来年になったら…… |家にいるうちは、祖父は家長 |「がん患者学」 |手術不可能 |入院直後の混乱 |次のページへ
ここのところ、お年寄りを抱える家族が「この冬無事に越せるだろうか」と思う気持ちが分かるような気がしてます。この冬のインフルエンザウィルス予報によると、特にお年寄りが免疫を持っていないタイプが流行するそうです。去年までは漠然と気にしていただけだったのが、今年は「風邪ひいたら会いに行けない」という気持ちになります。
直接は会いに行けてないんだけどね。どうも両親の話しぶりからすると、祖父の体調があんまり良くないみたい。
今朝祖母に電話してみたら、「大丈夫、気にするほどのことじゃない」としか言わないけど、いつになく弱気な気配が見え隠れしてました。
あんまり辛い思いをしないでいてくれるといいなと、思ってます。あまり多くは望めないから。
母から、祖父の体調不良の原因がなんとなく判明したと連絡が入りました。明日、明後日とさらに精密検査をするらしい。ある程度予想されていたことではあっても、悲しいものは悲しい。
祖父が検査のため病院に行くのに付き添いました。もう立って歩くのがしんどいので、病院内は車椅子移動になります。ゆっくりと車椅子を押しながら、話に聞いていたよりは体重があるななんて考えてました。もっとずっと軽かったらどうしようかと思ってたもので。
家に戻ると、老人会の会長さんが訪ねてきました。祖父があずけた会計簿の計算と実際の残金がどうしてもあわないというのです。
祖父が老人会の会計を任されたのはもうずいぶん昔のことです。まだ若造だから面倒な仕事をおっつけられたといって笑っていました。それからずいぶん経って、会長さんが代替わりして、祖父は常任理事のような立場になって、それでも会計の仕事はきっちりとこなしていました。年度末になると、祖父が書いた会計報告書を私か父がワープロで清書して、コピーを取ってくるのが恒例行事になっていました。
そんな祖父が会計簿を手放したのも悲しかったけれど、訪ねてきた会長さんが「何か帳面に書き漏らしたものがあるんじゃないか」と言うのがもっと辛かった。祖父は愛用の手帳をいつも持ち歩いては非常に几帳面に何でも書き付ける人だったから。でも、計算が合わないまま他人に渡すわけにも行かなくて、かといってもう自分で細かな確認作業をする気力がなくて、どこか遠い目をして会長さんの言葉を聞いているだけの祖父の姿が、寂しげで。
差し出がましいかなと思ったけれど、結局私が確認作業を申し出て、2ヶ所ほど会長さんの勘違いがあったことが発覚しました。一件落着して会長さんが帰っていった後、祖母が「ほんとにおまえがいてくれて良かったよ」としみじみと言ってくれました。思わず私は「おじいちゃんが何か書き落とすなんてことはないだろうから、どこかで間違ってるんだろうなって思ったの」と言わずにはいられませんでした。
老いても、弱っても、祖父の中に残る尊厳を未だに私は感じ取ります。できなくなったことが増えていっても、だからって自分に自信を持てなくなってしまうことはないんだと、伝えたかったのです。
祖父母の家は未だに黒電話で、モジュラージャックというものはありません。昔私が同居していた頃の回線は引っ越してしまってるし、グレーの公衆電話に通うのも手間なので、携帯につながるケーブルを買ってきました。これでほんとにモバイル環境が整いました。通信速度が若干遅いけど(9600bpsだと体感できる)、耐えられないほどじゃありません。ずっと2400でパソコン通信してたし、それに比べりゃ早い早い。(比べるな、という話もある・・・)
にもかかわらず日記をアップしなかったのは、今日の分まで追いつかなかったからなのです。この家にいると、時間がとにかくのんびり流れてしまって、あんまりパソコンを開く気にもならなくて。今頃友人達は忘年会(集まって鍋つついて遊び倒そうという企画)やってるんだろうなとか、ほんとなら昨日辺りは研究室でかなり遅くまで実験作業してる予定だったんだよなとか、ぼんやり考えてはみるものの、別次元の出来事のように感じられてしまう。夕食5時、7時にはお風呂から出てきてすることがなくなってしまうという驚異的スケジュール。のんびりと、何事もなく過ぎていく日常。
