「夢の月劇場」開設記念〜突発掲載短編小説 第二弾〜

「三つの水晶」 

作:DREAM・MOON


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 その店は、あの時と同じようにそこにあった。
 賑やかな大通りから、雑踏を抜けて一歩裏路地に入ったところ……そこに、その古めかしい木製のドアはあった。
「御免ください」
 そう云って、彼――品のある初老の男性は、その木製のドアを開けた。
 軋み音をたてることもなく、静かに開いたそのドアの向こうに彼女が座っていた――あの時と同じだった。
 それまでかぶっていた帽子を取り、自分の入ってきたドアを閉めてから、かれは丁寧に……その部屋の主に向かって頭を下げた。
「ご無沙汰しております――わたしのことを、おぼえていらっしゃいますか?」
 彼が最後に、そしてたったの一度、この店……薄暗い占い部屋を訪れたのは、もう何十年もむかしのことだった。
 覚えていてくれ、と云うほうが無理な相談である――それでも、何故かしらの確信を持って……彼はそう訊ねていた。
「ええ、お久しぶりですね……もちろん、おぼえておりますわ」
 そう云って、あの時とおなじように――その店の女主人は、落ち着いた穏やかな微笑を彼に向けた。
 あの時と同じ笑顔だった。

 ばたん、と勢いよくそのドアは開かれた。
 膝の上で眠っていた猫が、その音に驚いて目を覚まし、とん、と音を立てて床に降りた様子を見て、彼女は苦笑を浮かべた。
 派手な音を立てたドアに目をやると、まだ若い青年が、自身の立ててしまったドアの音に驚いたのか……今度はそっと、それを閉めているところだった。
「どうされました、こちらに御用がおありなのでしょう?」
 閉めたドアの側に立ち、こちらを振り返ったまま黙って店の様子に視線をさまよわせている若者にそう云ってから、彼女は笑みを浮かべた。
「……あ、その――占ってもらいたいことがあって」
 彼女の問い掛けに、若者は驚いたような表情になり――そう云って彼女の笑顔を見た途端に、ふたたび言葉をなくして、うつ向いてしまう。目深に降ろしたハンチングのために……その表情を伺い知ることはむずかしかったが、薄暗い店の中でもその頬に朱がさしているのが見てとれて、彼女は彼に気取られぬように、そっと苦笑を漏らした。
「とにかく、そんなところで立話というわけにもいかないでしょう……こちらへ、どうぞ」
「は、はい……!」
 彼女の誘いに若者は慌てた様子で、だがまだ何かに脅えたような、ぎくしゃくとした様子で、彼女とテーブルを挟んだ向かいの席に腰を降ろした。
「紅茶でよろしいかしら?」
 緊張した様子で自身の前にすわった若者にそう訊ね、彼が小さく頷いたのを見て、彼女はふたたび笑みを浮かべた。
「――ちょうど良い葉が手に入ったところなのです。それから……女性の部屋に入ったときには、帽子は脱ぐものですよ?」
 ほんの少し、いたずらっぽく囁かれたその言葉に、若者は慌てた様子でハンチングに手を遣り、それを脱いだ。
 ハンチングの下からあらわれたのは、まだ少年の面影を感じさせる顔だった。
 その顔を横目でかるく見ながら、彼女は自分の席から立ち上がった。
 緊張してしまっている若者には伺い知れなかったものの、その顔には苦笑のような笑みが浮かんでいた。

「なるほど……それでは、あなたがご覧になりたいのは、ご自身の未来なのですね?」
 ハーブの香が柔かく立ち昇る紅茶に、ゆっくりと口を付けた彼女がそう訊ねると、若者は黙って頷いた。
 彼の迷いは進路に関するものだった。
 郷里に帰り、親の会社を継ぐのか――それともこのまま街に残るのか……ありふれた迷いだった。
「これをご覧になってください」
 そう云って彼女は若者に机の上に置かれた水晶珠を示した。
「この水晶のなかには……ふたつの未来、貴方にある二つの可能性があります」
 そこまで言葉を紡いでから、ふと彼女は言葉を止めた。
「……」
 そんな彼女の様子を不安気に若者が見つめると、彼女はかるく息を吐いてみせた。
「これをご覧になっても、貴方の迷いは晴れないかもしれません」
 そう彼女が伝えると、若者は大きくかぶりを振ってみせた。
「それでもかまいません……どんなものでもいいのです。わたしには……もう」
 そこまで云って、言葉を詰まらせた若者を見て、彼女は――今度は大きく息を吐いた。

