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 1−1 箴言とカウンセリング/1−2 オール オア ナッシング

1−1 箴言とは旧約聖書の中の一巻で、BC.300〜250年に編集された格言集の事です。箴は漢語で治療用の竹のこと。箴言は癒しの言葉と解せます。箴言を読んでいて、カウンセリングに関係があると、思われる箇所が幾つもあるので、ページの許す限り、いくつかを書いてみます。

(1)『いかに幸いなことか、知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは(中略)金にまさる。(中略)どのような財宝も比べることはできない』知恵、英知を「カウンセリングの奥義」と置き換えます。それは金銀財宝にもまさると言っています。この奥義は一生かかっても達せないと思います。知恵は頭に詰め込む知識でなく、「物事の理をさとり、是非善悪を弁別する心の作用。物事を思慮し、計画し、処理する力(広辞苑)」即ち、知識を自由自在に応用する能力だと思います。カウンセリングではこの応用力、柔軟性が求められます。

(2)『うそを言う唇は憎しみを隠している。愚か者は悪口を言う。口数が多ければ罪は避けられない。唇を制すれば成功する。』何とユニークな表現でしょう。「口は禍のもと」の諺通り、自分の発する言葉がどんなに人を傷つけ、悲しめる時があるか。もしもその言葉をコントロールできれば、人を幸せに導く事が出来るかもしれない。カウンセリングの大切さを教えていると思います。

(3)『悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく』
 カウンセリングを学ぶ者にとっては、先ず第一に大切にしなければならない守秘義務。時代は変わっても大事なことは同じなんだと。古代人はとっくに知っていたのです。

(4)『待ち続けるだけでは心は病む。叶えられた望みは命の木』
 鬱の人(電話をかけてくる人が多い)を励ましてはいけないと言われています。ただ「ふんふん、はあはあ」と聴いているだけで、待ち続けることを強いることが、本当によいのか疑問に想うことがあります。治療のことは専門家に委ねるべきですが、わずかでも出口が見つかれば、望みが命を取り戻すことを伝えたいものです。

(5)『鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える』
 現代に欠けているのがこの子育て論。愛の鞭も時には必要なのに、親が子に遠慮しすぎて、両方駄目にしています。これを履き違えて、虐待につながるのは困った事です。

(6)『笑っていても心の痛むことがあり、喜びが悲しみに終ることもある』
「顔で笑って心で泣く」表面的に人を見ていても、その心の奥の奥までは分からない。洞察力を養い、共感できる者になりたいです。
 
(7)『穏やかな心は肉体を生かし、激情は骨を腐らせる』
 古代人が現代病の心身症のことを知っていたのかと驚きます。専門的なことは専門家に任すとしても、少しでも、話を聴くことくらいの援助が出来ればよいのにと想います。Ω

1−2 オール オア ナッシング
 オール オア ナッシング(all or nothing)について書いてみたいと思います。文字通りオール(すべて)かナッシング(無)かなんですが「妥協が許されない絶対的な立場や条件にあること」「譲歩や妥協を認めない立場を言う」と辞書に書いてあります。何か崖ブチに立たされている感じのことのようです。
 欧米人がよく使う言葉に受け取られて、日本人には馴染まない言葉のようですが・・・何故なら日本人はいつも、曖昧で、いわゆる「玉虫色」が得意な民族のように、外国人から見られているようです。

 私はどこか誤解があるように思います。即ち、「欧米人の文化の背景にはキリスト教があり、キリスト教は黒か白かいつも、はっきりしていてイエスかノーかを主張する。キリスト教の聖典である聖書がそうだ」と、もの知り顔した文化人がよく言います。これは全くの間違いです。

 確かに聖書には黒・白、イエス・ノーをはっきり主張している箇所はあります。しかし、こんなことばかり書いているわけではありません。それでは、以前書いた律法主義になります。聖書とキリスト教の思想は必ずしも一致しません。
 聖書の黒・白思想は特別な意味があるようですが、今は置いておいて、オール オア ナッシングに戻ります。

 まず言えることは、崖ブチに立つときは欧米人も日本人も区別ないですし、そんなにいつも、出くわすわけではありません。にもかかわらず、むしろ日本人でもオール オア ナッシング的な考えが多いと思います。
 たとえば、典型的な例として、教育制度。誰が何と言おうと学歴社会は変わるようすはありません。

 誰でも、できれば一流大学に入って、いいところへ就職したいと願う気持を持っています。
 一流(オール)でなかったら、他はナッシングなんです。そのような社会的風潮はなくなりません。
 また、いくら反対を叫んでも、そんなに急に差別や偏見はなくなりません。被差別部落の人たちや、心・身障害者、痴呆性老人、外国人、女性差別など、こちらはオールで他はナッシング。夫婦関係では、いつも相手に対して不満をぶっつけます。オールを求め過ぎるのです。

