もういいよ、と答えてからどれぐらいの時が経ったろう。
どんなに耳を澄ましても辺りは物音ひとつしやしない。
鬼は。―――は。
此処に隠れているのが分からないのかな、と私は納屋の中でひとり、
膝を抱えている。
昼間とはいえ納屋の中は薄暗い。次第に私は心細くなってきた。
このまま、見つからなかったらどうしよう。
私のことを、忘れているんじゃないのかな。
ちょっと、出てみようかな。
そう思ったところに奥でことり、と音がする。
それはおそらく鼠だろう。しかし、奥の薄暗い処に何かがいると思うと
私は堪らなく怖くなった。
私の背後で、隠れているのは何だ。
『ひとりは―――』
出ようと駆け寄った戸が、がらりと開いて。
「みイつけた」
顔を出したのは、私自身。
私は。
一体何を隠して、何を探していたのだろう。
――――第参章 「隠鬼」
どうかしている。
沖田は井戸端で顔を洗うと己の頬を何度か叩いた。
本当にどうかしている。
夢見の悪さをずるずると引き摺っているなんて、全くどうかしている。
「総司」
え。
「落ちたぜ、手拭い」
振り返ると、原田が手拭を持って妙な顔をしていた。
「大丈夫かお前、ぼんやりして」
ああ、と沖田は手拭を受け取るともう既に乾いている顔を擦った。
「なんか寝不足で」
変な夢を見ましてねと沖田は笑い、もう一度頬を両の掌で叩いた。
「しっかりしろよ」と原田は鼻から息を吐き出した。
「お前らがそんなんじゃ調子狂うわ」
「お前ら?」
お前らって誰。
「そ、お前ら」と原田は自らの手拭を桶に浸して体を拭き始めた。
「斎藤な、この頃派手に遊んでるらしいぜェ。お前はお前で稽古中もぼやっと
してるしよ、なんか変だぜ最近」
お前らがしゃんとしてねェと締まらないんだよなァどうも、と原田は云う。
「ウチの二枚看板だろうが」
しゃんとしろよ、と原田は沖田の背を叩く。
沖田は曖昧に返事をして、原田に背を向ける。
どこ行くんだよという問いに、沖田は片手を上げて答えた。
「片方の看板のトコロ」
そういえば。
沖田はふと、八木邸の門を潜りながら目を細めた。
此処に来るのは久しぶりだっけ。
京の生活は此処から始まったのになァと妙な気分になる。今では此処に住まうのは、
芹沢一派だけだ。
あと、一さん。
なんの断りもなく、二日前に僅かな荷物と共に部屋から消えた沖田の同室人。
まァ今、思えば。
その日、私は巡察に出ていたわけで。
そして部屋に戻ったら、一さんはいなかったのだけれど。
それ以前からお互い忙しくって顔を合わせることもなかったから、その事を云う
暇もなかったんだろうとは思うのだけど。
でも、なんか置き手紙ぐらい――と、沖田は苦笑した。
なんだ、これではまるで女々しいというか、小娘みたいだ。
仕事と私とどっちが大事なのかとでも云う心算か。
どうかしている、と沖田は鼻から息を吐きだして、八木家の離れへと足を向ける。
昨夜の雨の所為でぬかるんだ地面が、歩く度にずぶずぶと音を立てた。
一さんは多分、其処にいる筈。
ずぶずぶと下駄は地面を掘り、後ろに泥を飛ばす。
一さんに会ったら。
ずぶずぶずぶずぶ。
――会って、私は。
どうする心算なんだろう。
「アラ」
と声がして、沖田は顔を上げた。
離れの縁側に、白い脚を投げ出して座っている女。
「お梅さん」
久し振りやなァ、とお梅は目を細めて白い腕で手招いた。
「こっちにおいでな」
じゃァと沖田も微笑む。
「お言葉に甘えて」
開け放たれている障子の奥に人の気配はない。おそらく皆、出掛けているのだろう。
多分、一さんも。
「どうかしはったん」
お梅から少し離れた場所に腰掛けようとしていた沖田は、その問いに虚を突かれた。
え、と振り向くとお梅が小首を傾げている。
「沖田はん、いつもと違うお顔してはるわ」
いつもって、と沖田は笑いながら縁側に腰掛けた。
「お梅さんがいつも見ているのは芹沢先生でしょうに」
今は出掛けられてるんですかと他愛のない口振りで応じながら、沖田は少し肝が冷えた。
まいったな。
なんでこう女は、稀に鋭いというか遠慮がないというか。
「斎藤はんも出掛けてますえ」
――図々しいというか。
「そうですか」
一さんが居ないのなら、もう此処には用はない。
出直してくるかと腰を上げようとした折に。
「斎藤はんと仲違えでもしはったん」
女の声が耳朶を突いた。
この、女。
「お顔にそう、書いてはる」
ふふ、とお梅は赤い唇に袖をあてて笑う。
内心舌打ちした沖田は、おやとその袖の柄に目を留めた。
これは、姉上の。
姉上の着物の柄と同じ。
「どうかしはったん」
その声も何故か懐かしく感じられ、沖田は内心溜息と共に腰を落ち着けた。
なんだ、矢張り私は甘ったれだ。
「別にどうもしませんが」と沖田は首を掻いた。この際、甘ったれなら甘ったれらしく、
末弟なら末弟らしくしておくか。
「斎藤、どうしてるかなと思って」
最近、忙しくってゆっくり話す暇もないと云えば、お梅は目を細めた。
「寂しいんやなァ、沖田はん」
寂しい?
