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いろいろな読後感や感想を勝手に書いてみた独り言や公表した書評です


その壱 「ヘアーインディアンとその世界」
その弐 「動物園というメディア」
その参 「人、イヌにあう」
その四 「ゾウの歩んできた道」
その五 「ソロモンの指輪」など

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                              動物園のページへ

 その壱
 原ひろ子著 1989  講談社 「ヘアー・インディアンとその世界」を読んで
                     
                はじめに

 本書は、1960年代のはじめに原ひろ子氏によって調査された、北方カナダの極北に生きるヘアー・インディアンの生活と文化についての克明な記録(民族誌)である。エスノグラフィーの古典とも言えよう。以下は、全体を網羅した論考ではなく、自分が興味関心を抱いている以下の点について、感想を述べ、いくつかの考察を加えたものである。

1 自然分類について

   以前、民族学の一分野として、その土地の人々特有の「生物の分類や命名方」を研究する場合があることを知り、リンネ式の分類法を基準にする「自然の見方」が「生き物の分類法のひとつにすぎない」ことをあらためて自覚したものだった。
   たとえば、東南アジアのブタやヤギを食べる民族にとって、子豚や子ヤギ、雌、母親、雄、去勢された雄、などそれぞれ成長の段階や利用の意図と関わる分類と命名がなされているように、私たち日本人が「ヤギ」としか表現しない動物を、その土地の人々は、周囲の生き物との関わり具合の程度によって、いく様にも名付けているのである。
   同様に、ヘアーインディアンたちが周囲の「自然のすべてに平等な関心を示しているのではなく、自然環境を彼らの文化のスタイルで選択して認識し、利用している」(p.65)点はうなずける。
 私が特におもしろいと思ったのは、家畜や犬、猫は彼らのいう「動物」のカテゴリーには入らない、という点である。インディアンが「動物(ゴウィレ)」というとき、それは狩りや釣りの対象で、つまり生活を支える野生動物なのである。しかも、その野生動物たちは人々が「狩りやすいかどうか」という技術的な慣れと「獲物と人間のあいだの需要と供給の経済的関係」とにより、賢さの順序づけがなされている。そして、賢い動物をたくさん捕れる人は「賢い人」であり、尊敬されるという。狩りの対象にはならない生き物は、ゴウィレではなく、たとえば犬はむしろかなり人々に組み込まれた存在なのであろう。だれが賢い人であるかが「賢いゴウィレをどれだけ上手に採れるか」で決まるとすれば、その上手な狩りを手助けできる犬をもつことがやはり賢さをより鮮明に証明できる。つまり、彼らの論理にたてば、犬はゴウィレを追跡する側、捕らえる側に属し、だからゴウィレではないのである。
   「だって、犬はムースと同じ哺乳類でしょ、だから動物でしょ、」という論理は我々の文化に特有のものなのだ。

