「見せるという行為」について:教材や教具を用いたプレゼンテーション

教材・教具の本質と展示
    
  教育の歴史において、教材は、たとえばコメニウスにあっては世界図絵であり、フレーベルにあっては「恩物」とよばれたおもちゃであった。そこには、制作者の明確な意図がある。意図とは、させたい活動であり、教えたい内容があらかじめあるということである。教材はそのためにしつらえられたものや器具をさす。
 明確な意図があればあるほど、教材制作は洗練され、当を得た「もの」として呈示されることになる。効率よく何かを伝えることができるということは、すなわち、あらかじめ設定された「伝えたいこと」がたしかに相手に伝わったと伝えたい側によって確認することなのである
  博物館展示もそれと同様な側面があると思われる。教育的展示あるいは教育目的の展示と呼ばれるものは、まさにそれである。「これこれを伝えたい」「これこれをしてほしい」が明確にあっての展示物の配置や仕掛け、デザインを必要とする。たとえば展示パネルは、マイルスのことばを借りれば、今なにを見ているのかこれからなにをするべきなのかを示す「位置確認」のようなパネルとなる。ここに、展示の二重性をみる。
  教材や教具が、教師と生徒という「ひと」の関わり合いを抜きにその存在意義が発生しないのと同じように、博物館展示も伝えたいことがらが明確であればあるほど明瞭なメッセージを届けるための展示デザインを考案し制作する側のスタッフと、その意図を受けとめる利用者と、この両者の関わり合いにおいて展示の存在意義がうまれる。
  
 
学校教育におけるプレゼンテーションと教材教具の関係

   ところで学校教育では、教師はあくまで「支援者」の位置におかれ、学習の主体が意味構築することを手だすけするのが本来であり、プレゼンテーションは、そのための手段となる。
    プレゼンテーションは、学校における「教育方法」の典型的な一方法である。黒板とチョーク」、この2つは、学校におけるプレゼンテーション道具のいわば横綱だ。生徒たちは黒板と教師を前に、チョークの先を見つめ、そこに描かれる文字や図をじっと見て、そこから「教師がなにをいおうとしているのか」を即座につかめる訓練を受ける。したがって、黒板は教師の「伝えるべき内容を展開する場」であり、そのための道具であると同時に、子どもたちにとっては、教師の意図をくみ取る立派な道具なのである。ところで、ここでのプレゼンテーションは、教師の側からの「伝達」機能を持つが、プレゼンテーションを見る側は、伝達されたことを受け取るだけではない。書かれたことを「書取」り、自分のノートに図や絵を書き込んでいく。意図をくみ取る道具としての「黒板」とチョークは、今度は子どもたちの鉛筆とノートになる。それを声を出して読む、何度も書いたりもする。もう一度、子どもたちは「見た」ことを自分で自分にプレゼンテーションすることになる。
 そこには、「黒板とチョークと教師」は、生徒や子どもたちにとっては「見る」「聞く」対象であるという約束事があらかじめあり、教師のさまざまな表現を自分の中に取り入れて反復する過程で、自分の表現にしていくという訓練を自らに課しているのである。自分の体験を引き出したり、未体験のことであれば想像力を駆使して、自分なりの理解や納得を積み重ねていく。それは、他人の表現を借りつつも、自分の表現として世界をつくりあげるプロセスでもある。このプロセスは、自分の中の他人との対話でもあり、様々な物理的道具を自分の認識世界にとりこんで、内言と心理的道具により、自分を制御していくという
体験をするのである。
  教材や教具は、このプレゼンテーションにおける小道具的な意味合いをもち、それらを助けとしながら、生徒たちは自らの世界をつくりあげていく。同時に教材や教具のひとつひとつには、自然物そのものもあれば人の手で制作され抽象化された人工物の場合もある。前者は多様な見方を誘う力をそもそももっており、後者は制作者の意図によって浮き彫りとなったメッセージにあふれている。どちらを使うにせよ、プレゼンテーションの方法に組み込まれている場合は、それらを自ら使いこなしていこうとする意志や目的意識という能動性に支えられて心理的道具としても価値を発揮する。

物理的な道具と 心理的道具について

  もちろん道具とは、一般的には、人間が生活をよりよくするために作りだしてきた具体的な「もの」である。ものづくりによって、周囲の世界を変えると同時に、実は人間をもつくりかえてきた。そういう2面性を併せ持つのが道具である。道具作りのための道具のことを考えてみよう。畑を耕すすきや鍬を「耕す」」目的で作りだした人間は、耕すことによって自らの暮らし安さを手にすると同時に、人間の内的な世界も変えてきた。内的世界とは、もう少し具体的にいうと、世界の見え方ということである。より耕しやすくすることで、得た「時間」によって、人間は有限の時間を他のことに当てることができるようになる。そのことによって、さらに過ごしやすく、快適な生活への欲求が生まれていくのである。
 この歴史の流れを見るならば、学校は「人間が快適に暮らしていくための術を次の世代に効率よく伝えるため」の道具であるといえる。しかし同時に、この道具はあらたにその道具を使う人間の内的世界を変え、次の目標に向かう人間を用意することになる。この流れはとどめることができないし、この「学校」という名の施設という道具が、それを使う生徒たちにどのような「新たな世界」を用意するのかは使う生徒自身の個性によるという事実も直視すべきであろう。


