「夢の月劇場」不定期連載小説 〜第2弾〜
「夢の舟」 sec2
作:DREAM・MOON
第二話
それにしても、奇妙な夢を見たものだ……。
午前中の参拝者たちとの会見を済ませ、昼食のために本殿を後にしようとしていたリンファは、ふと昨晩の夢を思い出して――ひとり笑みを浮かべた。
あの舟はいったい何だったのか……現世のものではないのだろうが、不思議な存在感があった。
夢から覚めた今となっても――あの舟でもたれた手摺の感覚を、はっきりと思い出すことができた。
迷いある人が立ち寄り、そして去っていく場所なのです……ふと、夢の中で――船長が云っていた言葉を思い出し、リンファは苦笑いを浮かべた。
わたしには、迷いがあるのだろうか?
そう自問してから、リンファはそっとかぶりを振った。
迷ってはいない――これ以上は……。
中庭を抜けて、本殿の横にある自身の屋敷に向かっていたリンファは、気がつくと――歩きすぎて、中庭を突っ切ってしまっていた。
わたしは……何をしているのだ?
宮殿のそれと比べれば狭いとはいえ、国でも随一の規模を誇るセイリア神殿の中庭である――そんな広い庭の中をぼんやりと通り過ぎてしまったというのは……。
「たしかに……気持ちを静める必要があるのかもしれない」
ため息まじりに、そうつぶやいてから――リンファは自分が歩いてきたのであろう中庭を、踵を返して戻りはじめた。
祈ろう……きっとそれが、わたしにできる最善のことなのだから。
本殿の中にある礼拝堂にむかって歩いていったリンファは、中庭を抜け――本殿の建物に入ろうかというところで、その脚をとめた。
「……?」
ちょうどそのとき、見ただけでそれとわかる――品のある女性が、本殿から伸びた参拝者のための幅広な階段を降りていた。
フード付きの上衣を纏っているためにその様子を窺い知ることはできなかったが、その歩調や付き添った者の様子から――後ろ姿からだけでも、まだ若い婦人であるのだろう、ということは想像ができた。
身分ある者であれば、己の権利と――礼儀として、この神殿の長であるリンファに面会を求めてくるはずである。
それもはじめての参拝であれば、なおさらのこと……だが、リンファにはその後ろ姿に心当たりがなかった。
声を掛けるべきか?
ほんのすこし――リンファが逡巡している間に、その女性と付き添いの者は、すっかり階段を降りてしまっていた。
誰なのだろう?
声を掛けられなかったことに、いくらかとまどいを覚えながら、リンファはもう一度ため息をついた。
やはり……気持ちを静めなければ……。
すっかり沈んでしまった気分でそう思い、リンファは去っていく人の姿に背を向けて、ふたたび本殿の中へと戻って行った。
いつものように侍従から就寝の挨拶を受けて、リンファは自身の私室に戻ってきた。
もうすっかり夜の帳が下りていた。
毎日の生活であるのに、どこかしら造り物めいた印象が離れない――もう何年も続けてきた生活であったのに、毎日の所作がとてもよそよそしいものに感じられてしまうのだ。
理由はわかっていた。
迷っているからだ――どれだけ否定したところで、自分自身の中に迷いがあるせいだった。
迷ってはいない……その言葉は正しくない――迷ってはいけないことを知っているだけだ。
しょせん人は己に嘘をつくことはできぬ……。
自嘲気味にそう思ってから、リンファは冷たい笑みを浮かべた。
寝椅子に身体を預け――就寝の挨拶をするまえに侍従が持ってきてくれていた果実酒の壷を寝椅子の横に置かれた低いサイドテーブルから取り上げたリンファは、一緒に用意してくれていたグラスにその中身を注ぎ、淡い朱色の果実酒をかるくあおった。
そう……わたしは迷っている――だが、迷ったところでどうなるというのか?
「わたしには、どうしようもないことだ……」
ひとりきりの部屋の中で、ぽつり、とリンファがそうつぶやいたとき……ふいに開け放してあった窓のカーテンが揺れた。
風はなかった――それまで自身の想いに耽っていたリンファは、ぼんやりとしていた自身の気持ちを引き締めた。
こんなところにまで……何者であろうか?