もうあとわずかもない時間だろうから、ここにいようと決めました。
来年、仕事始めになればどちらにせよここにはいられないから。
母が風邪をひいたそうです。祖父を病院へ送るため、何度も茨城と東京を行ったり来たりしていたから、疲れが出たのでしょう。もともと丈夫な人ではないし。万が一にも祖父に風邪をうつしてはいけないということで、今日は父だけが帰ってきました。
それから、祖母の実家へお餅と野菜をもらいに行きました。親戚に祖父の病状を説明するときに、祖母は「1月の9日に検査結果がでるからまだよく分からないけれど、腎臓が悪いらしい」という言い方をしていました。詳しい状況といっても、転移の有無を調べているだけなのに。食事を殆どしないから、やせ細って体力がなくなってしまったといえば、良くない状況なのだとは伝わります。それでも祖母は病名をはっきり口にはしません。相手も、思うところがあってもつっこむことはありません。暗黙のうちに了解して、静かに覚悟を決めるのです。
昨日もらってきたキャベツで野菜炒めを作ろうと、父が台所に立ったのはいいんだけど、どこに何があるのかよく分からなくて(だっておばあちゃんってば所狭しとものを詰め込んであるんだもん)大騒ぎ。ずいぶん手慣れた風に野菜を刻み、大丈夫かなと思ったら、一番外側の葉っぱは堅いからって炒める予定の野菜に塩を振っちゃうし、冷凍豚小間を野菜と一緒に追加しちゃうし、やっぱり油断なりません。もう水が出て仕方がないから水溶き片栗粉を入れてごまかしたら今度は私が作ったと言い出す始末。最初っから最後まで私にやらせてくれれば、もうちょっとまともに仕上がったと思うんだけど。それでも祖父は箸をつけてくれました。
夕方になって、祖父が「お腹が痛い」と言い出しました。どこが痛いのか聞くと、場所的にどうも胃や腸ではなくて、腎臓なのです。急に痛くなったわけではなくて、ここのところずっと痛かったらしい。医者からもらった薬のなかに、何か胃薬があったから探してくれというけれど、その痛みに効く薬はここにはありません。「ここじゃ何もできないから病院行く?」と聞くと、「来年になったらな」という答えでした。
きっと、救急で病院に入ってしまったら戻ってこられない。
だから「どうしようもなくなる前に言ってね、お願いだから」というだけで引き下がりました。で、隙をみて他の家族にも伝えました。病院は休みでも、救急だったらいつでも行けるから、と。
実家の方で忘年会してた弟が母と一緒に帰ってきて、いつもの年末風景です。もうじき年が明けます。
どうかどうかもう少しだけ、平和なお正月を迎えられますように。
祖父はお腹が痛いからといって胃薬を飲みたがります。私は薬剤師口調になって問診し、「この薬(粘膜保護剤)は今の痛みに効く薬じゃないと思うよ」と言います。「お医者さんに診てもらって、痛みが楽になる薬を出してもらおうよ、我慢することはないんだよ」と語りかけます。それでも祖父は4日になったらと答えます。
祖母を丸め込んで、明日、救急車を呼ぶ予定です。今日は、今は、どうしても嫌だと祖父が言うから。
2001/1/3(水)の日記より
結局、祖父はまだ病院に行っていません。本人が嫌がっている以上、強制は出来ません。9日には予約が入っているわけだし、祖父は予約や約束といったものをきちんと守る人だし、それまで家にいたいというのならば、それ以上何も言えないのです。
ぱたぱた動き回る祖母にちょっとした指示を出したり、落花生を食べ過ぎると笑ったり。声を出さずに合図することが増えたほかは、祖父は相変わらずです。昔から、家のことは何もしようとはせず、「俺はかあちゃんがいないと何にもできないんだ」と照れたように笑う人でした。
