こむうねエッセイ集

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 土方鐵と現代俳句

〈はじめに〉
 私に与えられたテーマは「土方鐵の俳句」なのだが、俳句というものについては、大方の日本人と同じように、若い頃すこし齧りかけたことがあるという程度で、正直に言ってまるで素人だ。
 そして土方鐵さんという人の創った俳句作品についても、句集『漂流』(一九九六年三月刊)以外に何も知らないと言っていい。「解放新聞」の投句欄の選評や、文学誌「革」に載せた作品は愛読してきたが、なによりもまず句集『漂流』以後九年間の作句については知る機会をもっていない。それだけでこういうテーマについて書こうとするのは無茶で無責任だと非難されても仕方あるまい。
 しかしにもかかわらず、とりあえずの責めを果たそうと思う。四十数年にわたり、土方鐵さんの文学に同伴しそれを愛してきた人間として、私自身も現代詩という短詩型の文学に身も心も置いてきた人間として、かすかにでも見えてくるものを探ってみたいと思う。
〈現代俳句としての位置ずけ)
 わたしの言う詩とは、簡単にいうと非定型口語自由律の詩ということになろうか。日本の詩の歴史としてはたかだか百年を数えるだけだ。それに比べ俳句は、連歌・連句などの伝統のなかから生み出され洗練されてきた長い歴史を負い、伝統のくびきを背負っている。
 当然のことにさまざまな伝統俳句や、伝統から解き放たれた俳句の革新を実践しようとする流派が生まれてきている。そして、わたしは土方鐵さんの俳句をいわゆる伝統俳句の流れではなく、「現代俳句」の中に位置付けして考えている。現代俳句といわれるものにも、季語にこだわらないという主張から、五七五の文節にこだわりない自由律口語俳句を提唱し実践している流れなどさまざまであるらしい。そして彼自身が句集『漂流』あとがきのなかでも、「わたしは現代の俳句を、無季有季をとわない、と、考えている」と書いている。
 さて句集『漂流』には鈴木六林男という人が序文を寄せている。それによってわたしは土方鐵さんが「花曜」という俳句結社に属していたこと、鈴木六林男さんがその「花曜」の主宰者であったこと、そして鈴木六林男さんという人は、土方鐵の初期の作句生活と晩年の句作活動への回帰のふたつの時期に立ち会ったひとであることを知ることができる。
 この鈴木六林男(本名次郎)さんは、土方さんのの死去に二ヶ月ほどさきだって二〇〇四年十二月十二日に八十五歳で死去された。西東三鬼門といわれ、また新興俳句最後の生き残りといわれた、無季俳句運動の重鎮であった。詳しくは知らないが、新興俳句運動は戦時中はげしい弾圧を受けた。いわゆる京大俳句事件もそのひとつである。鈴木さんはそのころ「京大俳句」に投句するなど、これらの動きにかかわっていたようだ。当然、土方さんが深い関心を寄せていた俳人石田波郷とも面識があったとしても不思議ではない。『漂流』序文のなかで鈴木さんはこうも言っている。「私は、私の内なる戦後処理が出来ずに戦場に残してきた死者と共に彷徨していた。」鈴木さんの俳句はそのように始まった。そのご社会派俳句と反戦の立場を最後までつらぬかれたようである。療養所文芸としての俳句を通じての鈴木六林男さんとの出会いが、土方さんにおける俳句の基本的性格を決めたといってもいいだろう。
(療養所文芸としての俳句)
 今ひとつの問題は「療養所文芸」としての土方さんの俳句である。小説集『妣の闇』に付された竹内泰宏さんの解説文に記されている略歴によれば、「一九二七年(昭二)京都に生まれた土方鐵は、小学校卒業後鉄工場に就職した。しかし一九四二年に肺結核で入院し、肋骨九本を切除して十年間の療養生活をよぎなくされている。かれはこのあいだに文学に親しみ、病気回復後、一九五一年に部落解放同盟京都府連常任書記として部落解放運動にはいり……」とある。土方さんの『小説石田波郷』のなかで、彼は自分の病歴について、たぶん一九四七年に、京都府綴喜郡青谷村(現城陽市)の元傷痍軍人療養所だった国立京都療養所に入所し、京大結核研究所で肋膜外合成樹脂充填術という手術をうけたと記している。
 ところで、中村不二夫『戦後サークル詩の系譜』には「当時(五二年二月現在)全国で、二〇〇万超の患者の内一三万二千の人々が結核で公私の療養所に入院していたという。退所後、五年後の再発が二〇%、死亡が五〇%の状況であった」という記述がある。
 戦前から戦後にかけての、貧困、栄養不良などが生み出した社会現象ともいうべき結核の蔓延について、わたし自身の体験からも感慨をもって思い出さざるをえない。
 中村不二夫さんは「当時全国に約五十、結核関係の詩・文芸サークルがあったという」と述べているが、療養者の文学的関心が、その肉体条件からしても短歌、俳句、詩などの短詩型文学に集中していったことはいわば必然であったし、さらに当時の民主的文学運動の昂揚、その中に位置付けされる文学サークル運動のひろがりという状況を反映して、土方さんの文学的思想的関心が社会的前衛的性格の方向にすすんでいったのだと概括してもあやまりではあるまい。土方さんの俳句への出会いをわたしはそういう意味で理解したいと思う。
(土方さんの初期俳句)
 土方さんは、一九五四年にガリ版刷りの小句集を出している。かれが二十七歳のときだ。すでに社会復帰し、部落解放運動に身を投じた時期である。その作品は句集『漂流』のなかの「青の章」に抄録したと土方さんは言っている。わたしにかれの句を批評する資格はないが、好きな句と気になる句を何句か書き出してみる。

