◆ 雑談 ◆
雑談、というからには、雑談です(笑)
日記に書くには長すぎる思い入れと言いましょうか。
そんなスタンスで(どんなスタンスだ)どうぞよろしく。


◆言って欲しくないこの一言◆
みなさんには「これだけは言って欲しくない」的な一言ってありますか?
私はあります。もちろんその一言を聞いたからといってその発言をした当人を嫌いになったり軽蔑したりするわけではないし、やっぱり好きなことには変わらないわけですが、なんつーか、ちょっとがっくり、もしくは「萎え」的な感情はどうしても覚えてしまうと。
それが「そんなに(文句を)言うならお前がやってみろ」ってやつです。

批評家にぼろくそに叩かれた映画や芝居の作り手があまりのことにぶち切れてこういう発言をすることがままあります。最近では「ソラリス」を叩かれたジョージ・クルーニーが記者会見で無礼な記者の質問にこう答えました。
私はERファンでロス先生大好きだし、映画製作の裏話でもれ聞こえてくるクルーニーの「あんちゃんっぷり」もすごくいい感じだなぁと思っていたので、正直この発言は「ブルータスよ、お前もか」的感情を覚えずにはいられませんでした。
芝居では公の記者会見(あっても制作発表であって芝居が始まったあとの会見なんてのはまずない)が少ないのでこういう場面はあり得ませんし、メディアに取り上げられる頻度もその媒体の多さも映画とは桁違いですからそういう発言は表に出てきませんが、雑誌での連載、ネットの日記、またはパンフレットの対談などで、こういう発言(もしくはこれに類する発言)というのは結構出てきます。批評家に対してだけではなく、ネットで繰り広げられる無責任な「感想」(私もやっていますな)に対してこういう発言がされることもままあります。
これがね、萎えなのですよ。
批評家に対して、その的はずれな批判に反論したり反撃したりするのは全然構いません。もっとやってもいいとも思います。鴻上さんのSPA!じゃないけど映画でも芝居でも「こいつ絶対観て書いていないだろう!」とツッコミたくなるいい加減な批評って結構あります。
それでも、「やってみろ」はないんじゃないのと思うわけですよ。
たとえばあなたがレストランに行ってよ、その料理がまずかったとする。これにこの値段はないでしょうとオーナーに文句を言ったとする。その時そのシェフが「そんなに文句を言うならお前が作ってみろ」って言うか?
サッカーの試合を見に行って、いやサッカーでも野球でも何でもいいけど、試合を見てなんだか気合いの入っていない選手を見て、帰りに街頭インタビューかなんかで「あの選手はやる気がない、もっと気合いを見せろ」ぐらいの事を言ったとする。それを見たその選手が「そこまで言うならお前がゲームに出てみろ」って言うか?

私が大好きな本「小説『中華そば 江ぐち』」の中で久住昌之さんがこう書いているところがあります。
「カウンターのこっちと向こうは無限とも思える距離があります…(中略)カウンターの一枚向こうに別の世界、別の宇宙があるのですね」
久住さんはこの距離のことを100万光年の距離と書いていらっしゃるけど、これを読んだとき、私は首が取れるほど頷きまくってしまいました。私の場合は舞台の上と客席ではあるけれど、そこにはやっぱり100万光年の距離がある。100万光年の距離があって欲しいというのが本音かな。私はただの一観客にすぎないし、創り手でありたいと思ったことがないのでそういう「圧倒的さ」を求めてしまうのは素人の夢だと笑われるかもしれないけれど、プロというものである以上、たとえ普段身近には感じても私が客席に座ったときには100万光年の距離を感じさせて欲しい。100万光年向こうから届いてくる舞台の力こそが私の愛しているものだと思うから。
そしてだからこそ、「やってみろ」の一言は哀しい。やってみろってああた、そんなの無理に決まってるじゃないですか。無理に決まっている。そうでしょう?無理だから、私も他の大勢の人も今客席に座っているのじゃないか。「やってみろ」の一言は、せっかくの100万光年距離を一気にゼロにしてしまう一言だと思ってしまうのは私だけか。本気でやってみろと言っているわけじゃない、腹立ちまぎれの一言であるというのはよくわかっていても、これはいわば「それを言っちゃあおしまいよ」的な一言で、言われた方は無理ですよと返すしかない。それで議論が終わりになってしまうというのも、私には哀しい。

