「夢の月劇場」開設記念〜不定期連載小説〜
「忘れられない理由」 sec10
作:DREAM・MOON
第十話
翌朝香織が目を覚ましたのは、まだはやい時間だった。
のろのろとベッドから身体を起こした香織は、そのままぐったりとうなだれるようにベッドの上でうつむいた。
開け放してあった窓から涼しい朝の風が入ってくるが、香織にはその風に対する感慨を持つだけのゆとりはなかった。
くせのない長い髪が肩口から落ちているのに、それをかきあげようともせず、香織は黙ってうつむいていた。
どのぐらいそうしていたのか……しばらくしてから香織は、ぽつり、と言葉を洩らした。
「お兄ちゃん……」
涼しい朝の風がふたたび部屋に入ってきて、香織の長い髪を揺らした。
「博俊、電話ですよ――香織さん、っておっしゃったかしら?」
「あ……はい」
起き抜けでリビングに入ってきた博俊は、母親にそう云われて、寝ぼけ眼をさすりながら、うなずいた。
母親からコードレスの受話器を受け取り、ちらり、と壁に掛けてある時計に目をやる――9時をいくらかまわったところだった。
「はい、博俊です」
興味深そうに息子の様子を見ている母親から逃れるように、博俊はリビングから廊下に出ながら、電話を取った。
「おはよう、瀬川くん――香織です」
「おはよう――どうしたの?」
香織とは、きょうの午後から遊びにいく約束をしていた。
「ううん、なんでも――あの、その……」
「どうしたの?」
歯切れのわるい香織の口調に、博俊はもういちど聞き返した。
「……」
「……香織?」
様子がおかしかった――もしかして……。
泣いてる?
受話器を通して聞こえる香織の声がいつもと違う――そして、以前にも博俊は、似たような彼女の声を聞いたことがあった。
「今から、そっちにいくよ」
約束の時間には間があった――だが、そんな約束の時間にまで、待っていられる余裕はなさそうだった。
「でも……」
「それとも――そうだ、このあいだの公園……あの公園まで来てよ、すぐに行くから、そこで待っていてくれ――いいな?」
「……」
電話のむこうで、香織は黙ったままだった。
「香織……いいね?」
気が昂ぶりそうになるのを、なんとか抑えて博俊はやさしく香織を諭した。
「……うん」
かすかな声だったが、たしかに香織が了承したのを聞いて、博俊は、ほっと息をついた。
「すぐに行くから……いいね?」
「うん……」
「それじゃあ、いったん切るよ? すぐに行くから――」
とにかく、香織に会わなければ――香織が電話を切るのを確認してから、博俊は急いで自分の部屋に取って返した。
なぜ香織が泣いているのかはわからなかった――ただ、香織は泣いていたのだ。
だったら、すぐに行ってやらないといけない。
香織を――彼女を守ると決めたのだから。
博俊が玄関を飛び出したのは、それからすぐのことだった。
どうやってここまで来たのか、それすらもいまの香織には、よくわからなくなっていた。
先日のデートのときに、博俊と座っていたベンチにふたたび彼女はひとりで座っていた。ぼつり、ぽつりと落ちていく涙を止めようともせず、香織はうつむいたままベンチに座っていた。
夢の中で――あの女性が告げた言葉が思い出される。
それでも、そなたは知りたいと願うのか?
知りたいと思った気持ちにいつわりはなかった――知った……思い出してしまったことに対しても、後悔はなかった。
ただ、どうすればいいのか、わからなくなってしまった――そして、気がつくと博俊のところに電話を掛けてしまっていた。
「どうして瀬川くんに……どうやって話すのよ――こんなこと」
そうつぶやいてから、香織はのろのろとベンチから立ち上がった。
できないよ――瀬川くんに、相談なんて……。
そう思って、涙を両手で拭った香織が顔を上げたとき、一台の自転車が公園の中に走り込んできた。
「香織……!」
自転車で香織のすぐそばに来た博俊は、停めた自転車が倒れるのに構いもせず、香織のそばに駆け寄ると、両腕で華奢な香織の肩口を掴んだ。
「瀬川……くん?」
「だいじょうぶか?」
肩を掴まれて顔を上げた香織の目は真っ赤になっていた。どこかぼんやりとした様子で自分を見つめる香織に、博俊はささやくように……慎重に声を掛けた。
「わたし……どうすればいいんだろう? わたし……瀬川くんのことが――お兄ちゃん……」
香織は博俊の顔から視線を逸らし、くずれるように博俊の胸元に顔を埋めた。
「香織……!」
お兄ちゃん――織雪さんのことで……?