 雪晴れや死者の病衣が干されたり
 玉葱が一つ逝きたるベットの下
 手術前石炭こぼしつつ投げこむ
 乾いた唇なめる俄に死の不安
 金欲しやざらざらの舌に飴ころがし

 病苦と死の不安に立ち向かっていたころのものであろう。冷静な観察、客観的な描写のなかに、叫びだしたいほどの心情を沈めているのが読み取れて、わたしには好ましい。
 屋根裏に病めり秋風吹き抜くる
はすこし月並みの感がするし、
 空蝉を拾いて流浪果つるなし
 汝を濡らせし夜は蒼くして銀河濃し
などはすこし詩情が生のまま出すぎている気がする。
 そしてこのころから、土方さんは革命思想に吸引され、部落解放運動の若い旗手として働きはじめたのであった。

 靴屋が靴たたく咳をしてはたたく
 うぶげの髭ぼおぼおと少年印刷工
 夜の雨に濡れ立ち保つ汝との距離
 革命はいつ雪に濡れゆくオーバアの肩
 僕の肺スラム同族の古血吐く
 我ら部落民西日燃えくる路地縦横
 スラム貫く川が鈍痛赤い太陽
 眠るスラム地の底から貨車通過
 革命記念日スラムは冷えた湿地の上

 この最初の二句は、写実の視点からも秀句に挙げられるとわたしは思う。しかし土方さんが社会的視点と解放運動の視点のなかに自分の文学を置こうとするとき、現実の中の複雑な諸相と、作家自身の鬱屈した内面世界を描きだすには、俳句という表現形式では物足りないと感じ始めたのではないだろうか。挙げた作品群を見てそのように感じるのである。
(俳句から散文表現へ)
 一般的にいえば、文学芸術は微細なものへの関心を通じて世界を凝視する。世界とは、作者にとって緊張関係にある外部のものと、自分の内部にあるすべてである。俳句という表現形式はどちらかというと作者の内部の感性練磨にふさわしいという思いがする。いわば一点への凝縮と完結が求められ続けるのである。俳句作家としてはちがった言い分もあるだろうが、わたし自身詩の世界にいるものとしてそういう思いがする。
 一作だけでは完結しえないから、同テーマによる連作が試みられたり、小説形式の散文世界への創造活動の場の転換が試みられたりするのだろう。
 ふりかえってみると、土方鐵さんの文学は日本の現代文学のなかで、屹立した特異の地位を占めていた。
 その文学は、差別と貧困、病苦、そして解放運動のなかの実践のなかで獲得してきた思想的、方法論的立場によって重要な地歩を獲得してきた。彼のどのように小さなエッセイや論争文においても、憤怒と激情が冷静公平な論旨にかくされていたと思う。
 その小説群については他の人が語るだろうが、野間宏さんを師と仰ぎながら、社会的リアリズム、肉体的リアリズム、心理的リアリズムの結合という独自の方法論を築きあげてきたのだとわたしは思っている。
 土方鐵さんの文学は、俳句という形の制約を越えざるをえなかったのだ。
(俳句世界への回帰)
 句集『漂流』あとがきには、「一九八六年、俳句に復帰し、約十年に書きためたもので、この句集を編んだ」と記されている。
 さて、土方さんは一九七一年に右甲状腺腫瘍の摘出手術を受け、一九八一年には甲状腺全摘、副甲状腺全摘、声帯の神経一部摘出、右リンパ線摘出、気管切開という大手術を受けた。酸素タンクを曳いてあらわれ、傷んだ声帯を引き絞るようにして話す、土方さんの風姿がわたしたちに馴染みのものになった。
 土方さんが「革」という短編を発表したのは一九七七年、中篇「妣の闇」が書かれたのは一九八七年から一九九〇年にかけてである。
「妣の闇」は土方さんの入院手術というなかでの時の経過を追った記録と、死とたたかう土方さんの中に継起する幻覚、幻想が重ね合わされた特異な作風であるが、この作品からも、死にいたるほどの病いによる体力の消耗が、小説という表現形式から俳句への回帰をもたらしつつあることを、今にして感じとることができよう。
 一九九四年から九八年ころまで書き継がれて二〇〇一年に解放出版社から刊行された『小説 石田波郷』を、わたしは土方さんのライフワークにも位置するものと思っている。この場ではわたしはその内容にはふれないが、彼の俳句作品に関心を持つ人は、ぜひこれも愛読してほしい。
句集『漂流』には推定四百句あまりの作品が収録されている。それは制作年代順になっていない。なお未発表の作品収集もふくめて若い後継者や研究者の仕事にゆだねたいところだ。
 鈴木六林男さんの解説は丁寧で明晰、非常に参考になる。それに屋を重ねることは要らぬことだという思いがする。
わたしは、部落の解放とにんげんの解放にその生涯をささげた土方鐵さんへの追悼の気持ちをこめて、幾つかの句を紹介することで責めを果たしたいと思う。
最初はかれの身内や友人たちへの悼み歌というべきもの。