 展示を見てもらうということも、以上のような認識の内的プロセスを期待した活動であるとも言えよう。同時に、どのように具体的道具を心理的道具として使いこなして自己を改変していくのかという点も重視したい。おそらく、展示の読み解きとは、具体的にこうしたプロセスと使いこなしを自身が客観視できることを含むに違いない。

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      心理的道具について

  「道具によって人間は対象世界を自己のコントロールの下に置く。同様に心理的道具によって、私たちは他者そして自己の心を統御するのである。心理的道具は実在の対象物である。以下に示されるような実在物が心理的道具のリストをつくる。」これは、ヴィゴツキーの「心理的道具」に関する記述である。さらに、言語、記数法や計算のさまざまな形式、記憶術のための諸工夫、代数記号、芸術作品、文字、図式、図表、地図、設計図、そしてあらゆる種類の記号などをこれらの道具の例としてあげている。 「心理的道具すなわち記号は、『人間自身の支配にむけられ内面的活動の手段である』」とも表現されており、人類が自らを再生産する上での「自然に働きかけるための物理的道具」と同時に、精神的な再生産・改変をもたらす心理的な道具について述べている。
  しかし、記号や図、ものや作品は、それを「形」「物体」として知覚するだけでは何の意味ももたらさないことも自明である。自分にとっての意味あるものとして「それ」を受け入れることが可能なのは、その「形」「物体」自体が、その時代の社会と文化において何か指し示す、あるいは象徴する、自分の中にその記号や図が呼応するものが既にあるからなのである。つまり、記号や図、作品が内面的活動の手段=心理的道具としてとして役立つのは、使う価値があるとわかる、あるいはそう予想できるからなのである。では、なぜすでに「呼応するもの」が存在するのだろう。それこそ、人間自身が自らの手で創り上げてきた歴史と文化の所産である。ひとびとは、それ以前の心理的道具を駆使しながら、新たな文化を創り出し、道具に新たな役割を付加し、それでまた新しい歴史をきりひらく。ヴィゴツキー自身が「心理的道具」と「行動」との関連をどうみていたかを、茂呂(1999)は端的に次のように言う。

 心理的道具という媒介項は、それを用いる行為の機能を再編する。
*ここで引用されたヴィゴツキーの著書は、1930年の「心理学における道具主義的方法」である。

   行為の再編、すなわち、道具利用により意図的に行動を自ら変化させていくということである。つまり、ものの展示という手法で何かを表現した側の「意図」とは独立に、「展示を見る側のひと」は、展示されている「もの」や文字や記号や図表を、その意図されたことがらを超えて、その「見る側のひと」自身の内的活動に使用する可能性が本質的にあるということである。「道具」の使用は、その新たな価値付けの可能性を含むからである。自分以外の人の手による「展示」を助けとしながら、しかしそれを見る人は「展示」を使いこなして、自分にとっての展示の価値を創り上げる可能性があるのだ。
 
  さらに、エンゲストロームは、ヴィゴツキーの「道具」概念を発展させて「道具体」とよぶ概念を提起している。道具を使用して個人が二者間系において「与えられた課題」を解釈して再構成するという発見を超え、「集団の最近接発達領域」を問題とするよう主張した。また、ひとつの道具だけでなく、相互に連関しあう道具体全体を分析することを提唱し、その分析にあたっては、表面的観察者ではなく大胆な実験的態度で臨むことを提起した(エンゲストローム,1999:p.17-19)。
  このエンゲストロームの「集団の最近接発達領域」は、時代とともに、人々が展示のどのような側面にどのような価値を見いだすのかが変化していくことを理解していく上で重要な足がかりとなるだろう。つまり、はじめはごく一部の人々の観点からのみ認められたものであっても、違う時代の社会が「かけがえのなさ」を認めれば、そこにその時代の人々に共通の「価値」が生み出されていくこととなる。

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          文献

茂呂雄二 (1999)『具体性のヴィゴツキー』, 東京:金子書房.
エンゲストローム,Y. (1999)『拡張による学習』, 東京:新曜社.(原著は、 Engestr?m Y. (1987) Learning by expanding : An activity-theoretical approach to developmental research, Orienta -Konsylti Oy, Helsinki).