 2 やるせなさと「うさ晴らし」

   「ヘアーインディアンとその世界」にしばしば登場するのがこの言葉である。やるせなさをどうにかしたいとき、人は「休み」、しばしば自己と対話する。そして、うさ晴らしの具体的な行動として、動物や小さな子どもをからかったりする場面がところどころに紹介される。
   休んでいるとき、他人はそれに干渉したりじゃましない。自分自身との対話とは、具体的には、自分の守護霊と夢の中で対話していることであるという。著者は、その行為には、インディアンが、自分の意志決定を考えるとき、もうひとつの自分である守護霊とコミュニケートすることで、「人格のバランスを保つ」役割があると指摘し、それを「見事な文化的適応」と表現した。
   なるほど、過酷な自然環境のもと、いつも「死」とむかいあわせの生活では、不安や寂しさを自分の守護霊との対話において解消する行為のもつ、客観的な役割を認めることができる。彼らにとって、一緒に生きる周囲の仲間とうまくやり、自分とそれ以外の人との関係をそこそこ保ち続けようとするためには、我慢したり、仲間における自分の位置をよく認識することが必要不可欠で、その人間関係がまさに生死を分けることもあるのだ。人格のバランスをとるのは、その客観的な自己認識を続ける上で必須なのであろう。
   さらに、人格のバランスを保つ上で、守護霊とのコミュケートと共に、動物との関わりが大切な意味を持っていることが、犬との関わりにおいて紹介されている。このくだりを読んで、私は、ダーウィンが、アフリカの原住民が平気で「犬の虐待」をしていることを怒りを持って報告していることを思い出した。ダーウィンは、西欧における「愛玩動物」としての、あるいは人間のパートナーとしての犬しか知らず、そのものさしでアフリカの犬の飼われかたの状況を嘆いたのであった。おそらく彼は、そのアフリカの人々が、家の近くをぶらぶらしている犬をけとばしたり、罵詈雑言を浴びせたりしているのを目撃し、その手荒さや容赦のなさに、「犬への情愛がなく、野蛮である」と感じたに違いない。ヘアーのキャンプ地で、うさ晴らしに自分の飼い犬にしこたま汚い言葉を浴びせ、最後に一発殴りつける、ということがそれほど珍しくないとすれば、このアフリカの人々の行動も納得できるように感じられる。
  つまり、自分の飼い犬は「もう一人の自分」「自分自身のようなもの」であり、だから遠慮せずになぐったりできるのだ。主人の怒りがおさまるのをじっとうなだれて待つという犬の姿は、確かに哀れであるが、私たちはその「哀れに感じる」気持ちの根元をもう少し見つめてみてもよいだろう。哀れに思えるのは、自分がその対象よりずっと優位に生きていけるからであり、常に自分より「下」で情けをかけてあげる対象としての犬なのだ。
   しかし、その飼い犬とそれこそ「生死を共にする」(つまり、犬がそりを引けなくなれば自分も死ぬ)くらいの「一体感」とは、哀れに思う対象どころか、「辛抱しようぜ」と自分を励ます鏡のような感じなのだろうと思う。それだけ、密着した存在なのではないかとも思えるのである。
   また、3歳の子どもが、同じ年頃の遊び相手がいないくなって虚脱状態になっているときに、母親が連れてきてくれた子犬を世話することで、すぐに元気が回復したことが紹介されている。精神衛生上も、犬とじゃれ合うこと、世話することがずいぶんと役立っていることがわかる。人間が犬に依存し、犬も人間に依存する、といういわば「共生的な関係」が3歳という小さなうちから成り立つのだ。これが「うさ晴らし」の範疇にはいるかどうかは疑問だが、少なくとも「こうやって犬を相手にしているとなんだか気分が晴れ晴れする」という体験は子どものうちから積まれるものと思われる。自分が感情をぶつけてもよい相手、話しかけることのできる相手、働きかけに応じてくれる相手。同じ年齢の子ども同士が出会うこと自体がまれなキャンプ生活で、どんなに幼い子どもたちの遊び相手としてその役割をはたしているかがうかがい知れる。

