
当時、役場に勤務する職員の中に7人若い人がいました。
区の青年団は30人いました。 町全体での青年団を作ろうと7人で出発しました。
ちょうどその頃、わらび座のオルグの人がある家に来られて、上演運動をやるので、それで若い人を集めたらどうかという話をしてくれました。
非常に良い話だと思って、私はすぐに実行委員会を作って取り組みました。
その時には券を売らなければいけない。
誰もわらび座のわの字も知らない。
面白いのかも有名なのかも知らない。
そうしたものを上演するのにチケットを売っていく。
若い人たちが売りにくいと言っているのに無理矢理に決めてしまった。
そこで考えたのがその当時あった婦人会という組織です。
婦人会の会長さんなど偉い人たちの家を回り、この町に若い人たちがいるのになかなか場が一つになってない。
青年団をもう一度作ろうと思ってます。
そのために何とか婦人会の力を貸して欲しい、券を売って欲しいと言いました。
それを言うと快く受けてくれました。
合計800枚の券を売って成功させました。
これをやっていく中で青年団を作るらしいという噂が町に広がりました。
その中心になっているのが地区出身の奥村らしいという話です。
私はギターを弾いてフォークソングをしていましたので、ギターを持って婦人会の人の所に行っては2、3曲歌を歌って話をしていく中でだんだんに名前が知れ渡っていきました。
そしてわらび座が成功した後に青年団を作りました。
7人で出発し、結成した1971年には40人くらいの数になりました。
まず何をしたかというと、青年団の目的、規約づくりでした。
昔の青年団の規約には親睦を深めるというような事が書いてありました。
それは今の青年団とは違うのではないかと思いました。
規約の目的に、憲法を暮らしの中に活かし、地域社会の民主的発展に寄与すると書きました。
その当時、地区出身で社会教育主事をやられたり、あるいは小学校の校長先生をやられた方たちが入って来られました。
そうした方たちが中心になっていたので、私もそうした事に興味を持つようになりました。
始めにした行事が夏期大学でした。
その当時、ドルショックがありました。
毎日のようにテレビや新聞に出ても意味がよく分かりません。
婦人会の人に聞いてもよく分からない。
分からない人が多いので夏に夏期大学を3日間やりました。
1つにドルショックのことを勉強をするのに誰を講師にすればいいのか分からない。
先ほどの社会教育主事を務めた方が神戸大学経済学部の先生を紹介しました。
大学の先生なんて全然縁のない方に来ていただきました。
非常に丁寧に話をしていただきました。
もう1つの講義が部落問題でした。
部落問題を学ぼうと講師の方に来ていただきました。
3日目にフォークソングをやりました。
連日300人くらいの人を体育館に集めて成功しました。
この時点で青年団員は120人ほどに増えていました。
夏期大学の講座が終わった後、その当時の議会議長をされていた方が、今の青年団はアカだと言い出しました。
青年団はアカの学習会をしている。 私は意味がよく分かりませんでした。
我々一緒に住む若い者が頑張って作るのが嫌なのか。
いろんな人と手を合わせて頑張っていこうとしているのに、そういうことを言われたので次の日に議長室へ行き抗議しました。
ところが悪かったと言いますが本当に悪いと思っている顔はしませんでした。
2、3日後に青年団の前で話をしてもらう事になりました。
その人は昔は共産党で頑張っていた人でした。
今は自民党で議長をしていました。
その人の話を聞く中で、私は正面から抗議しました。
我々が頑張ろうとしている事を潰そうとするのは議会議員として、議長としてあるまじき事だと抗議し、彼は謝りました。
私はそれから議会に興味を持ち出します。
議会とは何だろう。 丁度その時、部落問題を勉強する青年や大人たちがいて、解放同盟を作ろうという事になりました。
1970年、部落解放同盟の支部です。
まだ正常化連(部落解放同盟正常化連)もない時代です。
その頃に西宮事件がありました。
解放同盟が西宮の庁舎を占拠するという事件です。
解同の人が言う話と「赤旗」(日本共産党機関紙)で言うのとはぜんぜん違う。