(母きみえ)遠雷やいまわの母の垂れ乳房
     母の忌の夜ふけひとりを甜瓜
(富士正晴)正晴の死や竹林に炎日透け
(上野英信)男いて花火散らせり地を穿ち
(米田富)囀りや君が棺と赤い旗
(野間宏)宏死す地を弾み打つ削岩機
(井上光晴)光晴逝く炭坑島に草猛り
(父新助)寒星や父に息絶ゆ刻きたり

 次は「旅遊」と名付けられた章から
 ガンジスに四肢ちぢめたる児の骸(インド)
 樹の下陰賎とよばるる靴繕し
 泥小屋の暗きに少女杼を走らす
 河へ落日インド大陸闇きたる
 褪色しなおかつ農民旗の紅(中国)
 北京四温笑まう阿Qとすれちがい
 砂漠灼けいずこにもなき己が影
 舟上に蛋民めし食う猫もいて

 「漂流T」から
 遠花火われかくし飼う魔性たち
 雪はなやか一揆の石碑かしぎおり
 秋の風鉄材積まれ生臭し
 黒い川面へ唾吐く弔旗立てしあと
 
 「カフカの城」から
 麻酔醒むカフカの城に行きつけず
 われは癌なりしか寒夜なお明けず
 妻やさし寒くてだるき双の腕
 病院の寒夜無音の阿鼻叫喚
 生きのびし胸に蝿きて翅つかう

「スラム」から
 屠夫戻る路地に縞なす血の夕焼
 驟雨きてスラムの屋根の合唱す
 組まれつつ鉄骨スラムと夕焼ける
 黒ぐろと牛伏すごとしスラムに月

「雑の章」から
 村ほろび羽もがれたる婆ひとり
 窓すべて闇はらみおり廃炭住  
 父の家鉄くさき水のみこぼす
 虚実皮膜コーヒー缶をけり歩く
 銹びいそぐ鉄材猫のうすき舌

「漂流U」から
 くらがりに起重機の黄寝に帰る
 濁世かな木蓮の白天をむき
 ダム涸れて地の骨のごときもの立てり
 組みあがりゆく鉄骨の敗戦日
 奈良坂は非人坂なり柿の花
 凩やわが片肺の吐きて吸う
 八月や獣の心もって生き
 大鴉迷彩服がどかどかくる

 きりがないので、このあたりで終わりにしたい。要は一人でも多くの人が、土方さんの生きざまを知り、その遺した文学に、永く親しんでほしいということである。
(さいごに)
 筆を擱こうとした今、『「新日本文学」の60年』という本が届いた。今年春、最終的に解散した新日本文学会の残務処理として出されたもので、五百余ページの大冊である。ここには、土方さんの「言葉の路地」という文章が載っている。昨年末、「新日本文学」誌の最終号に掲載されたものである。談話筆記となっているので、土方さんの体調がかなり悪くなってきたときのものであろう。こういう種類のものを絶筆とはいわないかも知れぬが、そういう種類の土方さんの言葉として記憶に止めつづけたい。
  「部落解放」二〇〇六・二(五六一号)