 3  学び、人との協力、共同と個人の問題

   ヘアーインディアンの社会では、誰かに何かを「教わる」ということではなく、人々は誰でも「自分でおぼえるもの」と思っているという。
   ここには、「誰かが誰かに命令したり指示したりはできない」とみんな思っていること、また、「何かができるようになるということは、できるようになりたい人間が、できている他人のやり方を見て自分でそれをおぼえることだ」という特徴が示される。
   そして、たとえば折り紙の作り方の過程において、ヘアーインディアンの子どもたちが、「教える人とのあいだ」よりも「紙とのあいだ」に強い交流があることが紹介されている。こうした、「できるようになりたい状況」を自分で再現しながら覚えていくという、「自分で」ということと、キャンプや狩り、釣りなどの「他の人々との共同」については、どう考えたらよいのだろうか。
   先に見たように、自分とのコミュニケーションが大切にされる社会で、しかも生きていくためには「自分で」おぼえなくてはならない物事がたくさんある、というあくまで「自分」を軸とした社会で、それでは、彼ら狩猟民族における「協力や共同」とは何なのか、どのような精神的構造を持つものなのか、という疑問がわくのである。
   「一緒に仲良くやりましょう」というニュアンスでないことだけはわかる。しかし、何か他人との連帯感や集団での帰属意識がある規範を作っているような、たとえば我々日本人の社会の人々との比較において、彼らはどのような精神的構造の特徴を持っているのだろうか。
   まず、先述のように、彼らは自分の守護霊との語り合いで自分の位置を見定める。そして、それぞれが自分の守護霊をもつ者どうしとして交流し、共同する。本書では、「ミウチ」と「サゴティネ」を比較して、前者が自分の出生という系譜上の関係によってのみ規定されるのに対し、後者が互いのパーソナリティ要因に影響されたネットワークであると紹介されている(p.271-272)。
   後者は互いの共通した生活体験に基づくのであり、概してここで検討したい「共同や協力」はこのネットワークに関連していると思われる。これは私の推論だが、いわゆる血縁に基づく(特に母親や兄弟、姉妹など)関係に属する「他人」の身近さの意識というのは、何か精神的よりどころのようなものなのであり、協力や共同という意識は登らない(客観的には共同生活だが)。むしろ、直接の利害関係にあって、うまくやっていかなければ生きていけないという意味での「協力と共同」の作業上の関係によって構築されていく体験によって、結果として何らかの「強い結びつきの意識」がもたらされるのではないだろうか。
   たとえば、例が悪いかもしれないが、チンパンジーなどにみられる「挨拶をかねた餌の分配」行動をとりあげてみよう。チンパンジーのある特定の個体同士に、確かにひらたくいうと「くされ縁」とでもいうべき関係があるらしい。餌の分配は、近い将来を予測しての互いの持ちつ持たれつ関係をより強固にするだろう。利他的行動は基本的には自分になにがしかの利点を生み出すということである。
   狩猟生活を送る人々にとって、協力と共同が互いに獲物の獲得の上で必要で便利な関係だとすれば、このサゴティネにおける個々人のネットワーク構造も生きる術としてうなずける。
   では、それだけなのだろうか。近い血縁にない個体同士の交流はこうした実利的なものを意味しているだけなのだろうか。これも私の推論だが、「これこれが許される関係」が取り結ばれ、それがどちらかというと互いをかまいあうような(本書ではよく冗談を言い合うところがあると紹介されている)、そんな無遠慮な(これも日本人から見てだが)行動が許されあうような関係は、きっと直接の利害関係も含めて、「ああ、同じだなあ」という気持ちを起こさせているのではなかろうか。この、「あなたは私と違う人間だけどけど実は私みたいなところもずいぶんある」というような気持ちがベースにあって、ネットワークが生まれていわゆる共同作業も進むのだろう。
   無遠慮にものを言い合える仲だと「私」が信じているからこそ、「私」に似ているはずのその人が、信頼を裏切るような出来事を起こすと、逆に、自分を責めるような気持ちになって、そのやるせない気持ちを「まわりに(多くの場合は犬)」にぶつけ、立ち直ってはまた関係を構築していくのにちがいない。
    だから、厳しい自然環境のもとで生きながらえていくための知恵は、「自分」を信じ、ウマの合う仲間と共同で狩りや作業をこなし、ときにはそのウマに亀裂が入ったときにそれを上手に処理していくことなのだといえよう。そして、どこかに心のよりどころを求め(それは守護霊であったりミウチであったり、あるいは、その時におけるのサゴティネとの一時の冗談の言い合いであったりする)、自分を立て直し、また自然の驚異と戦いに出るのだ。
   彼らに見る「強さ」とは、自分を立て直すための術をそれぞれが持ち合わせていることによるのかもしれない。そしてその術には、時には犬たちが利用されている。同時に犬も主人の「立て直し」に役立つことがこの社会において喜びなのであろう。

               おわりに

   こうしてみると、やはり、大自然のもつ驚異とそこで生き抜いていく彼らの生命力との相関関係が、彼らの民族としてのパーソナリティを規定しているように思われ、しかし同時に、「個性」の問題や「ものを学習すること」、あるいは互いの認めあいや愛について、人類に何が普遍なのか、もっと知りたい気持ちになる。本書を通読して、その民族の文化的特徴を把握する場合、自分の帰属する社会の文化にはぐくまれた「常識」をまず離れることがどんなに難しく、しかし必要かを認識させられた。
   また、動物が「かわいそう」に思うという、私たちにはごく自然な(と思ってきた)感情も、文化に深く依存していることを知るのである。

