「夢の月劇場」不定期連載小説 〜第2弾〜
「夢の舟」 sec5 最終話
作:DREAM・MOON
第五話
ひとりの――黒髪の少女が、船縁に立っていた。
くせのない長い髪を一本にかるく結わえたその少女は、どこかぼんやりとした様子で、舟の外に広がる白いもやに視線を向けている。
あれは……。
見覚えのある姿だった――だが、その姿が誰のものであるのか……しばらくのあいだ、リンファには思い出せずにいた。
ああ……そうなのか。
しばらくしてから、やっとリンファはその少女が誰であるのかに思い至った。
あれは……昔のわたしだ。
ゆるやかな神官服に身を包み、どこか物憂げな様子で舷側から舟の外を眺めるその姿を見つめながら、リンファはなつかしさのようなものを感じてしまい――苦笑を浮かべた。
いまさら未練など、ありもすまいに……。
それとも――。
「あれは――あの方は貴女ではありませんよ?」
「?」
ふいに声を掛けられて、リンファはそちらに振り返った。
「こんばんは――またお会いできましたね?」
そう云ってから……いたずらっぽく、その人物――船長は、リンファに笑みを向けた。
「こんばんは……」
船長の言葉に、いくらか疑問を残したような表情のままで、挨拶を返したリンファは――かるくかぶりを振ってから、船長に微笑みを返した。
「冥土へと向かう途中だというのに……またこの舟にお邪魔してしまいました――よくよくご縁がありますのね?」
リンファがそう云ったとき、彼女の神官服の裾がやさしく引っ張られた。
「……こんばんは」
その感触に視線を降ろしたリンファは、ちいさな少女の姿を見つけて、もういちど笑みを浮かべた。
「……」
自分の目線にまで、膝を折り――腰を降ろしてくれたリンファの顔をうれしそうに見つめてから、少女はリンファの胸元に抱き着いた。
「甘えん坊さんね?」
こちらも嬉しそうに少女の身体を抱きとめ、リンファはやさしく少女の髪を撫でた。
「彼女は……いったい誰なのですか?」
少女の髪を撫でてやりながら、リンファがそう訊ねると、船長は、低い笑い声を漏らした。
「貴女にとっては、とても近しい方ですよ」
「?」
船長の言葉に、リンファはふたたび疑問の表情を浮かべた。
「この舟には……さまざまな場所や時の流れの中から、お客さまがお見えになるのです――貴女はまだ彼女と……いや、そうでもないのかもしれない」
最後の言葉は船長の独り言だったのかもしれない……。
「船長……?」
怪訝そうな表情で問い返したリンファに、船長は笑顔を向けた。
「彼女は……これから貴女がお会いになる方ですよ」
「……わたしには、もう時間など残されていないはずです――わたしは、掟を破ってしまったのですから」
船長の言葉にそう云い返したリンファに、船長はゆっくりとかぶりを振ってみせた。
「貴女には、まだ真実の鑑定人としての仕事が残されているのですよ……いささか、生き急がれたことについては、残念だと思いますが――それにしても、貴女にはまだ、なさらなければならない仕事が残っていらっしゃるのです」
「……」
船長の言葉にリンファはとまどいを覚えていた――自分のやり残した仕事とは、何なのか?
だが、船長はそれをリンファに語るつもりはないようだった。
「さて……それでは、わたしは――あたらしいお客人のおもてなしをしなければなりません」
船長がそう云ったのが合図であったかのように――それまでリンファの胸元に身体を預けていたちいさな少女が、一度だけ……名残を惜しむかのように、つよくリンファの身体にしがみついてから、彼女の神官服の裾を手放した。
「お別れ……なのですね?」
船長の足元へと戻っていった少女の姿を見つめながら――リンファがそう訊ねると、船長はおだやかに頷いてみせた。
「貴女には――まだ時間があるのです……さようなら」
「……さようなら」
船長の言葉と少女の笑顔が、自身の視界と一緒にゆっくりとぼやけていく。
リンファは失われていく意識のなかで、別れの挨拶をふたりに返した。
それがきっと最後の挨拶になることを悟りながら、リンファは微笑み……その意識は、ふたたび闇の中に包まれていった。
来客の知らせに、リンファは執務室を後にして貴賓室に向かった。
廊下に差し込む陽光は、日毎にやわらかいものになってきている――夏が終わり、季節は秋を迎えようとしていた。
貴賓室に入ったリンファは、そこに佇んで彼女を待っていた人物に向かって膝を折り、丁寧に臣下の礼を取った。
「ご無沙汰しております――フィリス王妃」
そう云ったリンファにむかって、フィリス――いまではすっかり大人の淑女の雰囲気を身に纏ったかつての少女は、穏やかな微笑みを浮かべた。
「お顔をお上げになってください、リンファ神官長」
そう云って、彼女――フィリスはかるく首を傾げてみせた。
そして、リンファが立ち上がると、こちらも丁寧に頭を垂れてみせる。
「こちらこそ、ずいぶんと……ご無沙汰してしまいました――もう、すっかり秋なのですね?」
貴賓室に差し込むやさしい光を見つめながらそう云ったフィリスに、リンファは、ええ、と頷いて笑みをこぼした。
おたがいに穏やかな笑みを浮かべたふたりの女性は、貴賓室にしつらえられた椅子に腰を降ろし――侍従の持ってきてくれた果実酒をグラスについでから、乾杯をして再会を祝った。