 二〇〇五年夏の中国           

 この夏、兵庫県教職員の日中友好教育文化交流団に顧問として随行し中国へ行って来た。私とし
ては十五回目か十六回目の訪中である。
中国側から提案してきたコースには、世界自然遺産として認定され脚光を浴びている四川省の九寨溝が含まれていた。この地域は標高三千bから四千bの高地であり、高山病への警戒が必要といわれている地域なのであった。
 だからこの旅行参加には家族知人の多くが難色をしめした。ホームドクターは携帯酸素ボンベの機内持ち込み許可をとるよう忠告してくれた。しかし中国国内線ではその許可が通用するかどうかは疑わしかった。現地で酸素ボンベを用意するので大丈夫という旅行社の言を信じることにした。
 そこまで今回の訪中にこだわったのは、私自身が今日の中国の国内事情について興味と関心があったからだ。
 中国各地で、大きな反日騒動が頻発していた。伝えられた映像を見る限りでは、組織だった反日行動というよりも、一部の者の煽動による暴発と考えられた。しかし中国の公式メデイアに勝る地下情報網の予想外の浸透と民衆の社会意識の変化は明らかな新しい事態であった。
 中国政府は、小泉氏の靖国神社参拝と教科書問題を繰り返し非難し、対日関係の緊張を維持しながら、民衆の暴走を抑えての、この夏の抗日戦争勝利六〇周年記念カンパニヤへの誘導を図っていると思われた。
 現地で、私たちを見る民衆の表情はどうなのか。政府関係が微調整をはかっている対日政策の変化はどういうところに現れてくるのか。今後の日中間の民間交流においても、なんらかの変化が生まれるのではないか。そういう思いが、今回の訪中団への参加を、私に希望させたのであった。

上海での交流
 八月十八日午後、上海浦東国際空港に着く。新しく建設された空港である。市内までは随分遠く、バスで一時間以上かかった。フランスから技術導入したという、高速モノレールが空港と市内を結んでいるが、何故かそれを利用することは一度もなかった。
 夜の歓迎宴は、呉申耀総工会副主席や夏玲英教育工会主席とともに、旧知の魯巧英、江晨清、趙順章などの懐かしい顔も見え、和やかなひと時となった。
(かつての中国教育工会は種々分野を統合して「中国教科文衛工会」と名を代え,再編されている。これは教育科学文化衛生体育の各分野を統合したことによるもので、この呼称は慣れないせいもあってすこしややこしい。だから、この文では教育工会として表記させてもらうことがある。)
八月十九日、おなじみの上海教育会堂で二百人規模の「中日教育与発展交流研討会」がひらかれた。これは従来、双方それぞれがすすめてきた教育改革について、相互理解を深めることをめざしてきたシンポジュ―ムの継続である。中国側の報告は、中高教育において国際理解・国際知識の分野を重視し充実させつつあるということに力点があったと思う。日本側は、バブル崩壊後の、不登校の増大、不就学・不就労のいわゆる若年ニート層の増大など、高度成長に伴ってきた教育の発展の蔭の部分について報告した。目覚しい経済成長の道を突進している上海社会にとっても、既に現実化しつつあることとして深い印象を与えたようである。
午後は上海交通大學を訪問したが、ビデオを使用しての概要説明に時間がとられ、交流というほどのものにはならなかった。
夕刻、旧跡「豫園」への入園は見送ったが、周辺の街区はおどろくべき変貌をとげ、不夜城ともいうべき歓楽街となっているのは驚きだった。上海は郊外に新街区をどんどん建設しマンモス化している。一方、旧市街の取り壊しと高層ビル化がなお進行中である。何百万という農村から流亡してきている、底辺の民衆の姿を私たちが見ることは少ないが、繁栄はおそるべき貧富の差を増殖していて、火種がありさえすれば、先日の反日騒動のような暴発が起こりうる条件はこの社会にはいつでも存在する。

