愛のシリーズ/マイフォト 1 |
愛のシリーズとして、聖書の物語を中心に
書いていきます。 |
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隣人を自分のように愛しなさい |
これは、聖書に出てくる「最も重要な掟」として「神を愛すること」とならんで、旧約レビ記19章18節、マタイ、マルコ、ルカの福音書にも書かれています。 「隣人を愛しなさい」でいいのにわざわざ なぜ、「自分のように」と書かれているのでしょうか? 「自分を愛すること」を自己愛(ナルシシズム)と言って、時にはマイナスのイメージを連想し、誤解されています。難しい講釈は抜きにし・・・ 聖書は人間は自分が一番大切で大事にすること、可愛がっていることを知っています。 他者(自分以外は全て他人)を愛する時、どのように愛すれば良いかを、具体的に示すために「自分を愛するように」と書いていると思うのです。これなら、一々説明しなくても分かりやすいからです。 マタイ7章11節「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与える・・・」と卑近な例を示しているのに似ています。 自分を大切にする事は易しいようで難しいです。これは自分さえ良ければ、他人はどうでも良いとの自己中心的なエゴイズムとは違います。自分を本当に愛すること、大切にする事は、自己を確立することです。分かりやすく言えば、他人に迷惑をかけない、主体的に生きていくこと。難しく言うと、アイデンティティ(自己同一性)の形成。 今、アイデンティティを喪失した者が多いです。即ち生きる目標が無い。自分が何のために生きているのか分からない。人生がつまらない。などなど・・・ 道路に平気でタバコをポイ捨てし、電車内では大声で携帯を掛ける。こんなことを一々書けばきりがありません。 うるさいオヤジのボヤキと嫌われるでしょう。 自分の家の座敷に平気でタバコをポイステするでしょうか?せめて自分を大事にするくらいの気持で隣人との関係をもてないだろうか?聖書はそんな問いかけをしているみたいです。Ω (写真は縮寶苑にて) |
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善きサマリア人のたとえ |
よく教会の修養会で、隣人を愛するとはどう言う事か、勉強し議論されます。堂々巡りで、時間切れとなります。それほど難しい問題です。 ルカによる福音書10章25節以下の有名な善きサマリア人の物語が例に出されます。大筋は「ある旅人が強盗に襲われ、大怪我をしていた。そこへ祭司など二人が素通りしていく。 すると、あるサマリア人(異教徒)が憐れに思い、傷の手当てをして、宿に連れて行き、介抱した。翌日、銀貨二枚を宿の主人に渡して言う『この人を介抱し、費用が掛かったら、帰りに払う』イエスはこの三人の中で、だれが強盗に遭った人の隣人になったと思うかと律法の専門家に聞くと、彼は「その人を助けた人です。」と答え、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言います。 これは一見博愛心、慈善行為、親切の見本のように思えます。このまま実行して、お節介、過干渉、押し売りとキリスト者とその集まりである教会は敬遠され、誤解、偏見をもたれたりします。偽善者呼ばわりされることも しばしばあります。 事実、バザーで献品を募集したら、ボタンのないシャツや、ボロ同然の物が集まり、処分にお金が掛かったと言う話を聞きます。 このたとえ話で聖書が言おうとしているのは、単なる親切話、慈善事でしょうか? 一つは祭司の無関心さ、キリスト者には耳の痛い話です。また、いかに肩書きがどうであれ、外見では人の良し悪しは判断できないことを、このたとえ話は語っています。 二つ目に、ここが重要と思うのですが、「だれがこの人の隣人になったか」と言うイエスの問いかけです。私達は隣人を愛せよと言うことばに惑わされて、ヤミクモに親切を振り撒こうとしていないでしょうか? 「だれがこの人の隣人になったか」まずは、相手のニーズを察すること。次に的確に応える事。『あなたがたのだれがパンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇をあたえるだろうか』(マタイ7−11)相手が本当に欲しているものを察して、それに的確に応じていく事。何が何でも善意を一方的に振りまく事が愛ではありません。Ω (写真は縮寶苑にて) |
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隣人愛 |
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。 人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマの信徒への手紙13章8〜10) 愛のシリーズで色々書いてきましたが、この聖句に総括されます。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)これはアガペーなる崇高な愛を示しますが、私は内心、正直に「しんどいな」と感じ「自分にはできない」と思うときがあります。 この聖句の本当の意味はキリストの十字架の愛を示していると私は思います。人間には不可能なのかと言いますと、そうでもないです。 例えば、三浦綾子氏の「塩狩り峠」に書かれたように、主人公がブレーキの効かない列車を止めるために自分の身体を投げ出して止め、列車の乗客の命を救ったと言うテーマには多くの人に感動を与えました。 また、JRの駅のホームから転落した人を救うために自らの命を犠牲にしたニュースは大きな話題になりました。古代のキリスト教徒は喜んで殉教したと伝えられています。 だからと言ってこれがキリスト者の当たり前の行為と受け取ると、しんどくなります。私は一つの奇蹟だと思っています。 話を元に戻します。パウロが説く「愛は隣人に悪を行いません」これはよく分かります。「自分を犠牲にしなさい」とか「いつも善を行いなさい」と言われると抵抗を感じます。人迷惑な慈善の押し売りよりも、せめて「人さまには迷惑をかけなさんな」と言う事です。私がヘソ曲がりなんでしょう。Ω (写真は縮寶苑にて) |