家にいるうちは、祖父は家長です。けれどひとたび入院してしまったら家族から切り離され、「病人」という枠に押し込められてしまう。どんなに頻繁にお見舞いに来るとしても、もう家族とともに暮らすことは出来ない。
だったら、病院にいても家にいても結末にさほど違いがないのなら、家にいたい。どうせ医者もこの病気を治すことはできないのだから・・・。
それでも苦しいことにかわりはなくて。何か、一瞬にしてこの苦しみを吸い取ってくれる薬があるものならば、どうか助けてくれと願わずにはいられない。気休めでも一時しのぎでも構わないからと。
この心の声が祖父のものなのか、それとも私自身のものなのか、私には分かりません。祖父の、驚くほど落ちくぼんでしまった目が訴えかけるものに、私が勝手に形を与えてしまっているだけかもしれない。
澄んだ、むしろ青いようにも見える眼球に映るもの。痛みを、苦しみを、無力感を、寂しさを、そして思いがけないほど強い意思を、こっそり向ける笑みを、深い愛情を。くるくると入れ替わる表情に祖父の心情を垣間見るような気がして、たまらなくなる。何もかもが率直な祖父の思いなのでしょう。
夕方、弟に送ってもらって家に帰りました。明日から私は私の日常に戻ります。
お正月は、終わりです。
がん患者学(晶文社・柳原和子)を読みました。ずいぶん前に買ってあって、けれどまともに読み込むには気力と時間を要する本だから放っておいたものです。
著者は20歳で母親をがんで亡くしています。そのときから根底に医療への不信感を抱いている、だから自分の意見は偏見の入ったものとして読んでほしいと言っています。長期生存者へのインタビューや医療関係者との対談は全文を載せています。語り手の言葉を著者の意図で取捨選択しない、という決意の現れだそうです。また1つの主観的な情報に別の角度からのコメントをつけることによって客観性を持たせている部分もあります。何事もありのままに、バイアスをかけてしまわないようにと細心の注意を払われているなと感じますが、あくまで著者の取材した範囲内において、なのです。
著者の視点が全体の視点をどれほどカバーするものなのかは分からない。
著者とほぼ同年代である私の母もやっぱり若くして母親(私の祖母)をがんで亡くしています。がん治療、終末期医療への不信感、食事療法(体質改善)や代替療法(広い意味での免疫賦活療法)への強い関心など、著者の背景と重なる部分がかなりあるように感じます。著者の言う偏見は、広く浸透している意識なのかもしれません。
私は一部の民間療法は置くとしても、食事療法や免疫賦活療法については、科学的に証明できる日が来るだろうし、医療の枠組みに組み込まれることがあってもいいんじゃないかと思っています。こうした療法がすべて西洋医療と相反するものだと考えていることは偏見だろうと。医療や科学というものについて何か限局した捉え方をされてしまっているとしたら、ちょっとずつでも訂正する努力をしていかなくてはならないと思ってます。
この本に出てくる話の中にも誤解と偏見と、未だ証明できていない真実が混在している。でも、ふるい分けすることが出来たなら、そして新しい枠組みを与えることが出来るのなら、先が見えて来るんじゃないか。丸山ワクチンが抗腫瘍剤としてではなく、免疫賦活剤として認可されたように。そして「今は形の見えないなにか」を証明する方法を考えるのは研究者の役目です。
ごめんなさい、この本の話はとても日記で書ききれるものじゃありません。だから一番気になった「偏見」についてだけ、書いてます。偏見を承知の上で読めば、とっても読み応えのある本だと思いました。
祖父の腹部CTの結果が出まして、もう手術は無理だということになりました。
