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 東洋出版

 サイズ : 20cm / 189p

 ISBN : 978-4-8096-7579-9

 発行年月 : 2008.6


 内容説明:人間の心の奥底に潜む「歪み」を、日常の何気ない会話や出来事から鋭く描き出す短編集。「遅刻」「魔物退治」「不愉快な手紙」「美樹と剣」の4編を収録。

 購入方法:アマゾン等のネット、本屋で注文できます。



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上記、『遅刻』には収録しなかったが、関連性のある短編小説を以下に掲載します。興味のある方は、ぜひご購入をお願いいたします。


   『飼犬』

 久しぶりに大学の夏休みを利用して帰省した私は玄関から靴を脱いであがり、ヒビの入った壁や煤でくすんだ梁や幼いころ私が釘で刻んだ漫画の落書きを見ながら、この家には自分の過去が染み付いていると思った。私は薄暗い台所から降りて竈のある裏口のほうへ歩いた。

 そこには何か焦げ臭い匂いが漂っていた。台所のガスは使われていなかったので、裏の勝手の竈だとにらんだのだが、懸念したとおり古い竈に鍋がかけてあり、焦げ臭い匂いがしていた。竈から突き出ている煙突は折れ曲がり、今にも屋根に穴を開けて下に崩れそうだった。その煙突の裂け目から怪しげに煙が漂っていた。私は祖母をいらだたしげに呼んだが、返事はなかった。

 ひしゃくに水を汲み、竈に近寄り、鍋の蓋をとって入れると、ジュッと音がし、焦げた煮物のまわりから蒸気がもうもうと上がった。

 竈の中では火はほそぼそと燃えていた。燃え残りの薪が口から出してあり、おそらく祖母はそれで火加減を調節しようとしたのだが、うまくいかなかったようだった。その時、

「帰ってきたのか、慎治」と祖母がぬれた手を前掛けで拭いながら戻って来た。私は祖母のほっとしたような顔を眺め、体の具合が良いのだと判断した。ただ右足が不自由なので体を支えるためにやや左に傾いていた。

「電話、いつかかってくるか、待っていたのに……。お前はいつも連絡をよこさない」

 恨めしげに小言を言った。私は、

「焦げているよ」とため息をついて漏らした。祖母は私の顔からせっかくの喜びを奪われたみたいに顔をゆがめ、そしてぎこちなく鍋のところに近寄って中を覗いた。そして、

「このくらいがいい。そうたいして焦げとらん」ときっぱりとした口調で言った。しかし私は、

「焦げているよ」と諭すように繰り返した。祖母はそう言われると、ぎくしゃくとした身のこなしで背中を向けて、風呂場の裏に歩きだした。後ろから見る祖母の姿は私の目に以前の姿を彷彿とさせた。祖母はまだあの頃の祖母のまま、この家に残っていたんだな、と感慨深げに、また多少の苛立ちを伴いながら思った。

 母屋からトタンを渡して屋根を作った洗い場には、強い臭気を放つ漬物の樽が二つ置いてあり、祖母はその横で盥の中で衣類を押し付けるようにして洗濯を続けた。その横には洗濯機があるので、それを使えば良さそうなものだが、祖母はあえて手で洗っている。少ない量だと不経済だと考えているのかもしれなかった。

 そのような姿は当然のごとく、自分の目には強情なものに映った。また祖母もそのように見つめる私の視線を感じ取り、じっとその年老いた体に何かを閉じ込めているように思われた。

 台所に戻ると、家族の者が去っただけ、索漠としている気がした。他の親族をここで亡くした私はいるべき人がそこにいない空虚さというものを知っていたが、その時の空気はそれでもなかった。空気が住人となって住みつき、占拠してしまったような状態だった。明かりをつけたがうす暗く、椅子をひくと耳障りな摩擦音がなった。

 腰を下ろすと、私はそこから例の落書きを眺めた。幼い日の自分の姿をそこに見た。不満があると、座り込んで釘で漫画を描いていた自分を……。

 そして私はそのような感傷に浸りながら自分という存在に歯がゆさを感じた。過去のことはすでに整理済みのはずだと思ったが、煮物がこげたくらいで揺れ動く胸のうちは自分を裏切っていた。私は依然としてこの家に繋がれていることを認めなくてはいけなかった。

