「夢の月劇場」開設記念〜不定期連載小説〜
「忘れられない理由」 sec5
作:DREAM・MOON
第五話
最初の出会いは、ある雨の日だった。
冬のおわりも近い、だが、まだ肌寒さの残る――そんな日だった。
「どうしましょう? どうにも雨脚が強すぎて……」
お忍びの際に、いつも連れていくことにしている年若の――まだ少年と呼んでもよい年頃の従者が、困ったような声をかけてくる。
たしかに網代車を叩く雨の音はつよく、従者の声も聞こえにくいほどだった。
「手近な屋敷に入れてもらえばよかろう?」
とある姫にフラれたばかりのわたしは機嫌がわるかった。
「はあ……」
投げ遣りな調子のわたしの声を聞いて、車の外から、途方にくれたような応えが返ってくる。
「ほら、そこの屋敷でもよいではないか? そんなところで、ぼんやり立っているぐらいなら、さっさと訊ねてこい!」
「はい! すいません、行って参ります……!」
つよい雨に打たれて、全身を濡らした従者は、わたしが示した小さな屋敷にむかって走り出した。
「ふん……なりは小さいが、趣味はわるくなさそうではないか?」
従者が駆け込んでいく屋敷を見ながら、わたしはそう思い――息をついた。
わたしを袖にした姫のことを思い出してしまったからだ。
血筋そのものは、やんごとなき姫であったが、後見もなにもないため、貧しく――そのくせ、プライドだけは高い姫だった。
「ほんの戯れ、とはいえ……場合によっては、妾の一人にでもしてやったものを」
馬鹿な女よ……。
ちょうどそんなことを考えて、皮肉な笑みを浮かべたとき、屋敷から従者が走って戻ってきた。
「おもてなしはできませぬが、お困りであれば……とのことです」
「そうか……ありがたいではないか、寄せてもらおう」
わたしの言葉に、年若い従者は、ほっとした様子で、牛の手綱を取っている者に指示を出し、網代車はその屋敷に向かった。
車寄せから降りたわたしを迎えたのは、まだ若い女房だった。
重ねた単は、あまり上等なものではなかったが、かといって乱れてはおらず、むしろ折り目正しく、見た目にも気分がよかった。
おそらく教養のある人物が主なのであろう、と思わせるだけの器量もあり、ひそかにわたしはこの屋敷の主と対面するのが愉しみになった。
女房に通された客間も、正直質素な部屋だったが、掃除も行き届いており、そこから見える庭も広くはないがよく整えられていた。
はたして、どのような主がこの屋敷を取り仕切っているのだろう?
好奇心と一緒に、いろいろな想像が頭をよぎる――隠居のような暮らしをしている一線から退いた人物だろうか? それとも、中流の貴族で、堅物だが教養のある人物?
勝手にそんな想像をしていると、先ほどの女房が、主の目通りを告げにきた。
そして、かろやかな衣擦れの音が聞こえてきた。
「このような屋敷にお迎えしましたこと、まことに申し訳ございません……なにぶんにも、物の揃わぬ屋敷なもので」
御簾のむこうから聞こえてきた声を聞いて、わたしは驚いた。もっとも、それを表に出してしまうほどには初心ではなかったが。
ただ、この枯れた味わいのある屋敷の主が女であり、しかもまだ若い姫だったということに、意表を突かれたような思いをしていた。
「こちらこそ、失礼なお願いを致しましたのに――ご丁寧なおもてなし……ありがとうございます」
とりあえず、無難な挨拶を返してしまう。
「このような雨、お困りでしたでしょう――いま、あたたかいものを用意させておりますので」
ふしぎな声だった。それなりの教養を感じさせる声なのに、プライドの高さを感じさせない。
あたりさわりのない会話を愉しんでいると、ときおり鈴を転がすような軽やかな笑い声を聞くことができた。
その笑い声を聞くうちに、とても安心した気持ちになってしまう。
なぜだろう?
