旅日記

鹿島城址・城山公園

2008年5月


 関東平野の東のはずれ、北浦という湖の東の台地を鹿島台地という。その台地のさらに東は鹿島灘といわれる太平洋である。長大な鹿島台地の飛び地のような小さな丘が一つ、JR鹿島線の鹿島神宮駅の南東にある。この小さな丘は今は公園になっており、春には大勢のお花見客で賑わう。この丘は、14世紀から16世紀にかけての日本の歴史の一こまに登場するお城の址でもある。

 平貞盛の末裔とされる鹿島在住の鹿島三郎政幹は、源頼朝にとりたてられ、1181年に鹿島神宮の総追捕使に任命された。鹿島三郎は現在の鹿島市粟生に吉田城を築いたとされる。この三郎政幹の8代あとの子孫、幹重は1368年、足利幕府により鹿島神宮総大行事に任命され、この地に鹿島城を築いた。その後、1523年には義幹によって城の大拡張工事などをへて、鹿島家はここ鹿島・行方地域における一大勢力として発展したとされる。これを俗に南方三十三館という。しかし、この三十三館の城主とその子息らは、常陸の守護職である佐竹義宣による梅見の宴に大田城に招待され、その席で全員が毒殺されたという。天正19年(1591年)、秀吉が北条氏を滅亡させて天下を平定した翌年、この鹿島・行方地域の豪族はこうした謀略をきっかけとして、ことごとく佐竹の軍門に下ったとされる。ときの鹿島氏の当主は義幹の孫の清秀である。鹿島氏は1181年から1591年までの410年で終わったことになる。しかし、徳川の時代になり、佐原の大崎城主を継いでいた清秀の子が鹿島神宮の総大行事職に当たることとなり、鹿島姓がつながることとなったという。



 上の二枚の写真のうち、最初の一枚は現在の城山公園のサクラの林の部分である。ここは鹿島城の本丸の跡地であり、今ではただの平な広場に桜林、遊園地、駐車場などが配置されているだけで、その広場の周囲には一段高いところに散歩道がある。これはおそらく昔の土塁跡だろうと推測されているのだが、この本丸跡は長いあいだ畑として耕作されていたというので、昔をしのぶものは今では全く残っていない。

 二枚目の写真は、本丸跡から西側を眺めたところである。北浦に架かる2本の橋は、手前が国道51号線のバイパス、その向こうがJR鹿島線の鉄橋である。さすがに本丸跡だけあって見晴らしは抜群である。天然の要害としての北浦を眼下に望み、西からの敵を迎えるには理想的な地形であることがわかる。この公園から南へ台地を下りてゆく道をたどると、禅寺として名のとおった根本寺や藤原鎌足の生誕の地とされる鎌足神社がある。しかし、本丸跡からのルートはその入口のところの一か所に半分破損した案内板があるのみで、この踏み跡を辿っても、それから先には一切案内板はない。そして、その道は途中で消えてしまい、目的地には行き着けない。あたりは竹林で、タケノコ掘りのおばさんに道を聞いたが、まったく知らないということだった。

 本丸跡地の城山公園は、その整備不良が市民からも指摘されてきたらしい。サクラの木にはテングス病が発生し、周回道路沿いのツツジには立ち枯れが目立っている。鹿島市はその対策として昨年(2007年)から公園整備を3カ年計画で進めることにしているという。その内容は、(1)公園内の樹木の伐採と剪定、(2)新たな桜の植樹、(3)斜面部分の散策路の再整備、(4)公園内部(本丸跡地)の駐車の制限と公園北側低地部の新たな駐車場の整備、などとなっている。どうやら、おそまきながら市役所も地元の文化遺産の保全に力を入れ始めるようである。



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