解同の人は兄弟がやられているから応援に行かなければ。
動員だと言う。 兄弟だと言われても余所の人です。
何が起こっているのかは説明しない。
県連から動員が掛かっているから行く。
私は支部解同結成総会の議長をしていました。
まだ共産党だからという排除はありませんでした。
しかし西宮事件を経て、どうも彼らは暴力を容認する。
その時代に朝田善之助の本を読みました。
朝田理論です。 支部解同の中でもけんかをしたりします。
私は青年団長を2年ほどして町議会選挙があり、団長を辞めて昭和48年、1973年9月、共産党で選挙に出ました。
青年活動をしていましたので若い人たちばかりが5、60人集まりました。
3位で当選する事が出来ました。 26歳の時です。
それから議会に入っていきます。
26歳で出て、アカ行為だと言った議長は引退されました。
私は初議会の日に議長選に立候補して笑われました。
相手は60歳を過ぎた方です。 その当時は社会党、公明党、共産党の3つが野党として相談をしました。
奥村が3票、相手は19票で、負けました。
そうした選挙戦でした。 そうすると誰もが議会の中でなめないわけです。
翌年の昭和49年(1974年)、八鹿高校事件が起こります。
地区の中でもいろいろとやり合います。
この年に南但馬に解放同盟ができ、その中心になっていたのが丸尾という人でした。
解同丸尾派です。 これを中心に朝田理論、部落民以外は差別者だという理論を振りかざし、解放教育という形で自分たちの言うことを聞くことを子どもたちに教えていきます。
そうしたものが広がり出します。
八鹿高校事件は74年11月23日ですが、一番始めの事件は9月8、9日に朝来の元津事件です。
解放同盟が教育介入していくのは良くないと批判するビラを撒いたことで教組支部長の橋本哲朗先生が自宅に監禁されます。
この橋本さんや八鹿高校で一番やられた片山先生が中心になってビラを撒きました。
ビラを撒いている所を解放同盟に捕まります。
これが元津事件です。 元津は日本の三大ネギの1つです。
ここのネギは甘く非常に有名です。
その時、私は寝ていました。 12時頃に橋本先生が監禁されていると電話が掛かってきました。
救出に行った者も皆やられてしましました。
インディアン方式糾弾と言います。
国道の中に少しくぼみがあり、私たちは10人ほどで、解同に捕まった人たちを助けて帰ろうとした所をたくさんの人に囲まれます。
警察はパトカーで来ても全然知らん顔です。
国道ですから夜中でも車が通ります。
高速のない時代です。 バスやトラックが通り、交通の邪魔になるのに警察は交通整理をするだけです。
我々はやられているのに助けない。 雨が降っている。
テントを張って外は見えない。 見るとうちの解同支部に来ている人もいる。
我々は数の力で相手にならない。 我々は糾弾を10数時間受けます。
最終的に警察が入り、逃げることが出来ました。
差別ビラ、自分たちを批判するビラを撒いた事で糾弾された。
当時、この事を報道したのは「赤旗」だけでした。
たくさんの人が知っているのに新聞は書きませんでした。
これが9月8日、9日です。
そして翌10月20日から1週間に渡って橋本哲朗さんを監禁します。
マイクで妨害したり、取り囲んだりすれば犯罪なので警察が取り締まると思っていました。
ビラを撒くのは自由でも、それに対して暴行するのは捕まるのは当たり前だと思っていました。
ところが元津事件ではそうではない。
助けてはくれないことが分かりました。
その後の橋本事件ではなおさらに分かりました。
連日1000人くらいが動員されます。
役場の職員は有休で金を払って動員される。
区長会、婦人会を通じて住民も動員される。
橋本は差別者等々とデモをする。 帰ると小学校の校庭などに一般町民も集めた集会をする。
報告をし、決意表明を毎日やる。 どの町でもです。
我々は追いやられ、どうしたらいいのか分からない時期がありました。
糾弾会で私が思ったのは、地区での同級生や親戚の家、商売を通した関係、一緒に育ってきた仲間が支持するかしないかでズタズタになることです。
私の親友の弟が22歳で亡くなります。
元津事件の後です。 今で言えば脳溢血です。
解同は毎日のようにデモをしているので、そのお通夜でも共産党、差別者という声が聞こえている。