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愛の賛歌 |
『そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときは、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。』(コリントの信徒への手紙 一13章1節〜13節) ああ、何と美しく、素晴らしい言葉でしょう。見るたびに、読むたびに感動を覚えます。愛についてこれほどにも微にいり細にわたって書いている文章が他にあるでしょうか?しかし、よく読んでみると、殆ど、人間には不可能な事が書かれています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。」は分かります。「愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」これは口では言えても完全に実行出来るでしょうか? ヨハネ福音書8章のあの有名な「姦通の女の話」に出てくる「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」を思い出します。私には無理です。私が完全に実行出ると言うと、偽善者になったように、うしろ暗い気持になります。 ある人が確か、本の中で書いていたと、記憶があるのですが、「ここの愛を神に置き換えたらよく分かると」そうですね。今迄、シリーズで書いてきた、愛は神の愛、即ち、アガペーですね。だからこそ、パウロは「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。(当時の鏡は現代のガラスで出来た鏡ではなく、ぼんやりしか映らなかった)だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」と書いています。たとえ、きれいに映ったとしても鏡の中は所詮虚像です。 100%期待していないのです。今での神との出会い、救いの成就についてです。。は信仰と希望とを持つしかないが、神の国が実現した時は、はっきり分かると書いているのです。(今は神の国は始まったが、待望の時) だが、愛(即ち神)は一番に大切だと、何故なら、キリストの十字架と復活によって示され、ペンテコステの出来事で教会が(聖霊の働きで)創立できたように、(人の愛は不確実だが)神の愛は確実だと言い切るのです。これが福音の凄さです。これで一応愛のシリーズは終わります。拙い文章でしたがお許しをΩ (写真は縮寶苑にて) |
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神は愛 |
『愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。』(ヨハネの手紙 一4章7〜8節)『愛』について、これほど有名な聖句はないでしょう。しかし、これほど、形骸化された聖句もないです。 『神は愛なり』・・・物凄く、簡潔にして、的確に神を語っていると思います。こんな言葉を知っているはずのアメリカをはじめ、ユダヤ・イスラム諸外国が未だに、愛を否定するかのごとく、戦争を平気でしているのです。日本も負けじと言わんばかりに、軍備の増強に力を入れています。教会は無力です。 口では愛と言いながら、他人の悪口や、陰口は平気で言います。具体的な平和運動もあまり見かけません。私の近隣・地域では年に一度だけ、超教派の数教会が合同の「平和の集い」を行っていますが、形式的にやっている感じです。 私はおそらく、教会員がこの聖句の本当の意味を知っているとは思えません。話題になりませんから。・・・言動を見ていても読み取れないです。 次に『わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。』(ヨハネの手紙 一4章20〜21節) もう今更くどくどと説明をする事はないと思います。しかし、怖いのはこの聖句が教会ではあまり聞かされないことです。本当に、誰かに聞かれたら、すぐにこの箇所が出てくるかが疑問です。 Xマス祝会などで、司会者が「好きな聖句を言ってください」と言おうものなら、座が白けてしまいます。慌てて聖書を開いている人がいます。これなら、良い方で、完全に無視し、他の話題に振ってしまう人が多いです。いつも感じる事は、教会員は聖書をあまり読んでいないなと・・ 偉そうに書きますが、私も聖書はあまり読みません。HPのトップに書いているように、朝晩にやっと聖書を通読できるようにはなりましたが、コンコルダンス(聖書語句辞典)のお世話になることが多いです。 口先で『伝道伝道』といくら言っても、何を伝えるのか、何を示すのか、どんな行動をするのかなど、それがはっきりしません。目先の予定・行事を事務的に処理するのが精一杯で、新しく、前向きに、創造的にポジティブな活動をする気力と、熱意がどれだけあるかはいつも疑問に思っています。・・・政治の世界も同じですが。 キリスト教界で例えばマザー・テレサのような活動をしている所があれば、教えて欲しいです。とは言え「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9章12〜13節)とあるように、教会は文字通り罪人の集まりだから、超人を求めてはいけないのかも知れません。 だからこそ、聖書は神の愛を説き、人間同士・兄弟姉妹の愛の絆を強くするようにと、要求しているのだと思います。ところが、教会では神の愛、すなわち、神と自分との縦の関係は強調する(神学は語る)のに、人々との関係・横のつながりが薄いのはどう言う訳でしょう。弱い人間だからこそ、神に祈り、横の交わりを大切にしようと言うのではないでしょうか。Ω (写真は縮寶苑:織物) |
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マイフォト 1 |
デジカメで撮った写真を載せています。 |
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