「夢の月劇場」開設記念〜不定期連載小説〜
「忘れられない理由」 sec9
作:DREAM・MOON
第九話
さようなら……。
そう云って、その人はわたしに背を向けた。
引き留めたい――でも、引き留めてはならないのだ……。
わたしには……許されないことなのだ。
最近、夢見がわるかった。
いつも、同じ夢を――同じ人の夢を見る。
その人は誰かわからない……でも、その人が自分にとってどれだけ大切な人なのかは――わかっていた。
そう、わかっている……夢のなかの彼女は、彼を知っていた。
そして、きっと……。
「香織……?」
「……!」
ふいに声をかけられて、香織は我に返った。
声をかけられた方を見ると、博俊が心配そうな顔で側に立ち、椅子に座った自分を見つめていた。
「瀬川くん……ごめんなさい、なんだか最近夢見がわるくって。眠りが浅いのかな? ぼうっとしてたの」
そう云ってから、香織は博俊に笑顔を向けた。
あのデートの翌日から、博俊は香織のことを名前で呼んでくれるようになった。
もっとも、それ以上の変化があった訳ではない。
もしかすると、気まずくなってしまうのでは? という懸念が、ふたりの距離をそれ以前と変わらないものにしていたのかもしれない。
「そうか……どんな夢なの?」
織雪の告白を聞いてしまった博俊は、どうすればいいのか――織雪や香織に対して、どう接すればいいのか、わからなくなっていた。
だから、これまでと同じように……香織を好きだという、自分の気持ちに従って行動してきた。
どうなるにせよ、僕にできることはそれだけだ――そう思って、これまでと同じように香織に接してきたのだ。
「うん……ヘンな夢なの。誰かは、わからないけど、大切な人がいなくなっちゃう夢で……わたしは、その人を引き留めたいのに――いつも引き留められないの」
「香織……」
「ごめんね……わたしには、瀬川くんがいてくれるのに」
そう云ってから、香織は椅子に座ったまま上半身を傾け、側に立った博俊の身体に寄り掛かった。
そうよ――わたしには、瀬川くんがいてくれるのに……。
とまどいとも、苛立ちともつかぬ想いに、香織は心の中で、そっとため息をついた。
「僕がいる……僕は、香織の側にいるよ」
香織の肩を引き寄せながら、そう博俊が言葉を洩らした。
「恥ずかしい……な」
でも、もうちょっとだけ……。
上半身を博俊に預けたまま、香織はそう思って、そっと瞼を閉じた。
その気配を感じて、社の中に座していたその人物は立ち上がり振り返った。
「おかえりなさい」
そう云ってから、おキツネさまは、すこし離れた場所に座した人物に声をかけた。
「ただいま戻りました」
そう云ってから彼――織雪は丁寧に頭を垂れた。
「お言葉に甘えてしまって、申し訳ありませんでした。西の大御神さまはお元気でしたか?」
本来であれば、おキツネさまが出掛ける予定だったのだが、数日前にちょうどおキツネさまのもとを訪れていた織雪が、その代役を買って出てくれたのだ。
おキツネさまがそうたずねると、織雪は穏やかな表情で彼女の言葉にうなずいた。
「はい――おキツネさまによろしく、とのことでした。それから……例の件については、承知した、と」
織雪にはわからない――知らされていない話だった。だが、それだけ伝えてくれればよい、ということだったので、織雪は、ありのままをおキツネさまに伝えた。
「そうですか――ありがとうございました」
満足そうにそう云ってから、おキツネさまは織雪にうなずいてみせた。
「はやく香織さんのところへ帰ってあげてください――彼女はきっと、貴方の帰宅を待っていますよ?」
いたずらっぽく、おキツネさまがそう言葉を繋げると――。
「……そのことで、貴女にご相談したいことがあったのですが」
そう云って、織雪はおキツネさまの顔を正面から見つめた。
「――うかがいましょう」
織雪のいつにない真摯な様子に、おキツネさまは自身のたたずまいを正し、背筋を伸ばしてその場に座った。
そんなおキツネさまの態度を見て、織雪はもう一度、丁寧に頭を下げた。
自分の部屋に戻ってきた香織は、制服から部屋着に着替えると、ばふっ、と枕に倒れ込んだ。
「……」
枕に顔を押し付け、そのままかぶりを振る。
やだな……まだ顔が火照ってる。
両腕で抱えるようにして枕を抱いたまま、香織はため息をついた。
あの後のことだった――そう、夕暮れの文化祭準備室でのことだ。
「恥ずかしい……」
そうつぶやいて、香織はふたたびつよく枕に顔を埋める。
でも……嬉しかった。
恥ずかしかったけれど――もっと、嬉しかった。
土曜日の午後、それも夕暮れということもあり、準備室にいたのは、香織と博俊――ふたりきりだった。
たわいのない話をしていて遅くなってしまった。
そろそろ、帰ろうか?