                                 Misako  
 


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  渡辺守雄ほか(編), 2000, 「動物園というメディア」 青弓社   書評

 「本」という形をとっていると、自分が常々関心を持っている分野であればなおさら、「それを読めば、そこから自分の関心領域に何らかの光がさすのではないか」と期待するものである。タイトルが「メディアという動物園」という、いかにも今日的題名は、そんな期待を抱かせる。たしかに、個々の章を独立に読めば、光の角度や照度、ひろがりに差異はあるものの、著者それぞれの「動物園問題」へのスタンスがよくわかってそれなりのおもしろさはあった。だがそれにもかかわらず、「本」としての全体の印象はあまりよいものではなかった。
 というのも、結局のところ、「動物園側」からの問題発信の方向と「動物園利用者側」(社会・人々)のもつ視点とがかみあっていないからである。もしかすると、”「メディアとしての動物園」は「本」というメディアなのだから、それを読む読者は「メディア・リテラシー」を十分に備えているはずで、読者それぞれが自分のリテラシーを発揮させて解釈すべきもの”という暗黙の了解が企画者側にあったのかもしれない。だとしても、「本」という体裁をとる以上、そこに至った編者の意図や動物園問題について、なぜ「○○氏には△△をテーマに書いてもらったか」がせめて欲しかった。
 
 さて、本文についてだが、1章と2章は「動物を見る」という人間存在と、この世に「動物園」という空間を作りだしてきた背景を歴史・文化・宗教・政治的に分析する視点を提供している。1章では、「ヨーロッパにおける動物園を社会に創り出す」行為の意味役割が、絶対王政→啓蒙思想普及期に至る過程で、民衆の立場からみて変化してきたこと、しかし、「見る」「見せる」行為は根元的には人間がもつ動物(自然)への態度の両義性に深くもとづいていること(資本主義の発達とともにその亀裂が深まらざるを得ないと私は解釈した)について知ることができた。2章は、動物自体が持つそれぞれの「環境世界」からみれば、人間との視線の交換はありようもないはずなのに(人間の「視線」は「まなざし」だが、動物のそれは自身が生き続けるための機能環に位置づけられる)、それを期待せざるを得ない人間というものをみつめている。人間と動物との間を隔てる深い溝の存在を自覚しながら、しかし、西村氏は動物園を、そうした溝の向こうの動物たちが「われわれの想像を超えた多様で多次元の生命を織り成していることへの驚きを実感する」かけがえのない場所としてとらえたいと主張している。
 3章は、ペットを所有する行為自体に内在する矛盾をあばいている。そのペットへの保護的情動は、ペットの非自立性をより深めてしまい、その「弱さ」故にさらに保護したいという衝動がもたらされるという。「ペット所有」という自己愛ではなく、隔たりを持って「他者」として動物に愛を傾けることが可能かどうかを浅見氏は問う。浅見氏にとって動物園は、この「他者としての動物を愛する」場所である。
 しかしそもそも、動物学的に見て、他の生き物を「所有し、見る」欲求というのはホモ・サピエンスとしてどう解釈される問題なのだろうか。政治や文化の研究にとどまらず、人類を生き物の一種という自然的存在として研究する、たとえば、かつてゾイナーが描いたような他の動物と人類との関係を一種の共生関係としてみたけれども、そういった研究も紹介してほしかったと思う。
 4章では、「なぜ動物を見せるのか」「どう見せているのか」を紹介しつつ、それぞれの展示法の善し悪しについて著者自身の考えが述べられ、展示が教育機能の中心であり、動物園の真髄であることを「見る側」として、主張している。
 5章は、中世以降ルネサンス期にいたる、ヨーロッパの政治的象徴機能を備えた各種動物園の紹介であるが、1章の前にこの部分を読んでおくと、為政者がなぜ動物園を持とうとしたかがわかりやすいのではないかと思われる。7章も、日本人の動物観をさぐるというものなので、どちらかというと、「見る側の深層意識」として第一部に属したほうがよかった。
 6章、8章、9章は、「動物園づくり」「動物園の意義の見直し」に関する、動物園側からの著作である。60年代までの動物園の歴史研究である、佐々木時雄氏の労作「動物園の歴史(日本編・世界編)」を踏まえた上でこれらを読んでみると、日本の動物園が存在し続ける基盤は、あたりまえのことだが、日本の現代社会それ自体にあるという観をますます強くした。人々にとって、「かけがえのない」動物園づくりは、潜在的な利用者を含む市民自身が自ら選び取る課題なのだ。
 とくに、人々の娯楽的指向(山本氏によると「行楽意識」)と動物園側の提供したいと思う体験学習的要素との関係をどう創り上げていけるのかは、動物園が自ら努力を続けていくことと同時に、娯楽性の中に何かを学び取った市民が、それを日常生活に還元できる力量が備わることなのだと私には思われる。娯楽は、「それが第一義的目的として追求されるとき、堕落する」と佐々木氏は述べている(日本編)。これは、enjoymentとplayとの関係にも似ている。自分自身の何かが、「見ているそれ」と共感・共鳴することを自覚する、つまりenjoy with(〜と楽しむ・愉しむ)であって、play by(〜で遊ぶ)ではないことを自覚する過程で、自分にとってのかけがえのない相手を認識するのである。
 この立場から、私は、山本氏の主張する「ハレ」と「ケ」の世界において生き物たちと自分たちのつながりを意識化させるという試みや、動物園の多様な発展への情熱を支持したいと思う。それらもすべて、地域の人々との支え合いの中でしか成功しないが、しかしそれを避けては動物園の未来もまたないのだから。そして、動物園の「ハレ」を支える、人間の労働すべてを知ることができたら、さまざまな場面で人々は自分を生きさせ続けてくれる「ケ」ともいうべき、他の人間の労働が実感できて、世の中と自分の結びつきを考えさせられることだろう。そういう大きな枠組みの中で、動物園の将来像を描いてみたいと思う。
 その意味で、10章は、終章としてはいささか期待はずれであった。読者は、「動物を見る」行為に内在する両義性を自覚し、動物園という場が歴史的に背負ってきた「負」の部分を知った上で、自分の感じる「楽しさ」の根元を振り返りたいだろう。動物園側の「負」の歴史を背負った上での、地道な努力もかいま知ることができたかもしれない。それならば、終章は読者への誘(いざな)いであってほしかった。しかし、終章は、動物園の存在価値を、「生体をサンプルとして保存する場として予想する」として閉じられている。もどかしさを感じるのは私だけだろうか? むしろ、終章は、著者が、動物園を訪れて感じた自分自身を表現することを願いたかった。その表現の中に、メディアとしての動物園の可能性がどこにあるかを読者は見いだたかったのではないだろうか? 

