聖書とキリスト教 |
聖書とキリスト教について
つれづれに書いていきます。 |
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キリスト教と文化・奇蹟 |
原始キリスト教会が創られた時、聖書は旧約聖書だけでした。様々なプロセスを経て新約聖書ができたのは、ずっと後2世紀頃になります。 一部の教会指導者しか読めない聖書の教えを編集し、教義として信徒に教えたことでしょう。聖書の教えより教会の教え即ち教義を優先して教え込んだのです。 15世紀、印刷術が発達し、時を同じくして、ルターなどの宗教改革により、多くの人は聖書が読めるようになりました。一方、文明・科学技術は発達し、同時に戦争は息次ぐ暇も無く続きます。 「文化の背景にキリスト教がある」と言う奥には「キリスト教は文化も作ったが、植民地を作り、戦争を常にやり、結果的に、自然破壊・公害や地球温暖化をもたらしたではないか」との皮肉が込められているように思えます。 聖書を信じる者として、それは心外です。何回も書きますが、聖書とキリスト教はイコールではありません。キリスト教徒が様々な文化・科学技術にかかわって来たことは事実です。 聖書と奇蹟 しかし、西洋の文化が何でもかんでもキリスト教即ち、聖書のせいにされたのではたまりません。 聖書は旧約が1500頁・約82万文字、新約は480頁約26万文字。大河小説と言われる文学書に比べたらはるかに少ないです。その中には色々な教えも書かれています。 中には難解な記述もあります。 一番理解しにくいのが、数々の奇蹟だと思います。六日間で全宇宙が出来たとか。映画にもあったようにモーセとイスラエルの人々が海の中を分けて渡ったとか。 新約聖書でも数々の奇蹟が書かれています。処女降誕物語。病人が癒された多くの記事。五千人の人々がパン五つと魚二匹で食事し、満腹して、パン屑が十二の籠一杯になった。イエスが海の上を歩いた。などなど。 一番難解なのがイエスの十字架と復活の記事だと思います。イエスの出現と、その言行は物凄くショックだったと想像できます。 奇蹟と福音 最近の新聞報道では、宇宙の年齢は137億年と言われています。このことさえ奇蹟と思えます。 科学技術の恩恵に与っている金、銀などの貴金属、鉄・ アルミニウム。 化石燃料、ウランなど、どれ一つ、人間の創ったものはありません。初めから自然に有ったのです。人間はそれを利用し、加工しました。 人間など動植物の生態系、生命の神秘。IT革命の主役と言われる電磁波や、酸素などの混合物質の空気は見えなくとも、存在を疑わないのに、その創造主を信じられないことはないと思うのですが。・・・ 当時、律法を守る事に忌み疲れていたイスラエルの人々が飛行機や新幹線を見たら腰を抜かすでしょう。それ以上に、イエスの出来事は衝撃的だったに違いありません。 聖書はことさらに奇蹟を強調しようとしたのではありません。イエスが単なる教祖でなく、救い主キリストであったこと。その愛(福音)を伝えるのが最大の目的でした。 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1章16節)Ω (写真は金閣寺) |
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宗教と文化 |
日本人と宗教 日本人の宗教についてアンケートを採ったら、 人口の百%を超えていたと言う笑い話をどこかで読んだ事がありま。 今回は日本人の宗教について書いてみたいと思います。 何枚かの新聞記事を参考にします。一つはある大学講師が書いていたもので、千二百字ほどあります。これを全部書けば、良いのですが・・・。 大筋は「日本人の7割が無宗教でありながら、様々な宗教行事が盛んに行われている。『宗教』という言葉は明治以後、『レリジョン』の翻訳語として使われ、西洋的なニュアンスすなわち、キリスト教的な一神教のイメージが強い。 日本宗教の特徴は異なる二つ以上の宗教が融合している状態『シンクレティズム』の傾向が非常に強い。例えば、 神棚と仏壇が一つの部屋に同居している。この二つの他に儒教、道教、山岳信仰、アニミズム(精霊信仰)、シャーマニズム(呪術的宗教)祖先崇拝と多様な宗教がある。日本人は実は非常に宗教的な国民だと言える」・・・。 歴史的宗教の限界 ある高名な宗教学者T・Y氏は日本の宗教のことを上に書いたと同じように言われ、さらに、「平安から江戸時代にかけて宗教が実にマイルドな形で共存し、社会の安定に非常に役立った。しかし、現代、教団、教会としての歴史的宗教は、限界がある。耐用年数に達しつつあるのではないか。 なぜなら、温暖化や難民、飢餓など、現代の世界が直面している地球的規模の問題に、歴史ある宗教は何ら処方せんを書くことができていない。では今後、どんな宗教がありうるのかといえば、教祖も教義もない宗教ではないか。それは万物に命が宿っているという『万物生命教』。・・ このことを日本が論理的な言葉を用いて外国に伝えていけば、絶対に通ずるはず。異なる価値観の共存を許すこの考え方こそ、世界各地の民族紛争を調停する役割を担えるのではないか」とおおよそこんなことを新聞のインタビューで話していました。 日本人とキリスト教 既成の教団・教会に属する私達にとって、いささか耳の痛い話ですが、みょうに説得力があるのは、ズバリ言い当てている面があるからではないでしょうか。