どちらともなくそう云って、椅子から立ち上がったとき……博俊に抱きしめられた。
最初のデートのときのように、いきなりではなかった。
あくまでもやさしく、ゆっくりと博俊は抱きしめてくれた。
そして――。
ファースト・キスだった。
どこまでも、やさしい、触れるだけの……。
「うぅ……だめだ」
自然なことだったと思う。
だが、こうして思い返すと――たまらなく、恥ずかしかった。
ベッドの上でうなりながら、香織はなんとか思考を逸らそうとした。
思い返せば返すほど……恥ずかしくなってしまうのだ。
このままだと、帰り際に約束したあしたのデートになんて、とても出掛けられたものではない。
でも、こんなこと……誰に相談すればいいのか?
「……お兄ちゃん」
ふと、そうつぶやいてから、香織はますます顔を赤らめた。
こんなこと、織雪お兄ちゃんにだって、相談できるわけがない……。
そう考えてから、ふと香織は疑問を浮かべた。
そう云えば、ここ何日か見かけないけど――何処に行っちゃったんだろう?
これまでも、何日か家を空けることはあった。
だが……。
「ヘンな夢ばかり、見てるからかなぁ?」
そうつぶやいてから、香織はふたたびため息をついた。
「なんとおっしゃいました?」
そう云って、おキツネさまは、織雪を見る目を細めた。
「わたしを――殺してください」
もう一度その言葉を繰り返して、織雪は穏やかな笑みをおキツネさまに向けた。
「あの子――香織は、もう幸せを手に入れたのです。彼女は昔を忘れ……許されました。忘れられないのは罪と罰です――わたしにも、許しを頂きとうございます」
「……」
「おキツネさま……貴女さまとの約束は、彼女の魂を持って産まれてくる娘を幸せにすることでした――香織はもう幸せになったのです」
織雪の言葉に迷いはなかった。
「忘れられないのは、罪や罰ではありません――その想いが本物だからです」
そう云って、織雪の姿を見つめていたおキツネさまは、長い睫を伏せた。
「香織さん――絢姫どのの魂を持って産まれた彼女も、貴方のことを忘れているわけではないのですよ?」
「ですが……」
「たしかに……今の彼女が、そのことを思い出すことはないでしょう。でも、本物の想いというのは――けして失われるものではないのですよ?」
かるくかぶりを振ってから、おキツネさまは諭すようにそう言葉を重ねた。
そんなおキツネさまに、ふたたび織雪は微笑んでみせた。
「思い出さずに済むのであれば、その方がよいのです。そして――わたしには、もうすることなど残ってはいないのです」
「織雪どの……」
「まだ……死んではいけないのでしょうか?」
そう云ってから、織雪は袖口から背中にかけて隠し持っていた一本の太刀を目前に差し出した。
「……」
その太刀を見て、おキツネさまは言葉を失った――それはかつて、彼女のもとに奉じられた太刀だった。
「忘れられない理由がありました……ですが、それも彼女の魂をもったあの子が幸せになってくれた今……必要のないものとなったのです」
「織雪どの……」
「千年の時を経ても、彼女への想いは変わりません。そして、これからも変わることはないでしょう……香織が、彼女の人生を全うして――それから、わたしはどうなるのでしょう? また、あの長かった幾千夜の月を眺めて待つのでしょうか?」
人として、千年の時を経てきた織雪の魂は――彼自身の消滅を希んでいた。
これでは、なにも変わっていないではないか……。
そう思って、おキツネさまはふたたびかぶりを振ってみせた。
このまま織雪を黄泉路へと送れば、彼の魂がふたたびそこから出てくることはないだろう。
それでは、彼が過ごしたこの幾千の昼と夜はなんだったのか……。 もしかすると、わたしは過ちを犯してしまったのかもしれない。
ふとそんなことを考えてから、おキツネさまはあわててその考えを追い払った。
「貴方も幸せにならなければならないのです……」
そうつぶやいてから、おキツネさまは、なにかを決心したように、その瞼を開けて、ふたたび織雪を見つめた。
「祠を知っていますね?」
突然の質問に、織雪は怪訝そうにうなずいてみせた。
「はい……この社が築かれる以前にあった――」
「そうです。あの祠のなかに、かつてわたしが使っていた部屋があります――そこにお行きなさい。そして、そこで一晩、考えなさい。これは……織雪どの、貴方の主としての命令です。それから、その太刀はわたしが預かっておきます――よろしいですね?」
おキツネさまの口調は断固としたものだった――織雪は無言のままその言葉にうなずくと、その手に持っていた太刀に両手を添えて、それをそのままおキツネさまの前に差し出した。
おキツネさまが腰をあげ、それを受け取ると、織雪はその場に平伏し――そのままその姿を社の中から消した。
「やはり、彼女でなければならないのか……」
織雪が姿を消した社のなかで、ぽつり、とそうつぶやいてから、おキツネさまは、さびしげな笑顔を浮かべた。
いや……それは、最初からわかっていたのかもしれない。
ただ、その結果がどうなるのか?