 人は誰でもオールのほうがいいのです。ナッシングは辛くて、耐え難く、しんどいのです。
 でも、皆が皆オールにありつけません。これが世の定めです。
 日本人も外国人も変わりません。でも、日本人は「玉虫色」を知っています。「そこそこ」「ほどほど」の良さを得とくしたいものです。

 因みに、聖書のオール オア ナッシングを探してみると、「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ福音書6章24節。)は黒白を説いています。

一方「・・・父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる・・・」(マタイ福音書5章45節)
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。(中略)福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(コリントの信徒への手紙 一9章19〜23節)と、実に柔軟に書かれている箇所もあります。Ω
(写真は長浜城から見た伊吹山)


 2−1 「個別性」と「多様性」/2−2 生涯学習

2−1 カウンセリングのパーソナリティ論で必ず出てくる「個別性」と「多様性」について書いていきます。
人は一人一人顔・容姿・指紋が違うように、性格・人格も違います。これを個別性と言い、人全体から見れば多様性に富んでいると言えます。
 十人十色と言う言葉があります。万人万色とも言えます。それなのに、12の干支や星座とか、4種類の血液型で、人柄を判断するのは納得できません。

 これは、白人は肉食で、黒人は野蛮で、黄色人(日本人)は物真似が上手いと断定しているのと変わりません。こう言うのをステレオタイピング型と言います。ワンパターン型です。
 まだあります。性別・年齢層・民族・宗教が違うと言うことで、しばしば争いが絶えません。思想・信条・政党の違いもそうです。「人類みな兄弟」「人はみんな仲良く」と言うフレーズが白々しく聴こえます。

 人は一人で生まれ、一人で死んでいきます。人は皆孤独です。人は皆自分が可愛いです。人はそれぞれ異なった生き方をします。
 地球上は常に争いが絶えません。本来なら、もっと争いがあってもいいはずなのに、滅びないのは、人は自己愛と共に他者愛も持っているからです。(神の愛の働きがあるからと言えますが、これはまたの機会に書きます)人は一人では生きていけないから、パートナーとか群れを求めるのです。一種の本能です。これでうまく行けばいいのですが、人間のサガと言うのでしょうか、常に争ったり、反目したりします。

 普通、何も無ければ、人は他人とうまくやっていけます。しかし、自分の利益と他人の利益が絡まったとき、争ったり、反目し合ったりします。人間関係の難しいところです。
 利益が絡んだら何故争うのでしようか。人は誰でも自分が可愛いから、自分の利益を脅かすものには、不安を感じ、本能的にこれを守ろうとします。それで争います。争いがいやで、いつも利益を譲っていたら、滅んでしまいます。

 争うのもいや、譲るのもいや、滅ぶのもいや、それならどうすればいいのでしょうか。最初に個別性と、多様性を書きました。人は一人一人違います。個別性にばかり拘ると、多様性を忘れ、自分を守るために、他人のことが目に入らなくなります。椅子取りゲームみたいなものです。椅子が一人分足りないからゲームになり、争いになります。

 人間社会や、人の生きかたは、椅子取りゲームだけではなく、もっと多様です。こっちが駄目ならあっちがある。人の数だけ多様に人の生きかたもあります。人は一人一人違う。人は人。自分は自分。利己主義ではありません。自己と他者の理解です。
 人間関係然り、職業然り、全ての人とうまくいくはずはないし、全ての人が東大を出て、偉い人になる訳でもありません。人は誰でも幸せになる権利があります。個別性、多様性の中から見出したいものです。聖書の福音はそれを語っていますが、またの機会に書きます。Ω

2−2 生涯学習
 カウンセリングでは、生涯学習を持続するのが、人生を豊かにすると言います。生涯学習と言う言葉から連想すると、カルチャーセンターとか、お金や時間が一杯あるとか、何か構えて難しいことのように受け取ってしまったりします。

 テキストを読んでいると、色々な学者が難しいことを書いているようですが、もっとよく読むと「生涯学習」とは文字通り生涯死ぬまで学習することです。
 次にどんなことを学ぶのかが問題になります。たとえば、高い教養を身につけ、知識を深めるものを選ぶとか。これも間違っていませんが、それでは限られた人にしか、できないことになってしまいます。

 生涯学習の内容は、数えきればきりが無いほどあります。公民館などでの各種のクラブ・サークル活動、スポーツ、ボランティア活動、自治体・各種団体のリーダー・メンバー活動、映画・テレビなどの鑑賞。旅行、ハイキング、キャンプなどの野外活動全般。今、流行のカラオケもそうでしょう。読書・新聞を読む・・・公私に係わらずです。
 本当にきりがありません。それでは仕事や職業や遊びもそうなのか?答はイエス!何でもありなのです。