 外に出ると、西の空が夕焼けに染まり、山々の稜線が黒く連なっていた。それが遠い影絵のように見えた。赤くただれた残光は、黒い空の色の中にしみこむようにして消えていく。

 庭の柿の木の下には犬小屋があり、飼犬が尾を振ってしきりに呼びかけていた。まるで自分の姿が夕暮れに埋没するのを、その声で知らしめているようだった。

 犬は散歩に連れて行ってもらいたいためにこの機会に甘えなくてはいけないと判断したのかもしれない。

 家の垣根の外には細い川が流れ、砂利道が伸びていた。

 道は村から田園に伸びていて、その田園は国道が走っているところまで平坦に広がっていた。国道にはライトをつけた乗用車やトラックが帯のように連なって動いていた。私は小川に沿った道を犬を連れて歩いた。夕暮れの空気は家の中と違い、すがすがしかった。

 道は舗装されていないので、わだちの出来た部分がところどころにあった。犬は草むらに頭を突っ込み、私の足を止めた。

 鎖に繋がれていたときは私を呼びかけ、ときには怒ったような目をして吠えていた犬も、いったん散歩に連れ出されると私に無関心になった。

 クンクンと鼻をひくつかせ、ぐいぐい私を引っ張る。その方向はとりとめなく、振り向いて小川の向こうに行きたい顔を見せたり、また戻って家の方向に向きを変えたりした。

 私は以前、祖母がこの犬は嫌いだと言っていたのを思いだした。犬は本心を見抜かれたみたいに鼻を地面につけ、伏目がちにうなだれていた。祖母は腹立たしい顔つきをしていた。

 そのような祖母と飼い犬を見て私は仲たがいをしている親子に似た関係を感じた。祖母の顔には、せっかく面倒をみてやっているのにこの犬は、という感情が映っていた。そして、足の不自由な祖母が犬を連れて散歩に出ている情景が浮かんだ。きっと祖母は引きずりまわされ、散々な目にあったに違いない。

 確かにこの犬は小さいくせに力があってずるくて敏捷だった。鎖を首からはずすと、まず二、三十メートル離れたところまで駆けて草むらに頭を突っ込んで鼻をひくつかせる。こちらが近づくと、接近した分だけまた離れて同じ事をしだす。はじめのうちは問題ないのだが、そろそろ帰ろうとするときに困る。いつまでたっても捕まらないからだ。犬はこちらが追いかける事を考えて、距離を長く取りだす。私はそのような犬の性格をわきまえていたが、やはり鎖を首からはずしてしまう。いちいち犬の歩調に合わせて行ったり来たりするのが面倒なのと、少しでも犬を自由にさせてやりたいという思いやりからだった。そしてそのような気持ちはいつも裏切られた。

 夕暮れが深まりつつあった。ぼかした墨のような色が赤くただれた西の空に滲み始めていた。国道を走る車は、橋の上で渋滞し始め、のろのろと動いていた。

 風景が少しずつ闇の中に没し始めていく。電線が消え、電柱だけが村のほうに向けて黒く連なっている。橋の上は車のヘッドライトで銀色に輝き、その下の川は、ぼんやりと赤や黄色の光を表面に浮かばせていた。

 犬は闇の中を走り、いつか見えなくなっていた。呼ぶと迷子になったような頼りなげな声で答えるのだが、姿はいっこうに見えない。おそらく主人をうまくだまして喜んでいるのだろうと思い、私はひとりで帰ることにした。

 家に戻ると夕飯の惣菜に煮物が皿に盛り付けてあった。焦げたところを除いてよそってあったが、大根などはやはり色が濃くなりすぎていた。私は他の惣菜に箸をつけて食べはじめた。そして、それにも箸を伸ばした。

 口の中に入れると焦げた味がし、それでいて水っぽかった。私はこの煮物がこの家の崩れた姿を映しているように思われて胸が痛んだ。焦げたことは、祖母の不注意によるものだが、この水っぽさは鍋の中に自分がひしゃくに水を一杯、入れたからだった。この家が崩壊しかけている原因のひとつに自分が家を出ていることと無関係ではないように、私によって台無しにされた煮物の味はこの家と似ていた。