寂しいのだろうか。
「前はよく、ふたりで此処に遊びに来てくれはったしなァ」
近頃は、とお梅はふと寂しそうな瞳をした。
「誰も此処には寄らんようになった」
「お梅さんが居るから、皆、遠慮しているんですよ」
そう云って笑ったものの、沖田は見透かされているような心地がしてお梅から目を逸らした。
あの、大和屋焼討ちから。
芹沢は目立って事を起こすようなことはなくなったものの、土方の腹は変わってない。
数日前に、「芹沢だよ」と凶悪な笑みを零した土方が沖田の脳裏を掠める。
土方は、芹沢を何らかの手段で排除する心算なのだ。
だから此処には、沖田を含め試衛館の連中は近寄ろうとはしない。
其処の先行きが墓場と知ってて近寄る者がいるものか。
いるとしたら、それは囮の――
「沖田はんは優しい子やな」
「子、じゃァありませんがねェ」
沖田は努めて明るい声で笑う。
あの子も、とお梅は声を落とした。
「あの子も寂しいんやわ」
ぽつりと呟かれた言葉に、沖田はつと笑みを隠した。
「あの子って」
聞かずとも。
あの子が誰かぐらい解るけど。
「斎藤はん」とお梅は床板を指でなぞった。
「時々な、此処に座り込んでぼんやりしてるんやわ。ウチがなに云うても上の空でな、
あっちの方をぼんやり見てはる」
つと、お梅の白い指がその方角を指す。つられて見たその指の先。
その方向は―――
「斎藤はん、捨てられた犬みたいな目ェしてはったわ。寂しそうな顔して。
何があったか知らんけど、仲直りしなはれ。ご友人やろ」
その方向は、沖田らの住まう前川邸だ。
でも、一さんが見ているのは私たちの部屋ではなく。
多分、土方さんの――
「沖田はんも寂しいんやろ、意地張らんと仲良うしィな」
意地を張っているのはどちらかと云えば、土方さんの方なのだが。
はァと沖田は仕方なく曖昧な返事を返す。
「頼りないなァ」と横鬢を掻くお梅の腕に、沖田は目を留めた。
手首のあたりに何か、強く掴まれたような痕がある。
「それ、どうしました」
「ああ、コレ」とお梅は目を細めた。
「あんまり斎藤はんが寂しそうにしてはったから、慰めてやろうとしたんやけど。
ウチ、嫌われてるんかな。えらい拒まれたわ」
白い歯を覗かせてお梅は笑う。
「拒まれたってどういうことです」
「腕を、捻り上げられて」
え、と沖田は瞠目した。
いったい、この女は何をしたんだろう。
「吃驚させたンじゃないですか、斎藤を」
普通に接していれば、一さんはそんな痕が残るようなことはしないのだ。
それも女に、ましてや人の妾に。
「よう、分かるなァ沖田はん」案の定、お梅は目を丸くさせた。
「やっぱり、後ろから急に抱きついたのが悪かったやろか」
悪びれずに云ってのける女に、沖田は内心嘆息する。
その躰は芹沢のモノである筈なのに、他の男に手を出すとは。
しかも、一さんに。
性質が悪い。
「斎藤はね、あなたが思ってる程、生易しい男じゃありませんよ。迂闊に手を出すと
怪我をするからお止めなさい」
お梅が男だったら、それこそ手首ごと無くなっているところだ。
そう云えば、お梅はうふふと笑う。
「沖田はんも芹沢先生とおんなじ事云うんやね」
「あなた、その事を芹沢先生に云ったンですか」
一さんに手を出そうとしたことを。
「へえ、こないな痕つけられたしなァ」
でも、とお梅は腕を擦る。
「お前がちょっかい出すンが悪いと笑われたわ先生に」
うふふと笑う女に沖田は反吐が出る思いになった。
矢張り、女というモノは図々しい。
どうしてこうも、己の欲望に正直でいられるのか。
どうして私は―――
「オウ、沖田」
突然の胴間声に沖田の思考は断たれた。声のする方を見ると、芹沢が中庭から
此方へと歩んできている。
「芹沢先生」
お邪魔してます、と頭を下げれば芹沢の快濶な笑い声が響く。
「久し振りだな」
そう云って沖田の肩を叩く芹沢の顔には酒の気がない。珍しいこともあるものだと
沖田は目を細めた。
「何処かに出掛けられたんですか」
「何、野暮用でな」
小間物屋に行っていたのだと笑う。
私用で出掛けたのなら、芹沢先生ひとりか。芹沢の他に人の気配はない。
じゃァ一さんは何処に――
「沖田は何用で此処に来たんだ」
―――私は。
「斎藤に用があって」
本当は用なんてないんだけど。
顔が見たいからなんて、云えるものか。
「斎藤は、何処に行ったんですか」
さあなァと芹沢は首を傾げる。
「朝方、新見達と出て行ったのは見たが」
「新見先生と――」
新見はあまり得意ではない。蛇、と悪し様に罵る土方の顔が過ぎる。
沖田は何やら云い様のない心地の悪さになった。
それは夢見の悪さをずるずると引き摺っているかのような。
下駄がずぶずぶと地面に沈み込むような。
なんだろう、と沖田は眉を顰めた。
本当に。
―――どうかしている。