「夢の月劇場」開設記念〜不定期連載小説〜

「忘れられない理由」 sec6

作:DREAM・MOON


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第六話

 晴天だった。
 いってきます、と家の者に声をかけて、玄関から出た香織は、蒼天を見上げ――その眩しさに目を細めた。
 あまり暑くならなければ、いいけど……。
 どうしてもはやりそうになる気持ちを、わざとそんなことを考えて落ち着かせようとしてみる――どうかすれば、同じほうの手足が一緒に前に出そうなぐらい、香織は緊張していた。
 きょうのために、服だって新調した――黒っぽいサマードレスと淡いベージュのシャツ、それに、ドレスと色をあわせたベレーをアクセントに……寝癖がつけば大変なことになる長い髪も幸いきれいにまとまった。
 でも……。
 そんなに緊張ばかりしていても、しょうがないわよ? そう云って母にも笑われた。
「どんなによく見せようとしても、香織は香織なんだから、素直な自分を見せておけばいいの」
 そう云いながら、母は愉しそうに、くすくすと笑っていたし、いつもならからかい言葉のひとつも掛けてくるはずの織雪は、これまた意味深な微笑みを浮かべているだけで……そんな態度が余計に香織を緊張させた。
 これまで使ったことのなかった、母からのプレゼントの淡い色合いのリップも塗ってきたのだが、その慣れない感覚が、さらに緊張感に追い討ちをかけている。
 冷静に考えれば、いつも学校で顔を見ている博俊が相手なのだから、いまさら緊張しても仕方がないのであるが……。
「あの様子だと、無事に美術館までたどりつけるかどうかも、あやしいんじゃないのか?」
 あきれたように玄関先で織雪がつぶやくと、香織を一緒に見送った母親の美鈴は、だいじょうぶですよ、と云ってかるく笑ってみせた。
「あの子は、あれでも……開き直ると、強いですから」
「そういうところは、母親そっくりだものな」
「あら、織雪さんに似て、って云おうとしたのに」
 そう云って、くすくすと笑う美鈴に、織雪はかるく肩をすくめてみせた。
「おまえが、いまのダンナとはじめて逢い引きに出掛けたときも、あんな感じだったよ――本当に、だいじょうぶなのか? って、肝を冷やしたもんだ」
「だから、だいじょうぶでしたでしょ?」
「なるほど」
 織雪が納得して、ふたりはあかるい声で笑いあった。
「それで、今度はどんなことを吹き込んだんです? 香織の彼に」
「さあ、な――やれやれ、美鈴もすっかり鋭くなったな。むかしはあんなにおっとりしていたのに」
「わたしはもう、香織の母親ですからね? それで……なにを――」
「おまえのときと一緒だよ」
 美鈴の言葉を途中でさえぎり、織雪はそうつぶやいた。
「美鈴のときと一緒だ……ただ、香織はあのときの美鈴よりもまだ子供だからな。どうなるかはわからんよ」
 ため息をつくようにしてそう云った織雪の言葉を聞いて、美鈴は、くすり、と笑みをこぼした。
「だいじょうぶですよ――女の子は、本気で恋をしたときには、もう大人になっているものですから」
 立派な大人になったかつての少女の言葉を聞いて、織雪はかるく息をついた。
「なるほどな……兄や母としては、さびしいところだな?」
「あら、わたしは嬉しいですよ。どんな男の子か愉しみですし」
 美鈴の言葉を聞いて、織雪は曖昧な笑みを浮かべる。
「なかなかいい男だったぞ? まじめな堅物――そんなふうに見えたが……おまえのダンナとよく似たタイプだよ」
 そう云って、ふいとその場を離れた織雪の背中を見送りながら、美鈴はふたたび笑みをこぼした。