 私はやわらかくなった大根の輪切りを口に運び、一口噛んで、皿に戻した。歯形にえぐられたところには薄い繊維模様が浮かんでいた。私は箸を突き刺し、それを二つに切った。そしてその一つをまた細かくした。

 箸を持つ手が震え、それを私は忌々しく見つめた。祖母はそのようなこちらの心の動きを知ってか、

「お静さんのようにボケはじめなさった。もう寿命やから切れそうになっておる」と端が黒くなり、ちかちかとしだした丸い蛍光灯を見て言った。お静さんとは祖母自身のことである。私の心はさらに重くなった。祖母の顔をそっとうかがうと蛍光灯を仰ぎ見ながら、ぼうっとした表情で口を少し開けていた。そのような顔つきは何かを求めていないがためにその必要性を私に痛感させた。私は祖母の強情さを打ち消したい衝動にとらわれながら、一方では祖母がそれを捨て去り、このような顔つきになることを恐れていた。

 私は自分を忌々しく思い、また祖母をも恨んだ。

 私が箸を置くと、祖母は急須からお茶を湯飲みに注ぎながら、

「明日は病院に薬、もらいに行く日やから行かないかんのやけど、お前、代わりに行ってくれないか?」と言った。私は病院に行くことが、足の不自由な祖母にとって苦痛なのはわかっていた。また久しぶりに戻ってきたときぐらい、祖母の飼犬になっても良いように思われた。が、私はうわのそらで聞いているように装い、目をそらして行くとも行かないとも返事をしなかった。

「ちょっと犬を見てくる」と立ち上がった。下に降りたとき祖母が、

「お前はあの犬みたいやな……」とつぶやいた。

 庭に出て犬を呼ぶと、一目散にこちらに駆けて来たが、足の周りを一回転するとまた駆け出して闇の中に消えた。

 犬はこちらをからかっていた。自分を祖母のようにとらえていたのかもしれない。そして私自身、このように立ち尽くしている姿を祖母のようだと思った。

 もう一度、走り寄ってきたとき、すかさず私は首輪に手をかけて捕まえると、戒めのために頭を小突いた。

 犬は上から押さえられると、すぐにか細い声を出して許しを乞いだした。私は犬の耳の下を両手でぐいと持ち上げ、

「お前は思う存分、走り回ってきたんじゃないか? それを隠して媚びることはない。胸を張っていればいいんだ」と言った。

 犬は、ぶるぶると体を小刻みに震わせていた。私を覗き込んだ目は何か闇の中で恐ろしいことに遭遇したみたいにおののいていた。私は、

「馬鹿だな」と呟いて犬の首に鎖をつないでやった。すると、犬は腰を落として駄々をこねたが、力を入れて引っ張るとあきらめて小屋の中に自分から入った。そして座り込み、申しわけなさそうに吠えて鼻先を前足の上にのせた。私はもう一度、鎖を引っ張って犬を小屋から出した。犬は外に出ると、戸惑いがちに私の足のまわりを歩いたが中に入ってしまった。

「どうした?」と私は犬に呼びかけた。しかし振り向きもしないで犬は小屋の中で丸くなった。

 私は本当に犬が小屋につながれたいと思っているのか確かめるために鎖を小屋につながないまま背中を向けて歩き出した。

 祖母は台所の椅子に座って、戻ってくる私を見つめていた。私は上がると微笑み、

「明日、病院に行ってくるから休んでいればいい」と伝えた。祖母は横を向き、

「そうか、ありがたい」と呟いたが、やはり心の中では、

『お前はあの犬と同じだね』と嘆いているような気がした。

 外では飼い犬が再び駆け回りだし、思う存分吠え立てていた。私は、

「それでいい」と思い、背後で祖母がため息を漏らし、

「さ、かたづけるか」と立ち上がり、背中を向けたのをちらりと見た。

                      完  



この短編は、『遅刻』の続きの部分になります。本に収録したのは、主人公の幼いころの部分です。

どうか、拙作『遅刻』を買ってください。自費出版しましたが、在庫、たんまりあります。