my profile(かぐや垣)/雑感/気になることば/リンク集
私のプロフィール(写真はかぐや垣)。
竹の径(みち)はわが街の竹林に5種類
の竹垣により作られた、散歩道として
全国的にも有名になりつつあるユニーク
な竹垣道です。写真を貼りつけます。
また、気になることばについて思うまま
に書きました。リンク一覧もあります。

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 プロフィール

名 前 Job(旧約聖書ヨブ記主人公の英語読み、仕事の意味もあります)メアド用H・Nは
      ???
住 居 京都府
性 別 ♂ (AB型)
年 齢 19??年生まれ(さそり座)
職 業 自由業(元JRマン)
性 格 温厚。優しい。話聞き上手。ウンチク好き。
趣 味 音楽(クラシック、バロック、演歌、ナツメ
     ロなどなんでも好き)水泳・ジム通い。気功
     遠藤周作・司馬遼太郎ファン、阪神ファン
教 会 日本基督教団教会員(暦50年)。


 雑感1 日本人の思考形式と仏教(04.10.1)

 新聞のコラムにこのような題名で、浄土真宗の某研究所長が文章を書いていました。全部は書けませんが、要旨は『ブッシュ大統領の対イラクの報復政策には違和感を抱く。世界を善と悪を二分し、悪を滅ぼせば善の世界が来ると言う発想。それもアメリカを基準としての善であり、武力で実行する政策にはついていけない。
それに対して日本は仏教の思想形式や価値観が浸透している。・・だから過激な行動はしない。不当な被害を受ければ当然怒りが生じ、報復したいのは日本人とて同じである。しかし、その怒りの気持ちを断ち切ることなしには、争いは尽きない。より大切な平和のために忍耐をもって鎮めていく道をブッダは示唆している。・・・
 
「善」も「悪」も絶対的なものではなく相対的な概念であるというのも仏教の「縁起」の思想に基づく思考形式。私たちの生活のなかのすべての意味や価値は、相対的である。日本人は大小の争いを(相対的なものとして)収拾してきた。

ところが、アメリカは善悪を固定的なものと考えて、悪を滅ぼして善のみの世界にするという思いこみがある。それでは「征服」「報復」の限りがない。仏教のとる方法は、そうした人間の自己中心の誤った思考を転換して、善悪を超えた柔軟な思考で平和を実現する。・・・日本人が好かれるのは、そうした優れた思考形式をもつことへの期待であろう。』と名前こそ出ていませんが、アメリカ流の自由主義の背景にある西欧のキリスト教に対する皮肉が込められ、それも偏った聖書観によるものと理解します。このような思考は今まで何回も書いてきましたが、日本の文化人の特徴です。

 聖書の何処に聖戦を肯定する箇所があるのか、教えてほしいです。それは多分旧約の記事からきていると思われます。旧約には戦争肯定記述はありますが、それは情報として客観的に書かれているだけで、福音の本体である新約聖書にはまったく書かれていません。
 それから、「善」と「悪」を固定的にしか考えていないとは、誤解もはなはだしいです。確かに聖書は「善」は神のみとはあります。でも、この地上の生活は相対的だとはっきり書いてあります。
聖書はすべてが「善」と「悪」に固定的に決め付けてはいません。(それはイエスが最も嫌ったユダヤ的な律法主義です)仏教はすべてが相対的だと主張するのは、かねてより(仏教は)無神論と言われている所以です。

 もうひとつ。日本人がそれほど平和的な人種だと思うのは、これも大きな誤解です。仏教の教えは確かに平和的かもしれません。(それを言うなら聖書の教えはもっと平和的です)しかし、日本の歴史をひも解いてみますと、有史以来、争いは絶えませんでした。親子・兄弟はもとより、鎌倉以後の戦国時代に至るまで、戦争・争いは絶えませんでした。秀吉の朝鮮侵略(征伐)もありました。
 江戸幕府になってやっと、二百数十年近くの戦争がない時代はありましたが、封建制度でやっと持続していただけです。明治維新以来は、太平洋戦争に負けるまで、戦争の明け暮れだったのは周知のとおりです。

 「・・・そして、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ9:50)
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(ロマ12:18)
「・・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ロマ12:19.20)

とこのように聖書には「復讐するな」また、平和という文字は数え切れないほど沢山あります。まさに聖書は平和の書です。なのに、日本の文化人は聖書の何処を読んでいるのでしょうか?多分、キリスト教の(ネガティブな)表面的な歴史しかみてないと思います。

 ブッシュをはじめ、帝国主義的・侵略主義的な西欧の歴史の背景にあるキリスト教。ナチ・ヒトラーの独裁を止められなかった西欧に対する嫌悪感と不信感が拭い去れないのでしょう。こんな時、日本のキリスト教会はどう考え、どう行動していけばよいのか、深い洞察を求められます。Ω
(写真は物集女垣)


