今年4月13日に93歳で亡くなった、岡映(おか・あきら)さんを送る会が6月17日、岡山市・コンベンションセンターでおこなわれ、岡山県内外から、約300名が参列しました。 主催は、岡山県地域人権運動連絡協議会、日本共産党岡山県委員会、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟岡山県本部、岡山人権問題研究所で構成する「岡映さんを送る会実行委員会」。
実行委員会を代表して石岡克美全国人権連議長(当時)から、岡さんが戦前の天皇制によるファッショ的な弾圧の嵐の中で、京都での友禅工生活擁護闘争委員長として闘うなど労働運動でも優れた指導者として活動し、日本共産党へ入党されたこと、そして1935年の全国水平社第13回全国大会へ参加するなど、戦前・戦後を通じて部落解放運動に生涯をかけてこられ経歴を紹介する。 「私たちは、内外に大きな影響力もち、優れた指導者であった岡さんの運動に対する姿勢や教えを受けたことを生かしながら、決意を新たに、平和と民主主義、人権確立のためにたたかっていきたい」とのべ、岡さんの遺志を引き継ぐ決意を表明しました。
つづいて、丹波正史・全国人権連副議長(当時。
現議長)、武田英夫・県共産党副委員長、則武真一・治安維持法犠牲者同盟県本部会長、岩間一雄・岡山人権問題研究所理事長の4人から、送る言葉が寄せられました。
丹波氏は、岡さんが1970年に部落解放同盟正常化全国連絡会議が結成されるや議長となり、1976年、同会議が全国部落解放運動連合会に改組するとともに中央執行委員長となって、1987年まで17年間にわたり、組織の「顔」として重責を担ってきたこと、優れた人格と包容力、地域への愛情と信頼、誠実な人柄ときびしさをあわせ持つなど、余人を持って代えがたい人であったと追悼の意を述べました。 武田氏は、戦後初代の共産党県委員長をされた岡さんに対して、その導きに感謝の意を表明。 則武氏は、岡さんの総選挙でのたたかいをもとに、30年ぶりに岡山で共産党の議席を回復した体験をのべました。 岩間氏は、「巨星墜つ」の思いをこめて、偉大な生涯を導きの星として、岡さんから引き継いだ課題を果たすべく全力をあげていく、と決意をあらわしました。
「生涯を人権確立の運動にかけた人」のタイトルの映像が流され、ありし日の岡さんの姿が映し出されました。 また遺族を代表して山口圭(やまぐち・はかる)さんが、故人の遺志を引き継ぎ、明日にむかって奮闘したい、とあいさつしました。
参加者全員が献花をおこない、中島純男・県人権連議長が感謝のあいさつをのべました。

岡さんの訃報に接したとき、私の頭にひらめいたのは、この言葉でした。 宙天高く煌煌と輝いて、人々を見守り、行く手を指し示す巨星のように、岡さんは、私たちの前に輝く存在でした。
『人権21』8月号の編集会議の席上、追悼特集第2弾をどうするかが議題となったとき、編集委員の面々は、口々に誰それがいい、この人がいい、などなど、議論はにわかに活気づき、とどまるところを知りませんでした。 委員の多くは、民主教育に携わってきた人々で、岡さんとは並々ならぬ深いおつきあいがあったのでした。
そうした議論の様子を見ながら、私は、岡さんがどれほど多くの人から、深く敬愛され、信頼され、今も、人々の心の中に大きな存在として生き続けているかということを強く感じました。 編集会議の結論は、思いつく限りの人に、追悼の文章を寄せてもらうようお願いしよう、また、編集委員が把握していない人々からの追悼文をも広く募ることにしようということになりました。 8月号は、かなり分厚な特別号が刊行されるものと、私たちは期待しています。
岡さんは、私にとっても、いつも心の一隅を占める大きな存在でした。 とはいえ、私自身は、生前岡さんと直接お話ししたことは、残念ながら、一度もありません。 それにも拘わらず、岡さんが私の中で大きな位置を占めています。 その理由の一つに、私の出した本があります。 『渋染一揆・血税一揆の周辺』という小著を、部落問題研究所のご厚意によって出版してもらったことがあります。 その序文に私は、岡さんの「美作血税一揆から何を学ぶか」という論文の一節を引用しています。