 学習は何をやるのかが問題ではなく、/それは各人の能力なりに応じて、自由に選択すればいい事です/やる人の意欲、気力、興味の問題だと思います。
 世の中がカルチャーブームだから自分も乗り遅れまいと、無理して大金を払って何も得る物が無かったでは「クタビレ儲けのゼニ失い」になります。

 IT革命なるものに踊らされたわけではありませんが、パソコンをやってみますと、そんなに何もかも便利ではありません。無駄な労力や時間が費やされます。
 そこで、学ぶことの功罪について考えますと、学ぶことに熱中すると、余分な労力や時間を費やします。他人に迷惑をかける時もあるでしょう。マイナス面ばかり気にして消極的になれば、身につきませんし、面白くも楽しくもありません。
 学習には苦労が伴うのです。信仰に苦労が伴うのと同じです。しんどくても続けなければならない事もあります。喜びと苦しみを同時に体験することって、できるのでしょうか?
 ここに、矛盾がでてきます。こんなことを考えるのも学習と言えます。

 最後に「学習」の意義をテキストから転記します。・・・学習とは経験を通して、身体的な機能や考え方や行動の仕方が変化したり、知識が増えたりすること。特に、価値のある知識・技能、思考様式、行動様式を身につけるために意図的に努力すること。・・・学者はどうしてこんなに難しく書くのでしょうね。

生涯学習とは学ぶことが生き甲斐であり、自己実現の方法です。そして、一人よりも、グループで楽しく学ぶのが理想的です。今はパソコンの時代です。インターネットで、情報収集や交換が容易にできます。でも、よく見ると、出会い系サイトが流行っているのは、孤独な人が多いからでしょう。頭で学ぶだけでは、人は満足しない事が分かります。Ω
(写真は長浜の蝋梅)



 3−1 交流分析(T・A)T/3−2 交流分析U

3−1 交流分析 
  交流分析序文
 交流分析(T・A トランザクショナル・アナリシス以下TAと略)のごく一部分について書いてみます。アメリカの精神分析医エリック・バーン(1910年〜1970年)が一般の人にも分かるように開発した新しい心理分析のシステムで、難解な精神分析(フロイト)に対して(やさしい)口語版といわれています。ここでは人の自我状態を分析してOK(肯定的、プラス)な感じとOKでない(否定的、マイナス)感じを5の2倍、即ち、10個の自我に分けています。

 大きく言うと、@P(Parent/親的なもの)AA(Adult/大人の、理性的なもの)BC(Child/子供的なもの)に分かれます。@にはCP(Critical・Parent)で批判的ものとNP(Nurturing・Parent)で保護的なものがあります。BにはFC(Free・Child)で自然的なものとAC(Adapted・Child)で順応的なものがあります。
 さらに詳しく具体的に書きますと、CPは規律を守る、けじめをつける、几帳面、道徳心、
正義感、文化・伝統・習慣を守るなど(OKな感じ)。支配的、権威的、非難、叱責、見下ろすような姿勢、腕を組むなど(OKでない感じ)。NPは愛情を持つ、優しい、配慮、同情、慰める、寛容、肩を抱くなど(OKな感じ)。過保護、甘やかす、過干渉、黙認、お節介など(OKでない感じ)。

 Aは冷静、情報の収集・分析、判断力、計画的、知性、理性など(OKな感じ)。打算的、冷たい感じ、科学への盲信、自己中心的、物質万能主義など(OKでない感じ)。ACは生まれたままの状態、のびのび、明るさ、天真爛漫、無邪気、創造性、好奇心を持つ、自由な行動・感情表現など(OKな感じ)。わがまま、本能的、衝動的、傍若無人、無責任、なまいき、子賢い感じなど(OKでない感じ)。

 FCはすなお、信頼する、従順、がまん、感情の抑制、妥協、慎重、他人の期待に沿う、良い子など(OKな感じ)。じっと我慢の子、黙ってしまう、閉じこもる、反抗する、ひねくれる、媚びる、依存的、自分を責める、消極的、自己束縛・主体性の欠如など(OKでない感じ)
これらは随分省略してもこれほど複雑です。これらが個別ではなく、複雑に絡み合っています。人間の行動、心、性格など(まとめると人格)が如何に多様で複雑であることを示しています。

 ところで、近頃テレビでは、どこのチャンネルを廻しても、血液型の番組がはやっています。A,B,O,ABの4つの血液型で人の性格や行動などを分析して面白がっています。上にも記したように人の人格は非常に複雑です。4つに分けられるはずがありません。
 
 家の者は息抜きに理屈なしに見ていたらよいといいます。しかし、これが世間の常識になって、人のすべてを血液型で判断するようになれば怖いです。4つに分けて、あの人は何型だから、こう言う人と決め付けていったら、先入観と偏見で人を観ることになります。