家の中で家族や我々は泣きました。
翌日にうちのお婆ちゃんが亡くなりましたが、その時も同じでした。
橋本事件は1週間に渡って監禁されました。
解同は1週間後、勝ちもないのに彼らなりに万歳します。
警察は自分たちの味方、行政も地域も区長会も全部が自分たちの味方だと思ったのでしょう。
翌々月の11月22日に八鹿高校事件が起こります。
朝来事件では我々は毎日行っていました。
朝来の役場の前では毎日、我々と解同はぶつかりました。
警察は見ていました。 見ていて面白いのでしょう。
押し合いをしていますから。 我々は上手に逃げようとします。
取り囲まれたら何をされるか分からからです。
こうした事を毎日繰り返しました。
橋本先生は監禁され、そして八鹿高校事件になります。
11月22日は寒い日でした。
朝、連絡がありました。 八鹿高校の先生が危ないと聞き、我々も行きます。
解同は連日のように八鹿高校に入っていきます。
部落民以外は差別者という朝田理論を振りかざします。
ちょっとでも差別を受けたり、見た経験のある者にはすーっと入ります。
そうだなと。 そして自分たちの思うとおりにやっていくと教育の中にも入っていく。
八鹿高校は非常に民主的な学校でした。
普通は生徒会長と言いますがそこでは自治会長と言います。
生徒自治会としてきちんと活動していました。
その中で部落研がありました。 その当時では八鹿高校だけでした。
部落研は京都の部落問題研究所関係の先生も来て講義をしていました。
片山先生を中心に一生懸命にやっている。
解同は解放研を作らなければ、と部落研にいた人たちも含め、地域にいた人たちで作ろうとしました。
しかし八鹿高校の生徒たちは、自分たちの考えた部落研でやっているんだ、解放研は了承できませんと拒否しました。
どこの行政も言うことを聞くのに八鹿高校だけは言うことを聞かない。
22日に事件になりました。
先生方は危険を察して集団で八鹿高校から駅へと帰ります。
校長先生はただちに学校に戻るように命令を出します。
八鹿高校の中には何百人と解同や動員された教師たちがいます。
そこに戻ってこいと言います。 しかし先生たちは帰りませんと八鹿の町の中を集団で歩いていきます。
住民の方々も異様な雰囲気で何かあると見ています。
その帰っていく先生方を解放同盟の行動隊という若い人たちが殴る蹴るの暴行を働いてトラックに載せて八鹿高校に向かう。
そこで十数時間のリンチを受けます。
片山先生は顔の形がないような状態でした。
タバコの火をつけたり、気絶したらバケツで水を掛けたり、そうした事を体育館の中でやりました。
警察は何も介入しない。 我々は警察に行きましたが通用しません。
唯一、暴力反対と立ち上がったのが八鹿高校の生徒たちでした。
我々は遠巻きに見ているしか出来ませんでした。
町にはゼッケンをつけた人たちがいっぱいいます。
捕まれば八鹿高校に連れていかれます。
向こうが暴力ならこちらも暴力というわけにはいきません。
国会議員も安武さんが来ていましたが、その人たちも暴力を受けました。
国会議員も暴行を受けるという状況が八鹿にはありました。
八鹿高校の先生方は強要されて反省文を書かされました。
しかしその後、誰一人脱落することなく頑張って裁判闘争をしました。
しばらくして丸尾以下、たくさんの逮捕者が出ます。
そして八鹿の町と横の養父の町で町長選挙があります。
初めて共産党の町長が2人誕生しました。
そういう歴史がありました。 その後、朝来町でも橋本さんが町長選で当選しました。
こうした状況がありましたが、我々がビラを撒くとすぐに囲まれました。
とても危ない。 しかし屈することなく、少数であってもきちっと守りました。
その当時、青年団の中心は5人の男でした。
今でも仲間です。 本当に毎日のように嫌がらせを受けました。
それでも正しいと思ったことを、暴力が正しいとは誰も思いませんから。
誰もが支持してくれるようになって今があるのだと思います。
私は議会で一般質問を続けてきました。
八鹿高校、朝来事件、その他の事件、窓口一本化についてです。
事前に通告があります。 奥村が何を言うか、沢山の傍聴者がいて、毎回ヤジで質問ができない状況がありました。