香織の身体を抱きとめながら、博俊はふと香織のつぶやいた言葉に引っ掛かった。
「香織……織雪さんのことで――」
「わたし……どうすれば――いいのか、わからなくて……わからくなっちゃって……」
まさか……あのことを?
博俊がそう考えたとき、香織がふいに顔を上げた。
「お兄ちゃんに……織雪お兄ちゃんに会わないといけないの――でも、お兄ちゃん、どこにもいなくて……。それで、気が付いたら――瀬川くんに電話、掛けてて……!」
そう云って、博俊を見上げた香織の目元から、ふたたび涙が溢れはじめた。
「わたし……わたし、どうすれば――どうすればいいのか、わからなくなっちゃって……!」
流れる涙を拭おうともせず、自分を見つめてくる香織を、博俊はもう一度――今度は強く抱きしめた。
「……瀬川くん?」
「違っていたら、ごめん――昔のことを、思い出したんだね?」
「――!」
香織の耳元でそう囁いた博俊は、香織が驚いたように身体をすくませたことで、自分の予想が正しかったことを知った。
「……どう……どうして、瀬川くんが――わたしと……お兄ちゃんのこと」
まるで怯えるように、そう云いながら自分を見上げてくる香織を見て、博俊はやさしく香織に微笑んでみせた。
「織雪さんが、話してくれたんだ。香織のことを……頼む、とおっしゃってた」
「そんな――お兄ちゃん……」
博俊の言葉に、香織はゆっくりとかぶりを振った。
「織雪さんは?」
「……わからないの。ここ何日か――ずっと姿を見せてくれなくて……!」
かぶりを振りながら、そう云った香織の瞳から、ふたたび涙がこぼれそうになり、博俊はそっとその涙を片手で拭った。
「神社へ行こう」
「……?」
博俊の言葉に、香織はとまどった顔で博俊を見つめた。
「織雪さんの……太刀が奉納してある神社だ。さあ、行こう!」
そう云って、博俊は香織の腕を取り、転がしてあった自分の自転車に向かった。
「瀬川くん……!」
「急ごう! 香織は、織雪さんに云わないといけないことがあるんだろう?」
とまどう香織にそう云って博俊は微笑みを見せた。
「……うん」
博俊の言葉に、香織はうなずき――ふたりは自転車に乗って公園を後にした。
その神社は深い森に囲まれていた。
住宅街のそばにあるというのに、なぜかしらその森には人の手が入らなかった。
神社そのものが持つ歴史と信仰が、その森を護っていた。
その森の入り口にある鳥居の笠木のうえに座っていた美しい女性は、神社に向かって走ってくる一台の自転車を見つけて、その美しい眼を細めた。
「やっと来ましたね……」
そうつぶやいてから、笠木の上に立ち上がったその女性は、そのままその笠木からその姿を空に躍らせ――そのままその姿を宙に消した。
庵のなかで、織雪は背筋をまっすぐにして座り、その目を閉じていた。
おキツネさまが使っていたという祠の下にある庵はそんなに広い部屋があるわけではなかったが、手入れが行き届いており、そこに座していると不思議と気分が落ち着いた。
お越しになられたか……。
誰かが庵に入ってくる気配を感じて、織雪は座っていた向きを変え、彼のいる部屋の入り口に向いて、そのまま平伏した。
「お待ちしておりました――おキツネさま……!」
丁寧に挨拶をしてから頭を上げ、ゆっくりと眼を開けた織雪は、そこにいたふたりの人物を見て、言葉を失った。
「ちょうどよい折に、わたくしのもとを訪ねてくれました」
そう云ってから、自身の横に並びうつむいている香織に、おキツネさまはやさしい笑みを向けた。
「香織……おキツネさま、どういうことですか? ここは、現世の客人が来れるような場所ではないはずです」
「身体を持ってくるのは、無理でしょうね……ですが、心で訪れるのにはさして難しい場所でもありませんよ?」
「そんな! 身体はどうするのです? 香織の――」
「落ち着きなさい、大丈夫――彼女の大切な人が護ってくれていますよ?」
おキツネさまの言葉に、織雪はかるくため息をついてみせた。
「それにしても、どうして香織をこんなところへ?」