同じように、芝居好きだというとよく他人から言われる「そんなに好きなら、自分でもやってみればいいのに」。この一言も、私はがっくりです。「萎え」です。これは他のジャンルでは使われない、芝居に関してのみ言われがちな一言でしょう。無類の映画好きがいくらいても「自分でも作ってみればいいのに」と言う人は少ない。ワールドカップに夢中になっている人に「そんなに好きなら、自分もやってみればいいのに」とは誰も言わない。自分でやれるようなもんに、私はお金は払いません。「自分でやってみれば」の一言は、芝居を「その程度のもの」としか捉えられない人の発言に思えてならない。芝居を「プロの仕事」と捉えられない人の発言に思えてならない。創り手の「やってみろ」発言が哀しいのも、たぶん同じ理由なのです。


◆創り手の傲慢 観客の傲慢◆
小劇場(と言われるもの)が好きで多少なりともネットができる環境にいれば必ず一度は行ったことがあるであろう超有名サイト「えんげきのぺーじ」には一行レビューと言われる有名なコーナーがあります。
私はこの一行レビューのかなりな愛読者で、自分でも良く投稿していますし、実際に観るか観ないかの判断をこのコーナーの評判の善し悪しで決めたこともあります。
魅力はなんなのか、と言われればうまくは言えませんが、投稿する側にとっては一行でいいという気軽さであり、読み手にとっては、いろんな人のいろんな意見が手軽に読める、ということだろうと、私は思います。いくらネットの海は広いとはいえ、演劇というのは非常にマイナーであり、現在上演中の芝居の評判をいちはやく、ほぼリアルタイムで手に入れようと思えば、それこそ一行レビューしかない、というのが当初はあったからです。そしてなおかつ、そこではマイナスな意見もあるというのが、その評判の信憑性を高めていたようにも思えます。だって想像してみて下さいよ。みんながどんな芝居にも★四つを連発していたら「ここはヨイショレビューしかないところなんだな」と思われても仕方ないのではないでしょうか。

しかし、ネット人口が爆発的に増え、「小劇場ファン」の裾野が広がるにつれ、えんげきのぺーじを訪れる人も多くなり、一行レビューもますます賑わうようになりました。
そうして、だんだん雲行きが怪しくなってきました。
最初は「一行」なのに長すぎる、といったような批判が出ていたように思います。長い感想は談話室に書くべきだと。それから、自分が書いた(もしくは他人でも)レビューへの反論が、一行レビューの場でなされるようになり、それに対する反論もまた一行レビューに投稿され・・泥仕合の様相を呈してきたこともありました。一行レビューは匿名で書き込めるものですから、書き捨て御免といった風情の、口汚い文句が書かれることもだんだん増えてきました。
しかしだからといって、通常の書き込みがそれによって駆逐されることはなく、玉石混淆といった風情ではありましたが、しかしまだなお、読み手を強烈に誘惑せずにはおかない優れたレビューというのも確実に存在していたのです。

ですが、とうとう「自作自演」という波がやってきてしまいました。
これは二つの側面があり、ひとつは創り手その人が、自分たちの芝居の評判をあげるため(=観客を呼ぶため)に高評価のレビューを捏造するもので、もうひとつはなんらか創り手側に意図のある人が、自分の感想もしくは芝居の出来不出来には関係なく(つまり、芝居そのものを観ていなくても)その創り手ひいては芝居の評判を下げるために、悪評価のレビューを捏造する場合です。
そしてそれによって起こってきた声がこれでした。
「一行レビューの存在、そしてそのレビューにおける評価の善し悪しは、創り手に実害を及ぼすものであり、システムの見直しをサイト管理者はするべきではないか」。