 そして、あえていうなら、「メディア」は媒介という意味だが、動物園は「by」ではなく「with」で存在し続ける場、一瞬の「命のであい」を創り出す場であること、連綿とした命を感じ取る場であり、メッセージを届ける「媒介」である側面はあるものの、「そこに生き物がいる」その実存感とは、情報そのものではないことを指摘させていただきたい。
だがしかし、まず、私自身のメディアリテラシーを向上させることが先決かもしれないが。
 
                                               
                                博物館問題研究会 「会報」2001 所収 

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       ローレンツを読もうよ!

 コンラート・ローレンツ(著) 1955 SO KAM DER MENSH UND DEN HUND 
  小原秀雄 (訳) 「人 イヌにあう」(1966年発行 至誠堂


 ローレンツは、1903年にウィーンに生まれ、1973年にノーベル賞を受賞した動物行動学者です。「ソロモンの指輪」に続き、1955年に書かれた「人、イヌにあう」を再読しました。名著として名高いのですが、恥ずかしいことに今回もう一度読み返してみて、より多くの人にもっと愛されてよい本だと思い、しょうかいさせていただきます。
 小原秀雄氏の訳はとても文学的で、ローレンツが動物行動学の権威でありながらも、イヌを始め動物たちに注いだ愛情が行間に感じられる美しい記述がちりばめられています。