 雑感2 人間はそんなに有能か?(04.11.24)

大きな書店へ行くと、何万冊、何十万冊?と数え切れないほどの書物があります。それもありとあらゆるジャンルがです。これらを全部読むとすれば、一生・ニ生もかかっても読みきれないでしょう。音楽でも同じです。無限に近いほど雑多なジャンルがあります。

 その他、長い人間の歴史の中で、人間は文化・芸術、科・化学、政治・経済・社会とあらゆる分野で、多くのものを創造してきました。これでもって、人間が本当に偉大であり、有能であると言えるでしょうか。今は戦争の事はおいておきます。

 今まで、ホームページに何回も書いてきましたが、人間の発明・発見してきた文化・文明は確かに素晴らしいものがあります。
 しかし、よく考えてみるとまず、宇宙の起源からみますと、旧約聖書の創世記に書いてあるように、文字通り六日間で創られたと言う神話的(たとえ話的)な表現は置いておいて(専門的な解釈はできません)約150億年前(これも推定で、仮説です)にビッグバンと言う現象で宇宙が出来上がったと言います。

 そして、何百万年前に、人間が生まれ、進化・発達してきました。人は被造物です。元々、人間はみな何一つ持たず裸で生まれました。脳と身体、精神の発達により、脳の働きと、身体の働き、技術の進化により色々なものを創ってきました。それも長い歴史的なプロセスを経てです。

 厖大な宇宙の構造・仕組みにおいて、その中のほんの塵みたいな私たちの住んでいる地球に限って考えても、その自然の不思議さ、動植物の生態系、美しさ。深い森林や深海、人体のミクロの世界も未だに解明されていません。

 人間が創り出した物は、その原材料は、はじめから全て自然に在った物で、何一つ人間が創った物はありません。金銀などの金属類、宝石。石油などの化石燃料。木材、草花。穀物・野菜など、牛や豚、魚類などの食べ物類。全て、初めから在った物ばかりです。

 人間はこれらに手を加え、改良してきただけです。人間業とは思えない天才たちの創り出した物さえ、その頭脳と技術・才能も、元をただせば天から与えられたものです。エジソンは1%の才能と、99%の努力と言ったそうですが、その努力を生み出した意思さえ、天から与えられたものです。

 ここで私が何を言いたいかと言いますと、人間が多くの文明・文化を創出してきたが故に、人間の心におごりが生じ、科学・技術・芸術万能至上主義に走り、その結果創造主である神を忘れ、従って、創造主に対する畏敬の念、倫理観・道徳観の欠如。他者に対する思いやり、気遣い、気配り・愛の心が疎かになっているのではないでしょうか。

 その結果、物質万能主義、拝金主義に偏っています。力の強い者だけが生きていく権利がある。弱い者は滅んでいっても仕方がないと言う思い上がった心が支配しています。それが、南北の富の差を産み、飢餓や戦争として現れています。悲しいことです。Ω
(写真は寺戸垣)


 雑感3 光と暗闇。正義と悪。罪と愛(04.12.2)

 「初めに言があった。・・・言は神であった。・・・万物は言によって成った。・・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネによる福音書1章1〜6)

 福音書は神が全世界の創造主であり、それは光であり、即ち、救い主であるが、暗闇、即ち、この世は、理解しなかった。とあります。ここにこの世の悲劇と、救世主との葛藤があります。創られたものは必ず滅びます。(形あるものは必ず滅ぶ)

 「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き・・」(ヨハネの黙示録21章1節)やがては、古い天地は滅び、新しい天地が現れる。と言うのが、聖書のメッセージです。この世は仮住まい(ヘブライ11:13、1ペト1:1、
1:17、1ペト2:11)だから、これにこだわらず、執着せず、信仰生活に自由に邁進せよと言います。

 この世の支配者はサタンとも、悪魔とも呼ばれています。罪と言う名の主人が支配しているとも言います。これらの呼び名は『たとえ』です。
サタンは神に反逆して罪を犯した天使(2ペト:4、ユダ6,7節、黙示20:1,2)が、この世を支配しているとも言います。だから、この世は暗闇です。罪の世とはこのように罪のかたまりであるサタンに支配されている状態を言います。

 また、このサタンに支配されている人間も罪を犯した状態とし、「罪びと」と言います。
もはや、人間は自分の力ではサタンと言う罪からのがれられないのです。それで、憐れみ深い神が、ひとり子イエス・キリストをこの世に、救世主として遣わされた。これがクリスマスの出来事です。サタンと言う罪なる支配者・主人の支配から解放された。自由になった。これが福音(喜ばしき知らせ)です。神の愛の証明です。

