第二章 老舎の主な歩みと在英時代三作品の紹介
老舎の在英時代の作品について分析し、老舎の文学と思想を考える上で、老舎が英国に渡って三本の小説を書くに至った経緯をとらえ、また老舎が英国で書いた三作品の内容にも触れておく必要がある。
そこで、本章では「老舎全集」(人民文学出版社、1999年)第19巻附録の「老舎年譜」[1]を参考にして老舎の在英時代までの主な経歴をまず確認しておきたい。それから、老舎が在英時代に書いた長編小説『老張的哲学』『趙子曰』『二馬』のあらすじとその内容に触れ、この三作品について老舎文学の思想を論じていくための足がかりとしたい。
老舎は北京の貧しい満州旗人[2]の家に生まれ育った。幼少時代から貧困生活を送った彼が、青年時代に英国に渡り、作家として文壇に登場するまでの経緯には、人生の大きな転換があったといわねばなるまい。
そこで、出生から学生時代まで、卒業から教職を経て英国に渡るまで、そして在英時代と、老舎の人生の転換期と思われる時期を基準に三つの期間に分けて老舎の歩みを確認したい。
@出生から学生時代まで
1899年2月3日、北京護国寺西側小羊圏胡同(現小楊家胡同)にある満州旗人の家に生まれる。本名舒慶春、字は舎予。父親は清朝の皇城護衛兵で、月俸はわずか三両、決して裕福な家庭ではなかった。翌1900年、義和団運動鎮圧のため進入してきた八カ国連合軍との戦闘で父が戦死し、一家の家計は母親である馬氏が一身に背負うことになった。彼女は農民出身で、読み書きはできなかった。他人の家の洗い物や仕立物、雑役などをして一家の生活を支えた。
1905年、6歳のとき、慈善家の劉寿錦の援助を受け、私塾に入って読み書きを覚えた。1908年、私塾から西直門大街第二小学堂の3年に編入、1912年に当校が女学校として改組されたため南草廠大十三小学校に編入。翌1913年北京市立第三中学に合格するが、学費を納めることができず、半年後に退学、学費免除と生活費給与制度のある北京師範学校を受検し合格する。1918年6月、北京師範学校を優秀な成績で卒業する。
老舎は生まれた頃から体が弱く、内向的でおとなしい性格の持ち主であった。しかし、父親の死後、女手一つで一家を養育した母親の義侠心に富んだ気丈な性格は、彼に大きな影響を与えていた。
劉寿錦の援助によって私塾に上がったことで、老舎は初めて中国文学の世界に触れる。のちに小学校、中学校へと進むうちに、古典や旧体詩、散文などを学ぶ一方、講談や漫才などの大衆芸能にも親しみ、文学の素養を身につけていった。
A教職時代から渡英まで
1918年6月、京師師範学校を卒業した老舎は公立第十七高等小学校長兼国民学校校長に任命される。1919年、五四運動[3]が起こる。老舎はこの五四時期の印象を、解放後に「励膨”公阻厘焚担」(“五四”は私に何を与えてくれたか)[4]という文章でこう述べている。
…宸塰強聞厘心需阻握忽麼吶議醤悶燕L,苧易阻匯乂照蘭夕贋議兜化一隈。郡撃秀聞厘悶氏欺繁議恊冢,繁音乎恬撰縮議笛船;郡吸忽麼吶聞厘湖欺嶄忽繁議恊冢,嶄忽繁音乎壅恬剴笛。宸曾嶽範紛祥頁厘朔栖亟恬議児云房l嚥秤湖。
(この運動は私に愛国主義を具体的に表現して見せてくれた。そして、我々を滅亡から救い、生存を求めるための第一の方法をわからせてくれた。「反封建」によって、私は人間の尊厳を認識し、人は礼教の奴隷になってはいけないことを悟り、「反帝国主義」によって中国人としての尊厳を認識し、中国人は外国の奴隷となってはいけないと感じた。この二つの認識は、まさに私がそののち創作をする上での基本的な思想・感情となったのである)
老舎は実生活では職に就いていたため、運動に直接参加はしていないが、大きな影響を受けたという。
1920年9月30日、京師学務局より、北郊勧学員に任命される。毎月百元以上の収入があり、家計を支えるのに十分であったが、腐敗した官僚たちと共に仕事をしなければならなかった。
