花の言葉


 

【1】

 頬に当たる冷たい夜風に、彼は逞しい体躯を震わせた。
 もはや秋も終わり、北の大地には冬の先触れが訪れたところ。
 竜が焼き尽くした跡には岩ばかりの荒れ地が広がり、かつて緑ゆたかだった谷間の町を思わせるものは、何一つ残っていない。
 それでも、ここが彼…谷間の領主ギリオンの末裔・バルドの故郷なのだ。

「あの頑固者たちは、いつまで、ああしているのだろうか」
 ふり仰ぐ先には、はなれ山の黒々としたシルエットがそびえ立っている。
 山の壁にぽつりぽつりと灯る小さな光……そこにいるはずの「頑固者たち」を思うと、彼の眉間には困惑の皺が寄るのだった。
 トーリン・オーケンシールドの一行がはなれ山に籠城を始めてから、もう二日が過ぎようとしている。湖の町エスガロスと森のエルフの連合軍は、はなれ山のふもとに陣地を定め、相手の出方を待ち受けていた。
 たった13人のドワーフが相手とはいえ、「山の下の王」の正統な後継者に対して戦いをしかけることは、できれば避けたかった。ドワーフ族は数も多く、血を同じくする者への忠誠も篤い。もしもトーリンたちの命が戦いで失われるようなことがあれば、また新たな戦いを呼んでしまうだろう。
「げに怖ろしきは、黄金の魔性か。…いや、それはドワーフに限ったことではないが」
 欲の皮のつっぱった湖の町の統領を思い浮かべ、バルドは苦笑した。
(黄金の輝きよりも美しいものが、この世には有るだろうに…)
 物思いに耽りながら、彼はぶらぶらと歩いてゆく。
 殺風景な岩場の上には無数の天幕が張られ、夜食の煮炊きをする焚き火の光が、闇を照らしている。その光を左に、流れる川を右に見て、いったいどれほどの時間を歩いた頃だろうか。
 ------ ぱしゃっ
 前方で、水のはねるような音がした。
「…誰か、いるのか?」
 背後に手を回す。片時も離すことのない愛用の弓の感触を確かめてから、油断なく足を進める。
 そこは、川岸まで降りる緩やかな坂になっていた。---- この荒れ地を流れる川の岸辺は険しい崖になっているのが常だから、これは珍しいことだ。
「そこにいるのは誰だ?」
 川に張り出している大きな岩の上に、誰かが腰掛けている。
 長い長い黄金の髪を背に流した、後ろ姿。
 髪の両脇から僅かに覗いている、とがった白い耳。
(…エルフ?)
 その時、黄金の髪の主が振り返った。
 夜目にも白く浮かぶ、ハッとするほど美しい顔が、バルドを見つめた。
 それは、まぎれもなくエルフ軍の指導者…闇の森を統べる王、スランドゥイルその人であった…

■ ■ ■

「これは、御無礼をっ…」
 虚を突かれたのは一瞬のこと。我に返ったバルドは慌てて膝を折り、頭を垂れた。
 まったく思いがけぬことだった。
 いつも十重二十重に取り巻いているはずの側近たちも連れず、エルフの王がたった一人で、このような場所にいるとは。----どうやら自分は王の「お忍び歩き」の邪魔をしてしまったらしい。
「よもや貴方様が此処におられるとは存ぜず、とんだ不作法をいたしました。お許しあれ、闇の森の王よ」
「……」
 頭を下げた彼には、相手がどのような表情をしているかは量り難い。
 やがて衣擦れの音が聞こえ…その気配から、王が立ち上がったことが察せられた。
「顔を上げよ」
 かすかに、笑いを含んだような声。
「そのように畏まることはない。…ギリオンの末裔バルド。スマウグ殺しの英雄よ」
 今一度うながされた後、彼はおそるおそる顔を上げた。

 ----月と星の光を背に受けて、岩の上に立つ、丈高き姿が有った。

 マントも羽織らず、飾り気のない白い長衣に、金糸で縫い取りをした幅広のサッシュをしめたのみ。風に翻る衣の裾から、素のくるぶしが見え隠れしている。
 それは昼間の勇ましい戦装束を見慣れた目には、あまりにも無防備かつ蠱惑的で、この竜を倒した英雄の胸をざわめかせるには充分すぎた。
「……」
 朱を刷いた頬をごまかすかのように俯く人間の男を、エルフ王は不思議そうに眺めていたが…ふと、立っていた大岩から足を踏み出し、隣接した低い岩に移動すると、そこで腰掛けた。
「取ってくれぬか」
 白いつま先が、ぶらぶら揺れる。
「…?」
「それじゃ、それ」
 しどけない足が指し示した地面には、銀色に光るエルフの履物が、きちんと並べて置かれている。
 相手の命じるまま、バルドは優美な作りのサンダルを拾い上げ、持ち主の元へ届けた。
 ただちに履物へ差し込まれた足の先は、よくよく見れば濡れて、水がしたたっている。----それで、先ほどの不審な水音の正体が、今さらながら知れた。
「…森の外の川に触れるも、久しぶりでのぉ」
 バルドが言いたいことを察したのか、エルフ王はニヤッと悪戯小僧めいた笑みを漏らした。
 ところが、その微笑は事もあろうか、上から身を屈めた相手により、ごく顔と顔の距離が狭まった位置でもたらされたため……哀れな人の子の心拍数は、ますます跳ね上がる一方であった。

