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| 生き物に「ふれる」ということ |
はじめに 生き物とのふれあいを考えるとき、大切なことは、「ああ、その生き物も自分もお互い生きているんだなあ」と実感するその瞬間を大事にすることだろうと思う。 では、実感する瞬間とはどんなときなのだろう? ひとりひとり違うかもしれないが、ひそやかに息づく新芽に気づくとき、あるいは、セミの抜けがらをみつけ、思わず拾いあげて背中の小さな割れ目から抜け出たであろう「そのセミ」のことを思うとき、、、、せわしげに鳴く雛に何度も餌を運び込んでくる親鳥の姿をみたとき、、、、そういう瞬間をいとおしく大事に思えるような経験は、だれにもあるだろう。そして、大事に思う「自分」がそこにいる、同じように大事に感じる「他人」もいる、その感覚が実感をより高めるに違いない。 実際、私たちの暮らしのまわりには、私たちが生命を感じ取らせてくれる瞬間があふれている。たしかに、身の回りから豊かな自然がなくなってきているのは残念ながら事実だが、そんな中でも生き物たちは一生懸命知恵を働かせ、しぶとく自分たち流の暮らしを送っている。そういう「したたかさ」や「強さ」を感じ取ることも、実感の瞬間なのだろう。 子どもと動物のあいだのふれあいの問題を考えるとき、こうした「自然界の生き物の存在に気づいたり、その暮らしぶりを知る、そして大事に思える大人自身の『実感』をまず問うこと」が重要なのだと思う。子どもたちの感情や表現を受けとめるには、まず大人自身の「実感」が問われなければならない。 動物園の動物とのふれあいを考える視点 ところで、動物園の動物は、人間に飼われている・自分の生活を人間にゆだねているという意味で、こうした野外の自然の中の生き物とはまったく違う。しかし、私たちの「実感」つまり、命との出会いの瞬間には多くの共通点がある。 しばしば、動物園の動物は「自然の生き物ではないので、ほんとうのふれあいはないのでは?」という意見を聞くことがある。たしかに、野生に生きる生き物たちではないという意味では、自然の生き物ではない。また、たとえ由来が野生でも、生活すべてを人間の手にゆだねざるをえないという点では「野生」はそこにない。しかし、ここで大事にしたいのは、生きている動物たちの「生」をうけとめる私たち自身の感じ方の問題である。たとえ、人間のために飼われていても、「生きている」ことを私たちに感じさせてくれるすばらしい存在であることにはかわりはないのである。彼らの強さやしたたかさを直接感じ、生きる知恵をたとえ人工的な環境でも発揮している動物たち、彼らなりの流儀で生活している状況をよく知ることで、ますます、その実感は愛情や共感を伴うものへと高まるものである。 つまり、動物園という特殊な環境で動物に出会うことも、家や学校、通学路や散歩道で生き物たちに出会うことも、出会う状況はそれぞれ異なるものの、「生」を実感するひとりひとりの受けとめ方が大事なのだというだ。そして、愛情や共感をそれとは自覚せずに感じているはずの子どもたちの行動や表現に、その存在や芽を見てとる大人の感性はもっと大事だということになるだろう。 子どもの行動から見てとれること 私は長い間子ども動物園というところで動物と子どもたちの間の橋渡しの仕事を続けてきたが、子どもたちは年齢に応じてさまざまな行動をみせてくれる。1,2歳であれば興味のある動物の目をつつこうとする(指先が自分の興味の表れを示し、それを周囲の大人にわかってほしいということ)。もう少し年齢が上がれば、ほっぺたを寄せたりぐりぐりなでてみる(自分が気に入っていることをそうして表現する)などがみられ、小学1年生くらいになると、動物を毛を引っぱってみたり(反応を確かめたい気持ち)、餌を食べてもらおうと口の場所をさがす(何かしてあげたくてうずうずしている)などが表れる。3,4年生あたりになると、からだそのものに興味がわいてきて、フンをするところをじーっと見たり、鳴き声のまねをして反応をたしかめたりと、ふれるだけでなく「見る対象」としても興味がわいてくる。 