 人は顔かたち、指紋がそれぞれすべて違うように、人格もそれぞれが違います。それを尊重していかなかったら、常にいさかいが絶えません。十人十色、百人百色です。
 アメリカが今やっていることは、OKでないAで判断し、OKでないPやCで世界を支配しているように、見えるのは私だけでしょうか。(04.10.11)
TA 3−1
 今回のテーマは「対人行動に現われる四つの態度」
@ 私はOKで、あなたもOKである。→人と一緒にうまくやっていく態度。
A あなたはOKだけど、私はOKではない。→そこから逃げ出していく態度。
B 私はOKだけれど、あなたはOKではない→相手をやっつけて、追い払ってしまう態度。
C 私もOKではないし、あなたもOKではない。→行き詰まってどうしようもない態度。
これらを組み合わせると、次のようになります。
@とA→あなたは私にとってOKである。。
BとC→あなたは私にとってOKではない。
@とB→私は自分自身についてOKである。
AとC→私は自分自身についてOKではない。

 最初に断わっておきますが、これらはこう言うタイプの人がある。つまり、個別的に人を色分けするのではなく、人は誰でも、時により対人関係では、態度が変わる(流動的)と言うことです。

@の態度は誰でも分かりやすいです。こんなになれたらいいなと思うのですが、こんな時は案外少ないのではないでしょうか。満足感があり、愉快な感じのする時です。
Aの態度は心身が疲れている時とか、何かショックを受けて自分を責めている時。また、うつ状態の時。自罰的でまさに逃げようとする態度。生産的でないし、心は灰色と言う感じです。
Bの状態はよく陥る態度です。Bの者同士が対決するとしばしば、水掛け論になります。こんな時はすごく不快な気持になるでしょう。戦争はこんなことから、始まり、絶え
ません。
Cの態度は犯罪被害者になったとか、大きな災害に遭った時、多分(神も仏もあるものかと言う不条理を感じ)自分も天も呪いたくなるでしょう。それでは、TAでは、どう答えているのか、どうすればいいのか・・・・・。

 実は非常に難しいのです。一発解答ができません。@がいいのですが、常時保つことは不可能です。

 TAでは四つの態度があることに気づくことの大切さを説いています。何時も一つの態度を固守するワンパターン人間にならないように、柔軟性をもつことで、心のバランスを保つようにしたいです。Ω

3−2交流分析U
 交流分析(T・A以下TA)でストロークと言う言葉があります。これについて書きます。
 私たちが社会的な生活をする上で、人との接触から得られる刺激を『ストローク』と呼び、日本語では「撫でる」「さする」「愛撫する」と直訳しますが、TAでは「ある他の人の存在を認めるための行動や働きかけ」であると定義づけられています。表にすると次のようになります。
肉体的ストローク―――――肯定的ストローク
(タッチ・ストローク)      (プラスのスト香[ク)
  
注 肉体的ストロークから斜め右下否定的ストロークに向かって線が入り、
  肯定的ストロークから斜め左下心理的ストロークに向かって線が入ります。
     HPのソフトの関係で、表現できません。
心理的ストローク―――――否定的ストローク
(言葉・無言のメッセージ)   (マイナスのストローク)

 『肯定的/肉体的ストローク』
 なでる、さする、愛撫する、抱擁、キッス、握手など。
『肯定的/心理的ストローク』
 褒める、励ます、微笑む、うなずく、挨拶、目を見る、 話を聴く、愛する、優しいなど。
 『否定的/肉体的ストローク』
 叩く、つねる、殴る、蹴る、暴力、DV(ドメスチッ  ク・バイオレンス)など。
『否定的/心理的ストローク』
 叱る、怒る、睨む、制止する、禁止する、嫉妬する、い じめ、暴言、憎む、恨むなど。
 こんにち、マスコミなどで報道されることは、あまりにも否定的なものが多すぎます。夫婦間の暴力、子供への虐待、他人同士でもうっかり注意すれば殺されることもあります。

 ニュースをみていますと、外国人は大げさに抱き合い、キッスで挨拶しています。日本人はこんなことは苦手です。若者が街中で抱き合っていると、何か違和感を覚えます。

 不況の世の中、自分が生きていくのに精一杯、他人に肯定的なストロークなど、気が回らないと言うのが本音かも知れません。
 一方、奉仕とかボランティア活動で、また、親子関係で過干渉や、親切の押し売り、お節介などで対人関係がぎくしゃくしている話もよく聞きます。また、タカガ機械に過ぎない携帯やパソコンなどの媒体で簡単に友だちとなり、時には悲劇も起こっています。

 どんな世の中であろうと、どんな人間関係であろうと、見せかけの張りぼてのような綺麗事だけでなく、人が互いに仲良く心と心とが通じ合い、触れ合うようなことは不可能でしょうか。

 TAでは否定的なストロークは出来れば避けて、肯定的なストロークを互いに与え合うことをすすめています。
 人によって違いますが、日本人はおおむね、肯定的なストロークが苦手と言われています。
 しかし、日本人は親切とも言われます。見えないところの気遣いとか、美徳の精神はあるが表現が下手なのでしょう。例え表現は不味く、タッチ・ストロークは苦手でも、心の中で肯定的なストロークを持っていたいです。

