“カウンセリング”ってナアニ?
この度、カウンセリングに関するページを設けました。
そんなに難しい事は書けません。20何年間カウンセリングの勉強をし、ボランティアでも、
延べ2千数百人の相談を受けてきました(自慢話ではないです)。その中から学んだ事、
教えられた事を思うままに書きたいと思います。
秩序立て、系統的には書きません。本当に思うままです。どうぞご覧ください。
カウンセリングは聖書を読んでいると、ものすごく聖書に関係が深い事が分かります。
イエス・キリストが最初にして、最高のカウンセラーだと思います。
後に発展した、フロイトの精神分析。ユングの深層心理学。臨床心理学。精神医学。カウンセリングなどに少なからず影響を与えています。
その辺も考慮して書いてみました。
ご感想をメールなりBBSにお寄せ頂けば幸いです。

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 1 体験学習/感受性訓練

1−1体験学習
 私がはじめてカウンセリングに係わったのは、20数年前ボランティア電話相談員の講習会に参加したのが切っ掛けです。1年間の講習・研修を済まし、その後、師匠である大学教授K氏のカウンセリング・グループに入り、電話相談とは別に、これと並行して本格的にカウンセリングの学習を始めたのですが、終始徹底して「体験学習」でした。世話人(カウンセリングでは指導者とか、先生・講師・リーダーとは言わず、世話人と言いました)であったK氏は説明・講義はほとんどされず、「暴力以外はご自由に・・・」と言って、後は突き放すように係わり、グループの自由な動きに任されました。

 (体験学習とはテキストによると『グループで集中的に種々なカウンセリングの学習を行い、カウンセラーとして必要な体験が「今ここで」行われる。エンカウンター・グループ、T・グループ、センシティヴィティ/感受性/・トレーニング、L・グループなどの総称に用いられている学習方式のこと』を言います)

 理論的な勉強は各自が自分で本を読んで、レポートを提出するの繰り返しでした。それで何単位かを取り、体験学習の時間をプラスして準カウンセラー認定に5年掛かりました。後、本カウンセラー認定のための単位・時間は足りていたのですが諸事情により、レポートが出せず、そのまま来ています。

 私は当初K氏の意図が理解できず、それでも無我夢中状態で興味を持って、何年間も続けてきました。体験学習とはこんなものと思い、グループが楽しかったのです。また、今で言うオフ会も楽しかったです。それも学習の一つと位置付けられていました。

 普通、何かの学習をする時は、テキストがあって、先生(講師)が講義(レクチャー)される。それを一方通行式に生徒が聴くと言うのが一般的な形式です。(このような学習形式を認知的学習と言います)K氏はそんなことは全然されなかったのです。徹底して『体験学習』にこだわれました。その中には、上記の種々な目的、意味があったのです。私は当時、体験学習の意味を十分理解していたとは言えません。でも、無意識のうちに学習していたのだと思います。最近やっと気付きました。体験学習の大切さが。

1−2 感受性訓練 1
 先に書きました感受性訓練(センシティヴィティ・トレーニング:以下S・Tと略)について書きます。
 感受性と言うのは、本当は社会的感受性と言うことです。「美術が分かる」「音楽的センスがある」などの感受性ではなく、ここで言う感受性は相手の気持ちが分かる、グループの気持ちが分かると言うことです。そこで感受性は自他の診断、グループの雰囲気の診断であるとも言われています。

 ところで、感じるだけではなく、その場面にもっとも適した行動を、自由自在にすることを行動の柔軟性と言います。S・Tの目的は「診断」と「行動の柔軟性」の二つだとしています。感受性はカウンセリングやあらゆる人間関係にとって大切ですが、本を読んだだけで身につくものではありません。

 私が参考にしている本の書かれた昭和40年頃は、各地で盛んにS・Tの研修会が開かれました。都会とは離れたいわゆる「辺鄙」な会場で数日間、缶詰状態になって行われました。今でもカウンセリング・ワークショップと称して行われていますが、上記の種々の内容を含んだ体験学習のほか、色々なプログラムが組まれています。

 S・Tのために高いお金と時間を費やすには、よほどの関心をもっているか、余裕をもっている人でないと参加できないでしょう。一時「○○啓発セミナー」と称して、多額の参加費を取られたと言う話を良く聞かされました。
 S・Tは上記のような特別な場でないと出来ないのでしょうか。本を読むだけの、いわゆる頭だけの理解では無理かも知れませんが、日常の生活や、対人関係の中で意識的に実践していくことは可能だと思います。