「殿下はお健やかでいらっしゃいますか?」
リンファの質問に、王妃は、ええ、とあかるい笑顔を見せた。
「いささかお元気がすぎるようですけれど……男の子ですから」
「そうですか――やはり、血は争えないものですね?」
いたずらっぽくそう云ったリンファに、フィリスはかるく肩をすくめてみせた。
「きっと陛下も、いたずらっ子でいらしたのでしょう……わたしが苦言を申し上げると、いつもお逃げになってしまいますから」
フィリスの言葉に、ふたりの淑女は、くすくすと控えめな笑い声を漏らした。
「そういえば……」
フィリスがそう言葉を漏らしたとき――貴賓室の扉が、いきおいよく開かれた。
「おかあさま……!」
そう云って貴賓室に飛び込んできたのは、まだ幼い黒髪の少女だった。
椅子に座った母のもとへと駆け寄り、その胸元にしがみついた少女を見つめて――フィリスは、くすり、と笑みをこぼした。
「……やはり、血は争えないものですね?」
フィリスの言葉に、リンファは苦笑いを浮かべた――自分にしがみついた娘を抱き上げてから、リンファは彼女を自身の横の席に座らせた。
「お客さまがいらしているのですよ? イーリン、ご挨拶なさい」
母の言葉に、イーリンと呼ばれた少女は頷き――椅子から立ち上がって、スカートの裾をつまみ丁寧に礼をしてみせた。
「イーリンファ・ソム・セイレンともうします……はじめまして――」
自分の挨拶が正しかったのか、どうか?
自信のない表情で、そっと母親の顔を見つめたイーリンの姿を見て、フィリスはもう一度笑みをこぼし――少女に微笑みかけた。
「フィリス・サムル・アイレルと申します、はじめまして」
そう云って自分に挨拶を返してくれたフィリスと母の顔を交互に見つめてから――イーリンはふたたび椅子から降りて、リンファにしがみつこうとする。
「わたしたちは、大事なお話をしています――イーリン、貴女は席を外しなさい」
そんな娘の身体をふたたび抱き上げてから――リンファは、そう云って彼女の身体を床へと降ろした。
「はい……おかあさま」
どこか納得がいかない――そんな表情ではあったが、そう云ってからイーリンは、フィリスとリンファに礼をすると……貴賓室から出ていった。
そんなイーリンの様子を見ていたフィリスは、少女の姿がドアの向こうに消えたのを確認してから、くすり、と笑みをこぼした。
「容姿はリンファ神官長――貴女にそっくりなのに、性格は……」
「あの娘は……とてもつよい力を授かっています。それは、わたしの持つそれを遥かに凌ぐものです」
フィリスの言葉を遮るようにして、リンファはそう云った。
「貴女が、かつておっしゃった通りになった、と?」
「ええ――」
なぜかしら、リンファの答えが歯切れのわるいものになったのを見て、フィリスはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「やはり、リンファ神官長――貴女はうそつきでいらっしゃいますのね?」
「どういうことでしょう?」
フィリスの言葉に、リンファは苦笑を浮かべた。
「わたしもあの頃のような少女ではありません。ひとりの妻として、母親として――さきほどイーリン殿へお見せになった貴女の表情……それだけで、すべて理解できてしまいますのよ?」
「……わたしは、真実の鑑定人としての掟を破りました――それでも、あの娘のおかげで、こうして生きながらえさせて頂いております。ですが――それも長くはないでしょう」
リンファの言葉に、フィリスの表情が曇った。
「わたしはしあわせなのです……ただ、あの娘のことは気になります――勝手なお願いとは存じておりますが、あの娘のことをよろしくお願い致します」
「……リンファ神官長」
「わたしは、しあわせなのです――それは、まぎれもない真実なのですよ?」
そう云って、微笑みを浮かべたリンファを見て、フィリスは息を吐き……黙って、リンファに頷いてみせた。
そんなフィリスの様子を見て、リンファも心の中で安堵のため息を漏らした。
そして……ふいに、木漏れ日に視線をやったリンファは――あることを思い出していた。
なぜだろう?
それを思い出したのは、何年ぶりのことだったのか――きっとそれは彼女にとって、とても大切な思い出だった。
「フィリス王妃」
「はい?」
それまで自身の想いに耽っているように見えたリンファから、名前を呼ばれて――フィリスは、きまじめな様子で頷いてみせた。
そんな様子に、かるく笑みをこぼしてから、リンファは彼女に微笑みを向けた。
「昔のことを思い出したのです……つまらない、昔語りなのですが、聞いていただけますでしょうか?」
リンファの言葉に、フィリスは少しだけ驚いたような表情になり――だが、すぐに頷いてみせた。
「ええ、ぜひ聞かせてください」
フィリスの言葉に、リンファは――なつかしく、大切な彼女の思い出を語りはじめた。
「わたしは、以前、舟に乗ったことがあるのです……」
貴賓室の窓から差し込む秋の光はやさしく、暖かかった。
陽光に包まれて……ふたりの淑女の時間が、昔語りと一緒にゆっくりと流れていった。
「夢の舟」Fin