 聖書には「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節)「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(マタイ福音書6章3節)などと書いてあります。日本人の美徳に通じるところがあるみたいです。

 キリストはストローク、それも肯定的なストロークを与える名人でした。逆のいかに否定的なストロークを受けたかは、数々の迫害、弟子たちの裏切り、生涯のピークとしての十字架に関わるあらゆる人々の仕打ちなど、福音書の記事を通してみることが出来ます。Ω
(写真は厳島神社鳥居)


 4−1 「純粋な自己表明」/4−2 「積極的傾聴」

 「純粋な自己表明」とはどう言うことかを、書いていきます。カウンセリングのみならず、対人関係で、相手なり、グループの人々に対して自分の思いや、意見、感情などを正確に伝えることは難しいです。時としては、自分の思いとは全く違うように、誤解されたり、曲解されたりして、お互いが気まずい雰囲気になることがしばしばあります。これが世界規模になると必ず戦争になります。

 「純粋な自己表明」とは自分の思っていること、考えていること、感じていることを純粋に人に伝えることですが、これが中々上手くできません。
 新聞広告などに「上手な話し方」とか「会話の上達法」とかの本の宣伝が載っていますが、ここでは技術的なことを書くつもりはありません。

 私はむかし、あるグループで話し合いの場に居合わせました。皆が何を話し合うかを模索している時、一人の年配者が話し出しましたが、話がどんどん横道にそれていって、その場がしらけそうになりました。
 私は相手が年配でもあるので「おそれいりますが、○○さん最初のあの話はどうなんですか」と口をはさみました。すると、その人ははっと気づかれ、バツ悪そうに話の本筋に戻られました。以後、そのグループは堅さもほぐれて、和気あいあいと時間も忘れるほどに、話が盛り上がりました。後日、「あの話し合いはよかったね」と何人かから言われました。

 「純粋な自己表明」は事柄や、説明よりも、感情を言い表す、伝えるようにとカウンセリングの師匠(世話人)からいつも厳しく言われました。これが以前書いた感受性の訓練に当ります。
 私は自分なりに、事柄でも、感情の表明もどちらでも良いと思います。要は自分の話すことが相手に良く伝わればいいと想います。

 ところが、親子とか親しい人間関係ならいざしらず、他人同士ではあからさまに、何でも思ったことを話すのは気がひけます。どうしても、差し障りの無い世間話になってしまいます。
 心の深いところの話とか、プライバシーに関することは、噂になることを怖れてあまり話せません。いわゆるガードが堅くなります。

 また、あまり感情的な言葉、特に否定的な表現は慎みたいと抑制します。その結果、欲求不満が残ります。体験学習のワークショップに行って、世話人から「何でも自由に話してください」と言われると、相手を責めたり、泣いたり、わめいたりとか否定的な感情の表現が続きます。
これも訓練の一つになるのです。こんなことは日常の場では出来ません。だからワークショップのような一定の『場』が設けられるのです。

 「純粋な自己表明」は本音で話し合うことだと言われますが、何処までが本音で、何処までが許容できるか難しい問題です。単なる話し上手とか、下手の問題ではなく、いかに話し相手なりグループを信頼しているかにあります。ガードが強ければ話しにくいし、ガードが無くなれば、自然に話が弾んでくるはずです。

 また、今自分の心の状態がどうなのかを認識することも必要でしょう。愉快な時はいいのですが、少し気分がしんどい時とか辛い時などは、いい格好をせず、正直にありのままの自分を伝えればいいのです。それが「純粋な自己表明」になります。

 自分の感情を話すことと、感情をぶっつけることとは違います。例えば、「(今自分は)嬉しい。気持が良い。苦しい、あなたに対して不快な気持」などは感情を伝え話しています。ところが「ムカツク。バカッ。死ね」などは感情をモロに表し、ぶっつけています。これはお互いが不愉快になります。Ω

4−2 「積極的傾聴」
 「積極的傾聴」・・・これはストレス解消の井戸端会議とか、普通のおしゃべりの時などは、あまり気にしなくてもいいのですが、悩み事とか話が込み入った内容の時は「積極的傾聴」の心得のあるほうが気持は軽く、楽です。

 「積極的傾聴」とは、受容と共感に通じます。(受容と共感については後ほど詳しく書く積りです)また、話を聴く色々な態度の中で、理解的態度に通じます。「理解的」とは相手の話を繰り返してあげる事です。例えば、漫才の優れたコンビの時、ツッコミとボケがありますが、これがうまくいっていると、話のやりとりがスムーズにいって、テンポの良いものになります。面白いです。これはボケ役が上手く話を繰り返しているからです。