 偉い先生とか、専門家、特別の訓練を受けた人だけが感受性に優れているとは言えません。「診断」と「行動の柔軟性」は誰でもちょっと意識すれば出来る事です。Ω
(写真は長浜・街の灯篭)


 2 感受性訓練 U、V

2−1感受性訓練U
 先に、「S・Tは自他の診断、グループの雰囲気の診断」と書きました。診断と言えばカウンセリングの五つの態度(評価的、解釈的、支持的、診断的、理解的、/これらの詳細はいつか書きます)の中で理解的態度が非操作的なのに対して、診断的態度は、操作的であり、外から客観的に人に接する態度であるので、できれば避けた方が良いのですが、ここで言う「感受生の診断」と「診断的態度」の診断は矛盾するのではないかと、疑問をもつかも知れません。

 そうではありません。診断は医師が患者を診察して病状を判断するように、カウンセリングでも、相手を理解するために、感情の把握の他に、経験や検査、データを集めたりのコンピューター的な言わば知的な作業が必要です。
 対人関係では誰でもこの作業をしています。これを診断と言います。例えば、今、肉を買おうとします。この場合、美味しいから、食べたいからだけではなしに、家計、財布の中身、栄養のバランス、料理の種類などを考慮してどの肉にするかを選びます。これも診断です。

 肉一つ買うのにも診断しているのですから。人間関係では、診断をするのは当たり前です。人間関係での診断を
一言で言うと、「よくみる・よく観察する」ことではないでしょうか。電話の場合、姿が見えませんから、「よく聴く」しかできません。
 相手の言うこと、動作・仕草から相手を理解し、共感していくのが「感受性のの診断」です。カウンセリングにおいては、あからさまに、こちらが誘導して話を進めるのではなく、相手の話から、相手の状況や事柄、対人関係などを把握して、相手の本当に悩んでいる事に、焦点を当てながら対応していくことが求められます。

 診断をしながら、「診断的態度」を避けて、話を聴くと言う器用な作業ができるのか、それはできます。テレビの悩み相談番組で、相談者の気持などどこ吹く風かと言わんばかりに、回答者がすき放題のことを言ったり、興味半分に根掘り葉掘り聴き倒すのをみていて、胸が痛みます。実際の場ではあんなことはしません。診断をしていても、相談者には、詮索(診断)をされている感じを抱かさない、理解的態度がベターと言えます。

2−2 感受性訓練 V 
 S・Tで今迄書かなかったことを書きます。S・Tでは(1)感受性の鋭すぎる人(2)感受性の鈍すぎる人。(3)いつも沈黙を守りたがる人も訓練の必要があると言われています。

 ここでは、(1)(2)について主に書きます。
*鋭どすぎる人・・・豊かな才能が有って、頭の回転のよい人、多弁で他人の世話もよくするする。しかし、これも行き過ぎると、迷惑になることがあります。
 いわゆる神経症と言われる人、躁鬱病の躁状態の人も感受性が鋭すぎて、他人を困らせるだけではなく、本人も気付かず、苦しんでいる事があります。犯罪を行う少年たち。受験地獄に耐えられなくて、すぐキレル。ある者は暴走族や、恐喝にはしり、ついには殺人までしていまう。多感な時期に起こる不幸なマイナス現象だと言えます。

*鈍すぎる人・・・元首相の「神の国」発言問題。政治家は一見鋭い人ばかりに見えます。全てがそうだとは言いませんが、おおむね、彼らの頭の中は国民のことよりも、如何に選挙に勝つかで一杯だと思います。つまり、国民の気持に鈍感だから、また、政治家としての理念や資質が乏しいので、失言を繰り返し、それに気付かず訂正をしないのではないでしょうか。
 突っ張ってしまう少年達に対し、いじめにあったり、家に閉じこもってしまう人、神経的に鬱状態になり、何も出来ない人も感受性が鈍い状態と言えます。

 司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」の中で、未だに頭に残っている場面があります。この小説は、日・露戦争が舞台ですが、主人公である陸軍の指揮官が敵中孤立して、猛攻撃を受けた時「戦場の司令官はあまり鋭敏であってもいけない。反応が鋭敏過ぎると、かえって事をあやまる。こういう極所には、わざと鈍感になるしかなかったと、ブランディーを飲んで開き直り、敵が疲れて退却するのを待って、危機を脱した」とあります。

 ここに、S・Tの模範的解答があります。つまり、感受性は鋭すぎても、鈍すぎてもいかず、程々が良いと言うことです。包丁を使っていて、最近分かったことですが、刃物は研ぎ過ぎても、怪我をし、刃こぼれします。簡単な砥石で少し研げば、楽にきれいに切れます。Ω
(写真は長浜蝋梅)