浮き名を流し、手練れとしての自覚と自信があった自分が、なんだか生真面目で初心な元服前の子供のように、感じられ始めてきていた。
だんだんと落ち着かない気分になり、みょうな居心地になってくる。
しばらくして、雨脚が弱まってきたころ、わたしはこのふしぎな主に丁寧に礼を云って、質素だが趣味のよい屋敷を後にした。
それが、最初の出会いだった。
「お兄ちゃん……お兄ちゃんってば!」
いらいらとしたように香織が声を大きくしてから、やっと織雪は、ああ、と返事をした。
「どうしたの? ぼうっ、として」
怪訝そうな表情で自分の顔を覗き込んでくる香織を見て、織雪はなんでもない、と笑ってみせた。
とりあえず、機嫌は直してくれたらしい――昨夜のように、ぎくしゃくとした雰囲気がないことに、ほっとしながら、織雪はかるく息をついてみせた。
「ほんのすこし……昔のことを思い出していたんだ。どうしてかな? しばらくはそんなこともなかったんだが」
「ふうん……なんだか、心ここにあらず、って感じだったから」
部屋中にひろげた服のなかに、ぺたん、と座り込んだまま、香織はかるく首を傾げてみせる。
「たまにはな……昔のことを思い出したりもするんだよ」
そう云って、不思議そうな顔をしている香織の頭をかるく撫ぜてから、織雪はもういちど香織に微笑んだ。
ぜんぜん違うはずなのに……こんなときの表情は、あの女性のままだな――そんなことを考えて、織雪は内心ため息をついた。
「おたがいに知らないことがあるぐらいが、丁度よいのですよ」
自身のことを尋ねられたわたしは、そう云って御簾越しの彼女に笑ってみせた。
「そうなのですか?」
納得がいかない――というより、不思議そうな声音で彼女が尋ね返してくる。
そんな彼女の様子に、わたしは、つい、笑い声を漏らしてしまう。
あの雨の日から、二月あまり……どういうわけか、わたしはあの時の姫のことが気にかかり、文の遣り取りをしたり、時にはこうして訪れたりするようになっていた。
「もう! 織雪さまは意地がお悪いのですね? でも、身分あるお方だということはわかっておりますのよ」
「ほう……どうしておわかりになるのですか?」
「いただいたお文にしろ、こうしてお話をさせていただくときの会話の内容にしろ……とても教養が感じられますもの。殿下の感覚では、とてもそんなことは無理ですから」
「そうおっしゃる貴女も、充分に教養がおありではありませんか? こんなわたしをとても愉しませてくださるのですから」
さりげなく彼女の素性について話題を振ると、彼女はかるく息をついてみせた。
「すみません……素性を名乗れないのは、わたくしも一緒でした」
そう云ってから、彼女――絢姫は、ため息をついた。
最初の出会いのとき、素性をたずねたわたしに、彼女は、絢姫という自身の名だけを教えてくれた。それから文の遣り取り、訪問を繰り返すうちに、彼女がとある貴族の妾腹の姫であること、生母が亡くなって以来、この小さな屋敷の女主として切り盛りしていることなどを教えてもらったのだ。
さびしい暮らしをしているらしい、ということは予想もできたが、この姫はけしてそうした素振りを見せることはなく、あくまでも素直でまっすぐな印象をわたしに与えてくれる。
「秘め事がある――でも、おたがいの素性を知らないからこそ、わたしはこうして貴女とお話しできるのかもしれない」
そう云って、御簾越しの彼女にわたしは微笑んでみせた。
そのとき、ふいに一匹の猫が座ったわたしのそばを通り、御簾の中へと入っていった――藤色で、小柄なその猫は、御簾のなかで、どうやら主の膝もとにでも行ったらしい。
「いけませんよ? お客人のまえなのに……はしたない真似をするものではありません」