 以前、三人のウナズキトリオと冷かされた漫才のボケ役がいました。この人たちはオウム返しに話を繰り返す以外に芸がなかったのか、相方の三人が今、テレビで活躍しているのに対し、全然売れていません。

 カウンセリングのワークッショップでこんな経験をしました。事例研究の時、テープを聴いていたのですが、話の繰り返しがいつまでも延々と続くのです。世話人の先生の中では居眠りをする人がいました。

 「傾聴」だけだったら、ずっと聴いているだけでいいのです。講演会などへ行った時はこれでいいのですが、「積極的」がつくと、ただ聴くだけでなく、何らかのリアクションが必要となります。
 聴の字は耳、十、四、心からなっています。これは十四の心を持っている人から、十四の心で聴く、つまり、事柄や感情などが入り混じった複雑な話を広く深く、柔軟な心でもって聴く事です。かの聖徳太子は一度に十人の話を聴いたと伝えられています。
 聞の字は門の中に耳があります。これは聞く方が身構えて、ガードしながら聞く感じになります。それで、カウンセリングでは「聴」の字を使います。
 
 何故「積極的」がつくかと言いますと、相手の話が肯定的にしろ、否定的にしろ、長くなったり、意味不明であったり、或いは支離滅裂であったりしますと、ただ聴いているだけだと、いつ終るか知れないと不安になり、逃げる感じになったり、話をそらせようとしていまいます。
(消極的になります)また、テレビの相談番組のように受ける側が好き放題のことを言っている状態になります。聴くどころか、喋り過ぎになっています。

 それで、ただ聴くだけでなく、質問をしたりして、時には、こちらから口をはさみます。話を整理します。これがあまり過ぎると、お節介になったり、過干渉になって、指示的になり、クライエントの援助と言うより、カウンセラーの意見を押しつける事にもなりかねません。黙っていてもいけない、喋りすぎてもいけない、「積極的傾聴」って、なんだかシチメンドクサイ事になります。カウンセリングは何遍も書きますが、ある一定の技術とか、固定的な答がないのですから、その場その場で対応していくしかないのです。

 井戸端会議などでは、相手の話を聴くより、自分がおしゃべりする事に夢中です。相手の話なんか聴いていません。しかし、少しでも「積極的傾聴」ができればいいのですが。Ω
(写真は宮島厳島神社)


 5−1 五つの聴く態度/5−2 カウンセリングの定義と三条件

 五つの態度とは、カウンセリングの時にカウンセラーが話を聴く態度の事を言います。
1)評価的態度。2)解釈的態度。3)診断的態度。
4)支持的態度。5)理解的態度です。
●1)評価的態度とはカウンセラーが、クライエントの発言の善悪や、正しさ、適当であるかどうか、効果的かどうかなどについて、彼自身(カウンセラー)の判断を与えようとするもの。なんらかの形で多少とも、クライエントのなすべき事について暗示を与える。(黒白をつける傾向)
●2)解釈的態度とはカウンセラーが、クライエントに対して、教える、述べている事の深い意味を知らせる、または何かを示してやろうとするもの。なんらかの形で多少とも、クライエントの考えるべき事を暗示する。(物分りが良い、勝手な判断をする傾向)
●3)診断的(調査的)態度とはカウンセラーが、クライエントの問題について、もっと知りたい、ある点についてもっと話し合いたい、と言うことを示すもの。何らかの形で、クライエントがもっとある側面を展開し、話し合ったほうがよいと言うことを暗示する。(好奇的、探索的、調べる。根掘り葉掘り聴く傾向)
●4)支持的態度とはカウンセラーが、クライエントに保証を与える、深刻な感情を和らげる、不安を軽減させ、安心感を与える、と言うような事をめざしているもの。何らかの形で、クライエントが現在のように感ずる必要はないと言うことを暗示する。(ヨイショする傾向)
●5)理解的態度とはカウンセラーが、クライエントの述べた内容、感情、ショック、考え方やものの見方などを正しく理解しているかどうかを示そうとするもの。あるいは、それらを正しく理解しているかどうかを尋ねているもの。(非操作的、関心を持って聞く傾向)

 以上、テキストから簡単に、書き写しました。1)から4)まではすべて、暗示と言う言葉が入っています。これはカウンセラーが何らかの操作をクライエントにすると言うことを暗に言っています。操作が一概に悪いとは言えませんが、カウンセリングでは、5)の理解的態度が非支持的・非操作的だと言っています。

 今日、学校教育にしろ、家庭教育にせよ、社会の職場教育にしても、あまりにも、ああしろこうしろの教育が多すぎます。つまり、本人の自主性とか、自立性はあまり認めず、教える側の都合を押し付ける教育が多いということです。これは教育の一つのプロセスと見るならば、許容の範囲もありますが、これが国家単位でなされたら、再びあのイヤな戦前の軍国主義教育になってしまいます。