 3 忍耐/幸せ

3−1忍耐
 2000年2月、二男の結婚式の挨拶で、新郎・新婦におくる言葉として「忍耐」を人生訓とするようにと色紙に書いて渡しました。私にとって、人生の全てにおいて、忍耐であると日頃から思っているからです。

 毎日の生活が何の苦労もなく、楽で愉快に過ごす事ができれば、忍耐などすることはないわけです。よく聞く言葉で「四苦/生老病死」(生きる事、老い、病気、死)は人間である限り、誰一人免れることはできません。
 テレビなどで、荒行、難行、苦行の修行をしている人が紹介されますが、こんなことは特別な人であって、誰にもできるものではありません。

 世の中には、自ら欲しなくても天災、人災、その他、上述した「四苦」が襲ってきます。そして、難行、苦行を強いられます。それでパニックを起こしたり、悩み苦しみ、相談をもちかけてくる人が多いのです。心身の病気になるひともいます。

 「自分は悩みなど無い。毎日が楽しくて・・・」と言う人は幸いです。そんな人は本当に苦しみが無いか、有ってもそれを感じない忍耐力もっているか、あるいは、やせ我慢か、嘘をついているかです。
 
 忍耐を辞書で引くと、「こらえること。たえしのぶこと」とあります。「耐える」を引くと、「支え止める。さえぎる。当たることができる。対抗できる。持ちこたえる。こらえる。忍ぶ。することができる。する能力がある」。「忍ぶ」には「こらえる。我慢する。かくす」などの意味があります。

 「忍耐」にはこらえるとか、忍ぶ、ひたすらに我慢するとかのマイナス(ネガティブ)の感じの他に、支え止める。対抗できる。する能力があるなどのプラス(ポジティブ)の面を意味する感じが多いことが分かりました。

 いずれにしても、人生には苦労がつきものです。想像に絶する苦難も有るでしょう。でも、どんな大きな台風でも時がくれば過ぎ去っていきます。「忍耐」とは待つこと。苦難を一発で脱する特効薬なんてありません。ひたすらに耐え、忍ぶしかないこともあります。

 忍耐をマイナス面だけでとらえるのでなく、プラスの面も知っていれば、即ち、どんな事でも受け入れる、カウンセリングで言う『受容』を身につけたいものです。

 聖書には忍耐について多く書かれています。例えば「・・苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む・・・(ロマ5:3)」が忍耐の意味を教えていると思います。
3−2 幸せ
 幸せて何でしょう?。例によって辞書を引くと「さいわい。幸福。めぐりあわせのよいこと。みちたりた状態にあること」などが出ています。

 何故こんなことを書くのかと訝る(いぶかる)人があるかも知れません。坊さんみたいに説教をする気はさらさらありません。

 相談を受けていて「わたしは、どうしてこんなに苦労や悩みをもち、良い事は一つも無いのか。何のために生きているのか分からない。生きていてもつまらない。いっそ死んだ方がましだ」と訴えてくる人が多いです。生き甲斐を無くしたり、辛い思いや、自殺願望(念慮)が伝わってきます。(最近のニュースでは自殺者が五年連続で三万人を超えたと伝えています)

 「人間て苦しむために生まれ、生きているのでは無いですのにね」・・・「希望を失わずに、何とか幸せになって欲しいです」としか言えません。

 そこで、「幸せ」て何だろうと考えます。「そんな面倒くさいことどうでもいい。毎日忙しいのに」と言える人は
幸いです。「苦しいことで忙しく」している人には深刻な悩みなのです。

 聖書(旧約「コヘレトの手紙3章12節」)に「わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と」と書いてあります。これは間違っていません。しかし、現実にこんな一生を送れる人があるでしょうか?

 また、新約聖書マタイ福音書5章3節に「心の貧しい人々は、幸いである」と書いています。 この言葉は非常に誤解される言葉だと思います。

 何故なら、「心の貧しい」とは普通良い意味には使われません。「無教養」「無知」「不躾」「卑しい」「情が無い」「冷酷」「我がまま」などと軽蔑されます。豊かさの反対ですから。では、豊かさが幸いにつながるでしょうか?