小さな声で、猫に話し掛ける姫の声を聞いて、わたしは思わず忍び笑いを漏らす。
「そんな小猫にまで……躾に厳しくいらっしゃるのですね?」
「……そんなに、からかわないでください」
かるく拗ねたような絢姫の返事を聞いて、わたしは堪えられず、口許を扇で押さえた。
「もう……織雪さまったら」
本格的に拗ねてしまわれたかな? 絢姫の声を聞いてそんな危惧を抱いたとき、くすくす、と御簾のむこうから、鈴が転がるような笑い声と、衣擦れの音が聞こえてきた。
「この子は、いつもわたしに甘えてばかり……ほら、織雪さまにも遊んでもらいなさい」
そう云ってから……驚いたことに、絢姫は片手で御簾をかるく上げると、もう片方の腕に抱いた小猫を御簾の外へと差し出してきた。
「猫はお嫌いですか?」
御簾のむこうでそう云った絢姫は、すこしだけはにかんだような、困ったような表情をしていた――そんな彼女を見たわたしは……すっかり、彼女の姿に心を奪われていたのだ。
絢姫はわたしが想像していたよりも、幾分若く華奢で……とても穏やかで魅力的な笑みを浮かべることのできる姫だった。
「いいえ……わたしも猫は好きです」
驚きと忘我を悟られぬように、わたしはそう云いながら、おとなしく絢姫の腕に抱かれている小猫を抱き上げた。
小猫は一瞬、警戒するような素振りを見せたが、抱き上げてやると、すぐに満足そうにわたしの腕の中でまるくなった。
ちょうどかつての小猫がそうしていたように、望月家の屋根の上で、織雪の腕に抱かれた小猫は、まるくなって眠っていた。
「もし、あのとき……もしも――」
ぽつり、とつぶやいてから、織雪は、ふいに我に返り、かるくかぶりを振って苦笑いを浮かべた。
過去は過去なのだ――もしも、などということを考えても意味はない。
「それに、やらなければいけないこともあるな……」
そうつぶやいてから、眠っている小猫を屋根の上にそっと降ろすと、織雪はしずかに立ち上がった。
小猫が不満そうに身をよじって薄目を開けたとき……。
そこにはもう、織雪の姿はなかった。「……?」
こつん、こつん……そんな軽く窓を叩くような音がしたのを聞いて、博俊は、怪訝そうな表情で窓辺にむかって立ち上がり、閉めてあったカーテンを、さっ、と開けた。
「あれ?」
誰もいなかった。
だが、博俊の部屋は二階である――そもそも、誰が窓を叩いたりできるだろう?
そんなあたりまえのことを思い出してから、博俊は、おかしいな、とつぶやきながらカーテンを閉め、自分の部屋のなかに振り返った。
そして――。
「こんばんは」
「うわぁぁ!」
それまで誰もいなかったはずの自分の部屋に、なんだか古風な着物を纏った髪の長い青年が座り込んでいた。
「ど……なん――!?」
「いちおうノックはしたんだが……勝手に上がり込まさせてもらった。すまないな」
そう云ってから、その招かれざる客は博俊にむかって、にやり、と人のわるそうな笑みを向けた。
「このあいだは……どうも、織雪さん」
「なに、よくあることだ――気絶するぐらいのことなら、そんなにめずらしくもない」
それなら……どんなことをすれば、めずらしかったんだろう?
とりあえず、触れられたくない話題をいきなり持ち出されて、博俊は、なんだかヤケを起こしたような気分でそんなことを考えた。
「昨日も話したかもしれないが、香織の祖父はすごかったぞ? 悪霊祓いを本気でしようとしていたからなぁ」
そう云って愉しそうに笑う織雪を見て、博俊はそっと内心でため息をついた。
「きょう訪ねてきたのは、瀬川くん――きみに訊ねたいことがあったからだ」
ふいにまじめな表情になった織雪は、そう云ってから博俊の顔を正面から見つめた。sec5.Fin