 「罪」とは的を外れる、反逆しているとも言います。普通の殺人や。窃盗などの社会的犯罪とは違います。(明治の翻訳者がこの「罪」を刑法上の罪と同じ言葉に訳したので、未だに混乱しています)聖書は、人間はアダム以来の罪(サタンの支配)により神に反逆して、自らの力では救えないので、イエス・キリストを受け入れ、悔い改め(方向転換して)信じるのです。そこに本当の救いがあると言います。

 2004年前に、救い主が現れたのに、未だに、世界は平和になれません。キリスト教会も、一生懸命布教・伝道・宣教しているのに・・・
 神は全能で、全宇宙の支配者、正義・愛であるはずなのに、戦争や、飢餓、貧富の差、エイズなどの救いがたい病気。凶悪な犯罪。想像を絶する自然の大災害・・・これでは「神も仏もあるものか」と言う疑問が沸くのも当然です。

 旧約時代、選民イスラエルの度重なる背信と偶像礼拝に対して、預言者が何人も遣わされました。そして、イスラエルの背信を厳しく糾弾しました。バビロンに滅ぼされたのは、
彼らが預言者の言葉に耳を貸さないので、神の怒りに触れたとあります。
 どうしようもない、イスラエル(ユダヤ)の救いのために、神は神のひとり子、イエス・キリストをこの世におくったが、結局、イスラエルのかたくなな姿勢は改まらず、かえって、十字架につけました。しかし、イエスは三日後に復活して、人類の完全な救いを成し遂げたと書かれています。これがキリストの贖罪です。(機会があればまた書きます)Ω
(写真は古墳垣)


 4 Q&A(04.12.2)

 前項で、いくつかの疑問点が出てきました。私がこれに答えるには、荷が重過ぎますが、自分流の思いと体験を通して、考え、感じたことを書いていきます。

 何故、平和が来ない? ばかりか、かえってイラクでは戦争がエスカレートしていく感じです。テロの恐怖からいつになったら解放されるのでしょうか?

 宗教・民族の違いの争いとも言われますが、イスラムが一概にテロ集団とも言えません。
 アメリカの一国主義的な、極端な間違った正義感があることは否めません。では、なぜ神は見過ごしているのか?これは私には分かりません。

 世界にはキリスト教だけではなく、仏教、イスラム教、ヒンズー教など幾多の宗教があります。聖書の神が全世界の支配者なら、何故、これらの宗教が存在しているのか?これも私には分かりません。

 ただ、「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、・・・たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法です(救い)。」(ロマ2:11〜14)とあるように、聖書の戒めを知らなくても、自然に律法の命じることを行っていれば、神の目にはよしとされる。
 
 律法主義的なコチコチの宗教を持つより、形はどうであれ、倫理的に間違いがなければ、それはそれでよいとパウロは説いているようです。他のところでも書きましたが、キリスト者でなくても、この世の功績者・偉人は多数いますし、キリスト者でも、堕落してだめな人もいます。最後の審判ではっきりすることでしょう。
  
 なぜか分かりませんが、神はイスラエルだけを選んで、神の民とされました。当時の世界も、紀元前4世紀〜5世紀には仏教が始まっていました。(もっとも、旧約のアブラハムの時代はもっと古いですが)また、イスラム教も紀元7世紀に始まりました。人間にとって、宗教は必要ですから、別の違う形があっても不思議ではないです。きっと私たちには分からない、神の御心があるのでしょう。終末時には、はっきりするはずです。

 非道な戦争や、残忍な犯罪がなぜ見過ごされているのか、なぜ、罪もない幼子が無残に殺さるのか。凶悪な犯罪者・腹黒い為政者がのうのうと生き延び、善良な市民が桁外れの天災・大災害に見舞われます。なぜなのかよく分かりません。

 にもかかわらず、信仰を捨てられないのは、この世は過ぎ去っていくもの、一時的なもの、未来に希望を持って、最後の審判を待つしかないと言うことです。仮住まいだから、いい加減な生活でもよいとは決して言っていません。

 この世はやがては終末を迎えます。その時機は神のみぞ知ると聖書には書いてあります。聖書に書いてあるような終末(マタイ24章)はまだ来ないだろうと思っています。しかし、私個人の終末は確実にやってきます。終末論もそのように受け止めています。
  
 話がそれましたが、イエス・キリストの贖罪によって、救いの業はなされました。しかし、まだ終末は来ていません。それまでは、(Tタンが支配しているので)苦難は続きます。

 これをどう切り抜けていくか、まず、祈りです。教会がもっと分かりやすく、福音を宣べ伝えるべきです。具体的な行動をもって、愛の実践を計ることです。言うは易いが、行うは難しです。Ω
 (写真は竹穂垣)


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