1922年頃、老舎は仕事の収入や余暇が多くなり、酒や煙草、麻雀に手を染める生活を送っていた。その一方で母親の取り決めた婚約を頑なに拒否し続ける。こうした事情が重なって精神の衰弱をきたし、大病を患ってしまう。西山の臥仏寺でしばらく静養したのち、9月には勧学員を辞し、天津南開中学の国文教員となる。ここで反帝国主義・愛国主義をテーマに、短編小説の習作『小鈴児』[5]を書いている。
老舎はこの年、缸瓦市のロンドン伝教会で洗礼を受け、キリスト教徒となる。積極的に教会の社会福祉活動に参加し、英国ロンドン伝教会のエヴァンス(Robert Kenneth Evans)牧師やこのとき既に著名な作家であった許地山[6]と知り合っている。
1923年2月、天津南開中学を辞して北京に戻り、北京教育会の書記、北京第一中学校の臨時教員などの仕事を掛け持ちながら、引き続きキリスト教会の活動に従事する。また、余暇には燕京大学に行き、英語の授業を聴講した。
1924年、エヴァンス牧師とロンドン伝教会の支持を受けて、英国ロンドン大学東方学院の中国語教員として招かれ、9月、ロンドンに渡る。
高橋由利子氏は「老舎の文学とキリスト教(一)」において、老舎が勧学員を辞したのは、老舎の中の『役人の仕事を通じて自らの正義をつらぬき、世の中を改革していく』という価値観に変化が生じたためであり、その変化を起こさせた背景にはキリスト教会とのかかわりが非常に重要な意味を持っていたと述べている。[7] 官人の地位を捨てて、キリスト教会で西洋の文化や思想、学問を吸収し、その教会活動を通じて社会に貢献するという道を選んだことは、老舎の人生にとっての転換点であった。そして結果的には中国語教師として英国に招かれるという機会を得たのである。
1924年9月、老舎は船便でロンドンに到着、アメリカのコロンビア大学を卒業し、英国オックスフォード大学に留学するため、先にロンドンに到着していた許地山と同じ下宿に入る。老舎はロンドン東方学院で中国語の講義を担当、余暇には西洋の文学作品を読み、長編小説『老張的哲学』の創作を開始する。また、ブルース(J.Perry,Bruce)教授、エドワーズ (E.Dola,Edwards) 講師らと共同で中国語テキストを製作、老舎自身が吹き込んだレコードと共にリンガフォン社から出版された。
1925年、老舎は彼の担当する中国語講座の生徒であったエジャートン(Clement Egerton)と知り合い、老舎は彼に中国語を、彼は老舎に英語を教えるということで同意し、このエジャートン夫妻と同宿する。彼らは3年間を共に過ごし、共同で「金瓶梅」の英訳をしている。
この年、『老張的哲学』が完成する。許地山はロンドンの老舎を訪ねた時、その原稿を読み、何も言わずにそれを本国に送るよう勧めた。老舎は友人の羅常培のもとに原稿を送った。この原稿は当時「小説月報」の編集をしていた鄭振鐸[8]のもとに送られ、[9]『老張的哲学』は翌26年7月、『小説月報』7号から連載されるのである。
1926年、11月より中国語のほかに中国古典の講座を担当する。この年第二作『趙子曰』を完成。友人に見せ、意見を聞いて改訂を加えて本国に送る。
1927年3月、「小説月報」第3号より『趙子曰』の連載が始まる。夏、許地山の紹介で、ロンドンに来ていた鄭振鐸と会う。
1928年、長編小説『二馬』の執筆にとりかかる。1929年、春、『二馬』が完成、5月、「小説月報」第5号より連載される。夏、五年間のロンドン大学東方学院での教学を終え、ロンドンを去り、ヨーロッパを旅行する。
秋頃、マルセイユから船に乗り、ヨーロッパを離れる。中国までの旅費が不足し、またこの機会に南洋の地を見てみたいと考えて、シンガポールで下船、10月に華僑中学で国文教員の職を得る。現地の人民の進歩的な思想に影響を受け、小説『小坡的生日』[10]を執筆する。
1930年2月、華僑中学を辞して帰国する。
