「夢の月劇場」開設記念〜不定期連載小説〜
「忘れられない理由」 sec7
作:DREAM・MOON
第七話
平日の午前中ということもあり、美術館には人が少なかった。
前売りで買ってあったチケットを出して入館してから、香織と博俊は、ゆっくりと美術館の展示を見てまわった。
印象派を中心に集められた展示はやさしい雰囲気のものが多く、観るものに穏やかな気分を提供してくれる。
香織たちも、ゆっくりと展示を観てまわり――ひとつの絵のまえでその印象について語り合ったり、館内にある長椅子で休んだりしながら、その雰囲気を愉しんでいた。
ずっと楽しみにしていた展示を観ながら、香織はほんとうに嬉しそうだった。
はしゃいだり、騒いだりするわけではない……ときおり、じっと絵に見入りながら、ふぅ、とかるく息をついたりしているが、そんな彼女の仕種が、とても満足しているときのものだということを博俊は知っていた。
よかったな……。
正直なところ香織ほどには純粋に展示を愉しんでいられなかった博俊は、そんな彼女の様子を見て、いくらか気持ちが安らぐのを感じていた。
これでいいじゃないか……。
ふと、そんなことを思う。
昨日の夜の言葉が、思い出される――一晩中、悩まされた言葉だった。
本気を見せてもらいたい……。
博俊は、香織が好きだった――うまく説明はできないが、それだけは自信があった。
本気なら、抱きたいと思うはずだ――その織雪の言葉が間違っているとは思わない。
実際に、今日のようにきれいな香織を見れば、博俊だっていくらかそうした気分になってしまう。
でも――そんな気分よりも、ふたりで一緒にいるときのこの空気を共有しているほうが……もっと大切で、幸せなことに感じられてしまうのだ。
「瀬川くん?」
もの想いに耽っていた博俊は、香織に声をかけられて、あわてて我に返った。
「あ……ごめん」
「どうしたの?」
「なんでもない――やさしい絵が揃ってるな……印象派の絵、ってこんな感じなんだ」
まさか思っていたことをそのまま云うわけにもいかず、博俊はちょうど立っていた場所のまえの絵に、そう云って見入るふりをした。
「……うん。だから、好きなの――ただ、やさしすぎて悲しくなるような絵もあるけれど」
疑問は消えなかったが、とりあえずそう云って香織は博俊と会話をあわせた。
いつでも、香織は博俊を追い込むようなことはしなかった――生来のさっぱりした性格ゆえか、博俊を想っているからそうしてくれているのか?
どちらにせよ、そうした香織の態度はいつも博俊の気持ちを落ち着かせてくれるのだ――そのことが博俊には嬉しかったし、そんなときに強く感じる――彼女が自分にとってどれだけ大切な人なのかを。
自分にとって香織がどれだけ大切な相手なのか――それはよくわかっている。
ただ、彼女にとって自分の存在がどれだけ大切なものなのか……それはわからない。
ただ、彼女が自分のことを想ってくれているのは、間違いない――それは、つい先日の一件でもわかる。
彼女は自分のために泣いてくれていたのだから。
自分の横で、熱心に絵を観ている香織の横顔をそっと見てから、博俊は心のなかで、そっとため息をついた。
僕は……どうすればいいんだろう?
香織と博俊が美術館を出たのは、昼もなかばを過ぎたころだった。
ちょうど時間帯をはずしたおかげで、ふたりで昼食のために入ったパスタ屋は空いていた。
遅めの昼食をゆっくりと食べてから、ふたりはいろいろな店を見てまわった。
おたがいのいきつけにしている店をまわりながら、いつものように、たわいのない話をして過ごす。
いつもとおなじはずなのに、いつもとは違う空気――そして、いつもとおなじ安らぎ。
香織の態度はいつもと変わらないように見えた。
博俊も、いくらかぎこちないところはあったが、それでもいつもと変わらなく香織と話すことができた。
香織のおかげだったのかもしれない。
きょうの彼女はきれいだけれど……いつもの彼女でいてくれたから。
それに比べて、自分はいったいどうなんだ?