このようないろいろな働きかけをしている姿に出会うたびに、子どもたちが自分の意志でどうにかしてその動物に関わろうとしているんだなあということをほほえましく思う。もちろん、動物にとってあまりに迷惑な接し方の場合や、明らかに危険な場合は、その理由を言って制することもある。だがそうした制止は、動物の種類の選択によってかなり少なくすることも可能である。子ども動物園のような直接動物と触れあうことのできる場所には、必ずと言ってもよいほどヤギが飼われているが、ヤギほど好奇心旺盛で人間好きな動物もいないだろう。少し毛をひっぱられても大丈夫だし、ヒツジのように後ろからおそってくることもない。イヌ以外で最初に家畜化された動物だった理由がこのあたりにもあるのだろう。 子どもの内面を理解する手だてとしての動物 さて、子どもの気持ちは、実際、動物との接し方によく表れるので、動物の存在の大きさには計り知れないものがある。つまり、その動物がいるおかげで、子どもの内面を少し理解できるようになるのである。この、「動物たち・生き物たちが、その子の内面を理解する手助けになる」という点は、教育現場ではおそらく重要な意味を持つだろう。 動物へのことばかけ、お世話の仕方、詩、うた、絵画や粘土細工、いろいろな表現手段で、その動物の「生」をどう受けとめているかがわかる。その受けとめ方を知ることは、その子の理解の手助けとなるのだ。 子ども動物園では、たくさんの子どもたちが学校に帰った後に手紙や作文、絵などを送ってくれるのだが、そのひとつひとつに込められた動物との出会いの瞬間の意味の大きさを私たちは知ることができる。また、何年かして、その過去の記録をご覧になった先生は、その子たちが動物たちをどのように感じていたのかを知り、現在の子どもの理解を深めるのに役立ったとおっしゃっることもある。 印象深い出会いを創る工夫 しかし、単に動物がいて子どもがいて、、、というだけでは印象深い「生」との出会いは生まれにくいものである。動物の存在そのものはそれだけで魅力的ではあるが、出会いを演出するための手だてがあってこそ、その魅力は増すこととなる。 では、どのような工夫が考えられるのだろうか。実際の工夫から2つほど紹介しよう。 ひとつは、個体情報を整えることである。「ヤギ」一般がそこに存在するのではなく、○○という名前を持ったヤギがいる、それぞれ個体の生活史をもった「一個の生命」がそこにある、ということを重視することはたいせつだ。学校の遠足で、自分の名前と同じ名をもった動物を発見し、大好きになり、その動物を見にまた家族で動物園を訪れる子どももいる。あるいは、自分の誕生日と同じ動物がいるのを知って、その個体をさがして大好きになるということもある。 もうひとつは、その種類に特有の行動があることを知り、その役割を理解するための手だてである。たとえば、砂あびをしているニワトリがいると、最初にそれを発見した子どもは、ニワトリが苦しがっていると錯覚してしまう場合がある。たしかに、羽を広げ、体をくねらせたりのけぞったりしている様子は、その子にとって「ニワトリに何か異変が起きている」と映るにちがいない。 だが、砂浴びということを知らない子どもにとっては、それは苦しがっているのかもしれない、どうにかしてあげなくちゃ、、、という気持ちにさせる行動だったわけであり、その気持ちには偽りはない。こんな場面に出会ったとき、「それは砂浴びです、苦しんでいるのではありませんよ」と結論を最初に述べてしまっては、「そうか」で終わってしまいその後の発展には結びつきにくい。 そんなときは、どうして苦しんでいると思うのかをまず問うのがよいだろう。いろいろな理由が出てくるので、それを聞いてあげるのが必要だ。 「首を背中のほうに向けてぎゅーっとかたむけているから、、。」という答えであれば、「そうだね、人間がそんなことをするときは、どこか痛いとか苦しいとかいうときだよね。」と言ってあげよう。「だからそう思うんだね」とフォローした後で、よくニワトリを見る時間を作ってみると、首をあちこち回して器用に羽づくろいしている様子が必ず見られる。