 言うまでも無く、戦後50数年、日本は驚異的な経済発展を遂げました。物心共に豊かになったはずです。でも、
マスコミは毎日と言ってもいいほど、いやな暗いニュースを流します。これしかないと言うほどに。日本は本当に幸せですか?。

 「心の貧しい」とは「物心共に超貧しくて、それだけに、奢ることなく、純粋で、無心・無欲なこと」の意味合いだそうです。

 カウンセリングでは「純粋性」を強調します。これがカウンセリングマインドの一つとされています。豊か過ぎると、それを失うまいとして、かえって不安になるのではないでしょうか?
 幸せて何でしょうか?Ω
(写真は厳島神社)


 4 気づき/カウンセリングの技術

4−1気づき
 始めに二つの文章を紹介します。「ウエルネスとは、自分の人生は自分で責任を持つことを知り、より幸福で、より充実した人生を送るために、自分の現在のライフスタイルを点検し、自分を変えなければならないことに気づき、
これを変革し続けていく過程・・・」

 「恐ろしいのは心の病(うつ病)にかかることではなく、その事実に気づかず放置することなのだ」

 ここでウエルネスやうつ病について書くつもりははありません。偶然にも二つの文章から共通することば即ち、
気づきと言うことばに出会ったのです。

 カウンセリングでは、まず気づきが第一歩です。気づかない人に周りからいくら言っても、何の効果もありません。クライエント(来談者)がどんな問題にしても、自分の問題に気づき、悩んで相談に行く。ここからカウンセリングが始まり、いろいろなプロセスに進んでいきます。

 気づきとは表面的な頭だけのものではなく、心の奥底、いわば、深層の無意識から湧き上がってくるようなショックとも言える、自分の内側から体験することです。この体験を自己覚知とか自己理解とも言います。また、自己洞察とも言います。一種の悟りとも言えます。これらのことは誰でも体験しています。

 気づきは快いものばかりとは限りません。むしろ、不快な、嫌な苦しい感じのほうが多いでしょう。この体験を
受容し、洞察を深めることで、自分が変わり、成長していくのではないでしょうか。

 気づきは突然、閃きのように起こることもあります。外からの刺激や、人から教えられることもあります。しかし、他人まかせだけでは、気づかないのです。もし、自分が他人からいつもあれこれ干渉されたら「お節介もいいかげんにしてくれ」と言いたくなるでしょう。

 現在の社会では、あらゆるところで、お節介が横行しています。自分で気づく機会を与えず、自主性とか、自立性の芽を摘み取っているのです。自分から気づく大切さを学びたいです。

4−2 カウンセリングの技術
 「カウンセリングの技術てどんなんですか」 「どう答えたらいいんですか」 「色々とよく知っていないといけない」 「どんな事を教えるのですか」など、よく聞かれます。カウンセリングの話になると必ずこんな質問をされます。いつも戸惑ってしまいます。

 カウンセリングは「いかにするか」より「いかにあるか」を大事にします。古代イスラエルではモーセの十戒を信仰と生活の基準としてきました。十戒は言うまでも無く、神に対する掟(四戒)と人に対する掟(六戒)があって、これを守る事で、救い(天国に行ける)を得ると信じていました。

 ところが、時がたつにつれて、宗教的指導者(祭司・律法学者)は数え切れないほどに、次々と掟(律法)をつくり、教え、自分も守れないことを民衆に押し付け、守らない(守れない)人を厳しく裁きました。

 例えば、安息日(週に一度)に働くな、病気を治すな、何歩以上歩くななど、掟とか、善を行いなさいと言うことです。このように、何々(律法とか行い)を守ると救われると主張する主義を律法主義と言います。イエスが嫌ったことです。

 今の世の中も律法主義がはびこっています。つまり、テレビや本でもやれファッションとか、美容、ダイエット、健康など、いわゆるハウ ツー(方法、やり方)ものであふれています。なんでも、色々やれば幸福になれると過信するのは、律法主義に似ていると皮肉りたくなるのです。

 ハウ ツーもいちがいに否定はしません。パソコン、携帯電話も必要でしょう。しかし、他人への迷惑も考えずにまた、健康を害してまでハウ ツーばかりに振り回されるのは如何なものでしょうか。

 この世には絶対的なものと、相対的なものがあります。前者は例えば、神と人、天と地など。後者はファッションとか、ライフスタイルなどハウ ツーのたぐいで、これらは一人一人の好みも違いますし、何を選ぶかは個人の自由です。また、絶対必要なものばかりではなく、どうでも、どちらでもよいことです。

 カウンセリングでは「いかにあるか」が大事であって、「いかにするか」の技術はどうでもよいとは言いませんが
二次的なものです。「いかにあるか」はまたの機会に書きます。Ω
(写真は厳島神社)



 5 自己実現/生き甲斐

5−1自己実現
 私が自己実現という言葉をはっきりと自覚したのは、「生涯学習指導者養成講座」と言う通信教育を受講した時です。そのテキストには自己実現について「自己の能力を最大限に発揮して、自己達成、自己表現および高度の自立に向かうこと。