ふとそう考えて、博俊はため息を――きょういったい何度目になるのかわからないため息を、心のなかで、そっとついた。
「瀬川くん?」
「え?」
ふいにそう声をかけられて、博俊は香織に振り返った。
もう夕方になっていた。
街中からバスに乗り、ふたりの家がある住宅街にまで、戻ってきていた。
「なに?」
斜陽がまぶしくなり、ちょうど夕陽を背にした香織に振り返って、博俊は眩しさに目を細めた。
「ううん、なんでもない」
そう云ってから、香織は視線を博俊からそらし、ふたたび歩きはじめる。
「……」
バス停から、ふたりはすこし遠回りをしながら歩いていた。
ちょうど公園のそばを通りかかったとき、母と子のふたりづれとすれ違った。
まだ幼い子どもが母親になにかをせがみ、母親が笑ってそれをなだめている。
「かわいいね?」
「ああ……そうだな。望月、子ども好きなんだ?」
歩き去る親子を見ながら、香織がそう云ったのを聞いて、博俊がたずねると、香織は小首を傾げてみせた。
「ん……なんだか、ちいさい子を見ると、かまってあげないといけないような気になるの――それに、かわいいじゃない?」
「そうか……ちょっと休んでいこうか?」
「うん……」
なぜか、すこしさびしそうな表情でうなずいた香織を見て、博俊は香織に微笑んでみせた。
ふたりで公園のなかに入り、博俊は公園の入り口に設置してある自動販売機でジュースを買って、それを香織に渡した。
「はい――炭酸なしだったよな」
「ありがとう」
ふたりでベンチに腰を降ろし、博俊からジュースの缶を受け取りながら、香織はそう云って博俊に微笑んだ。
「疲れた?」
博俊がそうたずねると、香織はかるくかぶりを振り――そのままうつむいてしまう。
「――ごめんね。きょう、つきあわせちゃって」
「え?」
香織の言葉に、博俊は驚いて彼女のうつむいた横顔を見つめた。
「きょう……瀬川くん、なんだか元気がないっていうか、その……なにか気になることがあるような感じだったし――それなのに、わたしばっかり、はしゃいじゃって」
そう云ってから、香織はうつむいていた顔を上げた。
「……!」
その香織の表情を見て、博俊は思わずベンチから腰を上げそうになる。
「そんなこと……そんなことは、ないよ」
香織の儚げな笑みを見てしまい――そのまま彼女の身体を抱きしめてしまいそうになる衝動をかろうじて押さえてから、博俊はそう云って視線を落とした。
「その……どうすればいいのか、わからなかったんだ」
「え……?」
博俊の言葉に、今度は香織が驚いたような表情になる。
「いつも、学校で話をしているから――望月のこと、わかっているようなつもりになっていたのかもしれない。それが……きょうの望月を見て、なにも知らなかったのかもしれない、とか思ったんだ」
「……」
「びっくりしたんだよ――その、きょうみたいに……きれいな望月を見たことがなかったから」
そこまで云ってしまってから……。
博俊はそっと香織の表情を見ようと振り返った。
香織はうつむいていた――長くまっすぐな髪がその顔を隠してしまっているので、表情は読み取れない。
「……帰ろうか?」
香織の沈黙に耐えかねたように博俊がそう声をかけると、ふいに香織の手が博俊の手を取った。
「……望月?」
「ごめんなさい……でも、もうすこし――もうすこしだけ、一緒にいたいの」
長い髪に隠された香織の表情を窺い知ることはできなかったが、博俊は自分の手を掴んだ香織の華奢な手を握り返すと、そのまま浮かしかけた腰をベンチに戻した。
それからふたりは、何を話すわけでもなくそのままベンチに腰を降ろしていた。
まぶしかった夕陽が落ちて、公園から見下ろせる景色が薄暗くなり街の灯りが灯っていく。
最初は黙っていたふたりだったが、ぽつり、ぽつりときょうの美術展のことなどを話しはじめ、気がつくと、すっかりあたりは暗くなっていた。
「きょうは、ありがとう」
そして……。
ふたりの話がやっと途切れたころ、ぽつり、と香織はそうつぶやいて、博俊を見つめた。
「こっちこそ……」
そう云って、香織に振り返った博俊は、そのまま言葉に詰まってしまう。
香織が自分を見つめる――その表情に引き込まれてしまいそうになっていた。
無意識のうちに手が――身体が動く。
「あ……あの、瀬川くん?」
「……あ!」
気がつくと、博俊は香織の身体を抱きしめてしまっていた。
それまでとは違う距離に……香織がいた。
ほんの少し――不安そうな顔をしていた。
「香織……」
いっそ、このまま――そう考えて、博俊が香織のおとがいに手を掛けたとき……。
「――!」
ふいに香織が、びくっ、と身体を震わせた。
「あ……」
ふいに、博俊は我に返る。その瞬間に、香織を抱きしめていた博俊の腕が緩み、解放された香織は――そのままうつむいてしまった。
なにをしようとしていたんだろう?