良かったのは少々やられても言いたいことは言わなければいけないと教えられたことでした。
最近、大阪や京都などで解同が暴れていたことが報道されます。
こうした事は兵庫県では小さい問題ではありましたが、大きなことはありません。
兵庫県行政も解同を支持しました。
その支持した結果は自分たちにとってマイナスだった事が分かったと思います。
ですから兵庫県ではあまり聞かない。
京都、大阪、奈良では未だに解同が暴れています。
兵庫県では30年前から闘いがあったからではないかなと思います。
テレビも映しませんし新聞も書かないのでこの八鹿高校事件の映画を作り、上映運動をしました。
その当時、出石には51の行政区がありました。
全部の区を回りました。 よく聞いてくれるし、観てくれました。
そうした事が住民との信頼関係を生んでいくことになったのだと思います。
地区の中でよく勉強会、読書会をしますけれども、そこは仲間内ですので安心があります。
それは外に出ると不安でもありました。
部落問題の解決には誰かがしてくれるものではないと私は思っていました。
そして自分は何をすべきかと考えた時、議会で頑張るということもありますが、やはり地区から地区外に出ていっていろんな人たちと交わり、いろんな活動に加わっていくことが大事だと今も思っていますし、そういうふうにしてきました。
音楽や芸術活動などいろいろありますが、地区に留まらずに外に出ていろいろな人たちと話をして、そして信頼関係を寄せていく。
それは我々が部落差別をなくしていく責任ではないかと思います。
八鹿高校事件では傷つきましたが、そのことを隠すのではなく知らせていくことは地域と地域との垣根を取っていくことになると考えて映画上映をしました。
私は町会議員選挙を8回しました。
大概がトップから3位以内で当選することができました。
やはり地域の人たちとしっかり話をするということが信頼関係になったのだと思います。
裏切らないように真面目にと頑張ってきました。
未だに部落差別はあると強烈にものを言う人がいます。
一番始末が悪いのは学校の先生ですね。
例えば八鹿高校事件があった当時、但馬の地域では解放同盟が地区の中で学習会で子どもを洗脳します。
自分たち以外は差別者だと徹底的に教育を受けていますから未だに拭えていません。
今では学校の先生になっている人たちもかなりいます。
そうした人たちはいくら話しても拭えない。
今も差別はあるといろいろな所で話します。
それは部落は嫌いだとか、あそこには嫁に出さないと言う人も多少はいるでしょう。
いつの時代でもあり得ます。 それが1つあるから部落差別があるとは私は思えません。
結婚でも地区同士の結婚を探すのが難しいくらいです。
自由に結婚しているわけです。
もちろん離婚もありますが、地区、地区外であろうと関係ありません。
就職もです。 就職差別があると言ってちんぴらややくざになっている人がいます。
真面目に仕事をやるべきだと思います。
そういった事を言って差別があるからという人がいますが、私はそうは思いません。
真面目にやっている人を私は見ています。
部落差別では今日まで色々な手立てをしていただいたけれども、大抵の責任は私たちにあります。
今や部落差別はほとんどないと思っています。
そうでなければ子どもたちにも夢もなければ何もない。
しかし小中学校の先生の一部には差別はなくならないと言う・・・・・・。
この時代の中では合併問題があります。
合併はその地域の独自性などを失わせてしまいます。
大きい所に吸収されるので反対してきました。
議会の中で合併反対闘争をしてきました。
当時わたしの営むそば屋から50メートル離れた所に町長の家がありました。
彼はプロパンガス屋をしていました。
自分の利益を追求する人でした。 彼は町のガスのシェアの40%くらいを占めていました。
彼は町長になって1年半くらいで8割を占めるようになりました。
町がいろいろな施設を作ると必ず自分の所のガスを使わせる。
彼は合併問題で反対、賛成どちらでも言える日和見の政策を持っていました。
我々はそれが分からずに合併反対運動をしてきました。
出石は小さな城下町です。
町の中に人口の半分がいます。 そこに46軒のそば屋があります。