去年の12月、一行レビューの談話室で、この問題に関し多くの投稿があり、議論がかわされました。もちろん、議論になっていたかどうかは別ですが・・・。
問題は、えんげきのぺーじというのはにしかどさん(サイトオーナーです)が個人でやっているHP(つまり誰も強制は出来ない)であるにも関わらず、狭い小劇場界では、一行レビューにおける評判ひとつで動員が左右されるという「実害」が発生してしまう、という点でした。そこには、金を払って見に来た観客ならともかく、「匿名」の名の下に自作自演が行われているかもしれない現状は、創り手にとって迷惑至極である、という気持ちがあるようでした。

この時の投稿のログは、まだえんぺの談話室「フリートーク」にありますので、読むことは出来ます。私は、あまりお勧めしませんが。というのは、私はこの騒動がきっかけで、ある時期芝居を観ることが苦痛になってしまったからです。苦痛というのは文字通り「苦痛」で、ひどいときには役者の声が耳障りで聞いていられなくなったほどでした。あんなに愛していた劇場という空間に行くことが、最もつらいことになってしまったのです。


私は、観客です。純粋な、どこの劇団とも創り手の方とも一切関係のない観客です。そのことを私は大事に思っています。この騒動で主張されていたのは主に創り手の方々のものでした。もちろん観客側からの反論もありましたが、しかしそこで主張されていた多くの(全てではありません、なかにはなるほどと心動かされるものもありましたから)創り手の意見は、私にとってショック以外の何物でもありませんでした。
ショックを受けるあんたが甘い、現実を知らなすぎだと言われればそれまでですが、しかし現実を知りたくないからこそ、観客としての立場を保ち続けていたのですから、甘いと言われても困ります。
私がその時強く想い、そして悲しかったのは、

「私は今まで、こんな人達の創ってきたものにお金を払い、時間を費やしてきたのか」
という、強烈なやるせなさに襲われたことでした。それは、芝居を人生の娯楽として楽しみ、愛情を注いできた人間にとっては、殆ど価値の逆転といってもいいような感情でした。頭の中では、ここで主張されていることと、私が愛してきた芝居は関係ない、私の尊敬する創り手が、ここの人達と重なるわけではないとわかっては居ても、その気持ちを完全に払拭する事は出来ませんでした。

一行レビューによって才能のある若い演劇人たちが要らぬ苦労をし、下手すれば潰されていく現状にある、だからなんとかしろという論調、クリエイティブな仕事をすることは、繊細で多くの苦労を共にするものであり、配慮がなされて当然といったような論調は、私にとって吐き気すら覚えるものでした。いったい、あなた方は自分をなんだと思っているのか。観客を金の成る木か何かだと思っているのか。私たちが毎日、満員電車にゆられ、理不尽な命令に従い、下げたくない頭を下げて得てきた金を対価に「モノをみせる」ということをどういうことだと思っているのか。

私がそうしてショックだったのは、多分、そこで主張された事の多くは、多かれ少なかれ創り手側の本音なのだろうなと思ってしまったことにあります。
インターネットでの批判・批評については、松尾スズキさんや野田秀樹さん、ケラさん、鴻上さん等も、その「表現としての自意識の低さ」について苦々しく思っておられる風が、そこかしこの発言でなされています。まさか彼らは「だから自分たちを保護しろ」だの「規制せよ」だのいうことは考えていらっしゃらないでしょうが、だとしても自分たちが必死で創りあげたモノを、顔も名前もわからない画面の向こうからの活字によって一刀両断されることを好ましく思ってはおられないでしょう。