 現に、不況の中、政治改革・リストラと言う名のもとに、弱者が切り捨てられようとしています。ここ2、3年の年間自殺者が3万人を超えていると言うことは、それだけ世の中が住みにくいことを現しています。いまや、他人のことより、自分を守るのが精一杯、人の悩みなど聴いておられないと言うのが、本当ではないでしょうか。

 そんな時、他人の悩みを聴くにあたって、5)の理解的態度が必要です。4で書いた積極的傾聴に通じます。
「クライエントの述べた内容、感情、ショック、考え方やものの見方などを正しく理解しているかどうかを示そうとする」態度。また「それらを正しく理解しているかどうかを尋ねているもの」と言うのは、「私はあなたの訴えがカクカクシカジカと受けとめました。それで宜しいか」と言う念を押す態度が必要です。クライエントが訴えた事を受けとめたと言う態度もなしに、一方的にカウンセラーが自分の意見や、考えを述べるなら、お説教になりますし、決して、クライエントを援助しているとは言えません。

 これらを、もう一度整理しますと、1)から4)までの操作主義は「外から」「客観的」に診断して(「とらえて」)それにもとづいて「操作する」(「忠告する」「助言する」「支持する」「治療する」「変える」「なおす」「しつける」など)と言うことです。→指示・操作。
 
 これに対して理解的態度はクライエントの「内から」その「主観的に感じられているまま」に理解し、「受容」すると言うことです。「受容」とは簡単に言いいますと、相手をあるがままに黒白をつけず、無条件に受けとめる事です。これは聖書に度々出てくるキリストの言葉・行為に通じます。(ホームページに書いた姦通の女、よきサマリア人の物語。また、ゲッセマネの祈りにある「・・・この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、『御心のままに』」の態度など多く出てきます)→非指示・非操作(ノンデレ)

 私はカウンセリングが常に「理解的態度」であれとは言いません。それなら、それこそステレオタイピング型になり鼻についてしまいます。時には指示・操作も必要だと想います。しかし、できるならば、理解的態度と言う優しさを失わず、常に身に着ける事を心得たいと思います。Ω

 5-2 カウンセリングの定義と三条件
 最終に近くなりましたので、ここで、カウンセリングの定義みたいなものを、少しだけ書きます。

1) 心理療法(治療的カウンセリング)遊戯療法、相談的カウンセリング、指導的カウンセリングなどを総合してカウンセリングと言います。
2) 情報や助言を与えると言う意味での「相談」は英語で言えば「コンサルテーション」であって、「カウンセリング」とは一線を隔します。美容・化粧カウンセリング、カツラカウンセリング、住宅カウンセリング、ジムでも、カウンセリングと言って、マシンの使い方の指導をしています。これらは殆どが指導、相談の意味に用いられています。
3) 「カウンセリング」は情報を提供したり、助言を与えたり、問題を解決させたり、適応させたり、診断して治療したりすることではありません。むしろそこでは、クライエントが「なおる」とか、「問題にぶつかれるようになる」とか、「学習する」とか言ったことがおこります。そうしたクライエントの過程が起こるのに、カウンセラーはただ、それが起こりやすい「関係」を作ることによって「援助」していくだけであると言います。

カウンセリングの三条件
 それでは、カウンセリングにとって、必要な条件を書いていきます。これらはアメリカではカウンセリングの神様と言われている、カール・R・ロジャース(1902年〜1987年)が唱えたもので、彼のカウンセリング理論(思想)の柱とも言われています。

1)一致性または純粋性
 彼が著書に「自由にかつ深く自己自身であり、彼の現実の体験がその自己意識によって正確に表現される」と書いています。これでは何を言っているのか、さっぱり分かりません。日本の専門家・翻訳者はこう書いています。

 「・・・彼が人間として、彼の生活のあらゆる局面において、これだけ統合されており、これだけ全体的な模範的な人間であれば、その人のもつあらゆる人間関係は、他人に建設的な変化をもたらすほどのものとなろう。しかし、ロジャースはそこまでは要求していない。ただ『この関係のこの時間において、正確に自己自身であり、この瞬間において、このような基本的な意味で真の自己であるならば、それで十分なのである』と述べている。この条件は、カウンセリングにとって理想的であるとか、人間として立派な態度であるとか、そう言うようには考えられないようなあり方であっても、ともかく『自己自身である』ことを意味するものである」と書いています。

 要は「カウンセラーとは神様ではないから、立派な、模範的な人間、100%であろうとするよりクライエントを欺かず、正直であれと」書いていると想います。さらに、進みます。

 簡潔に書きますと、老子(紀元前数百年?周【中国】の哲学者・思想家)の『徳』の思想に一致していると書いています。「●心の動きにとどこおりがない。●ごくすなおながら、外からの刺激に動かされない。●無欲で、お節介せず、落ち着いていて、おのずから、全ての働きの中心となり、ある特定の事にこだわらない。いわば『無立場の立場に立つ』」