おなか、胸、羽の上や下、背中、ずいぶんと首は届くもので、見ていると本当によく動かしているのがわかる。 そんなニワトリの様子を見ながら、「人間はかゆいときは何で掻く?」などと話を進めていくと、だんだん、その子なりに気がついていく。時には、ニワトリの羽に着いているちいさな虫をルーペなどで捜させるとよいかもしれない。羽づくろいをしながら、小さな虫やゴミをとっていること、砂をあびるときに、翼を広げ、羽を根元から立たせるようにし、身震いしながら砂を体に器用にかけていること、首をあちこち曲げてつついていることなどが時間をかければかけるほどわかっていく。それ見ているうちに、「砂あび」という行動があることや、それは苦しみの表れではないこと、ときどきそれをする必要があるらしいことなどがわかっていく。 こうして、その種特有の行動があり、それは人間の行動でいえば何にあたるのかを大人といっしょに考えることにより、動物のことを少しずつわかってあげられるのだ。 また、なわばりを持ち単独で暮らす動物と、群れで暮らし子育てを緩やかな共同体で行う動物がいるのを知ることも、大切な動物の行動理解の手だてとなる。カイウサギやゴールデンハムスターが前者の代表的な種類と言える。テンジクネズミは後者に含まれる。 このように、生き物とのつきあいの質の深まりは、ある程度時間をかけることにかかってくる。行動の意味を知るためには、どうしても一定の時間を費やすこと、しかも、その動物のくらしの時間に合わせた観察をしなくてはならない。限られた学校の授業時間ではそれを行っていくのはたいへんだろう。それでも、興味を示す子どもがいれば、その興味に沿えるだけの「時間」をたっぷりとってあげることがやはり大事だと思われる。また、そもそもその動物がどういう暮らしをする生き物なのかについての知識も大人の側にある程度必要となる。「よき飼育法」とは、結局のところ、その動物がなぜそのような生活要求を持つのかを深く理解することなのだから。 思春期の入り口 小学校高学年 最後に、5,6年生のいわば「思春期の入り口」にさしかかった子どもたちの心的発達と生き物とのふれあいの問題について述べておこう。 生き物の体の仕組みを知り、人間との共通性を知ると、自分が生物界の一員であることを理解できるようになる。また同時に、生き物の恩恵を知り、自分の命が他の命の犠牲によって成り立っているということも知ることになる。ちょうど、自分を見つめ始めるこの時期には、それまでのふれあいとは異なる要素が含まれる可能性が生まれる。 つまり、生きていること自体を問い始めると、生き物を遠ざけたくなる衝動が起きることもあるということだ。男女差や個人差もあり、すべてがそうとは言えないが、自分の中に「生き物性」を自覚することで、逆にうとましく思うようなこともありうる。それは、極端には動物嫌いや肉が食べられなくなるという現象になることもある。成長の節目にあたり、低学年の頃とはまったく異なる要素が含まれていくことを大人は理解しておくことも大事ではないかと思い、この点にふれた。小学校における「生き物」の教材化を考えていく上で、人間が生物の一員であるといことを、一方ではグローバルな環境教育としてとりいれつつも、こうした心的発達課題、すなわち、利用しながら生きていかざるを得ない生き物である「人間」の矛盾に、高学年ではすでに対峙し始めている場合があることを、大人としては念頭に置いておきたい。 おわりに 本稿を書くにあたり、国立教育研究所の鳩貝太郎先生、お茶の水女子大学教授の無籐隆先生にお世話になりました。また、千葉市動物公園子ども動物園の職員の方のご意見、子ども動物園勉強会のみなさまとの交流がとても参考になりました。ここに感謝いたします。 |
| 教職研修総合特集(教育開発研究所) 読本シリーズNo.157 (p.206-211)より 出版社のご厚意により紹介させていただきました |
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