限りある一部の人間だけがメディアという媒体を持っていたときには、こんなことは考えられなかったことでしょう。だからこそ、創り手の方々が戸惑い、怒り、声を挙げる現状はわからないでもありません。しかし、どうやってももう後戻りはできないのです。力のあるなし、才のあるなしに関わらず、誰でもが自分の意見・感想・批評(自意識)をさも大したことであるかのように表現できる時代が来てしまったのです。それがいいことなのか悪いことなのか、私にはわかりません。ただ、この時代においてそれでもなお「モノを創る」ことを目指すのならば、この現状を無視して進むことはもう出来ない相談だということです。もちろん私も、ささやかながらホームページを持ち、自分の感想をwebに晒している以上、自分の書いた文章には責任を持つ気でいますし、「批判を書くときほど自分の感性が問われているのだということを考えて欲しい」と書いたとある創り手の方の意見は肝に銘じておくつもりです。ですが、ネット上の全ての人間にそういう覚悟を強いることは100パーセント不可能なことなのです。


一行レビューによって実害が出ているという声をいくら聞いたところで、私はどうしてもこう思ってしまいます。
「こんなものでつぶれてしまう芽ならばそれはしょうがないのではないか。それがいやなら、創り手としての立場を捨て、就職し、安定した仕事に就けばいい。誰もあなたにモノを創り続けてくれなどと頼んではいない。」
御輿の上に立ち、他人から何かを見せることで対価を得ている以上、それぐらいの意識を持って欲しいと思うのは、観客の傲慢なのでしょうか。


私は観客であり、芝居の力を信じている愚直な観客です。ですから、甘いといわれようとなんと言われようと、真に面白いものは必ず世に出てくると信じています。ネット上でどんな評判が渦巻こうとも、劇場で受けた体験が圧倒的なものであれば、それは見も知らぬ赤の他人の批評によって揺らぐものではない、それこそが、LIVEというデジタルからは最も遠い表現方法に依って立つ芝居というものの最大の力だと思っているからです。ネット上での規制を、と高らかに声を挙げる創り手の方々の意見は、申し訳ないけれども芝居の力を信じていない人達の声のように思えてならないのです。


◆なんで芝居が好きか◆
基本的なとこからいってみた(笑)。

私が芝居を好きな理由はハッキリ言って自分にもよくわからん。役者が生(LIVE)で演じているのを見ることが好きなのかもしんない。同じ舞台は2度とないという、その一体感と緊張感が好きなのかもしれないし、もしかしたらあたしの趣味は他の人とちょっと違うわよっていう通ぶった優越感が好きなのかもしれない。

でも、多分、余韻だと思うんだなぁ。一番の理由は。
役者が舞台の上で頭を下げて、客席からは拍手が起こって、幕が降りたり降りなかったりするけど、役者がはけて、舞台上の照明が消えて、客電がだんだん明るくなる。
そうしたらもうそこには、さっきまでその舞台の上に確実にいた、確実にあった存在感や人物や物語や熱狂や、そんなものの欠片すらなく、ただの板があるだけで、だのに自分の胸の中はまだその物語の熱が溢れそうになっている。
その余韻が、たまらなく好きなのだと思うのです。
今さっきまで私の見ていたものはほんとにあったものなのか、持っていけるのはただ一つ自分の中にある余韻だけという切なさが、好きなのだと思うのです。

あとはなんなんだろう・・・・やっぱり芝居独特のものっていったら物語性なのかなぁ・・・・。やっぱなんだかんだ言って「物語」が好きなんですよね。・・・っていうことはナニ、あたしは未だに物語世界に生きる夢見がちな少女(←誰がじゃ!)ってこと?あ、そういう結論?(笑)

まあでも、一瞬、その一時だけ、生まれて消えていく物語とその余韻。それに惹かれ続けてここまで来ちゃったんでしょうね。
こんな風に、これからおばあちゃんになっても、劇場に通い続けるのだろうか。