 若者は眠るようにして、机に伏せていた。
 その彼とテーブルを挟んだ向かいの席で、彼女はかるく息を吐いた。
「そろそろね……」
 彼女がそうつぶやいたとき、机に伏せていた若者がうめくように声を漏らした。
「気が付きましたか?」
 彼女がそう声を掛けると、彼はゆっくりと顔を上げた。
「夢、だったのですね……それとも、これから起こる現実なのでしょうか?」
 若者の質問に、彼女はかぶりを振ってみせた。
「貴方に起こりうる可能性のひとつに……いいえ、ふたつにすぎないのです」
「田舎での平穏な生活も、この街での成功も……わたしには、どちらも捨て難い未来です。わたしは――どうすればよいのでしょう?」
 なかば絶望をにじませたような声音で、そうつぶやいた若者に、彼女はもう一度かぶりを振ってみせた。
「占いは……あくまでも指針にすぎません。最後に道を選ばなければならないのは……やはり、その人自身なのですよ?」
「そんな……わたしが知りたいのは……」
「それでは、貴方がなぜそれを思い悩まれるのか……その理由を思い出されてはいかがですか?」
 若者の言葉が語り終えぬうちに、彼女のしずかな声がそれを遮った。
「貴方がいままでご覧になっていらしたのは、未来の水晶です。そして、これが……」
 そう云いながら、彼女は机の下から――もうひとつの水晶珠を取り出した。
「過去の水晶です」
 それまでの水晶珠とは、微妙に色合いのことなるそれを示しながら、彼女は睫を伏せた。
「これが貴方に何かを思い出させてくれるかもしれません」
 彼女の言葉にすがるような気持ちで、若者は水晶珠を覗き込んだ。
 透き通ったその珠を見つめているうちに、またもや彼は自分の意識が遠のいていくのを感じ――そして彼はふたたび、今度は自分の過去へと落ちていった。

”そんなこと……絶対に許さないんだから!”
 そう云った少女の瞳は潤んでいた……その娘は彼のよく知っている、大切な人物だった。
”許したくなければ、許さなくてもいい……おまえは、いい子だからな――父さんと母さんを頼む”
 そうだ……そう云ってぼくは――。
”お兄ちゃんなんか、大っ嫌い!”
 これも……そうだ――。
 水晶の見せる夢幻のなかで、彼の妹は――泣き顔の、彼が知っている最後の表情のまま、遠くに消えていこうとしていた。
 もしかすると……このまま会えなくなってしまうのではないか?
 ふいにそんな不安に駆られて、彼は遠ざかる妹の影を追い掛けようとしてもがくが……彼の身体は云うことを聞いてはくれず、彼女の影はますます小さなものになっていく。
 そして――その姿が、薄明かりに照らされた霧のようなものに満たされた世界に消えようとした瞬間……。

「……わあぁ!」
 獣のような絶叫を上げて、若者は目を覚ました。
 いまの状況を見失い、脅えたように自分の周囲を見渡している若者の鼻腔を、ふいにかぐわしくつよいハーブの香りがくすぐった。
「……」
「すこし香りのきつい葉ですが……いまの貴方には、ちょうどよいでしょう」
 その落ち着いた声音を聞いて、若者は自分をおだやかな表情で見つめている彼女の存在に気が付いた。
「ありがとうございます……見苦しいところを、お見せしてしまいました」
 そう云ってから、自分にティーカップを差し出してくれた彼女から、彼は視線を落とした。
「恥じることはありません……貴方の怖れは、臆病ゆえのものではないのですから」
「わたしが迷っている本当の理由が、わかったような気がします――そして、その決断をするのが、わたし自身でなければならないということもです」
 彼女が用意してくれたハーブティーを、そのまま一息に飲み込んでから、若者は彼女の前から立ち上がった。

「結局、お支払いに伺うのが、こんなに遅くなってしまい――申し訳ありませんでした」
 彼女の用意してくれた……何十年ぶりかのハーブティーを口にしながら、上品な佇まいの初老の男性は――自分の前に座った妙齢の女性にむかって頭を下げた。
「いいえ、貴方は約束を守ってくださいました――お代は結構です、ただ貴方が幸せになられたとき……もう一度ここを訪ねてきてください――そう申し上げたわたしの言葉を覚えていてくだっさたのですから」
「貴女は……変わっていらっしゃらない。とてもふしぎなことのはずなのに、貴女とお話をしていると――それがあたりまえのことのように感じられます」
「ありがとうございます。わたしのような者には、最高のお言葉です」
 そう云って艶やかに微笑んだ彼女を見て、初老の紳士は相好を崩した――それから、ふいに何かを思い出したように、初老の紳士は、その佇まいを正して、彼女に向き直った。
「ところで……どうしても、ひとつだけ――貴女にお訊ねしたいことがあったのですが」
「何でしょうか? わたしにお答えできることであれば、よろしいのですが」
 彼女の答えに、どこか、ほっとしたような様子で、初老の紳士は言葉を繋いだ。
「貴女は以前、わたしに……未来と過去の水晶を見せてくださいましたが、現在という水晶はあるのでしょうか?」
「あら……」
 その初老の紳士の質問を聞いた彼女は、一瞬、驚いたような表情となり……それから、鈴を転がすように静かな笑い声をあげて笑い始めた。
「あの……」
 初老の紳士が戸惑ったような声をあげると、彼女は目許に涙を残しながらも――なんとかその笑いを収めた。
「ごめんなさい……ただ、貴方はそれをずっとお持ちになっていらっしゃったのですよ?」
「……それは」
 戸惑いを隠せないままの初老の紳士の手を、彼女はそっと取り、彼の瞳をまっすぐに見詰めた。
「三つめの水晶は、人の心の中にあるのです。貴方はずっとそれをお持ちだった――そしてその、現在の水晶こそが……貴方をここまで連れてきてくれたのでしょう?」
 そう云って彼女は、初老の紳士に晴れやかな笑顔を向けた――そのとびきりの笑顔を受けて、最初はまだ戸惑ったままだった初老の紳士も、やがてその言葉を理解して……彼女に最高の笑みを返した。
 とてもなつかしく、とても新鮮な心地良い空気の中で……。
 ゆっくりと午後のお茶会の時間が過ぎていった。

「三つの水晶」Fin

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