動物園における子どもを対象とした体験的学習




 はじめに 動物園教育への期待とひろがり
     
 2000年5月末に長野で「環境教育学会」が開催された。「動物園を環境教育の場としてどう利用できるだろうか、あるいはその可能性はあるだろうか。」ということを、地域や学校で環境教育の実践に携わる人びととともに考えてみたい、、、そんな思いをもって、参加した。
 そこでは、まだ「動物園」は、多くの「環境教育に関心を持つ人」のあいだでは異質な存在であるという事を知らされた。また、「そもそも動物園で教育ができるのか? 」という環境教育実践以前の疑問を持つ方が多いということも知った。たしかに、本当に学校の先生方が実践がされているような「教育」が行われているのかどうか、それは厳しい問いである。しかし、、、と自問する。少なくとも生きた動物たちを展示しながら、もし何の教育的意図も持たずに動物園が存在するのであれば、動物園にその先の未来はない。「担えるのか?」ではなく、「どうやって担うべきか?」を問うべきなのだ。
 同時に、動物園で教育的な意図を持った活動に従事する者、つまり日々の「教育的」実践の場にたずさわる立場からは、動物園を単に「遠足」のようなかたちで利用するだけではない学校も、最近は少しづつ増えてきている、というのが実感である。幾度となく、ファックスや電話、あるいは窓口で、学校の先生方と動物園でどのような活動が可能なのか、何をさせてあげたいのか、具体的な過ごし方についてアドバイスするケースが目立つようになってきている。

そもそも日本の動物園は、博物館法でいう「博物館相当施設」「博物館類似施設」であるとはいえ、残念ながらすべての動物園が社会教育施設としての条件を整えているとは言い難い。それは、日本の動物園の多くが観光施設や整備公園として出発し、教育の場として機能を果たすという使命感が薄かった事による。学校などからの利用相談に応じられる窓口を独自に持つような動物園は少ない。独立した教育部門のスタッフを持つ動物園は数えるほどしかない。欧米の動物園の多くが、たとえ私設であっても、その地域の教育施設としてのネットワークに加わり、さまざまな教育的活動を大切な事業として成り立たせていこうとしている姿勢とは対照的である。
 しかしながら、飼育下の野生動物研究・繁殖技術向上という技術面、研究面では多くの成果がみられ、ここ20年あまりは内外の動物園どうしの協力により、野生からの動物収集をしないで長期間にわたる展示動物確保(交換・飼育下繁殖の科学的管理など)ができるような計画を実践してきている。地域の野生動物の傷病鳥獣の保護や飼育繁殖研究に関わったり、飼育個体の野生復帰にとりくむ動物園も増えてきている。また、従来の檻式展示法から無柵方式・サファリ形式・生息地再現型といった展示法の改良や、とくに最近では展示動物の立場・福祉を配慮した飼育方法の開発という、来園者の立場と飼育動物の立場双方を考慮した展示法に着手する動物園がみられ始めた。さらに、欧米の博物館に見られるような、体験型展示(ハンズオン展示)を取り入れた、大人も子どもも楽しめる展示への工夫がなされているところも多い。地方では、地域の自然そのものを取りこんだ「郷土自然博物館」的性格への脱皮をはかる動物園も見られ始めている。つまり、飼育法・展示法の技術革新が進み、現在は、来園者の立場を尊重し地域社会に貢献するという目標に向かいつつあると言える。まさに、動物展示とあわせて、具体的な教育的活動の創造の時期に入ったのである。
 ところで、「教育的機能」とは、それぞれの動物園が持つ「展示方針」や「展示意図」も含みつつ、より具体的には「だれに」向けた「どのような」教育的活動が「なぜ」展開されているかという、ひとつひとつの学習プログラムの対象・内容・目的を吟味することで浮き彫りになるだろう。動物園側からの働きかけと来園者側からの「知りたいこと」「感じたいこと」との相互作用の中に、動物園教育は存在すると考える。

 そこで、いくつかのプログラムを具体的に紹介し、その内容や方法にみる「教育的意図」を子ども達の受けとめ方の例をふくめて考察してみたいと思う。
 
1 「子ども動物園」における小学生向け体験学習プログラム

 千葉市の子ども動物園では、ヤギやヒツジが放し飼いになっている広場に子ども達が自由に出入りでいる「コンタクトエリア」や、間近でウマやウシ・ロバ・ブタを見ることができる 「子ども牧場」、カイウサギやモルモット、ハツカネズミなどに触れたり餌をあげることができる「小動物コーナー」等で、 幼稚園や保育園・小学校・障害児の方の団体来園者を対象とした体験学活動を行っている。
 その中でも、小学1,2年生を対象とした「生活科実習」と「動物体験学習」を紹介してみよう。これは、「直接動物に触れたい」という子どもたちの要望にこたえ、しかも、単に「触れる」だけではなく「動物たちの生活やいのち」を少しでも考えてもらえるような「身近な動物の飼育体験 」と「この子ども動物園でなければできない体験的学習」を中心に組み立てられたものである。
 この取り組みの背景には、すでに小学校でのウサギやニワトリなどの小動物飼育は長い間続けられてきたものの、飼育活動に子どもたちをどのように関わらせていけばよいか、動物と触れ合うということはどういうことか、という先生方の問題意識の深まりがあった。

