「夢の月劇場」不定期連載小説 〜第2弾〜

「夢の舟」 sec1

作:DREAM・MOON


→Back to The Contents

序章

 黎明と呼ぶにはまだはやい――そんな暗がりのなかで、彼女は目を覚ました。
 寝起きにしては、はっきりとした意識で、傍らで自分を抱くようにして眠っている男に視線をやり――苦笑を洩らすようにして、彼女は息をついた。
 彼女が枕としていた男の腕にそっと視線を落として、もう一度――今度はかるく笑みを見せて、息をつく。
 その腕は逞しく、彼女の身体をしっかりと支えてくれるものだった。
 優男だと思っていたのに……それでもやはり――男なのだな。
 そう思ってから、男を起こしてしまわないようにゆっくりとベッドの上で身体を起こし、彼女は隣で眠る男の顔を見降ろした。
 その寝顔はとても安らかで――しあわせそうなものだった。
 これでは、とても英邁な王とは思えぬな。
 即位してからの月日はそんなに長いものではなかったが、彼の王の風評はけしてわるいものではなかった。
 幼なじみであり、今では一国の主となったまだ若い王の寝顔を見ながら、彼女は、くすり、と笑みをこぼした。
 そうしていると……まるであの日に帰るようだった――おたがいに自由で、おたがいを友として遊んだあの日々に……。
 やはり、わたしはこの男を愛している……。
 そう思ってから、彼女はもういちど笑みを浮かべた。
 だがその笑顔は、どこか寂しさと憂いを秘めたものだった。
 昏かった空がすこしづつ明るくなってくる。
 すっかり明けてしまうまえに、男を起こしてやる必要があった。
 夜明けが近づいていた。

 セイレン神と同じ名で呼ばれるアイレル王国の都――セイリア。
 そのセイリアの街の東に、その神殿――セイレン神殿があった。
 旧くからの歴史を纏ってはいるものの、荘厳で美しい神殿である。
 もっとも、この国の守り神にして、もっともその信仰を民より集めるセイレン神の館であれば、それは当然のことであったかもしれない。
 その日は一日中忙しく、彼女――歳若くしてセイレン神殿の長となった彼女には、辛い一日となった。
「それでは、おやすみなさいませ……リンファさま」
 彼女の先代から仕えてくれている侍従が、そう云って部屋を辞したのを確認してから、彼女――リンファ・ソム・セイレンは、ふかく息をつき、ゆっくりと寝椅子にその身体を預けた。
 ソムとは、闇である――光り輝く女神、セイレンにもっとも近しく仕える神官長家の名に付くには、いささか不似合いな冠であったが、光に従うゆえに闇であり……闇の中にこそ、人の性もまた住まうものなのだ、とリンファは亡き両親から教えられた。
「ソム・セイレン……人の荷う業こそ我が名か」
 疲れた身体を寝椅子に預けたまま、リンファはそうつぶやき、ため息ともつかぬ息をついてから、ゆっくりとその両目を閉じた。
 抱かれたことに、後悔はない……だが、この割り切れぬ想いは何なのか――。
 わかりきったことであるにもかかわらず、そう思ってから、リンファは薄く目を開けて苦笑を浮かべた。
 わたしは……自身で思っているよりも、夢に惑う性質なのだな。
 彼の男には妻があり、自身はけして彼の男の妻にはなれない――その事実が重いのだ。
 そう、まるで咎人に付けられる重い枷のように。
 こうなることは、わかっていた――だが、彼の男に求められたわたしには、それを拒むことができなかった……いや、できたのかもしれない。
 だが、わたしは抱かれることを選んだのだ……愛した男と褥を共にすることを。
 それなのに――。
「滑稽だな……」
 そうつぶやいて、リンファはふたたび、その目を閉じた。
 これではまるで悲劇の主人公気取りではないか――自身を求めてきた相手に身体を与えてやっただけのことだというのに……。
 そして、自身の心は――とっくの昔から、彼の男のものだったのだから。
 夜も更け――ランプの灯りに照らされた部屋のなかで、彼女はそのまま眠りへと引き込まれていった。