 いい天気だった。
 初夏と云うにはまだはやいが、それでも日差しはまぶしく、空は青かった。
 こんなに天気がよくて、おまけに大好きな彼女とはじめてのデートなのである。
 だが……博俊は緊張しまくっていた――多少は緊張していても上機嫌であるはずなのに、緊張しまくって……さらには、困惑していた。
 待ち合わせの美術館のまえには、もう20分以上……約束した時間の30分もまえからついていた。
 昨日の夜から神経が昂ぶってしまい、眠りも浅かった。
 今日になっても、とても家でのんびりとしていられるような状況ではなかった。
 それもこれも――。
「瀬川くん!」
 自分の思考のなかに潜ってしまいそうになっていた博俊は、ふいに名前を呼ばれて、我に返った。
「ごめんなさい、待った?」
 振り返ると、香織がいた――そうたずねて、すこし照れたような笑みを浮かべた香織を見て、博俊は一瞬、言葉を失った。
「?」
 そんな博俊を見て、香織がかるく小首をかしげてみせる。
 そして、香織のそんな仕種を見た博俊は、かるく目眩を覚えそうになる。
 いつもとは、違う服装――すこし大人びたシックな服だった。でも、落ち着いた雰囲気で色白な香織にはよく似合っていて……。
 かるく両手を身体のまえで組んだ香織の姿に、博俊は見とれてしまい……それから、あわてて我に返った。
「あ! おはよう。その……ごめん、びっくりしてた」
 そう云った博俊の様子を見て、香織がすこし不安そうな表情になる。
「いや……すごく似合ってるよ。それで――」
 あんまりキレイだったから。
 そこまで云ってしまうだけの度胸は博俊にはなかった。
「いまさらだけど……かわいいな、とか思ってて」
 顔が火照りそうになり、わざと視線を足許に落としながら、博俊がそう云ったのを聞いて、香織は、うれしそうな気恥ずかしそうな表情になった。
「行こうか?」
 そのまま黙り込んでしまいそうになるのが怖くて、博俊はそう云ってきびすを返す。
「うん……!」
 博俊の言葉を聞いて、香織は頷き――博俊の腕に自分の腕をからませた。
 華奢だがやわらかな香織の身体を腕に感じて、博俊は気が遠くなりそうな気分になりながら、心の中でふかいため息をついた。
 どうしよう? こんな調子だと……。
 ふと、昨日の晩から博俊を悩ませていた難問が、頭の中をよぎった。
 そう、あれは昨日の晩のことだった。

 きみに訊ねたいことがあったからだ――そう云って、その不意の訪問者は、まじめな表情で博俊を見つめた。
 先日、香織の家で会ったときと同じように、古風な着物を身に纏い、長い髪を背中でひとつに束ねたその訪問者は、ゆったりと胡座をかき、背をまっすぐに伸ばした格好で、博俊の部屋の真ん中に座り込んでいたのだ。
「なんですか? 僕に訊ねたいことって」
 とまどいながらも……なんとか平静を装って、博俊は織雪に訊ねた。
「ん、香織のことなんだが……」
「はい」
 わざわざもったいぶらなくても、このふたりのあいだに、どんな話題があるというのだろう?
 いくらか、いらいらとした気分になりながら、それでもきまじめに博俊が応じると、織雪は満足そうにうなずいてみせた。
「瀬川くん……きみは、香織のどこが気に入ったのかな?」
「え?」
 スタンダードではあるが、難問だった。
「それは……その、仕事に対するまじめさとか、話していて明るくなれるところとか――」
 とりあえず思い付いたことを並べてみるが、なかなかこれという答えが思い浮かばない。
「なるほど……ほかには?」
 そんな博俊の心中を知ってか知らずか――あくまでも、穏やかな様子で織雪にふたたび訊ねられ、博俊は天をあおぎたくなるような気分になる。
「気配りのきくところ、やさしいけれど――しっかりしているところ……あ! でも、すごく守ってあげたいというか……かわいいところもあるし――その……ルックスだって、すごく好みだし」
 言葉を連ねながらも、博俊はますます追い込まれたような気分になっていく。
 それでも、なんとか言葉を見つけようと博俊は必死になって、香織の長所を並べたてる。
 そして――。
 持てる語彙のすべてを使い切った……そんな様子になった博俊は、それでも香織のことを好きになった理由をうまく説明することができずに、絶望的な気分になりはじめていた。
 博俊の言葉を聞いている織雪の表情はあいかわらずで――穏やかな笑みを浮かべた表情を崩すこともなく、静かに博俊のつぎの言葉を待っていた。
 どうやって説明すればいいんだろう?
 途方に暮れる思いで、そう考えてから――ふと博俊は自分自身に疑問を覚えた。
 そういえば……どうして僕は、望月のことを好きになったんだろう?
「そうか……いろいろありがとう。でも、実はきみにも本当の理由はわかっていない――違うかな?」
 ふと自分の物思いに耽ってしまった博俊の耳に、まるでその心を見透かしたような織雪の言葉が飛び込んできた。
「それは……」
 そんなはずはない――本当なら、そう云いたかった。
 だが、博俊にはそれに抗えるものがなくなっていた――そう、博俊は気が付いてしまっていた。
「いや……それで、いいんだ」
 言葉に詰まり、追い詰められたような表情になった博俊に、そう云って織雪は笑ってみせた。
「……?」
 そんな織雪の様子に博俊は、よくわからない、といった表情になる。
「誰かを好きになるのに、いちいち理由なんてない――そんな理屈を考えているうちは、その恋はニセモノだよ」
 そう云って笑った織雪の表情からは、邪気が感じられず、博俊は、ほっ、とした気分になった。
 とりあえず……合格できたらしい。
 そう思った博俊が、かるく息をついたとき、ふいに織雪が意地のわるい笑みを浮かべた。
「さて……それでは、次の質問に移りたいんだが?」
 一度は解かれた博俊の緊張の糸が、ふたたび絞られる――博俊は、自分の胃が、きりり、と音をたてたのが、たしかに聞こえたような気分になり、落ち着きを取り戻したはずの心臓が、ふたたび高鳴りはじめたことを意識せざるを得なかった。
そして――。

