旅日記

根本寺と大儀寺

2008年5月


 この根本寺(こんぽんじ)は、国道51号線旧道を東へ、神宮橋で北浦を渡り、すこし行ったところの左手にある。現在の鹿嶋市では町はずれであるが、周囲は民家で囲まれていた。鹿島城址からばほぼ1キロほど南東にあたる。

 この寺は鹿島・行方地域(鹿行地域)では名の知られた寺である。それというのもこの寺が612年(推古天皇21年)に聖徳太子によって開かれたとされているからである。そして、江戸時代の1687年(貞享四年)、第21世住職の仏頂和尚のときには、和尚を師とするる松尾芭蕉の訪問を受けている。この寺は1600年(慶長五年)に家康によって鹿島神宮領から100石を割いて寺領とされたというが、その後に一時無住職となり、寺はは神宮領に編入されてしまった。そして、1670年(延宝二年)に仏頂が住職となり、寺領取り戻しの訴訟を幕府を相手に起こしたとされる。この訴訟中、和尚は江戸に住んでおり、その住まいの近くに芭蕉がいたらしい。芭蕉の鹿島紀行によれば、この地に和尚を訪ね、寺に泊まって月見をしたとされる。本堂の左手には、そのときの句碑「月はやし梢は雨を待ちながら」がひっそりとたっていた。

 この寺の本堂は荘厳な造りだったとされるが、幕末の天狗党の騒乱により焼失し、現在の建物は昭和五六年の建立による。ちなみに寺領回復のための訴訟は、その後10年ほどした1680年ころに鹿島大宮司家の敗訴が確定し、鹿島神宮領から160石が削られて根本寺に与えられたとされているので、芭蕉の鹿島紀行のときには寺領は回復していたことになる。


根本寺正面


根本寺の芭蕉句碑

 仏頂和尚は、このあと1684年(貞亨元年)に鹿島台地の北部(現在の鉾田市阿玉)にある宝光山大儀寺(だいぎじ)の住職となった。つまり、芭蕉の鹿島紀行の年は1687年であるから、仏頂和尚はすでに大儀寺の住職として鹿島を去っていたことになる。そして、大儀寺にも芭蕉の句碑「寺に寝てまこと顔なる月見哉」が、仏頂和尚の石像とともに建っていた。松尾芭蕉は本当に鹿島の根本寺に泊まったのか、あるいは鉾田の大儀寺に泊まったのか、それは今でも論争のまととなっている。



旧道に面した大儀寺入口 石段の奥に山門が見える


大儀寺山門


大儀寺の仏頂和尚像と松尾芭蕉の句碑

 大儀寺という寺は、一見すると根本寺よりも奥行が深い感じがする。そこは北浦東岸の県道を北上し、鹿行大橋のたもとから少し北に行ったところにある電柱に表記された大儀寺入口の道標によって右折し、鹿島台地にのぼり、しばらく行くとまた電柱に貼り付けられた大儀寺の道標が見える。寺は道路の右手奥にあった。なにしろ道標は小さいので見落しやすく、わたしたちもこれに気付かずに行き過ぎてしまった。この舗装道路は寺の裏手を通ることになるのだが、寺の正面につながる昔の道は、未舗装の道である。そこは軽自動車がやっとの道で、対向車の回避ができないほどの細い道であった。寺は何回かの火災で焼失したようで、庫裡などの再建がなされたのは平成12年という。

 この寺は仏頂和尚が入る以前は単なる庵だったようである。ここが本格的な禅寺として完成したのは仏頂和尚の入山以後のこととされている。寺の南側、昔の道に面した入口を入り、石段をのぼると山門がある。その内側に薬師堂、本堂、庫裡などがあり、こうした建物群の北側にかなり広い竹藪がある。その竹藪のなかに縦横につけられた小道の脇には、無数の句碑が並んでいた。この寺の別名を俳句寺というのは、こうしたところからきているのだろう。そして、その竹藪のさらに向こうには、小さいながら霊園が広がっていた。それはちょうど建設途上のようであった。現在の道路を使って車で行くと、霊園から入り、竹藪脇を通って境内にいたり、山門を内から眺める格好になってしまう。やはり一度山門を出て石段をおり、むかしの参道から再び入りなおすのがよい。石の門柱の前の昔ながらの細い道は、なかなか趣きがある。



最初のページへ  旅日記へ