◆ヒトとイヌ・・・・・・・・・・・・・・

 再読しようとしたきっかけは、イヌとヒトの関係が形作られてきたその歴史について
、まだ私自身がよく知らないからです。もちろん、最も早く家畜となった動物であることは疑いの余地はないのですが、私たちが今日知っている「家畜」とは異なる道を歩んできたこともまた事実だからです。
そのあたりのことは、この本の第1章に詳しく書かれています。野生のオオカミ(←ローレンツはジャッカル説を採っていたが、本当はオオカミ)がどのようにしてヒトという動物に接近していったのか、そして、ヒトはどのようにしてオオカミを共生の相手として認めるに至ったのか、を実にドキュメンタリーのドラマを見るように描いています。獲物の一部をまるで自分たちのグループの成員に分け与えるように、そのリーダーはわざとオオカミたちの群れのために置いておき、今度は、オオカミたちの嗅覚が別の獲物を探り出す能力を利用するという関係です。暗闇をおそれたヒトの群れたちの様子、オオカミの遠吠えを聞いたときの恐れと懐かしさ、そしてヒトの群れのリーダーが発見した獲物の分与によるオオカミたちの能力利用という知恵、、、。その場面をまるで目の前で見ているような感じでローレンツの記述は続いていきます。
 ヒトとの距離を縮めたオオカミの、幼獣をとらえてキャンプに持ち帰ったヒトは、その仕草に深い興味を示したであろう幼子の様子も、描写しています。このあたりは、北米のヘアーインディアンが実際に子どもの遊び相手として子犬やウサギの幼獣を与えていることを思い起こさせます。
 おそらく、それとは知らぬうちに、ヒトはオオカミと深い関係を結びつつあったのです。ローレンツは、その深い関係をオオカミ自身が求めたことにも注目しています。群れで生活する食肉類としての行動特性が、ヒトを自らのリーダーとして認め、本能として持ち合わせている、狩りのためのリーダーへの忠節(忠節というのはあまりに人間社会のことばですが)と群れの構造がその必然的な結果に結びついたことを示しています。同時に、この忠節の起源に、イヌの子ども時代に経験した「母親へのきずな」があることを紹介しています。この異なる起源を持つ「忠節」が、一方では私たち人間には「愛情を示している」と映りながらも、「決して支配下にあることを意味するのではない」という一見矛盾した状況を表しているわけです。

◆動物の理解とは・・・・・・・・

 これらのローレンツの叙述から、私は、動物の理解を動物の本来の生活に自ら近づくことで始めるべきであることを知りました。動物の世界の理解は、彼らの行動と表現、それらの「その動物たちにとっての意味・役割」を探ることから始まるのです。
 イヌが、オオカミの時代になぜヒトに接近したのか、その接近の仕方はどのようなもので、その必然性は何であったのか、、、、こうした理解の仕方が必要なのに違いないのです。それは、彼らの生活に入り込む経験をすることです。正確に言うなら、入り込もうと努力してそこから人間の社会を見るということです。今日、飼育動物の役割などについて、「子どもの情操が豊かになる」という側面が強調されていますが、私は、その強調をするなら、その個体にとって、個体の属する動物社会も含めて、ヒトという動物との関係がどのような役割を果たしているのかをその動物の側から見つめることを強調したいと思います。そのことこそ、動物の理解・動物へのrespect・ヒトと動物の福祉であると言いたいのです。

◆動物のあそび・・・・・・・・・・・・

 また、ネコの仔が、毛糸玉を「獲物に見立てて」遊ぶ様子を描写しているところがありますが、その細かい観察は、遊びつまり「ふりをする」という心理的な状況に対する探求価値を示すに十分です。一つ一つの行動、たとえばとびかかる、ツメを出す、片方の前足でつつく、とびのく、、、こういった特徴ある行動が、食肉類としての捕獲行動に結びつきつつも、「ふりをしている、つまり本気ではないが行動の要素は本能的行動に結びついている」ということに注目しています。遊びそのものが、動物個体の発達に大きな役割をしていると同時に、たとえば2頭で遊び合っているなら、互いにそれは遊びであるという了解がなりたっているという事実が重要だとしています。ここにも、動物の世界を理解するための入り口が用意されています。