わかりきっている――だが、衝動的で理解できなかった自分の行動に博俊がとまどっていると、ふいに隣に座っていた香織が立ち上がった。
「遅くなっちゃったね……帰ろう、瀬川くん?」
「……ああ」
なかば呆然として、立ち上がった香織を見た博俊は、ふいに愕然とした気持ちになった。
自分にむかって微笑んだ香織の瞳に、かすかに光るものを見てしまったような気がしたから。
「あしたから、学校だね」
そんな博俊の視線から逃れるように、そう云って香織は身体を翻し……それにつられるようにして、博俊はのろのろとベンチから立ち上がった。
後悔が――疲れた身体を余計に重たくしているように感じられた。 ゆっくりと歩きはじめた香織の背中を見た博俊は、心の中でおおきなため息を、ひとつ、ついた。
もう月が昇り始めていた。
「……ただいま」
玄関を開けたとき、ちょうど居間から出てきた母親に帰宅の挨拶をしてから、香織はそのまま靴を脱いで、二階への階段にむかった。
「おかえりなさい、愉しかった?」
「うん……きれいな絵がいっぱいあったし――でも、ちょっと疲れたかな?」
階段を昇りながらそう答えて、香織は母親に笑ってみせた。
「そう……よかったわね」
二階へ昇っていく香織にそう声をかけてから、美鈴はかるく首を傾げた。
「なにか……あったのかしらね?」
いつもとはすこし違う――元気がないときの笑い方だった。
「まさか、あのことでかしら?」
今朝、香織の出掛けに交わした織雪との会話を思い出して、美鈴はさきほどの香織とそっくりな仕種で、首を傾げた。
そうだとしても……そんなに心配することはなさそうね。
「わたしのときなんて……」
ふと、自分のはじめてのデートのときのことを思い出して、美鈴は、あらあら、とか云いながら、玄関先で赤くなった。
「年甲斐のないことを思い出してる場合じゃないわ」
ひとりで、ふふっ、と笑いながら、美鈴はふたたび居間の方へと戻っていった。
「どうして、こうなっちゃうのかなぁ?」
自分の部屋に入り、それまで被っていたベレー帽を机に放ってから、香織はそうつぶやいてそのままベッドに突っ伏した。
あのとき――そう、博俊に抱きしめられた瞬間、香織の思考はすっかり止まってしまっていた。
気がつくと、博俊の顔が目の前にあって……そこから先は、とりあえず逃げてしまった。
逃げてしまってから、いけない! と思いはしたものの、どうすることもできず……その場で泣き出してしまいそうだった。
「惜しいことしたかなぁ……」
考えてみれば、ムードは上々――なにより、あの博俊が女の子として自分に魅力を感じてくれていたのである。
うまくすれば、”お付き合い”を確実にステップアップできていたはずなのに……。
「やっぱり、わたしって――馬鹿なのかしら」
あんなことになってしまっては、博俊と顔を会わせるだけでも気まずい。
びっくりしたけど……でも、すこしは嬉しかったりもしたのに――。
「どうしてこんなに馬鹿なのよ……」
そこまでつぶやいてから、ふいに香織は自分の目頭が熱くなるのを感じた。
そうよ……せっかく、香織、って呼んでくれたのに……。
そう思い返して――どうにも歯止めがきかなくなってしまった。
そして……。
「うわぁぁん!」
初めてのデートに大失敗をしでかした香織は、そのままベッドの上でわんわんと泣き始めた。
長い夜になりそうだった。
僕はなにをしてしまったんだろう?
香織が部屋で泣きじゃくっている頃、博俊は――こちらもベッドに突っ伏して、どっぷりと自己嫌悪に陥っていた。
なにをしてしまったのか――いや、なにをしようとしていたのか……。
あんな人の云いなりになって、望月のことを何も考えていなかった――最低だ。
はあ、と深いため息をついたとき、ふいに窓ガラスを叩く音が聞こえた。
「……」
その音を聞いて、ベッドに突っ伏していた博俊は、のろのろと身体を起こした。
そのとき、顔を上げた博俊の眼は……完全に座っていた。sec7.Fin