「人民がみな兄弟だという考え方、平等だという考え方、これは私どもが一番学ばなければならない問題であります。 それがなかった。差別された人々と自分たちとが別な人間だと、いつのまにか思わされてきた。 しかもそれが、長い間人間扱いされなかった農民の中に最もつよく残っていた。 面白いことですよ。 差別意識は最もひどい差別を受けている人々の中につよく残るのであります。 だから、部落の中が民主化されていると考えたらまちがっている」
これは1975年に書かれた文章です。 現在では、部落差別はもうほとんど過去のことといってよいことでしょう。 しかし、「差別意識は最もひどい差別を受けている人々の中につよく残る」という指摘は、残念ながら、現在でもそのまま当てはまる永遠の真理です。 こうした研ぎ澄まされた考えが根底にあって、民主教育その他の活動に携わってこられたとすると、その懐の深さに、ともに闘った人々が、限りなく慕わしい敬愛の思いを寄せたこともなるほどとうなずけます。 私自身も、岡さんのこうした指摘に強く共感してこの本を書いたつもりでした。 幸いこの小さな本は、岡さんご自身の目にもとまり、ご批判やらお褒めやらを戴いたと承っています。 直接お目にかかってお教えを乞いたいと思っていましたが、いたずらに日を過ごし、今ではもう叶わぬこととなってしまいました。 今、私は、悔やんでも悔やみきれない思いにとらわれています。
私が自分の本を書くとき岡さんの文章を引用したのは、ある機会に岡さんから忘れることのできない強烈な印象を受けたことも関係しています。 ただし、私がはじめて岡さんの謦咳に接した集会について日時やテーマなどは、はっきりしていません。 覚えているのは、会場が勤労者福祉会館であったこと。 集会が、学習会と記念講演との二部構成であったこと。 学習集会は、私自身が講師として何か話したこと。 休憩を挟んで再開された第2部の講師が岡さんと豊田弁護士であったこと。 そこまでは非常に鮮明に記憶しているのですが、肝心のテーマは忘れてしまっています。
私は、講義をすませた解放感にひたりながら、岡さんの巨体が悠然と壇上に登る姿を見ていました。 太い身体の底から発せられる、圧倒的な音量の言葉は、しかし、静かで穏やかで、それでいてまるで鳴り響く太鼓の音が身体の奥底に響き渡るように、私の中に入ってきました。 私は自分の身体が、岡さんの音声とともにある種の共鳴現象を起こしているのを感じました。 その際にも、何がどう語られたのかははっきり覚えていません。 ただ記憶に残っているのは、語られる言葉の一つ一つが、火を噴くような熱い思いと気迫に満ちた、重い体験に裏打ちされた真実そのものだったということです。
命がけの体験に裏付けられた言葉には、まさに万金の重みがあります。 岡さんの言葉の重みは、私の身体全体を揺り動かし、私はほとんど陶酔状態になっていました。 私の人生の中で、そんなふうに身体全体が揺り動かされた経験は、実にそれが最初で最後のことでした。 しかも、それは私一人がそうであったのでなく、会場全体が、そうした感動の渦の中に巻き込まれていたのです。
その直接の「被害者」は、続いて演壇に立った豊田弁護士です。 治安維持法下の裁判所で獅子吼した豊田弁護士の名調子も、岡さんの演説の余韻が漂うこの会場では、無力でした。 「岡さんのあとでは喋りにくい」、と一言残して、早々に演壇を降りられた豊田さんの姿も、忘れられない情景です。
ともあれ、それが私のいわば岡体験でした。 あの時私の身体全体をおし包んだ感動は、今でも、私の身体の中に生き続けています。