   1−1 少しだけ飼育係になろう
 
 このプログラムは、家畜や家禽・水禽などの世話を、子ども動物園の飼育係と一緒におこなうというものである。世話を通じて動物達の世界のおもしろさに接近させたいというねらいがあった。例えば、ウサギやモルモットであれば、それぞれの個体の特徴や性格に応じた飼育方法、「世話」とは具体的に何をしてあげることか、等、日常的な飼育内容を直接の担当飼育係と一緒に体験する。
 子ども達は、人間の体との類似点に驚く。例えば、足の指の数は5本であり、たとえ5本なくてもその痕跡を見つけて「同じだ!」と。また、それぞれの個体の個性を鋭く見抜ける。とくに、自分が手をかけてあげた個体の名前や特徴をよく覚えている。体験学習後に、家族で子ども動物園を訪れたときにも、「あのときの○○ちゃんはどこにいますか?」と聞いてくる。「ぼくのおにいちゃんも2年生の時に△△くんの世話をしたんだよ」と誇らしげに語ってくれる。
 また、学校で自分たちや上級生が育てた作物を持ってきてくれて、ヤギの餌にするという体験をすると、学校生活と動物園での活動が「ひとつのこと」として思え、自分たちの毎日の活動の拡がりや連関性を実感できる。

 自分より大きな動物(ウマなど)を世話したときは、自分が体を使った分、非常に強い記憶になる。どのくらい、力を入れて毛の手入れをしてあげたか、糞の重さはどの位だったか、馬房にわらを敷くとき、わらの一束がどんなに重かったかを身をもって体験すると、
わらが必要だということが鮮明に思い出される。「ウマにブラシをかけてあげているとき、ウマがきもちよさそうでした。目を細めていました」「たくさん、白い粉が体から出ていました。力を入れてこすっても、ウマは全然いたくないんですか?」「わらをあんなにたくさん敷いて、ふかふかのベットみたいでした。ああいうお部屋で毎日寝るんですね」例えば、こんな感想を述べている。

    1−2 特別な「世話」を要する動物の世話体験

 動物園には、老齢化して立ち上がるのもやっとだったり、怪我をしていたり、目が白濁してあまり目の見えない動物もいる。子ども動物園の一角では、そうした動物を飼育している場所があり、彼らには特別な世話が必要である。そんなところでの「世話体験」は、強く印象に残るようである。お尻を洗ってあげたり、薬を塗ってあげたり、爪を切ってあげたり、ブラッシングをしてあげたり、その動物が自力でできないことを手伝うのだ。こうした動物の多くは、実際には「ふれあい」動物として活躍したウサギやモルモットなどであるが、「前はお客さんといっしょにあそんでいたんだよ」などと言ってあげると、「遊んでくれていてありがとう」などと、優しい言葉をかけてくれる。数週間後にもらう手紙にも「あのときの○○ちゃんは、元気ですか?」「しっぽが少し曲がっていたけど、大丈夫ですか?」などと書いてあり、気遣っている様子がよくわかる。

 世話する動物を「今、そこに生きている<個体>として認識する」ことを大事にしている。生き物とはそういうものではないだろうか。確かに、動物はたとえばウサギやヒツジ、という「種」でくくることができる。だが、ウサギ一般でもなく、ヒツジ一般でもない、「ウサギという動物の中の、いま、生活している○○」を大事にする、そういうコンセプトがこの子ども動物園にはある。そして、具体的な生活を送る「個体としての動物」と、ある時間、「自分がいっしょに過ごした」というその個体と自分との関係の認識が、そしてとくに学校などで来たときには、「だれだれといっしょにその動物と共通した時間を過ごした」という記憶が、本人にはかけがえのない価値をもたらすのではなかろうか。つまり、ある時間の流れの中で、特別な時間を「確かに過ごした」事実と、それを思い起こせること、それはその子どもにとっての「自分の存在の確認」でもあり、深い意味をもつ可能性があるのではないだろうか。