◆ローレンツを知ろう!・・・・・・・・・・
 
 さて、この本はたくさんのエピソード、それらはすべてローレンツ自身の体験に基づくものですが、そうした具体的でおもしろい事実が紹介されています。
 人を出し抜く技、ウソをつくようす、それらにだまされたことを知ったときの驚きと感動、そんなひとつひとつの描写が動物への愛の表現として私には映ります。


 というわけで、ハイイロガン、コクマルガラス、は有名ですが、こうしたあまりにも身近な動物であるイヌやネコについて書かれた本書をおすすめします。
                              
                                       2002・11
 

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                   新刊紹介  

   ゾウの歩んできた道  
    小原秀雄(著) 2002 岩波書店(ジュニア新書)

 ここでの「道」には、二重の意味があります。ひとつは、そのことば通り「ゾウという生き物が歩んできた歴史という意味の道・生物の一員としてどのような具体的な生活をしてきたのかということ」であり、もうひとつは、「人間としてのあるべき姿・進むべき方向を考えるという意味の道」です。

 ゾウ、、、、ときに哀しげなさけび声をあげ、ときに圧倒的で豪快なパワーを見せつけ、ときに互いの信頼を確かめあうような鼻での挨拶を披露してくれる、この雄大で繊細な生き物に、人間はどのようなつきあい方をしてきたのでしょうか。
 本書は、ジュニア向けの新書版ということもあって、表現はやさしく、親しめるものとなっています。しかし、ここに示されたもろもろの事実や解説は、著者の研究や活動の集大成ともいえ、私は、本書を「All about the Elephants」と呼びたいと思います。

 小原秀雄氏は、これまで、国際自然保護連合(IUCN)の種の保存委員会副委員長を務めるなど、国際的な野生生物保全の活動に携わってきました。具体的なフィールドは、おもにアフリカで、35年ものあいだ、アフリカに通い続けてきました。「ゾウの道」は野生生物界の指標の「道」だということが、その理由であると述べています。
 
 随所にちりばめられた、具体的なゾウの暮らしぶりや行動の描写や、それに対して著者が感じたことの紹介によって、著者がどのような気持ちで動物たちを見つめてきたかがよくわかります。 年老いたオスのゾウとの出会い、「静寂と平和」と称される、ゾウの群れとの遭遇なども紹介され、その場に自分がまるで居合わせたような気分になります。

 また、ゾウの体の特徴としくみ、進化と分類の話、アフリカの動物層のなりたちなど、動物としてのゾウを巡るほとんどすべての分野を網羅していることはもちろん、さらに、ゾウと人間の関係をどう作り上げていくべきなのか、象牙利用やその取引とゾウの未来などを例にしながら、とるべき人間の道を考えさせるなど、多領域にわたるたくさんの話題を提供してくれます。
 とくに、たくさんの図表を入れながら、たとえばゾウの歯の抜け替わりの仕組みやゾウの社会の典型的な構造をわかりやすく示してくれ、「小さい本」ではありますが、動物解説などのとても力強い味方ともなってくれます。
 アフリカの代表的なほ乳類相のも図入りで紹介されており、いろいろな方面で役立ちそうです。

 特に印象深かったのは、草食動物であるゾウが、単に草や木を食べているということだけでなく、その食性が、地域の生態系を維持しつくりあげる上で役立っているという事実です。 木をなぎ倒し、枝を折り、、、、ということは、森林の破壊ではなくて、むしろ太陽の光を林床に届け、更新に役立っているわけです。また、ゾウの歩いた道は他のけものたちが利用できるわけです。
 他の生物との「命のつながり」を具体的に示し、ゾウがいるからこそなりたつ自然というものを知ることができます。

 本書を読むにつけ、著者が長年に渡って続けてきた「野生生物保全」の活動が、ゾウへの限りない愛情と人間への信頼に基づいていることを知り、「ゾウの道」を理解して私たちの歩むべき「道」を探らなければと、改めて思います。
 野生生物を本当に理解し愛するということはどういうことか、真剣に考えてみたいと思います。
 


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                                            2003.7.11
             