五年半ぶりに中国に戻ってきた老舎は、すでに作家として有名になっていた。1930年7月、斉魯大学の招聘を受け、済南に赴く。同学国学研究所文学主任兼文学院文学教授に着任。翌年、友人羅常培の紹介で、北平師範大学国文科[11]の学生である胡巨ツと交際、7月に結婚。教員生活の傍ら、大量の作品を創作し、職業作家への道を歩みだすのである。
以上のように老舎の経歴をたどってみると、1919年の五四運動の時は運動に参加せず、北閥戦争[12]の時には英国におり、中国の革命運動の戦いをずっと外から傍観していたことが特徴的であるといえる。幼い頃から社会の最下層で生活してきたことも、近代中国の知識人の中では珍しい経歴であるといえよう。即ち、在英時代までの老舎は、五四運動などに代表される近代革命の激動時代に生きていたにもかかわらず、そうした時代の潮流とは距離を置いたところで堅実に自分の人生を歩んでいたのである。こうした特徴が老舎の文学や世界観に何らかの影響を与えている可能性は大きいと考えられる。
そうした意味で、1924年から1929年までの5年間を中国国内の状況から隔絶された環境で過ごし、その中で書かれた三つの作品というのは、老舎文学の出発点であると同時に、老舎文学の特徴をとらえる上で注目すべきであると考えるのである。
次に、本稿で扱う各作品について、あらすじや登場人物を紹介しておく。
2 在英時代の三作品について
@老張的哲学(張さんの哲学)
1923年頃の北京が舞台である。
北京郊外にある私塾の経営者「張さん」は、他にも地方の子役人、商店の店主と高利貸しを兼ねている。傲慢でずる賢く、強欲な性格の持ち主。
李老人と龍樹古はその彼に膨大な借金をしている。
李老人には李應と李静という甥・姪がいるが、李應は借金のかたに張さんの私塾で雑務にこき使われていた。李應には王徳という友人がおり、この二人は張さんに反抗し、私塾を飛び出して北京城内に行って仕事を探し、李應は救世軍、王徳は新聞社で働き始める。
龍樹古は名の通った救世軍の士官であったが、張さんに借りた金の返済は進んでいなかった。張さんは龍樹古の娘、龍鳳を妾として友人の孫八に売りつけ、自身は李静を借金の抵当にもらい受けることをもくろんでいた。龍樹古は龍鳳を借金返済の抵当に差し出すことを承諾せざるを得なかった。
龍鳳は李應、李静は王徳と恋人同士であった。彼らはそれぞれに愛した相手と結ばれることを望み、李應と王徳、李静たちは何とかしてこの困難を解決する方法を見つけようとしたが、張さんに借金を返済する手だては見つからず、青年たちは何もできないまま、張さんと孫八の合同婚礼の日が近づいた。李應は救世軍の友人趙四に助けを求めた。趙四は意気盛んで義侠心に厚い人力車夫。彼は機転を効かせて名案を思いつき、一人奔走する。ところが、李應は趙四を待ちきれず、失望のあまり、密かに出奔する。王徳は新聞社を辞め、張さんの暗殺を計画する。
婚礼の当日、王徳はまさに婚礼の最中に現れ、張さんを刺し殺そうとするが、孫八たちに取り押さえられてしまう。そこへ、張四が孫八の叔父である孫将軍を人力車に乗せてやってくる。
龍樹古の手紙によって、張さんの陰謀を知った孫将軍は、自分が李老人と龍樹古の借金を肩代わりすることで、婚約を帳消しにする。この騒ぎで王徳は病気で倒れ、寝込んでいる間に両親の計略で別の娘と結婚をさせられてしまう。結局恋人と離れ離れになった李静は自殺し、龍鳳は奉天に転任する父に連れられて北京を離れ、やがて金持ちの息子と結婚する。
その後、張さんは某省の教育長官に出世し、二人の妾を手に入れる。
老舎が英国において初めて著した小説は、老舎自身が『我怎様写「老張的哲学」』(私は『老張的哲学』をいかに書いたか)において[13]
坪否椿,壓繁麗嚥並糞貧厘l軟焚担祥亟焚担,酒岷短嗤倖嶄伉;宸頁兜択栖父唹字議一隈,欺侃孚aC犯綴祥挫,豊砿万浴鈍鼎伊,陳出恬函高僉尚!検壓芝吮貧議椎乂嗤弼科議繁嚥並脅昧返函栖,短吉委万断芦崔挫,嗽肇総性匯答,繁七彭繁,並阿彭並,畠喚音狛賑栖。[14]