それは、おキツネさまにもわからなかった。
「どうなるにせよ……賽は振られたのだ」
そうつぶやいてから、おキツネさまはその表情を引き締めた。
信じるほかはなかった――彼女はその可能性に賭けたのだから。
「急がねばなるまい」
そう云って虚空を睨んだ彼女の瞳には、もう迷いは残っていなかった。
賽は振られたのだ。
さようなら……。
そう云って、その人はわたしに背を向けた。
また同じ夢だった。
どうして――どうしてこんな夢を見るんだろう?
夢の中で、香織はそう思い――ふと、誰かの気配を感じた。
あれ……?
その場で振り返ろうとした香織は、ふいに自分のそばに誰かがいるのを感じた。
座っている――そう、自分も座っているのだ。
芝生のような場所に、両脚を投げ出して座っている。
「あの……」
自分の横に座っている人物に香織はおそるおそる声をかけた。
「知りたいか?」
そう云って、その人物はゆっくりと香織に振り返り、香織は思わず息を呑んだ。
美しい人だった。
古風な衣装に身を包んだその女性は、細く卵型の小さな顔で、切れ長の少し吊り上った目元が印象的だった。
「この先を知れば、そなたはきっと辛かったことを思い出す――その痛みは、生半可のものではないぞ?」
「……」
「そのかわり、そなたにとって大切だったことも思い出せるだろう……選ぶのは、そなたじゃ」
「わたしは……」
その女性はぜんぜん知らない人だった。それなのに、香織は自然にそう言葉を続けていた。
「知らないといけない――思い出さないといけないような気がするんです」
香織の言葉を聞いて、その女性はおだやかな笑みを香織に向けた。
「辛い思い出だぞ?」
その女性のやさしい瞳に見つめられて、香織はなんだか気恥ずかしくなって視線を落とした。
「それでも……忘れてはいけないことだったような気がするんです。だから……」
「それを知ることは、本来、人に許されたことではない」
「……」
「なぜなら……過去を背負い続けることは、あまりにも重い枷となるからだ。それでも、そなたは知りたいと願うのか?」
美しい女性の言葉に、香織は畏れを感じた。
だが――。
「教えてください――わたしは、知らなければならないと思うんです」
そう云って、彼女を見つめた香織の瞳に迷いはなかった。
「そうか……」
香織の返事を聞いて、その女性はもう一度、微笑みを浮かべた。
「それでは、思い出すがよい――そなたにとって、大切な思い出と――忘れられぬ理由をな」
そして、香織は――自分がふたたび、もとの場所に戻っていくのを感じた。
あの夢の中に戻っていくのを感じていた。
あの美しい女性は、過去だと云った――辛い思い出だとも云っていた。
だが香織には、それが大切なものに感じられてしょうがなかったのだ。
そう――彼女も、大切な思い出だと云っていたではないか……。
まどろみにも似た意識の混沌に落ちて行きながら、香織はひとつの決心をしていた。
逃げない――わたしは、逃げてはいけないんだ。
なぜそう思ったのかは、わからない。
だが、香織はそのことを確信していた。
そして、それを思い出せは、その理由もあきらかになるはずだった。
大丈夫――夢の中で、そう自分に言い聞かせながら、香織はふたたびまどろみの客人となっていった。sec9.Fin