成都・九寨溝へ
八月二十日、飛行時間二時間余で四川省成都双流空港に午前十一時頃着。市内のレストランで昼食のあと、「パンダ生態園」と「武侯祠」を駆け足で回る。
出発前に杜甫の作品や経歴にあらためて目を通していたが、時間の都合で、「杜甫草堂」の予定はカットされた。私としてはここは一九八八年に参観している。
武侯祠は、三国志の蜀王劉備玄徳の陵墓に併せて、諸葛孔明を祀っているところ。前回に来た時に、ここで岳飛筆という「出師表」の模本を手に入れたのであった。
パンダ生態園、構内では雉子も遊んでいる。その園内道路を、十人ほど乗れる電動式(?)開架乗合自動車でめぐり、幼獣区、成獣区、レッサーパンダ区などに仕分けされた区画に徒歩で向うのである。土地の人々にもパンダはやはり珍しいのか、大勢の入園者があった。入園料は一人六十元(日本円で八百円位か)、あまり安くはない。高齢者は半額と表示されていた。
 ついでに書いておくと、翌日訪れた「黄龍景区」の入山料は二百元(二千八百円)、「九寨溝景区」が二百二十元(三千円余)、九寨溝では構内のバス利用料が別途八十元だから、今までの中国では考えられないべらぼうな値段だ。しかし結構、家族連れやバスなどで乗りつけた団体客でにぎわっている。富裕な中国人の厚い層が生み出されている中国社会の1面を垣間見た思いがする。
 八月二十一日朝五時ごろホテルを出る。朝食はバスの中で、菓子パン、ゆで卵、林檎などの入った弁当にコーラ。成都空港から約四十分で、標高三千四百bの地点にある九寨溝空港に着く。
空気が薄いせいか、頭が重く、脚に力が入らない。紅軍遠征地跡の記念碑園を経て「黄龍」にむかう。
 途中、標高四千三百bの峠をバスは越えていく。チベット族の部落を見る。痩せた麦畑を見る。牛に似たヤクを放牧している山腹の草原を見る。チベット族の店で、老婆から羊の毛(ヤクの毛?)で編んだ手製のショウルを買う。二十五元。
 万年雪におおわれた岷山山脈の主峰、雪宝頂の麓に位置する標高三千b以上、全長三、六キロの黄龍渓谷。輿のようなものを二人でかつぐ駕籠屋がいる。私は歩いて登り途中で引き返した。石灰質の湖沼群が龍のように連なり五彩に輝く水流が流れ下る光景の一端を見て満足した。
 八月二十二日は終日九寨溝景区内で過ごす。この地の気温は低く、夜間は零度ちかくまで下がり、昼間で十五度前後である。厚手の肌着を着込み、冬ズボンに晴雨兼用のコート、ズック靴、腰にカメラなどを入れた鞄をくくりつけ、片手にビール瓶ほどの大きさの酸素ボンベ缶を握り締め、といういでたちである。
上流のポイントでは、鱒科のような魚群が見えたが現地人は魚を喰わないとのこと。死者を弔うには風葬、火葬、土葬、水葬などの五種があって、幼少児の死者は水葬に付するからだという。
 約三時間断続的に歩き、構内唯一のレストハウスで昼食、午後はまた別の渓流を上流から下流に、バス併走で歩き下る。標高差千bのコースを、一日二往復したことになる。それでも、この景観のおそらく三分の一も見ていないだろう。登山道のようなものもあって、徒歩で登っていく人影もいくつか見えたが、あの人たちは夜どこでどのように休むのだろうか。
 最後に三百年前に建てられたというチベット佛教の寺院に寄る。観光客むけの売店が市をなして賑やかだった。
 夜は民族歌舞団の公演に招待されたが、私は中途で退席、宿にもどった。家宛に葉書を投函(これは九月に入ってから配達された)。
気圧のせいか、腕時計のガラス盤と針が飛んだ。当座の用のためにホテルの売店で、中国製の腕時計を求めた。電池を入れ替え、起動させるまでにひと悶着あったが、これは帰国後の今も正常に動いている。価格三百元。

北京へ
八月二十三日朝六時ホテル発。朝食はバス内で弁当と牛乳。九寨溝空港八時四十分発。成都空港で乗換え、北京空港着十四時三十分。パトカー先導で市内へむかう。北京滞在中はずっとパトカーが同行した。警護のためというよりも、交通渋滞のなかでの優先通行確保がその理由であったろう。
北京の宿舎は総工会が経営する「中国職工の家」、私の部屋は十九階八号室、部屋にパソコンなども設置してあった。新しいホテルである。
到着後、建物内の第三会議室で全国総工会副主席、教科文衛体工会主席なども出席しての「日中工会和平教育懇談会」があり、引き続いて天津市総工会、教育工会などによる招待夕食会がひらかれた。前記の懇談会は今回の訪中の主要な予定行事の一つであったが、時間がずれ込んでいたため、実質的に論議を発展させるに至らなかった。
翌二十四日、団の本隊は故宮博物館と万里の長城見学に出かけた。団幹部と私たちは、午前中を西城区にある「郭沫若記念館」で過ごした。毛沢東に信頼され、人民中国の政府首脳としても参画した、歴史家、作家、書家として名高い郭沫若が晩年をすごした住居が、ありふれた旧い四合院形式のまま保存されていた。
展示されている資料のなかで、モルガンの『古代社会』やエンゲルスの『空想から科学へ』などの蔵書が目にとまった。若かりし郭沫若が、中国古代史や社会発展史の研究に多くの業績を残し、話題と論争の石を投じることになった、そのルーツであろう。
かつて、一円一億関学教授から、宝塚の自宅で、郭沫若から直接贈られたという大幅の書軸を見せてもらったことがあるのを思い出した。
午後、私たちは中南海に入って、中国政府の要人(唐家セン氏。肩書きは政府常務委員か)の接見を受けた。彼は日本語も判る人だから、通訳の不十分な点を繰り返し補強しながら、慎重に言葉を選んで、中国政府の現在の対日政策をくわしく語った。後から思えば、この接見が、今回の私たちの訪中に際しての、中国側が設定した一番大きな行事であったのかも知れない。中南海は北京市中央部に位置する、大きな湖や樹林を包含する広大な地域である。かつては毛沢東や中国共産党の領袖たちも居住した、党と政府の中枢拠点として、厳重に武装兵に護られている地域である。
その夜、人民大会堂の西蔵の間で開かれた二百人規模の大宴会は和やかな交歓の場となった。かつてこの人民大会堂のなかで、但馬の傘踊りや丹波のデカンショ踊りが披露されたこともあった。今年の日本側の出し物の締めくくりは、全員合唱による「しあわせ はこべるように」、震災後十年かわらず子どもたちによって歌い継がれている歌だ。この歌は何時どこで聞いても鼻にツンとくるものがある。