そういう人生も、悪くはあるまい。うむ。


◆才能とは?◆
今、最もと言っていい程勢いのある劇団「新感線」には、私の高校時代の先輩が居ます。
私は高校時代演劇部に所属していて、私が1年生の時彼は3年生でした。彼の代には男性の部員は彼しかおらず、彼よりも他の女性部員達の方が強く、舞台の上でも遙かに生き生きとして見えました。彼はそんなに熱心に芝居に取り組んでいるようには、その時の私には見えませんでした。

だから彼が大阪芸大に進み、新感線に入ったと聞いて正直言って驚きました。それは、「プロとしてやっていくんだ。」と言う事への驚きもありました。高校時代、演劇をかじっても、たいていの人はその一時の熱狂や夢から覚めて、大学を出る頃には舞台は趣味のひとつになっているのが「当たり前」だとどこかで私が思っていたからでしょう。

何年かぶりに「髑髏城の七人」で、彼の姿を舞台で見たとき私は驚きました。彼がまだ劇団員として居るんだという驚きではなく、舞台を背負う重要な役者としてそこに立っていたからです。

88年に第三舞台の「天使は瞳を閉じて」を当時の演劇部の人達と見に行きました。その時彼も居たのかどうか覚えていません。どちらにせよ、その舞台を見た瞬間から、第三舞台の人達は私にとって憧れの存在でした。遠い、手の届かない存在でした。それは今でも全く変わりません。十年という月日が経っても、その距離には全く変わりがありません。

けれど、少なくともその時、私と同じ側で彼らを見ていたその先輩は、今、その彼らと同じ舞台の上に立っている。「LOST SEVEN」で、「犬夜叉」で、対等な立場で舞台の上で相対している。
すごい、と本当に心の底から思います。
鴻上さんが言うように
「才能とは夢を見続ける力のこと」
なのだなと、心底思います。彼は、夢を見続け、そして毎日、やることをやってきたのでしょう。

くどいようですが、彼は決して天才なんかではありませんでした。普通の、お芝居好きのにーちゃんでした。でも、ここまでこれる。そしてこの夏、彼も新橋演舞場の舞台に立つ。
彼の名前は、磯野慎吾といいます。

慎吾先輩へ。いつも舞台拝見してます。髑髏城は最高でした。これからも頑張って下さい。阿修羅城楽しみにしています。

そして今、舞台に上がることを夢に見ているヒトへ。
ほんとうに、才能とは夢を見続ける力のことなのです。それを信じて、頑張って下さい。


◆マナーについて◆
もしかしたら暴言大炸裂になるかもしんないです。その辺ご容赦の程を。

とかいっても芝居を見る上でのマナーなんてもう超カンタン!なんですけどね。
「他のお客に迷惑をかけない。他のお客の邪魔をしない。」
役者に迷惑をかけない、のではなくて「お客」にね。あたしはそう思う。
極端な話、もし1人のお客が1公演の全席のチケットを押さえたとしたら?
その人がやりたい放題するのを止めれる人なんていないでしょう。
伝家の宝刀「金払ってるんだから」を抜かれてオシマイ。
誤解しないで欲しいけどそれが正しいとか言ってるわけではないですよ。

ただ、「役者さんに迷惑だから・・」っていうんじゃなくて
あなたの隣にいるあなたと同じ観客を尊重するのがマナーだと思うんです
それが「喋らない」ってことであり
「携帯やポケベルの電源を切る」ことであるんじゃないでしょうか?
それらの行為はもちろん芝居を台無しにする物だけど
他のお客の楽しむ権利を奪ってることでもあるんです
自分の好きな役者に迷惑をかけることは恐れても
自分の隣にいる人に迷惑をかけることは恐れない

そういう人には劇場に来て欲しくないですね、私は。

野田さんがいつか言っていたけど、芝居っていうのはほんとに暴力的なメディアだと。
何ヶ月も前からチケットを買わせ、コヤに入れたら入れたで立つな喋るなうるさい。
しかも携帯電話の着メロ一つ、隣の客のおしゃべり一つで
その芝居全てがダメになるかもしれないなんて
そんな話あるか、繊細すぎてふざけんじゃないよって感じ
でもだからこそ、信じられないような一瞬を体験できる。
映画でも本でもCDでもTVでも体験できない何かが生まれるときがあるんです。

