イエスの愛 |
イエスの愛について書きます。
私の能力では、かえって躓かせる かもしれません。お許しを。 |
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姦通の女 |
〔・・・そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあな たを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕(ヨハネによる福音書8章3〜11節) イエスを試して訴える口実を得るのが見え見えの律法学者たちの企てに、イエスは沈黙をもって対処します。その後大上段に切り返すのでなく、「罪を犯したことのない者が石を投げよ」と彼らの自主性・自発性にまかせます。このへんにイエスのふところの深さ、彼らに恥をかかせず裁きをする、まるで、賭けのようであって、確信に満ちたイエスの態度に感動します。女性にも「・・行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」と赦しと諭しで終わっています。 (写真は樹齢350年盆梅) |
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イエスの優しさ |
イエスが「徴税人や娼婦たちの方が・・・・神の国に入る・・・・・」(マタイ21:31)と当時、罪人のごとく人々から嫌われていた彼らを愛したように、この女性にも示した優しさに、彼女もシンパとなって従っていったのは想像できます。 以前「夫婦間の性は綺麗でそれ以外は汚いのか」と書きました。聖書は性そのものを汚いとは言っていません。むしろ「産めよ増えよ、地に満ちよ・・・」(創世記9:1)と祝福しています。私は性とは生・善・美・喜と思ってい ます。なぜ、「姦淫してはならない」と言う戒律があるかと考えますと、もしこの戒律がなければ、だれとでも性関係はOKとなります。 性には女性が妊娠と出産と言う結果が出てきます。避妊法も医学も発達していない旧約時代では、新生児の生存率は低く、一組のカップルが一人の子供を養育するだけでも大事業だったでしょう。 それで男女関係が自由になると、際限なく無秩序になります。その結果、様々な深刻な問題が起こります。 例えば、妊娠、出産等相手が複数となると大変です。こんな時代に、性感染症にかかったらどうなるでしょう。また、三角関係とか人間関係でもめるのは、どの時代でも一緒です。大きなリスクがあります。 だからそう言う不幸が起こらないように、戒律があって当たり前です。宗教的な戒律と一概に言えません。しかし、戒律があっても守られないのが世の常です。禁止令だけでは罪は防げません。 そのことを鋭く突っ込んだのがマタイ5章28節の「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、心の中でその女を犯したのである」――ここでは厳しいのに、頭書の物語では女性に対して寛大なのは、矛盾しているようですが、違います。 聖書(イエス)は見かけの姦淫を問題にしているのではなく、心の奥底にある「罪」と言う邪念――人間のサガ、業(これをキリスト教は原罪と言っています)を問題にしています。 現代、医学が発達し、避妊法も色々あるからと言って、性の問題が完全に自由になったかと言いますと、そうでもないようです。性教育関係のホームページを開いてみて、性に関しての知識も避妊法も知らないのに、性行動だけが先走っていて、しかも低年齢化しているさまが、掲示板などで伺えます。 完全な避妊手術以外に、100%の避妊法がないこと。中絶とか 性感染症が若年層にも蔓延しているのはショックです。性の問題はデリケートでむずかしいです。Ω (写真は樹齢350年盆梅-2) |
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ヤイロの娘とイエスの服に触れる女 |
この物語はマタイ福音書9:18〜26。マルコ福音書5:21〜43.ルカ福音書8:40〜56に載っています。一番短いマタイから引用します。『イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者(ヤイロ)がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ、12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後からイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」その時、彼女は治った。 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群集を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。』 この物語の特徴は一つの主題の物語中に割り込むようにもう一つの物語が入ってきて、イエスの愛の行為を引き立てています。以前映画でこの場面を観てすごく感動しました。 普通なら、例えば医師にしても、急に別の患者が飛び入りしたら、あまり感じはよくありません。余分な仕事が入って本来の患者に集中できないとおざなりになってしまいがちです。 この飛び入りの女に、迷惑な態度も見せず、誠意を見せて対応された。ルカ書にはもっと詳しく、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と慈しみを込めて言っています。 これは序の口。話は本題に戻ります。きっと会堂関係者たちは余分な事をする女だと、いらいらしていたでしょう。イエスが家の中に入り、「・・・死んだのではない。眠っているのだ」と言うと、人々は、あざ笑ったことからでも信じていない事が察しられます。ルカによると、「イエスは皆を外に出し、両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。」・・・そして癒された。 後がすごいです。単なる好奇な出来事ではなく、「他言を禁じ、食べ物を少女にあたえるようにと言われた」とあります。家族のプライバシーを守られ、宗教めいた儀式的な癒しの技ではなく、実務的に、今日風に言うと、医学的に、心理的に的確な行動を示されたと、私は感じます。 その根底に深い人への愛の心をもちながらです。それがひしひしと伝わってくる物語です。Ω (写真はさえずり盆梅) |
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ベタニアで香油を注がれる |
旧讃美歌「ナルドの壺」で有名な物語です。マタイ26章6-13節、マルコ14章3-9節それとヨハネ福音書12章1-8節に書かれています。ここではヨハネから引用します。『過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタが給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(約326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。 家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」』 さらにマタイ、マルコには「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」とも書かれていて、事実、現在こうして聖書に書かれています。この物語には、イエスの直接的な愛の行為は書かれていませんが、1年の収入にも匹敵する分もの高価な香油を惜しみなく塗ったマリアの行為は、如何に多くの愛をイエスから受けたかを示すことを、受愛者側から反面的に書かれ、イエスの愛の大きさを間接的に婉曲に書いています。 二つ目に、「わたしの葬りの日のため・・・」と言うのはイエスの十字架の死にたいする、行為であって、マリアはそんなことは意識していませんが、福音のメインである贖罪の愛の深さを象徴していると思います。 ヨハネ福音書11章以下に書かれているラザロの復活物語にはイエスが涙を流されたと、感動的に書かれています。その後に続く物語として読むと、さらにイエスの愛の深さが理解できます。 また、ルカ福音書7章36-50節には、三福音書とは場面設定が違いますが、ほぼ同じような内容の香油物語が書かれています。特に、47-50節には、「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも 少ない。」と情緒的な感動以外に、「桁外れに多く愛された事を体験した人が、桁外れの大きな行為を示す」と言うイエスの愛の深さが語られていると思います。Ω (写真は千寿盆梅) |
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十字架上の言葉 |
十字架上の言葉は本来、マルコ福音書15章34節の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると書いてあります。 最後のイエスは終始沈黙でした。この箇所は詩篇22編のはじめの項と言われています。この詩の最後は、神への賛美で終わっています。決して敗北者の言葉ではありません。 ルカ福音書では、かなりの言葉が書かれています。23章34節〔「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕42・43節では一人の犯罪人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。これはすごい言葉です。楽園行きの即決です。 ヨハネ福音書19章26・27節『イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。』これらドラマチックな言葉のひとつ、ひとつも感動を覚えますが、十字架の贖罪と言う最も大きなイエスの愛の行為には勝てません。Ω (写真は盆梅近写) |
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