第一話

 そこから見えるのは、ただ白いもやばかりで――時折、船腹を叩く波の音と、凪いではいてもかすかに揺れる甲板から伝わってくる感覚がなければ、どこに居るのかもわからなくなってしまいそうな場所だった。
 よく磨き込まれた船縁の手摺に両手を掛けて、白いもやと見えぬ波間に視線を向けながら、リンファは人知れず、そっとため息をついた。
 夢に惑うとは……わたしは本当にどうかしてしまっているのだな。
 他人ごとのようにそう考えてから、リンファは体重を船縁の手摺に預けて、ゆっくりと目を閉じた。
 ここが夢の場所だということはわかっていた――ふつうの夢にしては、感覚が奇妙に研ぎ澄まされてはいるが……いや、それゆえに、常ならぬ神経の鋭敏化によってこそ、この場所が現世とは隔絶された場所なのだということに、リンファは気付いていた。
 わたしの心を夢魔が捉えたとでもいうのだろうか?
 そう考えてから、瞼を閉じたままのリンファは、くすり、と笑みをこぼした。
 セイレンの乙女……セイレン神に仕える女官のなかでも、もっとも高位にある自分を夢魔が捉えることなど、到底無理な話だった。 なにより……この夢には、そうした意志が感じられなかった。
 そう――それは、まるで……。
「招かれたのですよ」
「!」
 ふいに自分に向かって掛けられた声を聞いて、リンファは緊張した面持ちで瞼を開き、振り返った。
「こんばんは」
「……こんばんは」
 自分にむかって挨拶をしてきた男性に、とりあえず挨拶を返してから、リンファは怪訝そうな表情になる。
 こんばんは、という挨拶を使うには、明るすぎたのだ――甲板の上は確かに薄暗いが、それでも夜の帳に光りが覆い隠されていたりはしない。
 甲板の周囲にも、ランプのようなものは見当たらなかった。
 それなのに……。
「ここは、夢の中なのですか?」
 だが、彼女の口から出たのは、もっとありふれた疑問だった。
 その疑問に対して、その男性はおもしろそうに両目を大きく見開いてみせた。
「貴女にとっては、夢の中かもしれません――ですが、わたしにとっては、ここが現実です。そして、貴女にとっても、ここは――現実の一部かもしれませんよ?」
 そう云ってから、その男性はいたずらっぽい笑みを浮かべる――帽子を被り、自分よりはだいぶ年上だと見えたその男性が、そんな表情になると、途端に年齢不祥な雰囲気となり、リンファはとまどいと興味を覚えさせられた。
「ようこそ、夢の舟へ」
 リンファの沈黙をどう受け取ったのか……そう云って、その男性は礼儀正しく片手を胸に添えて腰を折って歓迎の意を示した。
「わたしはこの舟の船長です」
 そう云って、穏やかな笑みを浮かべた男性――船長と名乗ったその男性に、リンファはかるく腰を落として返礼をした。
「リンファ・ソム・セイレン――セイレンの巫女です」
 そう名乗ったリンファの言葉に、船長が言葉を繋いだ。
「……そして、真実の鑑定人でいらっしゃる」
「……」
 怪訝そうな……もしくは、不信そうな表情がリンファの顔に浮かんだのを見て――船長はかるくかぶりを振ってみせた。
「この舟が教えてくれるのですよ……お客さまのことをね。わたしは――貴女のことを存じ上げてはいないし……貴女に対して、なにかを求めようとも思いません」
「お客さま?」
 まだいくらか疑問を胸に抱えたような表情でそう訊ねたリンファに、船長はゆっくりとうなずいてみせた。
「そうです……貴女はこの舟に招かれたお客さまだ――この舟は迷いある人が立ち寄り、そして去っていく場所なのです」
「……なぜ舟なのですか?」
 リンファの質問に、船長は、おや? という表情になった。
「わたしは……船に乗ったことはありません。でも、きっとこの船は大きな船なのではありませんか?」
「そうですね……時と場所にもよるのでしょうが――たしかにこの舟は大きな船です……ですが、この舟が漂う海の広大さを考えれば、やはりこの舟は舟なのですよ」
 そう云ってから、愉しげに船長は忍び笑いを漏らした。
「貴女はやはり、この舟に招かれたお客さまだ……そのような質問をされるとは、思ってもいませんでした」
「……わたしは、たしかにこの舟に乗っています。それなのに、この舟や貴方……船長さんの存在を疑っても、仕方がないでしょう」
 船長が予想していた質問とは、おそらくそうしたことなのではないか? そう思ってリンファが微笑みながらそう云ってみせると、船長はどこか気恥ずかしそうに、その頭にあった帽子を被り直した。
「そうでした……貴女は真実の鑑定人と呼ばれる方だった」
 そう云って、今度は声を上げて、船長は笑った。
「……でも、真実とは何でしょう?」
 船長の笑い声を聞きながら、ふいに、ぽつり、とリンファがつぶやいた。
「たしかにわたしは……幾らかの事実を見極める力を頂いています……でも、その力はけして道を――たどるべき道を示してくれるものではありません」
 そう言葉を続けてから、リンファは息をついてみせた。
「わたしは……過ちを犯しました。でも……それは、わたしの心にある事実に従ってのことだったのです。でも、そのわたしの心と行動が……真実と呼ぶに値するものなのかどうか、そんなことすら、わたしにはわかりません」