終着は芦溝橋
八月二十五日、午後北京空港から私たちは帰国する。その前に芦溝橋に立ち寄るという日程である。
朝出立前に宿舎の売店で、『八大山人書法集』上下二巻を三八〇元で買う。A四版、ハードカバーで総四三六ページ、持ち重りのする本だ。
パトカー先導でバスを連ねて芦溝橋に向う。抗日戦争記念館前では、週日だというのに入館を待って数千人の人の列が出来ていた。終日ほぼ二万人の入場が予想されるという。
かつては芦溝橋で始まった戦争の地域的展示が中心だったが、今は抗日戦争全期を俯瞰するような展示に重点を移している。それと、抗日戦争における中国共産党と解放軍の果たした役割を強調するものになっていることは、今年の抗日戦争勝利六十周年キャンペーンの目的が、反日感情の煽動よりも、国内民衆のなかでの、現政府への強固な支持をあらためて再組織しようとする意図を示すものではないだろうか。
それとともに、抗日戦争期の記録資料について、誇大な数字の訂正など、不確かな記録を精査する作業がすすめられ、展示資料も更新されている。これはおそらく全国的な課題となっている。歴史的事実についての科学的検証をあらためて進めようとする中国側のあたらしい姿勢を示すことだと思う。
予知していたことだが、中央テレビなど二三のテレビカメラが私たちとのインタビューのために待ち構えていた。芦溝橋の河畔でも退役軍人たち数人が、私たちとのインタビューのために待機していた。
それらは九月三日に放映されるということだったが、どのように編集されたかはわからない。以前は自由通行できた橋の周辺は通り抜けできない。破損した石の欄干や石の獅子像はところどころコンクリートで補修されていた。歴史的遺物保存のために余儀ないことかもしれぬが、感覚的には受け入れにくいものが残った。
 私たち「兵庫県教職員日中友好教育文化交流団」という百人を超える大型訪中団がこの時期にやってくるということは、中国側にとっては格好の宣伝素材がやってくるということでもあったのであろう。 芦溝橋もその上を散策する日本人や中国人も、晩夏の陽射しにただ黙って灼かれていた、二〇〇五年八月であった。