キリスト教が国教と言っている欧米でも、クリスマスや聖バレンタインデーなど、異教の習慣を取り入れて、変化してきました。その他、ユダヤ教との融合、種々の教派があることは一種のシンクレティズムと言えると思います。 日本のキリスト教会員が人口の1%くらいの現実で、伝道とか、宣教を考える時、自分だけの教派・教会だけにこだわっているより、また、教勢が伸びないと悩んでいるより・・・・・ まずは、超教派的なエキュメニカル運動のみならず、前述したような日本の文化・宗教を理解し、他宗教との対話即ち、超宗教的な運動に取り組まないなら、T・Y氏の言う通り、耐用年数に耐えられず、共倒れになりかねません。聖書の真の意味を考えたいです。 「・・・父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださ るからである。」(マタイ5章45節)Ω (写真は金閣寺) |
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聖書つれづれ |
聖書とわたし 「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら一応キリスト教と答えます。何故一応なのかと言いますと、私はキリスト教徒(クリスチャン)と言う意識があまりないからです。聖書とキリストを信じる一信徒です。世間では聖書イコールキリスト教と思っているでしょう。それは違います。 キリスト教は初代原始教会が色々なプロセスを経て発展・形成されてきた宗教であって、世界の三大宗教のひとつです。キリスト教には神学や制度・組織など人間的な要素が入っています。また、沢山の教派があります。これらが一概に悪いとは思いませんが、過去には戦争など色々な過ちを犯してきました。 キリスト教は西欧の宗教で、文化・科学・技術の背景になっていると言う人がいますが、聖書にはそんな事は一つも書いてありません。 聖書は科学とかの世界とは全く違う次元の世界です。ここには神と、神と人間の関係、信仰の世界、魂・霊の次元のことが書かれています。 信仰とか、魂とか霊のことは科学万能の現代では古いと言う人もいます。どんな事でも科学的に 証明できなければ信じないと言う人が一杯います。 今や、科学が神様になろうとしています。しかし、いくら科学が進歩しても、仏教の言う「生・老・病・死」の四苦を完全にクリアーにできるでしょうか?科学が全てを解決できないでしょう。 私は科学や芸術など文化の価値は認めます。人間にとって必要だと思っています。しかしそれだけでは、人間は生きていけません。聖書には「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4−4)と書いてあります。宗教・信仰は一言で言えば、生と死をどう考えるかの問題だと私は思っています。Ω (画像はキリスト誕生の図) |
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生と死/神の愛 |
生と死 子供の頃から私にとって、生と死――とりわけ死は大きな問題でした。聖書は生と死の意味を教えてくれました。 20歳になって初めて教会に行き、聖書に出会いました。旧約聖書と新約聖書があることをはっきり認識しました。不熱心な者でしたから、旧約全39巻、新約全27巻を全部通して読んだのはリタイアした数年前です。 それでどんなことを知ったかと言いますと――旧約聖書の一番初め創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。これにはたまげます。初めに神ありきです。 新約のヨハネによる福音書1章1節には「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあります。これも同じで、初めに神ありきです。 (聖書は一神教です)旧約聖書は天地創造の由来から人間の創造、アダムとエバの物語。楽園追放。以後律法、預言書、諸書と全39巻あり、ここには、(現在紛争が絶えない)イスラエル/パレスチナの歴史を通して、人間が如何に罪―「的を外すとか、反逆の意味」―を犯してきたか、神の働きがどうであったか、イスラエルの救いがどうなるか、メシア(罪から救う救い主)待望の願い、生と死の意味などが書かれています。堅苦しい戒律や、悲惨な戦争の事、厳しく悔い改めを迫る預言書ばかりでなく、祈りのこもった詩篇、美しい物語、教訓に富んだ格言集など、諸書が入っています。聖書が常に世界のベストセラーと言われているゆえんです。 新約聖書は全27巻。四つの福音書(イエス・キリストの生涯)、初代原始教会の働きを書いた使徒言行録、使徒達の手紙、ヨハネの黙示録です。 神の愛 ここでは、旧約で預言されてきたメシア(救世主・キリスト)について、旧約聖書とは異なる立場のメッセージが書かれています。旧約が「神はイスラエル人に厳しい律法を与え、これを守ることで人を救うと言う父的な厳しい愛を示し、罪を悔い改めるよう激しく迫っている」のに対して、新約は律法を守る事が出来ない弱い人間を救うために、救い主イエス・キリストがこの世にやってきて、福音を宣べ伝え、言葉ばかりではなく、愛の行動をもって、人々を愛し、最後は十字架につけられて死に(贖罪と言います)復活したと書いています。 いずれにしても、旧・新約聖書に一貫しているテーマは「神の愛」です。Ω (写真は置時計) |