(内容はというと、人物と出来事について、思い浮かんだものをそのまま書いたのであって、まったく中心がないのである。これはカメラを初めて買ってきたときのようなやり方である。所構わず何でも写す。にぎやかであればそれで良い。それがいびつなものになっても、誰が気にしよう。景色を選ぶということなど分かるものか。色彩を帯びた人や事物が記憶に浮かんでくる、それを手当たりしだいに取って来たのである。それらをうまく並べてやらないうちに、また次のを取ってくる。人や物事がひしめき合っていて、まったく休まるひまがない)
と述べているように、事物や叙述の構成や作品全体としてのまとまりをあまり考えずに、自由奔放に思い浮かんだものを書きつけたようである。題名にも使用されている、『張さん』という中年の悪人の活躍を中心に、中国の旧い世代の老人たちと、新しい世代の青年たちにある喜怒哀楽を描いていく。
確かに、『老張的哲学』は構成にまとまりがなく、小説としての欠点は多い。しかし、これは英国で筆を執るに至るまでの、老舎のさまざまな思いをぶつけた第一作であった。
A趙子曰
軍閥割拠時代の北京。
主人公の趙子曰(チャオズユエ)は地方出身の大学生。北京の名正大学に在籍しているが、普段は下宿の仲間たちと麻雀をしたり酒を飲んだりして、遊んでばかりいる。
趙子曰は友人の欧陽天風(オウヤンティエンフォン)を気に入っていて、信頼しているが、実は欧陽天風が彼を騙し、陰で何かと悪事を企んで手を回していることに気付いていない。
友人の武端と莫大年も欧陽天風の企みに巻き込まれていく。趙子曰が思いを寄せている王女士に迫ったり、武端に女権運動のためのチャリティー京劇を興行する話を持ちかけ、趙子曰を出演させ、その収益を横領して武端と趙子曰にその罪をかぶせたりと、いくつかの事件を経て、彼らは欧陽天風の正体に気づき始めるが、趙子曰はそれでも欧陽天風にうまく丸め込まれて、彼を信じてしまう。
そんな彼に警告を発し、道楽に耽るのではなく、社会のために勉強し、民衆を苦しめている軍閥たちと戦うことを説くのが、仲間の李景純(リーチンチュン)である。彼はある軍閥を暗殺しようとして失敗し、投獄される。面会に来た趙子曰たちに、欧陽天風の悪業を告発し、将来の中国のために有用な人材となることを説く。
趙子曰たちは何とか李景純を救い出そうとするが、間に合わず李景純は処刑されてしまう。彼らは最後に今までの自分たちの誤りを顧み、将来歩むべき道のりを悟る。
老舎自身、『老張的哲学』が雑誌に載ったことが嬉しく、その勢いで次に書き上げた[15]と語る『趙子曰』は、五四運動時期の学生を題材にしている。
主人公の趙子曰は、新青年を自覚していながら、旧い観念を脱却しきっていない。学生暴動に加担しても、何の為に生き、何をしなければならないかが分からない。頭を使って考えることすら面倒に感じるほど、現実問題に対して無知、無気力なのである。しかし、一旦他人にあおられて調子に乗ると、とんでもない騒動や恥知らずの行動を起こす。五四運動の期待を背負った中国青年とは遥かにかけ離れた学生像は、老舎によって軽蔑・嘲笑を伴って滑稽に描かれている。
それは彼を取り巻く学生仲間も同じで、李景純の死によって目を覚まし、現実と向き合おうとするまで、彼らは日々の享楽や自己満足の為に生きている。
新旧の思想の狭間に立たされた青年たちの群像を、主に北京城内を舞台に、実生活に即した視点で描いた作品である。
B二馬(アルマー)
馬先生(馬則仁マーツォレン)は50歳くらいの老人である。ミッションスクールにいたことがあり、成績は悪かったが、いささか英語の素養がある。息子の馬威(マーウェイ)が8歳の時、妻が亡くなってしまい、その後息子を北京の教会経営の学校に入れた。そこで20年以上も中国で伝道活動をしていた伊(イー)牧師と知り合い、思いがけなく洗礼を受けキリスト教徒となる。
ある年イギリスのロンドンで骨董品店を営んでいた馬先生の兄が亡くなり、弟にロンドンに来て商売を引き継ぐようにと遺言した。そのとき英国に帰っていた伊牧師のはからいで、馬威(このとき22、3歳になっていた)を連れて英国に渡ることになった。
