておかなくては、と思い始めたのである。

 
 
 1982年10月12日(火)、「黒い雨」の導入を榛原高校1年A組、B組、C組で行う。導入は、3点に分けて説明した。
 まず、1945(昭和20)年8月6日に、広島市に原子爆弾が投下されたということを確認した。歴史的背景として、1941(昭和16)年12月8日に始まった太平洋のいくさが激化し、45年ごろより空襲が激しくなってきたことを述べる。(3月の東京大空襲と方丈記との関連、「方丈記私記」堀田善衛を参考にする。)
 つぎに、広島平和公園について述べた。100メートル道路・資料館・祈りの像・峠三吉の詩碑・平和の灯・第二中学校慰霊碑・原爆ドーム等について、図を描きながら説明した。
 つけ加えるに、平和公園の場所は、かつては広島市で最もにぎやかな場所であった。家が建てこみ、人びとの生活が日常的に行われていたことも説明した。
 そして、最後に、広島カープ球団について述べた。
 余分な話のようであるが、実は、カープ球団と原子爆弾とは、関係があるのだと説明した。原子爆弾に打ちひしがれた市民が、少しでも生きる希望を得ることができるならば、ということで、球団が市民の力によって生まれたのである。市民のカープに対する熱狂的応援は、原子爆弾に被爆しなかったならば、あるいはなかったかもしれない、少なくとも現在とは違った形であっただろう、ということを述べた。(この説は、「広島長崎修学旅行案内」岩波ジュニア新書、松本寛著を引用させていただいた。)
 生徒たちは、清聴してくれた。

 

 わたくしは、「黒い雨」を扱うに先立ち、参考書物をできるだけ集めようとしてきた。今、それらを列挙する。
 
 ・原爆の子               長田新編
 ・ヒロシマの雨はドームの涙     小川利雄編
 ・悪魔の銀のサイコロ         同
 ・地獄からの汽車           同
 ・青春の碑  第一部 第二部    近藤芳美
 ・ヒロシマノート             大江健三郎
 ・夏の花・鎮魂歌            原 民喜
 ・原爆体験記              朝日新聞社
 ・広島原爆記              稲富栄次郎
 ・広島長崎修学旅行案内       松本 寛

 新聞広告を見て注文したものもあれば、書店の店頭でたまたま見つけ、求めたものもある。「広島長崎修学旅行案内」の著者松本寛先生は、英文学者でシェイクスピアの研究者である。わたくしは、広島大学文学部で松本先生の「文学概論」の講義を受けたことがある。

 

 わたくしの、原子爆弾を知ったのは、遠い幼い日にさかのぼる。
 焼津港から出漁した第五福竜丸がビキニの海で死の灰を浴びた、ということを子ども心におぼえている。漁師の人たちが「おかしなものが、空から降って来る。」と言いながら甲板に積もった死の灰を手で掻き集めた、というようなことを、近所のおじさんが、祖父母や父母と話しているのを聞いていた自分を思い出す。子どもながらに恐怖を感じ、しばらくは刺身などを食べるのに勇気を出さなくてはならないほどだった。
 小学校へ入った。2、3年生のころだったと思う。学級の本棚に原子爆弾のことが書いてある本があった。それを読んだ時に、恐ろしくてならなかった記憶がある。
 中学2年生の秋のことである。キューバ危機が起きた。米ソが今にも核戦争を始めそうな気配であった。入道雲の雷にもおびえた。(キューバ危機をテーマにした映画「13デイズ」を見たのは、ずっと後、わたくしが50歳を超えてからである。感慨無量である。)
 高校のころ、バートランド・ラッセルの英文を読まされた。ラッセルの文章を読むと今にも核戦争が始まるようなことが書いてあり、悲観的になった。将来が暗いと思った。
 その後、わたくしは、広島の大学に学び、爆心地のあたりを毎日のように歩いた。しかし、資料館に入ることもなく、原水爆のことについて真剣に考えることも怠っていた。

 
 
 さて、わたくしは、これより以前、島田工業高校に勤務している時に1回、榛原高校に勤務するようになってから1回、この教材を扱っている。そのときどきの指導案がなく、当時のこともくわしく覚えていない。残念である。
 島田工業高校においては、場面ごとに分けて、それぞれの場面について説明を加えながら授業を進めたのではなかったか。榛原高校における前回の扱いは、別冊の学習用課題集の問題を使い、それらの問題を解き進める形の授業ではなかったか。
 記録しておくことの重要性を痛感する。

 

 わたくしは、「黒い雨」を扱うのに、次の点を目標にした。
 第一に、この文章の描写を通して現代の戦争を知ること。
 第二に、戦争によって人間の保ちたいものは何か。
 第三に、作者、井伏鱒二の描き方の特色を知ること。
 第四に、まとめとして、各自感想文を綴ること。

 

 導入のあとの次の1時間のことを記して、この記録の記述を終わりにしたい。
  
 まず、教材を4つの段落に分けた。時間の配分を考え、これはわたくしが指摘した。分け方は、次のようにした。
 第一段、序 書き出しの部分。第二段、横川駅付近の往来で見たもの。第三段、高橋夫人との出会いと別れ。第四段、重松の足取り、横川駅から広島駅へ。
 ついで、教科書の学習の手引きを参考にして、「主人公が高橋夫人と行動をともにしている前半の部分から」主人公の心理を読み取る学習に入った。「左の頬がぬらぬらする」場面、「顔を手でこすると灰かほこりのようなものが、垢のようによれてくる」部分から「不思議」で「薄気味悪い」「不思議な気持ち」がする主人公の心理を読み取った。そして、顔をこすると、手のひらに消しゴムのかすのようなものが付着してくる。そのときの主人公の「五体に悪寒が感じられた。周囲のごった返しが消え去ったような気がした。目まいがしたのではないが、この瞬間、僕の心に受けた衝撃はなんとも表現のしようがない。」この部分は、文章をそのまま示し、理解させるしかなかった。ついで、眼鏡の玉をふく場面の「手が震える理由、自分でもわかっているんだ」「敵があまりにもにらみを利かしすぎるからだ。正体も知れぬ先で、僕の頬も左側を焦がした。眼鏡も左側を焦がしたからな。得体が知れぬ怖さだよ。これがすなわち、にらみだな。」も同じく文章を示し生徒に感得させるしかなかった。
 何がなんだか分からぬが、とにかく、怖しいものだということを次第に、直観的につかんでいく主人公の心理の変化をここで読み取らせようとした。ここでは、各自黙読させ、主人公の心理の変化が分かるところに印をつけながらよむよう授業を進めた。

 (2001.4.30 雨上がりの午後、19年前の草稿を、ホームページビルダーを使って記述)