 人間は、自己実現の欲求を潜在的にもっているとされている。これは成熟した人間の最も高次な欲求である」と書いてあります。学者によって多少の表現は違いますが、おおよそこのように言われています。

 何か難しい言葉の羅列みたいに感じます。分かったような、分からないような感じにもなります。限りなく神に近づくか、聖人になることかなとも思えます。

 私は簡単に「やりたいことを、やりたいようにする」と思っています。これは私のカウンセリングの師匠であるK氏がいつも言っておられたことです。当時は「大学の先生(教授)は結構なご身分で好きなことが出来るんだ」と半ば羨望と嫉妬を覚えたものです。

 「やりたいことを、やりたいようにする」を誤解すると、自己中心、自分勝手、エゴイズムにとられますが、そうではありません。逆な言い方をすると「やりたくてもやれない」つまり、世の中では自己実現を目指しても阻害されて、出来ないことが一杯あります。

 例えば、健康問題。世間体、風習、習慣、常識などのいわば人の目など。また、人間関係や家族関係に縛られて思うように出来ないとか。・・・カウンセリングではこんな悩み・相談が多いです。自己実現のためにはかなりの決心と勇気、意欲が必要です。カウンセリングはこのように援助を求めてくる人の相談相手になるのです。

 「やりたいことを・・・・・」はエゴイズムではありません。他人まかせではなく自分の意思で意識して考え、決心して、実行する。(自発的・主体的に生きるとも言います)他人に迷惑をかけない。最低必要程度の社会的なルールは考えた上で、する。

 ただし、社会生活を営んでいる以上、何もかも「・・・やりたいように」とはいかないです。時には「やりたくない」ことにお付き合いすることもあります。そんな時、以前感受性訓練の項で書いた「柔軟性」を発揮します。

 限られた人生ですから、何事をするにも、意味の無い、無駄で、無理な事はせず、しかも、出来るだけ楽しく、納得のいく事をしたいものです。これて、やはり我がままになりますか?

5−2 生き甲斐
 生き甲斐について書こうと思ったのですが、本なんかをみていると、心理学的、哲学的などの立場とかあって、
結構難しいのです。私にはそんな奥深いことを考える才能はありません。いつものごとく自分なりに思っていることを書いてみます。

 広辞苑には「生き甲斐=生きているだけの効力。生きている幸福・利益」と出ています。なんか素っ気無いです。

 ある本には、中国の隋時代には貝が貨幣=価値あるもの=として使われていたことから、甲斐は貝、価値、効果の意味。また、中世時代、甲斐は「かひ」の動詞形「かふ」(替ふ・交ふ・買ふ・換ふ)が転じたものだと書いてあります。即ち、甲斐は「なになにと交換するに値する(価値)」と言う意味になるかと思います。

 ここまでくると、生き甲斐とは何か、やや、はっきりしてきます。私は簡単に「生き甲斐とは生きること(生・
人生)と交換しても惜しくないもの、或いは後悔しないものとか、こと」とします。

 交換するときは、対象と代価が必要です。対象は無数にあります。代価はお金をはじめ、時間、労力、大事にしているもの、或いは自分に不必要なもの(これが結構あるのです・・・例えば親切の押し売り、似非[えせ]ボランティアなど)

 対象は無数にあるので、さて、何をしたらいいのか、やたらに迷います。また、他人に無理に押し付けたり、押し付けられたり、どちらもあまり愉快ではないです。

 悩みを訴えてくる人、高齢者などに、つい、安易に生き甲斐を求めなさいとか、探しなさいとか言ってしまいますが、その前に自分の生き甲斐は何なのか、はっきり自覚したいです。

 子供とか孫が生き甲斐で、溺愛し過ぎ、お互いが不幸になるケースをマスコミなどが伝えます。
 何でもいい、生き甲斐であれば良いではすまされない事もあります。子供の事、アルコール依存症や過度の賭け事、麻薬など、これが生き甲斐だからと言ってほっておく訳にはいきません。

 自分の大事なものを代価に払うのですから、同じやるなら、これをやって本当に良かった。幸せだ、楽しい、喜びだと感じたいです。

 建前で生き甲斐を求めるのはしんどいです。「何々をしなければいけないからする」では、味気ないです。これが意外に多いのです。できれば、本音でいきたいです。生き甲斐は前項に書いた「自己実現」に通じています。
「・・・しなければいけない」より「・・・やりたいからやる」のほうが面白いし、本当の生き甲斐に思えます。Ω

P.S.以上で、このページでは区切りをつけます。カウンセリングについて書きだすとキリがありません。また、別のページで続きを書きます。
(写真は水族館にて)


 

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