    1−3 動物の行動を見る

 ここに紹介するのは、あらかじめ、エソグラム(行動リスト)をつくり、典型的なその行動の絵を載せたワークシートを用いての「行動観察プログラム」である。1年生ではやや難しいが、2年生になると、動物の行動を見ながら、ワークシートの絵のどれがその行動にあたるのか見分けることがかなりできる。単位時間あたりにそれらの行動がどれだけ見られるかをチェックすることにより、その動物の種に特徴的に見られる「社会行動」や「ロコモーション(移動)」あるいは休息などの頻度を比較できる。もちろん、行動の表れる順序性も工夫次第では見いだすことができる。
 子ども達は、このプログラムで実に集中して観察することができる。対象をよく「見る」ということは、その動物がどんな生き物であるか、を知る第一歩でもある。だいたい15分くらいは誰でも集中できる。「よく見ましょう」では、何をどう見ていいのかわからないが、手がかりとなる「絵入りのチェックシート」はとても使いやすいようだ。子ども達は、続いて観察した行動の意味、すなわち「何をしているところなのか」を知りたがる。エソグラムにしたがって観察した結果を「自分なりに解釈したい」と思うのである。その解釈は、もちろん動物行動学的には「答え」があるが、子ども達同士でのディスカッションを促す。「どうしてそう解釈したか?」までを問うのである。
 目の前で確かに見たこと、それは「事実」である。大事なことは、その事実を見たもの同士で「その事実の解釈」をしあう、ということだ。
 例えば、このフンボルトペンギンで言えば、「顔を斜めにして嘴をつきだして低い姿勢をとる」という行動は、そのあとに、相手をつつこうとしてより嘴を前につきだすので、普通は「威嚇」として解釈される。子ども達は、その行動の順序性を観察すると、「けんかしようとしてる」などと自分の言葉で解釈する。数人でその解釈が一致すると、それぞれ納得する。だが、ペンギンが嘴を上に向けて翼をぱたぱたやる行動は、確かに「見る」ことはできるが、なかなか「なにをしているところか」の一致は見られない。続いて起きる行動にも規則性は見られない。同時に嘴を上にあげて鳴けば、それは自分の場所の宣言(ときには自分の巣穴の主張)だが、声を上げなくても同様な行動はよく見られる。ここでは、いわゆる結論とか正しい答えを知るのではなく、人間以外の動物のさまざまな「しぐさ」を推理するのはなかなか大変だ、という体験が意味を持つ。推理を数人の友達同士でするわけだから、それは楽しい。最大限、自分の過去の経験や知識を動員してなんとか
自分なりの主張をする。そのプロセスが最も大事なのである。その場をこのような「生き物を前にした行動観察プログラム」が用意してくれるのである。生きていなければ、そして間近で見ることができなければ、これはできない。

    1−4 動物の行動を引き出す

 マウス(ハツカネズミ)のために、小さなはしごをつくり、そこに登らせて、どこまでも登ろうとすることを見てもらう。また、バランスをとる尾の働きをみたり、足指でしっかりつかまって、落ちない工夫をしているところを観察したり、手のひらにそっと乗せて、重さや動きを感じてもらう。マウスの「隠れ場」を段ボールやトイレットペーパーの芯などを使ってつくり、そこをどんなふうに利用するかを見てもらう。
マウスは、新しい隠れ場を利用するに際し、まずよくにおいを嗅いで中に入ったり出たり、いろいろ試す。落ち着くと中でじっとしていることが多い。 
 もし、単にケースの中で動き回るマウスをみるだけなら、彼らのたくみな「尾使い」や「ひげ使い」は見ることができない。他の野生動物には施せないようなこのような実験的な取り組みは、動物がマウスであることで可能になるプログラムである。
 手から餌をあげると、採食行動を引き出し、こどもたちは「ネズミは食べるときに餌を手で持って食べます。ゴキブリみたいにすばしっこかったです」や「ハツカネズミに餌を近づけたらネズミが立ちました。すごいと思いました」などと記述してくれる。
 ここに見るように、マウスという種類の動物でなければできないこと、それを検討・吟味して用意することも重要なプログラム作りの要素だと思われる。