 『蒼氓』の舞台に紡ぐ神戸文学館の夢

         
<歴史のなかに佇む旧移民収容所>
 神戸芸文三十周年記念誌「二十世紀神戸物語」はなかなか面白く役に立つ本である。
 しかし今、この文を書こうとして、ページをはぐってみても適当な記述がない。探そうとしたのは、林五和夫さんが神戸南京虫攻防戦」で触れている「山手にある旧移民収容所」、黒崎由紀子さんが「移民(少女)」で追想している「移民斡旋所」のことである。
 その当初の正式名称は国立神戸移民収容所、ブラジル移民を奨励する国策によって、一九二八年三月に開設された。戦時中は閉鎖され、戦後、神戸移住斡旋所として再開された。その後さらに「神戸移住センター」と名前を代え、一九七一年に最終的に閉鎖された。
第一回芥川賞受賞作となった石川達三の小説『蒼氓』の舞台となったことで知られるようになるが、神戸市民にとってはそれほどなじみのある建物とは言えない。
 貧しい農民とその家族たちが、ここに滞在し、十日間ほどの準備期間を健康診断、研修などで過ごし、神戸港から南米大陸にむけて海を渡っていった。その数は二十五万人に達した。それは棄民ともいうべき日本の現代史の一齣である。
 私は、ここ十五年ほどの間に、ブラジルの地に四回ほど旅をする機会があり、向こうの移民資料館や、日系人老人ホームなども訪れ、活躍している日系一世二世などとも会ったりしたが、移民たちは初期開拓時代において筆舌に尽くしがたい苦難や挫折をなめてきている。
 その後、この建物は「神戸医師会准看護婦学校」に使用されたりしたが、現在は「神戸移民資料室」や、「関西ブラジル人コミュニテイ」に一部使用されているほかは、使用可能な多くの部分は若手の芸術活動体「C・A・P」(芸術と計画会議)が使用管理している。
関係者以外は訪れる人も少なく、旧来の外観や船室に模した部屋の構造、設備を残したまま、老朽化して佇んでいる。
解体・改築、移民資料センターの設立などが議論されるいわば貴重な歴史的遺産である。
<故小林武雄氏蔵書の整理作業>
 さて、私たちは毎週月曜日の午後、この旧移民収容所に通っている。二〇〇三年六月からだからすでに一年半になる。
私たちとは、神戸芸文の文学館に関する小委員会から委嘱された、和田英子さんと橘川真一さんを中心にする五名である。家庭事情や年齢など条件が許される人が集まっている。つまり、生活にはまずまず不安がなく、仕事の内容に理解と能力を持ち、意欲と時間を持っている人ということになる。もちろん無報酬である。高齢者ばかりなので、先の先まで考えれば、今後の作業の継続について不安がなくもないが、いまのところ皆が楽しんでやっている。
部屋は四階の西端に二室使用している。一部屋には整理済みと未整理の書籍が、ダンボールの箱に詰められて積み上げられている。あと一室が分類、カード作製、PCによる記録などをする作業室である。芸文の事務局が色々気を使ってくれてはいるが、便所が二階の東端であること、4階まで徒歩で上がり降りしなければならないことなど、快適とはいいがたい。
私たちは毎週月曜日の午後、その四階の作業室で働いている。
<近代文学館を夢見て>
神戸に近代文学館をつくりたい、という声が出てから随分になる。神戸芸文で、伊勢田史郎さんが議長をしている頃から、そのための専門委員会が稼動していた。美術館建設に関しても検討作業が進んでいた。しかし、事情が変ったのは、やはり阪神淡路大震災の影響である。ばら色の都市計画やハコもの重視が再検討を余儀なくされ、加えて神戸市の財政事情の逼迫が有無をいわさぬ悪条件を作り出した。
平成十一年には「神戸文学館調査報告書」がまとめれれ、市からの委託事業としての報告を提出した。平成十三年には更に神戸芸文から「神戸の文化への提言」が神戸市に提出された。
その中では、震災の影響もあって懸念される貴重な文学資料の散逸を防ぎ、収集整理保存が急務であるとし、神戸市の協力をお願いするとともに、神戸芸文もその資料の収集に着手すると述べている。
<小林武雄氏蔵書の神戸市への寄贈>
小林武雄さんは、二〇〇二年五月六日に肺炎のため逝去された。満九十歳だった。若年のときから文学運動に加わり、戦中は神戸詩人事件で投獄されもした。戦後は神戸市の福祉事業にかかわる傍ら、神戸市市民芸術文化推進会議(現・神戸芸術文化会議)や兵庫県文化協会(現・兵庫県芸術文化協会)の創設と発展に貢献した。芸術文化団体「半どんの会」代表として、県下の文化人・知識人の幅ひろい交流をつくり上げた。
そのような小林さんの経歴が残された蔵書にも当然反映されている。
小林さんの蔵書は、二〇〇三年三月(残りは二〇〇四年一月に)に、遺族から神戸市(神戸芸文)に寄贈された。ダンボール箱で約三百箱に達する膨大なものである。
<いままでの小林蔵書の整理作業>
私たちはまず文学書から着手することにした。類別ジャンル別項目表をつくり、それにしたがって一冊づつカードに記入し、パソコンに記録していくという作業である。
この一月現在で、一応整理記録が終った書籍の内訳を見てみよう。
個人詩集(県内)1173冊
個人詩集(県外)489冊
訳詩集・アンソロジー97冊
詩論・エッセイ集233冊
個人歌集445冊
短歌のアンソロジー・エッセイ218冊
個人句集(俳句・川柳・冠句)349冊
俳句関係アンソロジー134冊
俳句関係エッセイ集83冊
小説・エッセイ506冊
児童文学関係103冊
伝記類31冊
各種貴重本分類89冊
総計で四千冊弱の整理が一応終ったということになる。この大部分が兵庫県下における文学の営みを集積したものであることにご注意ねがいたい。
文学関係でも、なお補遺として新たに見つけ出されるもの、総記類目に入る全集、選集、講座や辞典・年鑑類がまだ手をつけられていない。
小林さんの生前の位置や交友を反映して、
その蔵書の中には、膨大な美術書(市販のものだけでなく個人の画集や書作品集、展覧会の図録等)などがある。宗教・思想・哲学関係のものなども意外に多い。そして生涯関与していた福祉関係の資料や、行政関係の資料、郷土史・社史その他の全県に渉る資料もまだ手つかずだ。貴重な原資料となる雑誌類の分類整理にもできるだけ早く着手したい、という思いはまだしばらく果たせそうにもない。
<私の夢>
本格的な文学館への期待は期待として、最低限、書庫と作業室と閲覧室を備えた、文学センターのようなものが、ひと時も早く実現できたら、どんなにうれしいことだろう。
この小林文庫を、そのような、誰でも閲覧できるようなところで公開することができたら、補充資料や新刊資料は自然と集まってくるだろう。私や貴方の蔵書もいさんで駆けつけることだろう。
生あるうちに、この夢を形あるものにしたいものである。