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聖書と祈り |
キリスト者にとって、信仰と祈りは切っても切れないものです。と言って、どれほど理解しているか分かりません。どの教会も、祈祷会が振るわないとの悩み、いや、祈祷会を開く事も出来ない教会が多くあります。 それで、私は祈りについて、私なりに書いてみようと思います。簡単に言えば、主の祈りで、すべてを言い尽くしていると思うのですが。今、主の祈りについて解説めいた事は書きません。 マタイによる福音書6章5節〜13節 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。 はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められま すように。 御国が来ますように。 御心が行われますように、 天におけるように地の上 にも。 わたしたちに必要な糧を 今日与えてください。 わたしたちの負い目を赦して ください、わたしたちも自分に 負い目のある人を赦しましたように。 わたしたちを 誘惑に遭わせず、悪い者から 救ってください。』」 もうこれで、言い尽くされていると、私は思います。初心の頃、この箇所を読んで、以後、私は教会の祈りに随分疑問を感じました。祈らない事は問題外ですが、祈る事さえ、いつも抵抗を感じました。はっきり言って、祈りは好きになれません。 教会は何か行事をする時は、形式的と思えるほど、よく祈ります。たとえば、キャンプ、修養会、教区の総会などです。特に教区の総会では、一泊二日のスケジュールの中で食事の時は勿論、何かの集会の、セッション毎に祈ります。 礼拝時の祈りはいいでしょう。後の祈りは美辞麗句の繋がりみたいな、それも、機械的にと思えるほどの祈りの連続です。 集会となれば、賛否の議論を非友好的に侃侃諤諤(ケン、ケン、ガク、ガク)やっているのに祈るのです。すごく違和感を覚えます。祈るくらいなら、もっと建設的な議論が出来ないのかと、不信感を覚えます。 相手をやっつけることに快感を覚えている感じです。まるで、議論をする事が目的で、結論は出さない方が良い。出ればやる事がなくなるのを怖れるが如く。延々と続けていると思いたくなります。それより、もっと祈りの勉強をして欲しいです。 また、本当の意味の祈りが分かってないから、たとえば、献金の当番で、祈る者が中々出てこないのです。だから、限られた人に絞られてしまいます。献金当番に当ることを避けていて、もし、半強制的に当てられたら、教会への出席を止めると言わんばかりの雰囲気になります。 祈りは難しいですが、美辞麗句を並べようとするから、プレッシャーが掛かるのです。もっと気軽に祈れないものでしょうか?たとえば、紙にメモ程度に書いてくるのも一つの方法です。 それより、祈りは基本的には、密室で祈るもの、人に聞かせるものではない。そして、祈りは「(神の)御心のようになりますように」としか祈れないと、私は常々思っています。 ゲッセマネの園で、イエスは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイによる福音書26章39節)と祈ったと書かれています。 聖書には、他に祈りについて書かれているのは、マタイ福音書21章21節「・・・この山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」 マルコ福音書9章29節「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と極めて実用的に書かれています。 イエスが律法学者やファリサイ派の人々に向かって厳しく諌めたのは、彼らが、偽善者で、祈りを形骸化して、形式的にしか用いなかったので、非常な怒りを表したと、わたしは思います。 私は祈りは決して形式にしてはならないと、常から思っています。だから、祈るときは密室で「御心のようになりますように」としか祈れません。もう一度書きますと、口先だけの、数多い祈り、形式的な祈りは好きになれません。 マタイ福音書17章20節「・・・からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」この箇所を引用した、ある韓国の牧師の話を聞いた事があります。 実際の体験談ですが、アメリカのある山を含んだ土地がどうしても、欲しかった。そこに、教会と、修養会などが行える、宿泊設備などが整った総合的な、研修センターのようなものを、創りたかったからだそうです。壮大な夢です。祈りに祈ったら、その山が手に入り、正に山が移って教会になった。山と土地を整地して、センターが創れたと言う話でした。 日本ではこんな話はめったに聞きません。残念ながら、このような壮大な夢・ビジョンが語られません。私自身もこんな祈りをしたことが無いからです。初めから諦めています。反省の一字です。今日の教会では、祈りの貧困が語られ、形式的な祈り以外に、きちんとした議論がされません。残念です。 アシュラムと言う活動があるそうです。祈りを主体とした、研修会のようです。これがあまり評価されていません。一部の人々の活動に限られています。私はこれが無用とは決して思いません。反省ついでに付け加えます。Ω (写真は織物) |
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