それでも祖母は「体力がついたら先生も手術するって言うかもしれないし」と言ってます。日頃、あれほど「年寄りは若いのと同じ感覚で手術しちゃいけない、簡単に死んじまうんだから」と話していたのに、手術したばかりに命を縮めた悲しい話をいくつも見聞きしているのに、祖父はもう手術できないのだとういことを受け入れきれないようです。
祖父の手術が断念されたのは体力の問題ではありません。もう、とてもとりきれる状態ではないからなのです。私は母からそう聞かされたとき、「ああ、やっぱりな」と思いました。超音波診断の段階でガンだと断定されるということは、相当腫瘍が大きいのだろう、そして祖父の異様なやせ方、食欲不振、隠しきれないほどの疼痛。かといって内臓の大部分を摘出するような大手術をするには、祖父は年を重ねすぎている。
どうしたら祖父が少しでも楽になれるか。積極的治療は出来ないと医師から直接宣言されたことで、見放されたような心持ちになっている祖父に、何を伝えられるか。
通常なら、私は私で元気にやっているよと、その後ろ姿を見せるだけで事足りるでしょう。たまに遊びに行って、一緒にお茶飲んで食事をして、それでよかったかもしれない。けれど。
弱っている人に対してはそれなりの思いの伝え方が必要になってくる。
もう我慢しなくてもいい。頑張らなくてもいい。闘わなくてもいい。それでも、見捨てたりしないから。何にも出来なくなってしまったとしても、それはとても悲しいことだけど、それでも大好きだよと。
今までよりもうちょっとだけ積極的に、伝えたい。
隙を見て祖父のお見舞いに行ってきました。入院前と比べて若干顔色がよくなったようでした。でも点滴に栄養が入っているわけではないみたいでした。眠っているようだったので、起こさないように静かにしようと思ってたのに、ベッドのそばに立ったらセンサーマットが反応して看護婦さんが飛んできました。もう一人で歩くのは危ないからなのかなと、この時は思いました。
院長先生からのお話の件で祖母と両親が来ることは知っていたのですが、他に叔父夫婦や祖父の兄弟夫婦たちも来たそうで、さすがに疲れたようでした。「調子はどう?」「何だかぼやぼやしてるな」「痛いのは治まった?」「相対的に、どうだかなぁ」という風に、ぽつりぽつりと話をしました。
すぐに夕食の時間になったので、食べる間も付き添ってました。おひたしとおでんの卵の黄身を少し、それからおかゆを2,3口、お茶を半分。それでもういいやと、ベッドの上で歯を磨きました。洗面所まで行くのはおっくうだと話してました。歯磨きセットの後かたづけをして、ベッドを倒して、枕元を整えてから「また顔見に来るね」と声をかけました。「おう」と返事した声だけが大きくて、いつも帰り際、玄関から声をかける私に聞こえるように、こたつに入って座椅子で寝たまま返事していたときと同じだなと感じました。
後で母から聞いた話によると、祖父は入院した夜に点滴を途中で抜いてトイレに行き、血をだらだらこぼして歩いたのだそうです。1度目は看護婦さんが説明して、にもかかわらず2度目があったためベッドをトイレ前に移され、さらにセンサーマットという措置が執られたのだそうで。自力歩行もかなり困難で(というか転んだらしい)、看護のみならず介護の必要が出てくる可能性が高いと判断されているらしいです。場合によっては介護保険の適応も考えるそうで。
祖父が入院しているのは地域救急医療の中心的な役割を果たしている病院で、その性格上、容態が安定して次の受け入れ先が決まれば移動することになります。祖父の場合、長期療養可能な老人病院へということで、ソーシャルワーカーの方が間に入って調整してくださってます。看護婦さんは、できるだけまめにお見舞いに来て、刺激を与えてくださいと話しています。一日中寝たきりだとぼけがくることもあるのだそうです。
私は自分の行動を続けます。時間の余裕が出来たときに、ふらっと顔を見に行く。何となく近況を話して、別に話をしないでそこにいるだけでもよくて。それで、自分できりのいいと思う時間でふらっと帰っていく。数年前から続けているとおりに。