英国に着いた二人は、伊牧師の仲介でウインター夫人(温都太太)の家に下宿することとなった。ウインター夫人は十数年前に夫を亡くし、娘が一人いるだけであった。ウインター母娘は中国人を下宿させることをひどく嫌がっていたが、馬さん父子と実際に触れ合ううちに、だんだんと誤解が解けていく。
馬先生に残された店は、兄が亡くなる前からの店員である青年李子栄(リーツロン)が切り盛りしていた。馬威は誠実で実直な李子栄に敬服し、彼と親しくなるが、頭の古い馬先生は商売をする人間を軽蔑していたため、彼のことが気に入らなかった。馬先生は商売をやったことがなく、また商売を軽蔑していたので、馬威と李子栄が何とか骨董店を運営しようと努力しているのをよそに、自分は何もしないでただ知人との交際で店の資金を使い込む始末であった。
しばらくして、馬威はウインター夫人の娘マリー(瑪力)に片思いの恋心を抱き、なかなか商売や勉強に打ち込むことができない。馬先生とウインター夫人は仲むつまじくなるが、結局彼らの背後にある国家と民族の違いから、互いに結ばれることはなかった。 ある日馬先生は伊牧師の親戚アレクサンダー(亜力山大)に頼まれて英国の映画にエキストラ出演する。ところが、その映画の中国人を侮辱した内容が在英中国人の間で問題になり、結果的に映画製作に協力した馬先生が槍玉に挙げられた。そして中国人学生にあおり立てられた無知な労働者たちが馬家骨董店を襲撃するに至った。この事件に恐れをなした馬先生は、あわてて店をたたんで中国料理店「状元楼」の店主に売り渡してしまう。
恋に破れ、店を発展させて自立した中国人の道を歩むという希望もうち砕かれ、馬威は失意のうちにふらりと李子栄を訪ねたのち、密かにロンドンを立ち去っていく。
英国において馬威や馬先生が体験する、さまざまな誤解や偏見は、英国人の中国に対する認識が原因である。しかし、中国人が西洋人に向かって中国文化の宣伝をするだけではそうした問題は解決できない。軍事力も弱く経済も疲弊し、西欧列強の侵略に甘んじてきた中国という国家を背負っている以上、中国人は人間として正当な扱いを受けることができないのである。
彼らの認識を根底から変えるには、中国人が科学を学び、知識を高め、祖国を強大な国に変えて行くしかない。こうした憂国の意識を中心に、中国と英国の文化、また両国の新旧二つの世代を比較して見せ、これからの中国人が抱える問題をより明確にしている。
文章に使われる言葉はより平易なものになり、前二作にみられるドタバタとした無秩序な叙述はいくぶん改善され、構成は比較的まとまりを持ってきている。老舎が前作から創作に対して多くの努力を払ったことが窺える作品である。
在英時代の作品は、さきに引用した『我怎様写「老張的哲学」』で老舎自身が述べているように、「思い浮かんだものをそのまま書く」、つまり、彼自身が書きたいと思うものをとにかく書くという自由な意識のもとで書かれている。もちろん、創作経験のほとんどなかった当時の老舎にとっては、それらをまとまった形でうまく表現したり、作品の完成度を高めることはできなかったであろうが、それだからこそ、老舎が英国に渡るまで、心のうちに抱えていたさまざまな思いや、隠し立てのない感性がそこに表れているといえるのではないか。
帰国後の老舎はすでに作家として名を挙げており、文芸誌の方から寄稿の依頼が来るほどであった。そうなると、作品も不完全なものは書けない。作品の完成度を高める努力と同時に、あえて書かれなかったり、削られたりする部分もあったであろう。逆にいえば、作品の完成度が高くなかった在英時代の作品には、老舎のさまざまな認識が「あえて書かれなかったり、削られたり」されることなく混在しているのではないか。