年間100万人くらいの観光客が来てそばを食べるという町です。
私もそば屋をしていました。 町長に出るまではそば屋の組合長をしているくらいでした。
そういうそばの町でした。 行政は国や県から助成を取って村おこしをしますが、そういうもので村が発展したのではなく、300年ほど前に信州上田から殿様が国替えでそばを伝えます。
そうした歴史があります。 出石のそば屋46軒は全部自分で借金をして独自のそばを作る。
町は30軒に1軒がそば屋です。
そばが美味しく城下町で風情がある。
観光客は合併はやめて欲しい、なぜ合併するのかと言いました。
そば屋はみんな反対しました。 しかし自民党などの人たちは合併に賛成です。
合併反対はそば屋が中心でした。
チラシを作りアンケートを取りました。
町長は反対運動をして欲しいと言いながら合併を進めてきました。
それに対して我々はけしからんと反対運動をしてきた延長線上で町長選挙をします。
選挙は5月23日でした。
その前に臨時議会がありました。 合併する為には町の配置分合、役所などで条例改正をしなければならず、そうしたものを決めてしまおう。
決めた段階で合併が決定してしまいます。
我々は阻止するためにいろいろやりましたが決められてしまいました。
そば屋の人たちは嘘をつくような人に出石の最後の町長は任せられないと反対します。
町は大きな町営住宅を建設します。
建設課の職員は今度の町営住宅はオール電化にすると自慢していました。
我々は議会の中で説明を受けました。
設計図もでき、町長へと持っていくと1日でガスに切り替わりました。
職員はがっかりします。 お年寄りが住んでいるとガスではぼやをよく出します。
そのためにオール電化でした。 それがガスになってします。
自分のためでした。 また自分の家の前に水路があります。
水路は道路法24条で自分が使う水路は自分で直すと決まっています。
しかし地域全体の水路はどうするのかは別です。
ところが彼は自分の家の水路を公費でやらせます。
その工事をしたのは自分のプロパンガスの会社です。
ガスや工事、合併などで怒りがたまっていき、この人を町長にしてはならないという雰囲気が生まれます。
私は運動の中で議員をしていましたので白羽の矢が当たります。
私はしたくありませんでした。 合併しますし、議員の方が気楽でいいと。
しかしお前がやれと言われ、嫌々ながら立ち、11日目に町長になりました。
選挙は住民に押してもらわなければなりません。
私は自分のそば屋を事務所にします。
50メートル離れた所に大きな駐車場と家があり、そこが彼の事務所です。
告示の日、そば屋の人たちとその奥さんたち、うちの親戚が5、6人約30人ほどで出陣式をします。
相手は4、500人町民が集まっています。
私たちは恥ずかしくて30分で切り上げます。
その時、新聞記者たちは全員が向こうに行ってました。
向こうが勝つと思っていたからです。
その中で産経新聞がうちに来て取材してくれました。
向こうからものすごい拍手が聞こえてきます。
向こうはマンモス、こっちはアリだと申し上げました。
しかしいつもアリが負けるわけではない。
イソップ物語にもある。 我々は勝ちますよと。
勝つ気はぜんぜんなかったけれどもそう言いました。
それが次の日の新聞に小さい記事で出ていました。
出石ではマンモス対アリだと話題になりました。
出陣式の後、私の車1台に4人で乗って出発します。
帰ってきたら町の中の若い人が気の毒だと車を1台持ってきてくれました。
午後からは2台になります。 翌日にも新聞に記事が載ります。
その日から毎日のように随行車が増えてくれます。
6台ほどになると警察から違反だから2台にしてくれと言われます。
そうしたマンモス対アリという雰囲気が広がっていきます。
彼は女性議員と噂になっているのに堂々と2人は一緒に車に乗っていました。
それを見て皆あきれます。 呆れてないのは当人2人。
誰が考えても向こうよりこっちがいいだろうという判断が生まれてきます。
街頭演説でも小さな町ですから毎日のように同じ所でぶつかります。
私が演説すると人が出てきます。 毎日のように人が増えていきます。
拍手してくれたり握手してくれます。