「な……そんな!?」
 その質問をされた博俊は、思わずその場で立ち上がってしまい――それから、途方にくれたような表情でふたたび、ぺたん、とその場に腰をおろした。
「簡単な質問だよ? そんなに驚くことはない」
 そう云ってから、ふっ、と織雪は笑みを浮かべた。
「簡単な質問だ――もう一度訊ねてみよう……瀬川くん、きみは香織を抱きたいと思ったことはあるかい? いや、抱きたいとまではいかなくても……そうだな、そうした欲求の対象として香織を見たことはあるのかい?」
 もう一度――その、とんでもない質問をした織雪は、笑顔のままで博俊を見つめた。
「それは……」
 織雪に見つめられた博俊は、まるで断首台に載せられた咎人のように、その頭をうなだれた。
 博俊にしても、十代の少年であり……思春期の少年である以上、欲望とは無縁であるはずはなかった。
 だが……それとおなじように、香織のことを――大切な女の子のことを、そんな風に見てしまう自分に嫌悪感も感じていた。
 逃れられない罪状とその罪に対する自責と釈明……それらに気持ちを引き裂かれながら、それでも――なんとか、博俊は顔をあげた。
「はい……あります。でも、彼女に対して――彼女が望まなければ、そんなことは決してしません」
 苦しそうにそう云った博俊を見て、織雪はかるく息をついてから――かぶりを振ってみせた。
「!」
 そんな織雪の仕種を見て顔色を変えた博俊に、織雪は、落ち着きなさい、と声をかけた。
「きみは……香織のことが好きなんだろう?」
「……はい」
 話の展開についていけない博俊がうなずいたのを見て、織雪は満足そうにうなずき返した。
「それなら、あの子を抱きたいと思うのは、あたりまえじゃないか? なにをそんなに怯えているんだい?」
 そう云ってから、ふいに織雪は博俊を指差した。
「男が自分を好きになってくれた女を抱かないのは、興味がないときと、その女を抱くことによって生じる責任が怖いときだけだ――いろんな理由をつける奴もいる……だが、俺はそう思っている」
「……」
「だから、きみ――瀬川くんにも、本気を見せてもらいたい。香織を好きだというのなら……」
 織雪の言葉に、それまで蒼白だった博俊の顔に、さあっ、と朱が走った。
「ちょ……ちょっとまってください! そんな――いきなり!」
「だから! 落ち着いて、人の話を最後まで聞きなさい」
 いきりたちそうになった博俊をなだめながら、織雪は、やれやれ、とでも云いたげに、大仰なため息をついてみせた。
「なにごとにも順番はある……それぐらいは、わかっているよ。だいいち――あの香織を押し倒したりすれば、それこそ香織の方が気絶ぐらいしかねないからな……そこでだ、とりあえずは最初の段階をこなしてくれ――それができたら、きみのことを認めてあげよう」
「最初の段階って……」
 あまりの織雪の言葉に、なかば茫然自失となった博俊がつぶやいた。
 それを聞いて織雪は、やれやれ、とでも云いたげに肩をすくめてみせた。
 そして……ずい、と博俊のそばまで近寄ってから、織雪は博俊の耳元に囁いた。
  ――くちづけだよ、簡単だろう?――
 それを聞いた博俊は、なにかが自分のなかで、がらがらと崩れていく音を聞いたような気がした。
「そんなに気負うことはないさ――ま、がんばってくれたまえ」
 博俊を茫然自失の状態から、さらにその先まで叩き落とした張本人――織雪は、それだけを云うと、部屋に入ってきたときとおなじように、音もなくその姿を宙に消した。
 いったい、どうやってそんなことをすればいいんだろう?
 招かれざる客の立ち去った自分の部屋のなかで、解答を導き出せそうにもない難問を抱え込んだ博俊は、そのまま頭を抱え込んでしまった。
 ほんとに、どうすればいいんだろう?
 デートの約束が、明日にせまっていた。

sec6.Fin

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