「それは、彼女からお聞きになるべきことでしょうね……」
そう云ってからおキツネさまは、自身の横で立ちすくんでいる香織の背中をそっと押した。
「香織……」
「織雪お兄ちゃん……」
うなだれるようにして織雪の名を呼んだ香織に、織雪はやさしく微笑み、彼女を招いた。
「ここに座るといい――いったい、どうしてこんな……」
「ごめんなさい……」
ぺたん、と織雪のまえに座り込んでから、香織はそう云って織雪を見つめた。
「ごめんなさい――わたし、なにもかも忘れていたの。織雪お兄ちゃんのこと……わたしのこと。でも――」
思い出したの、と云ってから、香織はその場に泣き伏した。
「香織!」
とっさに香織の側により、香織の身体を抱きかかえた織雪は立ったままのおキツネさまを見上げた。
「おキツネさま――いったい……!」
「彼女は自分の意志で、己の過去を求めました。これから先どうするのか……よくよく話し合うのですね?」
そう云ってからねおキツネさまはきびすを返すと、そのまま織雪たちの座した部屋を後にした。
部屋には、織雪と香織だけが残された。
「元気だったか?」
しばらくして泣き止んだ香織に、織雪はそう云って微笑んだ。
「……うん」
「しばらくあの方の用事でこの街を留守にしていた――すまなかったな」
泣き伏したせいで、いくらか乱れた香織の髪を直してやりながら織雪がそう云うと、香織はかるくかぶりを振ってみせた。
「ううん……そんなことより、わたし――どうすればいいのか、わからなくなっちゃって。お兄ちゃんは……あの織雪どの、なんでしょう?」
「……ああ、そうだ」
「夢で見たの――それで、思い出したの。わたしが――絢姫が、どれだけ……それなのに、わたし――!」
「正直に云おう……俺の気持ちは今でも変わらない。絢姫と結局会うことはできなかった彼女の子を愛しているよ。だがそれは……香織、おまえじゃない」
「え……?」
「おまえはもう、絢姫じゃない――おまえは、香織なんだ。そして、俺の大切な妹であり……娘だ。おまえには、博俊がいる」
「お兄ちゃん……」
「幾千の夜と月を見上げてきた……絢姫に、彼女にもう一度会えることを願ってな。そして、香織……おまえが産まれてきた。おまえは彼女の――絢姫の魂を持っている、だが絢姫ではないんだ。俺はおまえを愛しているよ、おまえだって俺を愛してくれている……だが、それは肉親に対する愛だ――千年の時を経て、俺たちはやっと本当の兄妹に戻れたんだ」
「そんな……」
織雪の言葉に香織はうなだれ、そのまま織雪の胸元に顔を埋めた。
「絢姫は俺を本気で愛してくれた……おまえの魂は、人を愛することができるんだ。そして、おまえが愛する人は博俊だ――あいつだって、本気でおまえのことを想ってくれている」
「でも……それじゃあ、お兄ちゃんは? お兄ちゃんは……!?」
織雪の胸元で香織がそうつぶやいたのを聞いて、織雪はやさしく香織のくせのない髪をなでた。
「俺は……おまえがしあわせに笑ってくれれば、それだけでいい――俺が、彼女に望んだこともそうだった。さびしそうだったあの女性をしあわせにしたかった……だから、その夢をおまえがかなえてくれないか?」
そう云ってから、織雪はゆっくりと香織の身体を離し、彼女の顔を見つめた。
「お兄ちゃんは……どうするの?」
不安そうな心配そうな顔で自分を見上げる香織に、織雪は微笑んでみせた。
「安心しろ、ずっとおまえたちを見守っている――おまえと博俊、おまえたちの間に産まれてくる子どもを見守っているよ」
「そんな……もう、会えないの?」
「おまえはもう子どもじゃない……」
そう云ってから、織雪は香織の頭に顔を寄せて、そっと彼女の額にくちづけをした。
「おまじないだよ……さあ、もう行きなさい」
そう云った織雪を見て、香織はうなずいた。
「いい子だな、香織は。そんな顔をするな――消えるわけじゃないんだ、ずっとそばに居てやるんだから」
そう云って微笑んだ織雪の瞳はやさしかった――どこまでもやさしいその瞳に見つめられながら、香織は自分の意識が遠のいていくのを感じた。