私の車が行った後に待機していた相手陣営が来ると家に入ってしまう。
逆に彼の演説が終わった後に私がやると出てきてくれる。
こうした事がありました。 まさか勝つとは思いませんでしたが大負けはしないだろうと予想していました。
投票日の晩は負けた時のあいさつを考えていました。
これで30年ほどの議員生活から解放されて自分の好きなことをやろうと思っていました。
9時から開票になりました。 9時半頃に電話があり、200票ほど負けているということでした。
善戦してるなとどきどきしていました。
店に行くと多くの人がいます。 第2開票があり、ちょっと勝っているとのことでした。
心臓が破裂しそうでした。 勝つかもしれない。
開票が進むと家の事務所で万歳をしています。
相手陣営は初めの頃は私の所へご苦労さまでしたとあいさつします。
町の人たちは知った人たちばかりですから。
少し勝っているとなると奇声が上がりました。
そうすると相手陣営からはしごとカメラを持った人たちがこちらへ移動してきます。
皆さんもやってきて超満員になります。
結果はわずか65票の差でした。
そうした選挙でした。
その時思ったのは、町長の経験もないし、何をしたらいいのかということでした。
そこで自分が考えたのは合併を翻すことができるかという事でした。
議会の定数は14席でした。 共産党の私ともう1人の共産党の方だけが合併に反対でした。
他は全員が賛成していました。 当選した夜中に自民党をしていた議長が来られて、町長おめでとうございます。
議会は全面的にあなたを支持しますとあいさつします。
しかし合併を覆すことは出来ませんでした。
合併する以上は出石という名前が消えないようにしよう。
一番元気な町と言われるようにしようと考えました。
議員の頃は民報を自分で書いたり、印刷したりと苦労して取り組んでいました。
町長になれば簡単になります。 職員に頼んでメモしてもらう。
町長からの合併情報というチラシを作り撒いてもらいます。
そうして情報を知らせていきました。
しかし避けられないので住民の要望を何とかして実現していこうと考えました。
例えば地域にある水を直して欲しい、あるいは小さな橋、道を直して欲しいというような生活に密着した要望は多々あります。
ところが自治会の区長さんや議員が要望を持って役所に行っても予算がない。
今年は間に合わないと言われる。 来年するのかといえばしない。
地域から上がってくる要望のほとんどは継続1つしてくれない。
そうした要望はたくさんあります。 私は議員をしていましたからよく知っていました。
これを今しておく。 合併した後ではよけい細かい所に目を向けてくれないので、地域にある要望を実現してしまおうと取りかかりました。
各区の要望をまとめると国や県の力を借りてしなければならない事業以外の、町単独ですぐに出来る要望は約3億でした。
基金を崩して全部やってしまう。 6月に町長に就任し、その定例議会で予算を崩すことは出来ませんでした。
9月の議会に予算化して細かいことは全部してしまおうと相談しました。
ところがこの年は台風がたくさん来ました。
台風19号では出石も相当な打撃を受けました。
積んでいたお金は地域から上がってきた要望を実現しなければならないものでしたが、災害を受けた所に最優先でやらなければならないと判断し、区の人に謝って予算をもらいました。
次に臨時議会をして12月3日に予算を組もうと準備しました。
しかし10月20日に台風23号が来ました。
出石は地域で唯一の城下町でありそばでも有名です。
一番古い伝統を持っています。 出石という名をブランドにしようと思いました。
そのために町づくり課を作ります。
事業を、住民の方々が出石の町を今以上に好きになってもらえるため、事業や人を育てる仕事をするのに6人ほど配置しました。
ここが一番大きく力を出したのは台風の後でした。
台風の記録を作りました。 町づくり会議というNPOを作りました。
さらに観光協会がありましたが民営団体なのでお金儲けをすると税金が高くなります。
これもNPOにしました。 しかし大きく発揮したのは10月20日以降です。
残り5ヶ月しかありませんでした。
台風の後始末です。 残念ながら住民の要望を十分に叶えることは出来ませんでした。