セイレン神殿の長が住まうこの屋敷に忍び込むのはたやすいことではない……幾重にも張り巡らされた術的な結界を潜り抜けてこなければならないのだから。
力ある神官たちによって守られたこの屋敷に忍び込むことができるものなどいるはずはない――ごく一部の特殊な例を除いては、だが。
寝椅子に預けていた身体をゆっくりと起こし、リンファはかるく息をついた。
「何者ですか? ここは私室です」
すっ、と背筋を伸ばし――揺れたカーテンに一瞥をくれてから、リンファは、はっきりとした声音でそのカーテンの向こうの人物に声を掛けた。
「出てきなさい……そして名乗りなさい――それが、せめてもの礼儀ではありませんか?」
ふたたびカーテンが揺れた――とりあえず話し合う余地はあるらしい、そう考えてリンファは心の中で緊張を緩めた。
害意ある者であれば、すぐに、逃げ出すか――己の仕事を果たそうとするだろう。
カーテンの向こうから感じられる人の気配には、迷いがあった。
「わたしをこの神殿の長と知って、この部屋に来たのでしょう? とりあえずその姿をお見せなさい」
落ち着いてはいるが、断固とした口調だった。
「もし……」
出て来ないのであれば……その言葉をリンファが口に出そうとしたとき、ふいにカーテンが大きく揺らめいた。
その人物は頭から身体をすっかり覆ってしまうようなフード付きの上衣を纏っていた。
部屋に灯されたランプの明かりだけでは、そのフードの下にある顔を窺い見ることはかなわなかったが、全体に華奢な身体の造りから――その人物が女性であることがわかった。
そして、リンファは彼女の姿に見覚えがあった。
「今日、礼拝に来られていた方ですね?」
姿を見せたその人物に、それまでとは異なるやわらかい口調でそう訊ねてから、リンファはゆっくりと寝椅子から立ち上がった。
「この部屋まで来られた、ということは……わたしに御用がおありなのでしょう?」
そう訊ねながら、リンファはその人物に微笑んでみせる。
よく見ると、フード付きの上衣がかすかに揺れていた――彼女、その人物は震えているようだった。
さて、どうしたものか……。
神殿の奥深くまで、誰に気付かれることもなく入ってきた人物である。
ただ者であるはずもないのだが――その様子からは、とてもそんな人物には見えない。
「とりあえず……その上衣を脱いでいただけませんか?」
あくまでも穏やかにそう云ってから、リンファはもう一度彼女に笑みを向けた。
「……」
リンファの言葉にも、その人物は黙ったままだった。
どれくらいの間、そうしていたのか――黙ったまま互いを見つめていたふたりの間に、窓から入ってきた風が流れた。
「失礼を致しました……」
その風が合図であったかのように、そう云って彼女――その人物は、自身が纏った上衣のフードに手を掛けた。
なんと……。
フードを取り、その下から現れた顔を見て――リンファは内心、驚きの声を上げた。
まだ若い、銀髪の娘だった。
まっすぐな銀髪を肩口できれいに切り揃えている――おそらく……自分よりも、五、六歳は若いのではないか? そう思ってから、まっすぐに自分を見つめてくるその娘の瞳をリンファは見つめ返した。
「事情があって、名乗ることはできませんが――リンファ・ソム・セイレンさま、貴女にお伺いしたいことがあり……無礼とは知りながら、こうして参上いたしました――お許しください」
そう云って彼女は丁寧に腰を折り、頭を垂れた。
そのとき、かすかに鈴のような音がした。
シャン……という軽い響きに、頭を垂れた娘は――驚いたように、あわてて上衣の上からその左腕を抱え込んだ。
なるほど……そういうことか――。
その音を聞いたリンファは、やっと彼女の素性に思い至った。
たしかに……そうであれば、誰にも気付かれずこの部屋まで来ることも出来るであろう。
そう思ってから、リンファは苦笑いを浮かべた。
一方、フードを取った娘は真っ青な表情でかすかにその身体を震わせていた。
そんな娘の様子を見て、リンファはかるく首を傾げてみせた。
「名乗れぬとおっしゃるのであれば……敢えてその名は問いますまい――わたしに訊ねたいことがある……そうおっしゃいましたね?」
「……」
「立ち話――という訳にもいかないでしょう。こちらにいらしてください」
夜着の襟元を直しながら、リンファは自室の隅にしつらえられた小さなテーブルに娘を招いた。
「さあ……こちらへ」
「……はい」
リンファに招かれて、銀髪の娘は強張った表情のままテーブルの側に向かった。
「お掛けになって」
「……はい」
リンファが引いた椅子に、彼女は丁寧に頷いてから座り――彼女とテーブルを挟んで、リンファも椅子に腰を下ろした。
細面でまだ幼さが残っている――触れ方をあやまれば壊してしまうのではないか? そんな感慨を抱かせるような顔立ちをしているのに、銀髪の少女の視線は強く、どこまでもまっすぐにリンファを見つめていた。
忍び込もうとしたことに対する後ろめたさからか、いくらか表情が強張ってはいるものの――きっと微笑みを見せれば、とても可愛らしい表情になるのではなかろうか?
