博物館における学びの諸相をとらえる視点

動物園における学びの特徴

人々は、博物館に足を運び、まず展示に出会います。博物館は、「展示」をする人の「表現」と「展示」を見る・利用する人の「解釈」との二重性をもちます。展示者側はその「表現」を構成する「もの」あるいは構成の方法を通じて、ある意図を利用者に届けようとしますが、一方、利用者側は、自らの関心分野や経験により、それぞれ独自の解釈を通じて「展示」に出会うことの意味を各人の内側に創り上げていきます。
 ここでいう「学びの諸相」とは、そうした各人にとっての「意味」創出に、展示がどのような役割を果たしているのかを具体的に拾い上げることをさしています。
 もちろん、博物館の「もの」の保存機能や研究機能がその博物館でこそできる展示をささえているわけですし、様々な活動(ワークショップやガイド・アウトリーチなど教育的なプログラム)にも人々の学びは展開するわけですが、「もの」とその「キャプション」で構成される展示の利用には、その博物館その展示ならではの、非常に具体的で個性的な学びをもたらす可能性があると考えます。
 それでは、博物館の一種である動物園は、どのような学びの諸相をもちえるのでしょうか? 概して、動物園は幼い子どもを含む家族連れやカップルでの利用が多く、そもそも「学習」や「学び」が成り立ちにくいのではないかという印象をもつ方もいるでしょう。
 しかし、博物館以上に動物園は多様な学びが成立するとも言えます。なぜなら、そこに個性ある生きている動物たちがいるからです。人々は、それぞれの年齢に応じた動物との関わりを求め、その関わり方の中にこそ「学び」が展開します。つまり動物園における学びとは、自分の「生」と「目の前の生」とをどのように結びつけようとしているのかを具体的に知ることだと考えます。
 レクリエーションの中の学び、家族相互の交流における学び、といった切り口をこれらの学びの諸相のとらえ方に用意することも可能だと思われます。
 さらに、これらの学びの中に、グローバルな観点での「野生生物と人間の共存」の感覚がどう生まれるのか、あるいはうまれないのか、をみていくことも重要だと思われます。
 
私的見解です

ちょっとだけ学習論を

博物館や動物園において、学びがどのように成立しているのかを考える上で、私は「博物館側・動物園側」に立つものとして、次のような学習論や知識観が有効だと思っています。 そのひとつは、かつてヴィゴツキーが提唱した「発達の最近接領域」を応用すること、そして、「生成する知識・うまれいづる知」というような知識観です。
 これらは、社会構成主義に属する考え方と言えますが、前者はとくに、言語的コミュニケーションを中心として、「今できること」と「近い将来できるようになること」との間の適度な離れ具合を年長者がセットして、その子どもが少しの手助けで達成できる領域に導くという、いわば「指導」あるいは「訓練」の、その子にとっての「ちょうど良さ」を見いだすというようなことです。ヴィゴツキー自身は、このように多分に「教授ー学習」という指導法のひとつとしてこの概念を当初は使ったのだと思われますが、その後、学校のようなしつらえられた環境ではなく、日常的な学びがどのように展開しているのかを具体的に見いだそうとする研究が進むに伴って、この概念は広く受け入れられるようになりました。たとえば、その社会で大事だとされていることは何かを知る、ということも、立派な「学び」と考えられるようになったのです。
 後者は、主体的に環境と関わる「その子・その人」が、今まさに「知ろうとしている」心の動きを重視する、つまり「能動性」を重視するという考え方です。知り得たことのみが知識なのではなく、その動機にもさかのぼる、動的な「周囲との関わり方」も知であるというような考え方です。
 私がこれらの学習論や知識観にこだわるのは、とくに動物園のような、「動物の見方」や野生動物に対する態度(倫理観を含んだ具体的行動・その多くは非自覚的な場合が多い)が、周囲の人々との社会的インタラクションのなかで、形作られていくということを重視するからです。
 展示者側として、「これこれを知ってほしい」ということが、それを利用する人々の関心事にそうかどうかは、ひとつには「何がたいせつなことなのか」がある程度了解(共有・認知)されていることが必要なのですが、そのギャップが大きいことをしばしば感じるからです。 この離れ具合は、利用者自身が「大きすぎる」と感じれば学びは成立する可能性は小さくなっしまいます。
 また、能動的に周囲と関わるということを「知」だとすれば、その能動性をどう確保できるかもこの博物館という特殊な環境で重要なことがらといえます。
 要は、現実に博物館や動物園で起きているたくさんの出来事の中に、「学び」をみてとることがひつようであり、その手段としてこれらの学習論を使いこなすということを言いたいのでした。


        →見せるという行為へ   →「学び」のとらえかたへ

  

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