エッセイ集

重症急性呼吸器症候群(SARS

2003年6月


中国広東省河源市に、昨年の秋に初めて発生したといわれるSARSは、今年に入ってその勢いをまし、またたくくまに世界中に広がった。世界保健機構(WHO)の発表によると、5月22日現在では世界の28カ国に広がっており、感染者の数は8,046人、死者の数は682人であるという。その後、5月26日になるとこの感染者が8,202人、死者が725人となった。死亡率は8.8%とう恐るべき実態である。発症地域の状況を5月22日現在での感染者と死者の数でみると、中国が5,271300、香港が1,722258、台湾が48360、シンガポールが20629、カナダが14023、などとなっている。5月も終わりになると、香港などでは新らしい感染者はなくなりつつあり、中国本土でも新規発生のいきおいはやや低下してきているようだが、その一方で台湾では依然として新規発生数が高く、また一度は安全宣言をしたカナダのトロントでも新たな感染者が多数発生し、死者もでている。

SARSの症状は、38度以上の発熱、痰をともなわない咳、息切れと呼吸困難などがあり、その感染は人と人との接触による体液や飛沫などの付着が原因らしいというが、いまだにその正確なメカニズムがはっきりしていないというところが嫌らしい。WHOではこのSARSSevere Acute Respiratory Syndrome)が、風邪を引き起こすコロナウイルスの新種であるとし、これを「SARSウイルス」と命名している。そして、このウイルスによる感染症を「21世紀初の重度感染症」として、コレラやペストと同等の位置づけとして厳しく監視する態勢をとりつつある。

 風邪の原因ウイルスは、大別すると100種類以上もあるというが、さらにこまかく分類するとおよそ200種類になるという。普通の風邪はライノウイルスというのが原因になっているらしい。このウイルスでも100種類はあり、その種類が多いために、人のからだが抗体づくりに追いつかないために、人は一生のうちに何度も風邪をひくことになるといわれる。コロナウイルスというのは愛犬家に良く知られており、犬に下痢を起させるコロナウイルス感染症というのがある。人にたいしても伝染性の気管支炎や腸に炎症を引き起こすウイルスがこのグループのものとして知られている。しかし、今回猛威を振るっているコロナウイルスは、従来のものとは明らかにことなる新型である。

 SARSウイルスがなぜ今回、このように急激に広がってきたのか、そしてその起源はいったい何なのかというところが問題となっている。急激な広がりの原因は、新種ウイルスの特性が未知であったこと、とくに感染機構がはっきりしていないことが原因であろう。一方、その起源に関しては、最近のWHOスタッフや、中国・香港合同研究班の調査により、どうやら野生動物らしいという。ハクビシン、タヌキ、アナグマなどからSARSウイルスと酷似した塩基配列の遺伝子を確認し、ハクビシンについては調査した6頭のうちのすべてからこのウイルスを検出しているという。その後、中国農業省の研究チームは、ハクビシンのほかにコウモリ、サル、ヘビからもSARSウイルスの遺伝子と完全に一致する遺伝子を見つけたとしている。ただし、これらのウイルスが本当にその地方のヒトにSARSを発症させたかどうかについてはまだ確認がとれてはいない。中国の南部ではハクビシンを含めていろいろな野生動物を食用とする習慣があることから、こうした野生動物がSARSウイルスの起源ではないかと疑われている。

 野生動物あるいは家畜と、ヒトの病気との関係は、最近いくつかの印象に残る例がある。チンパンジーとエボラ出血熱ウイルス、カラスやその他の野鳥と西ナイル熱ウイルス、牛とプリオン病・BSEなどである。熱帯地域に生息する野生動物は、未知のいろいろな微生物を体内にかかえており、そのなかにはヒトにたいする病原微生物となるものも少なくない。こうした未知の病原微生物や病原性物質がヒトという生物社会に持ち込まれる可能性はこれから一層大きくなると思われる。

 その昔は、ヒト社会のなかでの個体間の移動・交通機構が未発達だったのが幸いして、たとえ奇妙な病原微生物が一部のヒト社会に持ち込まれても、それが世界に広がることはそれほどなかったといえる。しかし、今は違う。世界的な規模で発達した交通システムは、こうした局地的な伝染性疾病を、あっというまもなく世界に広げるシステムともなってしまった。こうしたヒト社会の仕組みと環境の危うさを、わたしたちは常に自覚してそれに対処するノウハウを蓄積しておくことが大切であろう。

 それにしても、お隣の中国、香港、台湾で激しく発症しているこのSARSが、少なくともこの半年ほどはわが国に侵入してこなかったということは不思議としかいいようがない。海外からの侵入防止のための水際作戦の徹底はもとより、近い将来、必ずわが国でも発症するとの覚悟をもって、発症した場合の感染拡大阻止に向けた手順をしっかりと準備しておく必要がある。最近みられた、感染台湾人医師によるツアー旅行にともなうわが国の行政対応は、明らかにその準備不足を示していたといえよう。

 日本政府は、このSARSの早期診断法とワクチンの開発のため、科学技術振興調整費から大学や研究機関など6機関に特別予算を配分するようだが、その総額はわずかに1億円にすぎない。科学技術立国を標榜するわが国が、今回のような緊急事態の打開に向けてどのような具体的方策を打ち出せるのか、大きな関心がもたれている。

 地球という惑星は、どうやらヒトという生きものにとっても、かなり物騒な環境へと進みつつあるように思える。


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