芝居を、初めて見てみようと思っている方へ。
こんな怖いファンばっかりなのか、だから芝居ってイヤなんだよって
思われたかもしれないですね
それならそれで、しょうがないって私は思います。
ただ、この世界を深く愛している人の気持ちをちょっとだけ汲んでやって欲しいのです
あなたが愛しいと思っているものと同じように
客電が落ちる瞬間を至福に思う人間の気持ちを思ってみて欲しいのです


それでも、芝居というものを体験したいと思って下さる方。
ご来場を心より歓迎いたします。

劇場へようこそ。


◆オールタイムベスト10◆
天使は瞳を閉じて/第三舞台(1988)
贋作・櫻の森の満開の下/夢の遊眠社(1989)
赤い鳥逃げた・・・・’89/離風霊船(1989)
夜明けの花火/Cカンパニープロデュース(1990)
不思議なクリスマスのつくりかた/キャラメルボックス(1990)
彦馬がゆく/東京サンシャインボーイズ(1993)
12人のおかしな大阪人/G2プロデュース(1995)
ナイフ/惑星ピスタチオ(1995)
例の件だけど、/自転車キンクリートSTORE(1997)
髑髏城の七人/劇団☆新感線(1997)

* 年代順です)

この間INDEXを劇団別でもつくってみよーと思って整理していて気がついたんですが
あたしってばほんと特定の劇団しか見てないのね(笑)
まあそれは大阪に住んでるってこともあるとは思うんですけど。
そんなわけで?一応ご贔屓劇団につきひとつ、という形で選んでみまして。
遊眠社の「贋作・櫻の森の満開の下」、キャラメルの「不思議なクリスマスのつくりかた」はその劇団を初めて見た時の演目ですね。遊眠社の「櫻」は不動ですがキャラメルの「不思議な〜」は「ナツヤスミ語辞典」と迷いました。しかしやはりあのラストの紙吹雪に軍配、という感じですかねぇ。
離風霊船の「赤い鳥逃げた・・・」も最初に見た演目ですがこれはほかに選びようがない感じ(笑)。Cカンパニープロデュースの「夜明けの花火」は、歴代でもこれを超えるものはないかも、と思うぐらい好きな作品です。芝居を見て泣いたことはそれまでにもありましたが、嗚咽まで漏らしてしまったのは初めてでした(笑)。
同じプロデュース公演「12人のおかしな大阪人」は作品としての質ももちろんですが、プロデュース公演ならではのキャストの豪華さを堪能させていただきましたので。

最初はあんまりピンときてなかったのに途中からお気に入り最右翼に浮上してきたのが新感線「髑髏城の七人」、ピスタチオ「KNIFE」、自転車キンクリート「例の件だけど、」
最初の出会いとなる作品はインパクトという+α要素があることを思うと、それを抜きにして、しかもだいぶスレてきた(笑)観客を興奮&感動させてくれたこれらの作品の魅力っていうのはほかのものを凌いでいるのかもしれないです。

東京サンシャインボーイズ「彦馬がゆく」は、「芝居」というものに対して飽きというか(笑)恋人同士なら3年目って感じの倦怠期の時に出会った作品で、あたしはやっぱ、芝居が好きだー!と思わせてくれた、情熱を呼び戻してくれた作品。
そして第三舞台「天使は瞳を閉じて」。第三舞台の作品としては「ビー・ヒア・ナウ」と迷いました。しかしここで「ビー・ヒア・ナウ」を選んでしまうと「天使」がどこにも入らなくなる。それはやべえだろうってことで。

しかし、この舞台を見ていなかったらここに挙げたのこり9本の作品にも間違いなく出会ってなかったわけです。そういう意味ではこの作品こそ私にとっての本当に特別な一本なのかもしれません。


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