 そういうわけで、王が早々にその場を立ち去る気配を見せた時には、むしろ彼はホッとした。
 この微妙な空気のままで共にいれば、更にとんでもない「無礼」を口走ってしまいそうだったからだ。
「そなたも早く天幕に帰って休むが良い。人の子とは、毎夜決まった時刻に眠らなければならぬ、不便な生き物なのであろ?」
 そう…----そのまま、見送れば良かったのだ。
 彼の横をすり抜け、川辺から立ち去ろうとする王の、その黄金の髪にめぐる草と木の実の冠…それが、ほつれている事に気づいたりしなければ。
「あっ」
 思わず上がった声に、王は足を止め、振り向く。
 それから頭上に手をやり、半ば千切れかけた草冠を、無造作に手に取った。
「ああ、これか。…どこぞに引っかけたようじゃの」
 そして気づいた時には既に、バルドは手を差し出してしまっていた。
「王よ。もし、お許しいただけるならば…」

 そうだ、彼は知らなかった。
 己が、いったい如何なる運命に手を差し伸べてしまったのか…

■ ■ ■

 エルフは永遠の時を生きる。
 寿命もなく、老いもなく。
 悲嘆にくれるか殺されるかしない限り、死ぬこともなく…その「死」すら、ただ「肉体」におけるものに過ぎない。(肉体を離れた魂は、浄福の地にあるエルフの魂のみが集う館へ赴くと伝えられている)
 まさしく彼らは、この世界が続くかぎり不死の存在である。
 人とエルフは似たような外形(少なくともトロルやオークと比べれば)を持ち、時には通婚すら可能にも関わらず、本当は、まったく根本的に異なる生き物なのだ。----と、エルフの王を間近に見ながら、バルドはしみじみ実感する。
 スランドゥイル王は、今は無き谷間の町が成り立つより遙か昔から闇の森に君臨し、おそらく齢数千年(いや数万年?)にも及ぶであろうと聞く。
 しかし彼は、苔むした洞窟のように年ふりても見えれば、芽吹いたばかりの青葉のように若々しくも見え、そしてまた、氷のように驕傲であるようにも見えれば、思いやりのある隣人のように親しげにも見えた。
 その捉えがたい雰囲気も、エルフ独特の身のこなしも、全てが人間の基準に当てはまらず…それが「異種族としてのエルフ」をまざまざと実感させる。
(…ここで私は、いったい何をしているのだろうか…)
 ほつれた冠の補修を申し出たのは、バルドの方だった。
 竜は谷間の緑をあらかた焼き尽くしてしまったが、それでも川のほとりにだけは、丈の低い木々が細々と葉を茂らせていたし、貧しいながらも実をつけていた。
 それらを掻き集めて、預かった冠につぎ足していく彼を、王は川岸の岩に腰掛けながら眺めていた。
 どのみち人と同じ眠りを必要としないエルフのこと、特に急ぎ天幕へ戻らねばならぬ用事も無かったらしく、ともすれば緊張に指がもつれがちになるバルドをせかすこともせず、ジッと待ち受けている。
 話しかけてくることはなかったが、そのうち、密やかな歌声が、王の唇から漂い始めた。
 ごく小さな声であったが、その歌は水面に波紋が生じるように夜の空気を震わせて広がり、隅々まで満たした。それは人間の言葉では形容することすら叶わぬ美しさであり、歌に応えて天の星々すら輝きを増したように思われた。
 いつしか草を編む指の動きを止め、バルドは流れる歌声に恍惚と聞き惚れていた。
 目を閉じている彼は気づかなかった。----スランドゥイルの顔に浮かんだ不思議な表情を。
 この人間の男の、勇気と率直さの滲み出た顔、大地と同じ色の髪が額にかかっている様子、がっしりと逞しい体つきに、広い肩幅…それらを眺めるエルフ王の瞳によぎる、何かを懐かしむような感情の影を。
「…よぉ似ておるわ」
 図らずも、というように漏れ出た言葉。
 バルドは驚いて目を見開いた。
「今、何とおっしゃった?」
 王は微かに笑って、それには答えなかった。
 代わりに、その口から発せられたのは、思いがけぬ問い。
「バルドよ…何故、闇の森に助けを求めた?」
「……え?」
「『闇の森のエルフ王は中つ国一の吝嗇家。宝石に目がなく、強欲で、己の得にならぬ事柄には指一本動かそうとはしない』」
 金の髪をふるわせて、王はクスクスと笑った。
「人間どもが何を言うてるかぐらい、わしは知っているのじゃよ」
「…そのようなことはっ…」
「言い訳せずとも良い。それが湖の町の一般的な評であろう。ただでさえエルフは、今まで人と必要なだけしか付き合ってこなかった。…だが、そなたは迷うことなく闇の森に使者を送ったな。何故じゃ?…わしが噂どおりの強欲者ならば、エスガロスの窮状になぞ見向きもせぬだろうとは思わなかったのか?」
「……」
 バルドは困ったように俯く。
 王は追求の手を弛めるつもりは無いらしく、射るような眼差しで答えを待っている。
 やがて。
「----…それは…」
 何度も逡巡した後、バルドはようやく意を決して口を開いた。
「それは…貴方ならば湖の町に救いの手を差し伸べてくださると、思ったからです。私は…貴方が噂だけの方ではないと存じ上げておりました」
「何故じゃ?」
「おそらく貴方様は忘れておしまいになったでしょうが」
 彼は苦笑して言った。
「私は闇の森へお邪魔したことが有るのです、王よ。そして貴方にお会いしたことが…」
「覚えておるよ」
 ニヤリ。
 確信犯の笑みで、スランドゥイルは応じる。
「何一つ忘れてはおらぬよ。---小さなバルド坊や」

 

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