「よろしかったのですか?」
香織が居なくなった部屋の中で、ひとり座っていた織雪に声が掛けられた。
「はい。ありがとうございます――お世話になりました」
そう云って、自身のまえに姿を現したおキツネさまに、織雪は丁寧に頭を下げた。
「これで、思い残すことはありません――香織は、あの子はきっと幸せになってくれるでしょう」
「あなたは……自身の魂の消滅を望みました。ですが、あなたは香織さんに約束をしましたね?」
織雪の正面に座りながら、おキツネさまはそう云って織雪に笑みを向けた。
「それは……」
「約束は守られねばなりません……貴方には、我が伴侶となっていただきます」
「……!?」
おキツネさまの言葉に、織雪の表情が驚きに変わった。
「大御神さまのお許しはいただいております。織雪どの――貴方は我々の眷族となられたのです」
そう云ってから、おキツネさまは織雪の側まで膝を進め、その胸元に身体を預けた。
「忘れられない想いを、無理に忘れることはないのです――ただ、過去に縛られてはなりません」
そう云ってから、いたずらっぽくおキツネさまは織雪に微笑んでみせた。
「さすがに……遊び人と呼ばれた貴方さまでも、このような年増狐は手に負えませんか?」
艶やかなおキツネさまの笑みを見て、織雪はかるく息をつき、そしておキツネさまに微笑みを返した。
「まったく……貴女にはかないませんね?」
そう云ってから、織雪はおキツネさまの唇に自身の唇を重ね――その身体を抱きしめ、ゆっくりと床に寝かせていった。
……!
……香織!
誰かが呼ぶ声がした。
そう……この声は。
「……瀬川……くん」
「香織……しっかりしろ!」
「瀬川くん……?」
香織は横になっていた――博俊の腕のなかで、そっと頭をめぐらせた香織は、ゆっくりと瞼を開き博俊の顔を見て微笑んだ。
「……たの」
「?」
「会えたの……お兄ちゃんに。わたし……お兄ちゃんに会えたんだよ?」
かすれたように小さな声でそう云ってから、香織は博俊の首筋に腕を伸ばした。
身体を支えられるようにして、博俊に抱きしめられながら、香織はしずかに泣き始めた。
涙はなかなか止まりそうになかった――だが、その涙は……もう辛い涙ではなくなっていた。
終章
待ち合わせまでに、まだ少し時間があった。
はやすぎたかな?
そう思って、香織が腕時計に目を落としたとき、自転車の音が聞こえた。
「はやかったんだな――待った?」
自転車から降りながらそう云った博俊に、ううん、と香織はかぶりを振ってみせた。
「あと半年で受験かぁ……」
自転車を押しながら、そう云った博俊を見て、香織はくすくすと笑ってみせた。
「来年はちゃんと大学生になれてるといいね?」
博俊と並んで歩きながら、香織はそう云って、空いている博俊の腕に自分の腕をからませた。
「おっと……そうだな、織雪さんによく頼んでおかないと」
自転車を押すバランスをくずしかけたものの、なんとかそれを立て直してからそう云った博俊を見て、香織はもう一度笑みをこぼした。
「自分でなんとかしやがれ――とか、云われそうだけど」
「ちがいない」
香織の言葉に博俊は頷いてみせた。
織雪が姿を消してから――香織が織雪と最後に話をしてから、ちょうど一年が過ぎようとしていた。
それ以来、織雪が香織たちのまえに姿を現わすことはなかった。
それでも、香織にはわかっている。
織雪は、ちゃんと自分たちを見守ってくれている――。
「でも、あのときはびっくりしたよ――いきなり倒れるんだから」
「ごめんね……でも、嬉しかったな。目が覚めたら、瀬川くんが側にいてくれたから」
そう云って香織は小首を傾げて微笑み、そんな香織の様子に博俊は目を細めた。
高校を卒業したら、ふたりは大学に進学することを決めていた。
きょうはその合格祈願のために街外れの稲荷神社へお参りに出掛ける。
ふたりで歩く神社への道は暑かった。
夏が、すぐそこにまで来ていた。
「忘れられない理由」:Fin