□ 貝原六一さんと「輪」
 
「輪」の創刊号が出たのは、一九五五年五月である。同人として表紙裏に記載されているのは、記載順に伊勢田史郎・貝原六一・中村隆・山本博繁の四人。編集は中村隆、発行主体の「輪の会」の所在も中村方になっている。
当時、一条寺鉄男をペンネームにしていた私と、灰谷健次郎、岡見裕輔、西田恵美子の四人が同人に加わったのが「輪」三号からで一九五七年のこと、同じ年に四号から、海尻巌、各務豊和、なかけんじの三人が加わっている。
 五十年を経た今日、創刊同人で生き残っているのは、二〇〇四年七月二十九日に貝原六一さんが亡くなったので、伊勢田史郎さんただ独りとなってしまった。六さんの死は、まさに「輪」の終焉期を暗示するようで、伊勢田さんもつらかろうし、私にも切ない。
 ところで、六さんが病に倒れてから、私は彼と会っていない。厳密にいえば一九八六年四月に、中村、伊勢田の両君とともに、リハビリ段階に入った六さんを病院に見舞ったのが、その顔を見た最後である。
当時、私は「輪」誌の編集発行の責任を負っていたのだが、一号だけ表紙絵空白の号を出した記憶がある。それまで休むことなく表紙を飾っていた六さんの絵が、「輪」からその空白号から姿を消したのである。六さんが自宅療養に移ってからも、彼の精神状態を危惧して、面接も電話も差し控えるように申し合わされていた。それは貝原家の希望であった。そういうことで、「輪」の同人名簿には貝原六一は記載されてはいたが、新しい同人にはほとんど未知の人であろう。
 といっても、私は貝原六一さんが昨夏に亡くなっていたことを年末まで知らなかった。それは貝原佐智子さんの年末の挨拶はがきで知ることになった。おそらく伊勢田さんも、行動美術のかつての僚友や後輩たちも、同じであったろう。そこで、中右瑛さんが中心となって緊急の連絡協議があり、昨年末の十二月十七日、貝原六一先生を偲ぶ会がひらかれたのであった。
 伊勢田さんが文学関係の旧友を代表して、いい追悼の詩を読んだ。会場内で久しぶりに見る懐かしい、松本宏、南和好、田中徳喜などの皆さんの顔が、六さんによってつながれたエニシを思い出させた。
 私の第一詩集『ひびきのない合図』の表紙を飾ったのは松本宏さんの銅版画で、私の希望が六さんの口利きによって実現したのである。ちなみに、私の第二詩集『日常的風景』は輪の詩集シリーズとして出されたもので、装画は貝原六一さん、原画は私の手元にはない。
 さて、私は「輪」の後発組だから、輪の創刊にいたるまでの、中村隆さんや伊勢田史郎さんと貝原六一さんとのそれまでのつながりは熟知しない。また、当時六さんの初期作品について、伊勢田さんが「どちらかというと粘液質で、ぶきっちよな、しかも褐色の憤怒にみちた不調和な散文的絵画」、「陰鬱でしかもはげしい人間の状況に対する個性的な怒り」と書いている、その時期については、熟知していない。
 しかし、「輪」を通じて、それ以後の、六さんの絵の静的な、洗練された心象への沈潜の深さを、私も愛してきた者のひとりだったのだと思う。
 彼からみれば、年少の青臭く生意気なだけの私など、芸術論議をかわす対象ではなかっただろうと思う。だが、六さんが折りに触れて云っていた「アルチザンであること」の強調が、なぜか私の頭から離れない。アルチザンであることの強調が、ともすれば純粋芸術派の技巧的技能的視野の限界であるかごとくに受け取りがちであった私への叱咤であったとも言えるだろう。
 同時に、単純化した形象に塗りこめ、閉じ込めようとしていた、六さん自身の祈りの表白であったのかもしれない。
 これを書いている机の横の壁に、六さんの絵が一枚架かっている。
 一九七〇年頃、元町商店街の貝原佐智子さんが経営していたギャラリーで購入した作品である。ゼロ号ほどの小品で、当時の私の経済状態では、作品への好みで選ぶことは出来なかった。
 ワインカラーを基調とした教会の尖塔が描かれている。尖塔の形と空らしき空間を残して、丁寧に白で塗りつぶされている。絵の具に隠されて見えない部分に何があるのかは想像しがたい。同じモチーフの大きな作品を観た記憶があるので、私の所蔵しているのは大作のエスキースというべきものかもしれない。しかし何故か心を引くものがあったのだと思う。そして三十年経った今でも見飽きることはない。
 私は六さんのドンキホーテをモチーフにした作品系列が好きだが、色調などは我が家にあるものと共通しているものがある様な気がする。そして彼の作品にはどれにも中空に太陽のようなものが描かれている。すくなくとも、六さんの絵には狂乱とか憎悪などの匂いは感じられない。彼が作品のなかに塗りこめつづけてきたものが何への祈りであったかを推測する資格は私にはないが、偉大なアルチザンであった貝原六一さんの、中断された最後の二十年間で達成しえなかったものをあらためて口惜しいと思うのである。(「輪」98号)





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