    1−5 「見る」ことと「触れる」ことの対比

 春から夏にかけての時期は、カメがもっとも活発に動く。2人で組んで、網で一匹ずつ飼育してある池からすくい、コンテナなどに移して甲羅の模様を観察したり、足の水掻きの様子や泳いでいるときの指の動きなどを観察することとした。体重を測ったり、甲羅の長径や短径をひもで測って、その長さ分を切って紙にはり、学校に持って帰ってから長さを実測してもらう。同じように見えるクサガメでも、一匹ずつ特徴があり、顔の大きさや模様、甲羅の色などの特徴で自分の担当のカメが見分けることができるようになった。秋から冬にかけては、冬眠前の世話として、落ち葉をたくさん集めてきて、それを水で洗って池に入れたり、甲羅をきれいに洗うなどにも取り組んだ。ゾウガメを持ち上げてさわることはできないが、トレーシングペーパーを甲羅に載せて、年輪のような模様を写しとってもらうことも試みた。
 見ているだけだと、カメの重さや力強さ、ツメの鋭さや水掻きの様子など細かいところは「想像する」だけであるが、実際に自分の手や体を使うとそれらは「体にしみこむような記憶」となる。カメの体重比べという作業ひとつをとっても、自分の手に余るような強烈な動き方に、「カメ」のどこかのんびりしたイメージは払拭される。
 「甲羅を手で触ると冷たいと思ってたのに少し暖かかった」「カメはみな同じかなと思ってたけど顔とか目が違っていておもしろかった」「とっても力持ちでした」「ゾウガメの甲羅の模様を紙に書くとき、どんどん動いてしまってむずかしかった」「オスとメスで、甲羅の色が違っていた」こういった具体的な感想が寄せられる。
動物に直接触れる事を含むプログラムの場合、「触れる」ことのみを目的とすると、単に遊びの延長で、「触れただけ」に終わってしまう。しかし、何らかの「世話」とリンクさせたり、新しいことを知るために「触れてみなければならない」ような場面に遭遇すると、それまでの自分の印象やイメージと対比させて、動物たちの本当の姿に迫ろうとする様子が数多く見られるのである。

   1−6 体験学習プログラムの改良
     −−−子ども達と動物園双方で作り上げる意義−−−


 こうした具体的プログラムと子ども達の声との関連をまとめてみよう。
まず、子ども達は既有の知識と実際の体験から得られた知見とを比較している。そのギャップが大きいほど強い印象として残るようである。
 また、動物達と関わる中でそれぞれの個体に名前が付いていることを知り、その自分が世話をした個体名を良く記憶していて、個体名への呼びかけが多く見受けられる。何かを知る対象としての動物というよりは、何某かの感情的交流を含め、時間を共通した相手という印象を持っていると言える。教師への事後アンケート調査では、そうした動物との交流をクラスの仲間とともに共有したという事が、事後学習の励みになっていると報告されている。
 同時に、子ども達から寄せられる声とそれに関連した動物園側の自己評価は、プログラムの改良に欠かせない要素である。プログラムを提供する側としては、自分たちが立案し準備したひとつひとつの活動で、子ども達に伝えたいこと・体験してほしいことがストレートに受けとめられているかどうかが大変気になるが、子ども達はそれぞれ自分のそれまでの知識や経験してきたことを引き出して、このプログラムで体験したことと比較したり納得したり、あるいは驚いたりしていることを動物園側に伝えようとしている。つまり、単に「知識を増やすことができたかどうか」よりも、その子ども自身が自分の知識や経験を吟味し、それを「作文」や「絵日記」にして私たちに伝えてくれようとする姿勢自体が、大いに私たち自身の次のプログラム作りのエネルギーになるのである。それぞれ個性あふれる表現で、自分の最も印象に残ったことや疑問、動物達への愛情をつづってくれ、そのひとつひとつが動物園側にとって新たなプログラムづくりの貴重なヒントとなる。
 例えば、アヒルの嘴を「はじめは固いもの」と思っていたのに(自分の知識)、実際にさわってみると弾力に富み、とくに下の嘴の裏側はゴムのように柔らかいということ(この体験によって得た新たな知識)を知らせてくれた子どもの様子から、嘴をテーマにした「トリ博士になろう」において、泥の中の水生昆虫や藻などもうまくあされるようになっているこの嘴の適応の事実を知ることのできる観察をしてもらう、といったような発展が実際に行われているのである。
 この例はまさに、動物園における学習の発展が子ども達の側と動物園側との相互作用により推し進められることを示している。
教育とは、働きかける側と働きかけられる側とが何か新しい価値の創造に向かって一緒に取り組むというものではかかろうか。
 子ども動物園での体験学習は、生きている動物達の持つ限りない価値を、動物園側と子ども達とで引き出し、動物園の存在そのものの意義をそこからも問い直せるような、そういう大きな役割があると考えている。