しかし活動の中でいくつかは出来ました。
もともと大名は出石にしかいませんでした。
その配下に豊岡の村がありました。
石高も5万、豊岡は1万ぐらいです。
出石には山陰線が通るという計画がありましたが、汽車は煙を吐くので拒否し、その結果として豊岡はどんどん発展していきました。
豊岡市になると出石の名が消えてしまう事になります。
唯一、観光地として出石の中に大手前という町営の駐車場は毎年2000万円儲かっています。
他の観光の駐車場で年間の経費が浮いたり儲かったりしている所は一つもありません。
私は考えました。 大手前を出石町づくり公社にしました。
一等地で売店しているのでものすごく儲かります。
160人の町民が株主になり、半分が行政が出しています。
黒字で3%ずつ配当があります。
ここに大手前駐車場を売りました。 町の財産を売る時、財務の調査をしました。
売れることが分かり、そのお金を何に使うかというと町づくりをしていく時の財源にしました。
結局それは災害復旧のために使いました。
1億9000万円で売りました。 公社は大歓迎です。
公社は増資をし、資本金5000万円を9800万円にします。
町民の株主は328人に増えます。
会社として経営し、豊岡市には持っていかない。
出石町民の財産にする。 毎年数千万円の黒字を出しています。
駐車場も儲かっています。
これを何に使うか。 町づくりを進めるためには新しい豊岡市から助成を受けることはあるまじき事だ。
住民の間で自分たちが独自にやり、そこに金を使う。
文化活動などいろいろありますが、そこから得た利益を充てていく。
町の持ち株を50から20%にして町民の会社を大きくしました。
町のどこからも見える出石グランドホテルがあります。
阪神淡路の大震災の影響などを受け、事実上倒産していました。
ここから税金を取ることは出来ません。
行政側が5000万円の助成、企業にお金を貸すのはどうなのかという議論もありました。
しかし撤去するには2億5000万円掛かってしまう。
町のどこかに迷惑を掛けている。
これは何とかしなければいけない。
再開して欲しいと住民の要望がありました。
ホテルが再開すると毎年2000万円の固定資産税は入ってきます。
これもありました。 もう一つに下水道にも加入していない事がありました。
加入金は1500万円です。 5000万円の助成金、加入金、税など実質3500万円です。
固定資産税8000万円は不良決算で落とすという決断をします。
ホテルは平成17年にオープンします。
順調に行っています。 固定資産税は今年から入るようになりました。
豊岡市も清算できたと喜んでいます。
台風が10月20日に来ました。
台風で被害者が出るのは本当に怖かったからです。
地域防災計画というものが出石にもありましたが、その計画書をしっかりと読んではいませんでした。
その計画は阪神淡路の大震災を契機にして作られたものですから主に地震を想定したものになっていました。
水害もありますが、自分の町の川が5ヶ所も決壊するなど想像していませんでした。
2日も雨はやみませんでした。
いよいよ警報が出ます。 20日は雨の振り方が違いました。
10時頃に災害対策本部を設置しました。
どこでもやっている恰好だけだと思っていました。
消防団の人たちと昼には解除しようかという話をしていました。
私は弁当がなかったので家に食べに帰りました。
途中、川が気になったので見に回りました。
川の堤防の危険域にまで達していなかったので大したことはないと安心して帰りました。
食べた後、役所に戻る前にもう一度見ると40分もしない間にぐっと上がっていました。
雨の振り方も水の増え方も早いなと思いました。
役所に戻り助役や消防団長と一緒に現場へ見に行きます。
また水位が上がっていました。 一周してみると山の方では避難しなければならない状況でした。
避難指示を出し、何人かの人の避難を手伝いました。
30分後も上がっていました。 すぐに防災無線で避難勧告を出しました。
3時40分頃でした。 町は大騒動になって区長さんを中心にして避難してくれました。
住民の方々はまさか自分たちの地域の川の堤防が切れるとは思っていませんでした。
もし切れても2階に上がればいい、逃げなくてもいいと。