             ローレンツを読もうよ ! 2

    ソロモンの指輪 1960年初版 1963年に翻訳される。
            1998年 早川書房より文庫版として再版 

   文明化した八つの大罪 1973年初版 思索社

「ソロモンの指輪」という題名は、ソロモン王は特別な指輪をはめると様々な動物たちと自由に語ることができた」という旧約聖書のある記述をヒントにしているらしい(訳者の日高氏による)。まあ、ざんねんなことに私はこの聖書の記述を知らないのでそれを信じるしかないが、どうも、この聖書の記述自体は「ソロモン王は様々な動物について『語った』」というのが本当だったらしい。それはあまりこれからここに述べることと直接関係ないのだが、言わせていただければ、もし指輪の魔法の力を借りなくては動物たちと語ることができないなら、ドリトル先生の足元にも及ばないということになる。井伏鱒二の訳による「ドリトル先生」シリーズは、今でも私の愛する本のひとつだ。小学生の頃でさえ、小気味の良いこの井伏リズムによって、「訳というのは芸術なんだ」とどきどきしたことを思い出す。
そうそう、ローレンツにもどらなければ、、、、。

 ローレンツの著作はたくさんあるが、ここではこの「ソロモンの指輪」と「文明化した8つの大罪」に紹介されたレクスプレス社との対話を中心に、人間と動物の関係について彼の叙述にふれながら、現在の自分の考えと関連させて思うことを述べてみたいと思う。
 レクスプレス社との対話において、ローレンツは、たとえばチンパンジーには考える能力の萌芽がみられ、そうした能力は個々に動物にも存在していると言っている。しかし、「(その場での具体的な)対象物の存在に依存したものである」ということを強調し、つまり、人間だけが「知識の累積」を可能にする機能を持った存在だと述べている。
 ローレンツは、豊かな愛情と知的な好奇心によって、「ソロモンの指輪」に紹介されている各種の動物たちの行動をいわば彼らの世界の中に入り込んで観察し記述してるが、私自身が動物園という職場にいるためだろうか、とくに「ソロモンの指輪」の第9章「動物たちをあわれむ」が妙に好きだ。というよりいつもそれがひっかかっている。一貫して、「精神的に活発な動物たち」が囚われの身でいつづけることに残虐さを感じている。内的な運動衝動を持つ動物たちなら、狭さは牢獄とローレンツにうつる。本当のつらさを感じ取っているのである。センチメンタルな同情ではなく、真実、つらい気分を味わっている動物の気分そのものを理解するべきだと私も思う。そのことに関連して、「ソロモンの指輪」の中の6章「ソロモンの指輪」では、人間がいかに相互理解のために、互いの気分を知るための表現読みとり術を退化させてしまったかについて述べている。動物の気分理解ができない理由も、表現読みとり術をいつのまにか捨て去ってしまったからなのだろうと私も思う。ローレンツによれば、その退化は実は『言語』のなせる技というのが結論である。多くの動物たちが、おどろくほど的確に仲間たちの微妙な気分を理解できるが、人間は「こどば」のやりとりでそれを代用する。もう、微妙さをまなで理解する必要も無いというわけだ。
 だがしかし、この「ことば」使用による言語は、実は、知識の累積を助けてきた道具でもある。生理的な気分の直接的伝達のための器官が退化し、かわりに、言語という道具の発明によって社会にさまざまな知的活動の累積があるおかげで、私たちは人間として生活できているのである。
 ローレンツは、一方で動物の一員としての「互いの気分理解」能力の喪失を、他方で、文化という知的活動の累積がその能力を失わせてきた「言語」によってこそなりたってきたと述べているのである。同時に、動物の相互理解は、意図的に理解させたいという意識が働くわけではないとも言っている。内的衝動による表現と、それを信号として受け取って行動選択をするのは、遺伝的に組み込まれた行動様式のひとつであって、そうせざるを得ない衝動がおきるからなのだという。人間は、意図を持ってことばを発し、そのことによってある「結果」を期待する。
 ここには、人間が「言語」をどう使用していくか、知的累積の使いこなしを考慮すべきというローレンツの隠れた意図をみる思いである。
 そのあたりのことは、1973年に書かれた「鏡の背面」そして1983年の「人間性の解体」に詳しい。 
 


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