そんなことを思ってから、リンファはそっと苦笑を浮かべた。
なにを考えているのだ?――彼女について、つまらない詮索をしていても仕方がないではないか……。
「お一人でここまでいらしたのですか?」
「……はい」
「そうですか」
いくら部屋から明かりが漏れており、夜空には月が出ているとはいえ、夜の神殿は暗く――そこを歩いてくるには、かなりの勇気が必要だったはずだ。
初夏も近いとはいえ、まだ夜風は冷たい。
こんなに華奢な彼女の何処にそんな強さがあるのか……そう思いかけて、リンファは心の中でかぶりを振った。
いや、そうでもあるまい――。
見かけは華奢だが……彼女の視線は、けして弱いものではない。
きっと芯の強い娘なのだ……。
この娘であれば――ふと、そんなことを考えて、リンファはもう一度苦笑を浮かべた。
なにを考えている? わたしにそんなことを想う権利はない……。
「淑やかさのない娘だと……お嘲笑いになりますか?」
リンファの沈黙を呆れたからだと思ったのか……ふいに彼女は、そうリンファに訊ねた。
「よほど思い詰めて来られたのですね……貴女は、慎みを知らない女性ではないのでしょう?」
「それは……」
リンファの言葉に、彼女は言葉を失い――うつむいた。
まっすぐな銀髪の掛かった頬が朱に染まっていくのを見て、リンファは、くすり、と笑みをこぼした。
「わたしに訊ねたいことがあると、おっしゃいましたね?」
笑みを収めながら、リンファは雰囲気を変えるように、真摯な声音でそう訊ねた。
「はい……」
彼女の質問がどのようなものであるか……リンファにもいくらか予想がついていた――いや、ついていたつもりだった。
「おっしゃってください……わたしに答えられる質問であれば――貴女には答えましょう」
リンファが先を促すようにそう云ったのを聞いて、彼女――銀髪の娘は、覚悟を決めたようにその視線を上げた。
「それでは、お訊ねします……リンファ・ソム・セイレンさま――貴女は、真実の鑑定人、と呼ばれていらっしゃるのですよね?」
「ええ……」
彼女の質問は、いくらかリンファの予想とは異なったものだった。
「わたしは、ソム・セイレンの長です。闇のセイレン……わたしの家の長は――そう、セイレン神殿の長となった者は、真実の鑑定人、と呼ばれます」
銀髪の娘の質問に、いくらかとまどいを覚えながらも、リンファは自身の字について語った。
「そして……真実を見定められる――そうですね?」
「……それを求められれば、です」
いくらか苦い気分になりながら、リンファは言葉を継いだ。
真実の鑑定を求められれば、真実の鑑定人は、依頼人の言葉の真偽について語らなければならない――それが、ソム・セイレンの家に産まれ、長となった者の務めだった。
「それでは……教えていただきたいのです」
リンファの表情がかすかに曇ったのを見て、銀髪の娘は何かを決心したような表情でそう云った。
「……お答えしましょう」
それが、彼女とした約束だった――覚悟を決めて、リンファがそう応じると、彼女は一度瞼を閉じてから、ふたたびゆっくりとその眼を開けて、まっすぐにリンファを見つめた。
「真実とは……何ですか?」
予想外の質問だった。
だが、その質問は鋭く――訊ねられたリンファは、なんとかその驚愕を面に出さぬよう……そっと息をついてみせた。
「……事実の正しい――そして、偽りのない認識のことです」
澱みなくそう答えながら、リンファは焦燥にも似たとまどいを覚えていた。
それは、きっと……彼女にもわからない質問だった。
心にも――真実があるのだろうか?
思考の中で、いつも釈然としない……まるで迷宮のように答えの見出せぬその質問を、この銀髪の娘もその胸に抱いているのだろうか……?
リンファの答えをどのように聞いたのか――銀髪の娘は、目線を落とし吐息を漏らした。
「……ありがとうございました」
そう云って彼女は椅子から立ちあがり、丁寧に頭を下げてから……力なくリンファに微笑んでみせた。
「今度は……ちゃんと先触れを出してから、訪問させていただきます」
「はい……また、お会いしましょう」
彼女につられるようにして椅子から立ち上がったリンファも、丁寧に頭を下げて、腰を折ってみせた。
リンファからの返礼を受けた彼女は、もう一度――今度は小さく目礼をしてから、ふたたびカーテンの向こう側へとその姿を消した。
「……」
窓から出ていった客人を見送ってから、リンファはふらふらと寝椅子の側に寄り、その上に身体を投げ出す――くせのない長い黒髪が広がった。
なんという娘だろう……。
ぐったりと疲れた意識の底で、そう思ってから――リンファはゆっくりと寝椅子の上で身体を動かし、天井を見上げた。
華奢で……抱けば折れてしまいそうなのに、烈しい魂がそこにある……印象的な銀髪に縁取られた顔が思い返された。
「あれが……彼の人の妻となる娘――」
そこまでつぶやいてから、リンファは目眩を起こしたように、自分の頭の中がぐるぐると回るような感覚を覚えて瞼を閉じた。
納得していたはずではないか……?
自身の中に湧き起こってくる混沌としたどす黒い感情に痛みを覚えながら、リンファはふたたび寝返りを打ち、重いため息をひとつ、ついた。
眠れぬ夜になりそうだった。sec2 Fin