「この舟は……迷える人を招くのです――貴女は、そのことで……その事実に迷いを持たれているのですか?」
「どうなのでしょう? これからのこと……自身の進むべき方向について迷いがあるのかもしれません」
 儚げな笑みを浮かべて、そう云ったリンファに向かって、船長は穏やかな笑みを浮かべた。
「それならば、貴女の心にあるものは――真実なのでしょう。それとも……真実であるがゆえに、貴女をそんなにも苦しめるのでしょうか?」
「わかりません……」
 その言葉は嘘だった――そのことに気付きながらも、船長は、そうですか、と何事もなかったかのように、調子を合わせた。
「この舟には、船長……貴方しかいらっしゃらないのですか?」
 ほんのすこし……ふたりのあいだに沈黙が流れてしまったことを詫びるように、リンファはそう船長に訊ねていた。
 おかしな質問だった――これだけの大きさの船に、乗員がひとりしかいないということは……ありえないはずだった。
 だが、この舟には……人の気配というものがなかったのだ。
 とても静かで……いや、静かすぎるのだ。
  だが、穏やかな空気もそこにはあった。
 その穏やかさが、はたして船長の持つ雰囲気によるものなのか――それとも……。
「いいえ」
 船長の答えは簡潔だった――安心したような……そのくせどこか失望してしまったような複雑な気分で、リンファは、そうですか、と頷いてみせた。
「もうひとり、乗っていますよ」
「え……?」
 意外な言葉だった――もっとたくさんの人数がいるのかと、思ったのだ。
「普段はあまり……おや?」
 そう云って、船長が意外そうな声を出したとき……ふいにリンファは、自身の近くに誰かの気配を感じた。
「……まあ」
 小さな女の子だった――その子は小さな手でリンファのやわらかい神官服の裾を掴み、リンファの顔を見上げていた。
「こんばんは」
 その子を驚かさないように、ゆっくりと腰を落としたリンファは、くせのない髪を肩口で切り揃えたその女の子に、そっと挨拶をした。
「……こんばんは」
 リンファに見つめられて、いくらか緊張した面持ちになったその女の子は、とても小さな声でそう挨拶を返してから、音もなくリンファのもとから動いて、船長の身体のうしろに隠れた。
「めずらしいこともあるものです……この子は、この舟の舵を取ってくれているのですが、めったにお客さまのまえには姿を現わさないのですよ……」
 そんな説明をする船長の顔を見上げていたその女の子は、どこかはにかんだような笑顔をリンファに見せてから――すっ、と、まるで空気に溶けていくようにその姿を消した。
「あんなかわいらしい子が……この舟の?」
「ええ、いい腕をしているのですよ?」
 そう云って、愛しげにその子が消えた場所に視線を降ろした船長を見て、しゃがんでいた姿勢から立ち上がりながら、リンファは笑みをこぼした。
「あの子は、わたしよりもこの舟に近いところにいるのです」
「船長である貴方よりも?」
 すこしからかうように、リンファがそう訊ねると、船長は苦笑を浮かべた。
「ええ……あの子の心は、この舟と繋がっているのです。ですから、あの子が微笑んでいるときは、この舟も喜び……あの子が泣いているときは――この舟も悲しんでいるのです」
 そう云って船長は笑顔をリンファに向ける。
「ですから、きょうはこの舟も喜んでいるのですよ。貴女をお迎えできたことを」
 船長の言葉に、リンファは黙って笑顔を浮かべることで、礼を述べた。
 それからふたりは、船縁の手摺に身体を預け、ゆっくりと揺らぐ甲板のうえで、静かな時を過ごした。
 それは、そんなに長い時間でもなかったはずなのに、なぜかリンファは自身の心が安らいでいくのを感じていた。
「ひとつだけ……質問があるのですけれど」
 そのまま眠りに落ちていきそうな心地よさのなかで、ふとリンファはその疑問を口にした。
「ここの夜はどうしてこんなに……明るいのですか?」
 昼間のような明るさではないにせよ、この舟の甲板には、薄明のような明るさがあった―― もっとも、白いもやのようなものが流れていて、遠くを窺い知ることはできなかったが……。
 ランプのようなものが灯っている気配はない――それなのに、なぜかしら、甲板の上だけが明るいのだ。
「ここには……昼も夜もないのですよ」
「……」
「ただ、ここを訪れる方は――その殆どが、その方たちにとっての夜に来られるのです。ですから、この舟の上での挨拶は、いつも夜の挨拶なのですよ」
 船長の説明を聞きながら、なるほど、とリンファは納得し――そんな説明に納得している自分のことを可笑しく感じながら、ゆっくりとその双眸を閉じた。
 時折、やさしく流れていく香りを纏った風が、心地よい刺激を与えてくれる。
「貴女は……またこの舟に来られるかもしれない」
 なかば途切れそうになった意識に、そんな船長の言葉が聞こえてきた。
 だが、それに答えを返そうとしたのも束の間――リンファの意識は、ふたたび深い眠りの中へと誘われていった。

sec1 Fin

To:「夢の舟」 sec2