 また「この問題の原因は何だろうとか、これはどう言う病気なんだろうとか、どうしてあげたらいいだろうとか、そう言うような『はからい』或いは『個人的構成概念』(先入観・固定観念)から、カウンセラーが解放されて、自由である事」と書いています。

 「『心の動きにとどこおり』が無く、とらわれがない、いわゆる『無立場の立場』にあるとき、『無心』に、クライエントの心の動きをありのままに受容し、理解している事ができる。これらの心に何もとどこおりや、こだわりがないから、どこにでも自由自在に動いていける。」と言
う事です。これらの事は今迄も所々に書いてきました。

 さらに、この条件(一致性・純粋性)は禅の思想にも似ていると書いています。詳しくは省略しますが、禅の「有心之心」「無心之心」・・・心に思うこと(考えていること・雑念)があれば心が一方にかたより、そうしたときには、「物を聞けども聞こえず、見れども見えざるなり」
と言うあたりは、誰でもが経験していると想います。

 心を白紙の状態にする。カラッポにしておくようにと、よく師匠に言われました。

 これを、聖書から見ますと、「心の貧しい人々は幸いである、(無欲であるため)天の国は・・・」
(マタイ5:3)「心を入れ替えて子供のように(純粋に)ならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)
「・・・かえって自分を無にして・・・」(フィリピ2:7)
 などの聖句が浮かんできます。神の無償の愛(アガペー)がカウンセリングのベースになっているように感じます。
2)無条件の肯定的配慮
 簡単に言いますと「カウンセラーがクライエントの体験のすべての局面を、そのクライエントの一部として暖かく受容している(受け入れている)・・・この受容については何も条件やひもがついてないと言うことであり、『あなたが、これこれである場合にだけ、私はあなたが好きなのです』と言うような感情を持っていない。『あなたはこう言う点では良いが、こう言う点では悪い』と言うような――とは正反対のもの」

 さらに「それは、クライエントの『良い』、積極的な、成熟した、自信のある、社会的な感情の表現を受容するのと全く同じくらいに、彼の否定的な、悪い、苦しんでいる、恐れている、防衛的な、あるいは異常な感情の表現をも受容することであり、クライエントの一致している
やり方を受容するのと同じくらいに、『彼の一致していない』やり方をも受容することである」

 それは『愛する』こと、それも、カウンセラー自身の欲求を満足させるためだけの愛し方ではないと言っています。「私はクライエントが好きである」とも言っています。これはゲーテの述べている「畏敬」でもあり、「愛」であると言っています。

 これは老子の「仁」ときわめて類似していると・・・結論だけ書きますと「無条件、むくいを求めない愛」なのだと言っています。これが書きたかったのです。それはまさしく、聖書の説く『神の愛』アガペーです。

 ロジャースが何故こんな事を説くかと言いますと、私の独断・推測ですが、彼が若き日に、牧師になるべく神学校で学び、YMCAで活動していた経歴。何らかの事情により心理学、ひいてはカウンセリングの道に入ったのです。即ち彼のバックボーンには聖書の影響がかなりあったと想うのです。

 純粋性と言い、むくいを求めない愛とは聖書の思想そのものです。
 たとえば「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに『固執しようとは思わず』かえって『自分を無』にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも『十字架の死に至るまで従順でした。』」(フィリピ書2:6-8)このところにアガペーが説かれています。

 よく、ボランティア講座に行くと、高齢者と話をするときは、目線を同じ位置にして、すなわち、椅子に座っていたら、同じくかがむなりして話を聴くとか、子供と会話をする時も同じことが言われます。これはカウンセリングマインドの一つです。

2)感情移入的理解(共感)
 「クライエントの私的な世界を『あたかも』自分自身のものであるかのように感じとり、しかもこの『あたかも
・・・・・・・のように』と言う性質を失わない。かつ、クライエントの怒りや恐怖や混乱の中に捲きこまれないようにすること」

 さらに「クライエントの世界がこのようにカウンセラーに明らかになり、彼がその世界のなかを自由に歩きまわるとき、彼は、クライエントのよくわかっているものを、自分も理解していることを伝え得るばかりでなく、クライエントの体験のなかでは、ほとんど意識されてないような意味をも、口に出して述べることもできる」

 この後半の部分は、長い体験(経験)の元にロジャースが述べているので、素人には分かりにくいと想います。そこまではやれなくてもひたすらに聴くことで、カウンセリングの目的の半分は達せられると、よく言われました。

 今迄書いてきたことを、簡単にまとめますと、カウンセリングは、心を白紙の状態で、黒白の色分けを安易にせず、積極的傾聴して、受容し、共感していくこと。これらは技術ではなく、その姿勢が大切であると。『いかにするか』ではなく『いかにあるか』が大切であると。終始学んできました。以上で「カウンセリングってナアニ」を終らせて頂きます。Ω
(写真は原爆ドーム)



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