この点においても、筆者は老舎の在英時代に注目したい。時代の潮流を傍観していながら、英国に渡って自由な意識のもとに書かれた在英時代の三作品には、老舎のさまざまな階層における認識が混在しているはずである。
そこで、次章では、各作品の中から老舎の近代中国社会に対する問題認識を取りあげて考察していくことにする。
[2] 清朝の八旗に属する人をいう。八旗とは、清朝独特の軍事行政組織。清の太祖ヌルハチがこの兵制を建てた。黄・紅・白・藍の四色の旗とその旗型の違いで八種類の旗の下に軍民を統一した。後に蒙古族・漢族の軍民を加え、八旗満州、八旗蒙古、八旗漢軍が編成された。
[3] 1919年5月1日、第一次世界大戦の戦後処理をめぐるパリ講和会議において、日本の山東省利権が正式に承認される(ヴェルサイユ条約)。5月4日、これに対し北京の学生数千人がデモ行進し、段祺瑞政権における親日政策の中心人物であった曹汝林の邸宅を焼いた。この事件がきっかけで、学生を中心とした運動が全国に広がり、ヴェルサイユ条約拒否、売国奴罷免を要求する全国的な民衆運動に発展した。この大規模な大衆運動はやがて「反封建・反帝国主義」という中国の近代革命の課題を明らかにした。
[4] 「解放軍報」1957年5月4日に掲載。引用文は「老舎全集」(北京・人民文学出版社、1999年)14巻p655より抜粋。以下、老舎の記述の引用で特に注記のないものは「老舎全集」より抜粋したものとする。
[5] 『南開季刊』1923年1月28日 第2,3期合巻号に掲載、署名舎予。老舎の死後発見され、『天津師院学報』1979年第2期(総26期)に掲載された。
[6] 許地山(1893-1941) 作家、宗教学者。台湾に生まれ、日清戦争後、一家で大陸へと渡る。教職を経て、1917年に燕京大学に入り、1919年の五四運動では運動の先鋒となって活動する。『小説月報』12巻第1期(1921年1月)に小説『命命鳥』を発表している。1922年には燕京大学宗教学科を卒業し、神学士の学位を取る。彼は中華教会自立運動にも関与したキリスト教徒でもあった。老舎と出会ったのはこの頃であろう。のちに、アメリカのコロンビア大学に留学し、1925年イギリスのオックスフォード大学に留学、この時ロンドンで老舎と再会する。帰国後、燕京大学、香港大学で教鞭を執ったが、1941年に病逝している。
[7] 上智大学外国語学部紀要 第18巻(1984年3月)p.155
[8] 鄭振鐸(ていしんたく)福建省出身。1919年五四運動に参加、1920年末文学雑誌発行のために奔走し、1921年「文学研究会」の発起人に名を連ねる。同年上海の商務印書館編訳所に勤務。1923年から『小説月報』の編集を担当していた。
[9] 羅常培「我与老舎」 『中国人与中国文』、(開明書店、1974年)
[10] 『小説月報』22巻第1期―第4期(1931年1月―4月)
[11] 1927年、南京に国民政府が成立し、翌28年、北京は北平と改名された。この名称は1949年に中華人民共和国が成立した時、再び正式に北京と改められた。
[12] 1926年7月9日、国共合作により革命の準備を進めていた広東国民政府が、全国を支配していた軍閥を打倒するために開始した戦争。蒋介石を総司令とした北伐軍は各地の人民の歓迎を受けながら進撃し、9月に漢口、翌年3月には上海を占領した。しかし、4月には蒋介石が反共クーデターを起こし、北伐は頓挫した(第一次北伐戦争)。1928年4月、蒋介石は再び北伐軍を編成し北京に侵攻、6月8日に北京を占領し、北洋軍閥の巣窟であった北京政府を消滅させた(第二次北伐戦争)。
[13] 『宇宙風』創刊号(1935年9月)、以後、創作経験14編を連載し、のちに『老牛破車』(人間書屋、1937年4月)として単行出版される。
[14] 「老舎全集」第16巻、p.164
[15] 「我怎様写『趙子曰』」『宇宙風』1935年第2期、ここでは「老舎全集」第16巻p.167を参照。
[16] 『宇宙風』1935年第3期、ここでは「老舎全集」第16巻p.173を参照。