そうするとあっという間にいたる所で決壊する。
2人亡くなりました。 台風や災害で亡くなるのは新聞で報道されますが、自分たちの町で、10ヶ月しか町長をしないのに人が亡くなる。
500戸が浸水しました。 大変な被害でした。
自分の仕事は、合併をする町ですので、地域にあった要望は全部解決していこうと思いましたが、またしてもその予算を災害復旧に使わざるを得なくなりました。
復旧時、住民は何をしていいのか分かりませんでした。
怒りをどこにぶつけたらいいのかも分かりませんので役場、町長の私の所に来ます。
昨日まで仲良くしていた人が今日は顔が変わってお前は何をしていたんだと言ってくる。
怒って気が済むならと思い謝ります。
防災無線、学校や広場のスピーカーを使って1ヶ月間、毎朝8時半に全区に対して呼びかけます。
10月22日から朝5分間、住民の方々に今日は町がどういう状況になっているか、水などのライフラインがどこまで使えるようになったか、今日はどの国会議員が来られたか、どこで交流をするのか知らせました。
我々の町は我々自身の力を合わせてやりましょうと伝えました。
8時半になると作業の手を止めて聞いたと言って感謝されました。
ボランティアの方は延べ1万3000人来てくれました。
一番酷かった地域は1日3000人を超す力を借りました。
職員の方と団結しながらお願いしたのはゴミの分別収集でした。
災害ゴミはむちゃくちゃでした。 食べたもの、電機製品、ゴム、ビン、畳も一緒でした。
災害だからと許してはくれない。 職員には怒られてもいいから分別収集をお願いしてもらう。
案の定、怒られました。 しかし馴れてくる。
ボランティアの方とやります。 これは完璧に成功します。
12月末には全部処分できました。
それをしなかった豊原と近隣の町はその後半年間ゴミはそのままでした。
汚い、悪臭と新聞で書かれました。
出石はなにもない。 同じ被害を受けても救われない人たちがいました。
もう1つ大事なことがあります。
昔、伊勢湾台風などがありました。 今、その記録はほとんどありませんので、23号台風で出石はどんな事があったのか、記録が新しいうちに取っておこうと作りました。
簡単な雑誌ですがどんな事があったのか全部書いてあります。
これは出来て良かったなと思いました。
ところが腹が立ったことがあります。
法律で被害を受けた所で助かる所とそうでない所がある事でした。
生活再建支援では家族の収入が500万円を超えると対象にならない。
家族4人で働けば500万になるのはどこもある。
では超えた家は裕福なのか。 そんな事はない。
しかし法律で決まってしまいました。
この家は対象になってこの家は対象にならない。
この家はそうじゃない。 役場に上がってくる数字を見て500万円を1円でも超えたら対象にならない。
視察に来た国会議員には全部手紙を出しました。
法律を変えてくれと。 こんな不備な法律は良くない。
地震の山古志村でもそうでした。
それでも法律は変わりませんでした。
義援金の一部を頭割りにすると豊岡市の市長が飛んできました。
出石でそんな事をされたら困る。 まだ合併していない。
町は町の考えでやっているのに何であんたに言われなければならないのだと。
もう一つが記録です。 記録がないと困る。
合併した後、保守系、革新系と問わず議員に作れと言いました。
出石で作ったのだから豊岡でも作れ。
コウノトリと言えば分かると思います。
コウノトリだとばかり言ってくる。 私が共産党の町長であったからでしょう。
大嫌いな共産党、1つしかない地域の出身者だと知っていましたけれども。
私は十分に応えることは出来なかったけれども、危機を乗り越えることが出来た点で非常に喜んでいます。
温泉施設、温水プールもできました。
商工青年部の人たちが頑張って、残っている城垣に一夜城を造りました。
これは新聞にも載りました。 そうした事がありました。
自分が信じたことを一所懸命やっても、なかなか成果は上がらないし、何をやっているのかと迷う時もあります。
しかし、ちゃんといろんな人が見ていると感じました。
若い人たちにも頑張っていただきたいと思います。
長くなりましたが、今日はありがとうございました。