岡さんは、今も私たちの中に生き続けています。 もちろんそれは、それぞれの岡体験に根ざした忘れることのできない岡さんの命そのものです。 しかし、岡さんが生きているのは、そうした個人の思いの中だけではありません。 部落差別を乗り越え、人権状況が、現在ではまったくちがった段階に到達しているという現実を、まっとうに受けとめ、新しい課題に向けて立ち向かうということは、岡山の私たちにとってはごく当たり前のことです。 しかし、他の地域を見てみますと、そうした私たちの常識がまったく通用しない場合があることに気がつきます。 こんなところにも私は、岡さんの残された業績の大きさを感じるのです。
岡さん、私たちは、あなたの偉大な生涯を導きの星として、あなたから引き継いだ課題を果たすべく全力を上げていくつもりです。
岡さん、この後も、どうか私たちを励まし、導いてくださいますように。
この最後のお願いをもって私の追悼の言葉と致します。
2006年6月17日
岡山人権問題研究所理事長 岩間 一雄
実行委員長 石岡 克美
岡映さんを送る会の開催に対し、大変ご多の中を岡山県内はもとより全国からご参加をいただきまして、実行委員会を代表しまして心からお礼を申し上げます。
岡映さんは、去る4月13日午前1時、心不全のため93歳で、美作市の美作養護老人ホーム組合作東寮で亡くなられました。
岡さんは戦前、天皇制によるファッショ的な弾圧の嵐の中で、京都洛北染色労働組合、友禅工生活擁護闘争委員長として闘うなど、労働運動でも優れた指導者として活動し、日本共産党へ入党しました。
1932年と36年に治安維持法違反で検挙され、合わせて8年間の獄中生活をおくっています。 その間、35年の全国水平社第13回全国大会へも参加するなど、戦前の極めて厳しい状況の下で無権利状態に置かれた労働者の権利闘争、解放運動、共産党員としての活動を進めてきました。
戦後は、農民運動・重税反対闘争の先頭に立ち、美作地方を中心に岡山県農民同盟の活動をする一方、部落解放運動を組織し、岡山県人民解放同盟青年協議会副会長、部落解放全国委員会岡山県連合会常任委員、同書記長、そして、1955年部落解放同盟に改組し、岡山県連書記長となり、中四国ブロック協議会議長、1960年に同県連委員長となって以来1988年の退職まで28年間務めました。 その間、解放同盟中央本部副委員長、解同一部幹部の部落排外主義、矢田問題など反共と分裂策動とたたかい、70年の分裂後、部落解放同盟正常化全国連絡会議議長、解同による八鹿高校暴力事件との闘いの中で全国部落解放運動連合会へ改組発展し、中央執行委員長を務められました。 さらに国民融合をめざす部落問題全国および岡山県会議代表幹事、部落問題調査研究会副会長、岡山県就職差別撤廃共闘会議議長として優れた指導力で運動を前進させてきました。 また、その間、衆議院選挙の候補者として国政革新をめざして闘いを大きく前進させました。
岡さんの著書としては、「中国旅日妃」、「統一戦線と部落解放運動」、「民主主義と部落解放運動」、「荊冠記・解き放つとき」など、文学的な表現で記述されたいくつかの出版と雑誌「部落問題」や機関紙などへ数多くの歴史と文学的記述による論文を出されています。 岡さんは、解同の部落排外主義による反共暴力分子と闘い、解同を利用した権力の巧妙な攻撃と理論的、実践的に、権力の本質を見抜きながら闘うことの重要性を強調し、その先頭に立って闘って来られました。
岡さんは自治体との交渉や諸集会の中で、大衆の理性と感情に訴え自覚を高めていくなかで結集させる優れた能力を持ち、大衆を大きな包容力で包み込み、いつもニコニコとして大衆に接するやさしさを持っていました。 それは普段からの学習と実践的教訓とその経験に裏打ちされたもので、私たちは多くのものを学ぶことが出来ました。
私たちは、内外に大きな影響力もち、優れた指導者であった岡さんの運動に対する姿勢や教えを受けたことを生かしながら、今日の厳しい情勢の下で、決意を新たに平和と民主主義、人権確立のためにたたかっていく決意を申し上げ、ごあいさつとさせていただきます。