2 小・中学校への「楽しい教材」貸し出しサービス

 骨格標本や皮革標本、鳥類の羽毛や卵などの標本を園外に貸し出すサービスはかなり歴史があり、学校からの求めに応じて、貸し出し標本をそろえる動物園も少しづつ増えている(広島市の安佐動物園など)。シマウマなど草食動物、ライオンなど肉食動物の頭骨は、食性と歯のしくみの関連性を知ってもらうには非常に役立つ。
 また、実物標本ではないが、ゾウの糞の実物大を紙風船で作ったもの、ゾウのからだのまわりの長さをロープで示したもの、耳の事物大を紙で作ったもの、などを1セットにして、「発見ポケット・ゾウ」と名付けた手提げ袋に入れて学校に貸し出すなどの楽しいサービスも行われている。ゾウの他にも、シマウマ、キリンといった子ども達になじみの深い動物についての「発見ポケット」も整備されている(東京都の多摩動物公園など)。
 千葉市動物公園でも、遠足の下見に来た学校などに、写真や絵を取り入れた「紙芝居」や鳥の羽、羊の原毛、リスのかじりあとのあるクルミの殻、といった様々な教材類を貸し出している。
 これらの貸し出し教材のメリットのひとつは、学年に応じて、動物園に来たら見たい動物について、いろいろ想像力を働かせてもらい、子ども自身の期待感を高めることにある。もちろん、実物(骨格や羽毛、卵など)を使って、たとえば哺乳類の歯列式の出し方、歯の特徴や下顎のつきかたと食物の種類の関係、羽毛の随の空洞の具合や鳥類の骨の軽さ、などを直接知らせる「教材」でもあるが、低学年の場合は「動物園に行ってみたい、そして○○を見てみたい」という気持ちを沸き起こすのにとても有効である。動物を眺めるのではなく、一生懸命に「見てみよう」というその気持ちの高揚に、こういったグッズが役立つのだ。
 
3 人間と野生動物の比較

 広島市の安佐動物公園では、新しくできたヒヒの展示に、斬新なアイディアを取り入れた。運動場のヒヒたちと直接「綱引き」ができるしくみである。人間が綱を手に取ると、ヒヒたちも綱を引っ張り、人間に勝つと「ごほうび」のレーズンなどがもらえるのだ。もちろん、人間が最初に引いてくれないとこの「ごほうび」にはありつけない。だから、ヒヒたちは人間の姿を見ると「綱引き」の場所にやってくる。
 これはいままでの動物園にはまったくなかった発想だ。意外にもヒヒの牽引力は強く、私も試してみたが、一瞬の力のゆるみを察知して、ぐっと引っ張るので、だいたいが「ヒヒ」の勝ちである。器用な手先と力強い腕を間近に見ることもでき、ヒヒたちの身軽な動きの秘密もよくわかる。
 この企画は文句なくおもしろい。ヒヒの知恵に人間が意外なほどあっさり負けてしまう。たくみな「引き具合」だけでなく、常に人間の挙動を観察しているのだから、ヒヒたちの奥深い観察眼に脱帽だ。「本当に人間は万物の霊長といえるほどに賢いのだろうか?」と思う人も少なくないだろう。ヒヒたちの前に、動物としての人間の無力さも実感できる。
人間がどういう「生き物」であるのかを、他の動物との比較・関連において具体的に捉えることができ、野生動物の優れた能力を感じ取ることもできる。
また、ゾウの牽引力、レイヨウ類のジャンプ力、チーターの俊足ぶりなどを人間の力と比較した展示は多くの動物園で見られる。暗闇でも障害物をよけて飛ぶことができるコウモリのエコーロケーションのしくみや、人間の耳では聞こえない周波数でのコミュニケーション能力を備えたゾウの音声など、人間がいかに限られた世界に生活しているのかを自覚できるような工夫を凝らした展示も少なくない。

4 欧米の動物園における熱心な教育活動

欧米は教育活動に専門のスタッフをおき、現在は「自然の保全」に結びつけた積極的な取り組みをするところが多い。実際にスタッフが生き物を地域に連れ出して、さまざまな活動を展開しているところも増えてきている。しかも、低年齢の子ども達から高校生・大学生、あるいは地域のファミリーまで、実に対象を広くとり、それぞれの求めに応じたプログラムをきめ細かく用意する。たとえば、イギリスのブリストル動物園は、規模はそれほど大きくはないが、4名の専門の教育スタッフと、パートタイムのスタッフ、およびたくさんのボランティアを擁して、毎日数百人の子ども達に対していくつものクラスを受け持つ。「ブッキングデスク」(学校からの予約を受け付ける専用の窓口)はいつも忙しく、予約団体の名がカレンダーに次々と記入される。
 数年前、わたしはそのスタッフのひとり、サイモン氏に会う機会があってこう伺った。「そんなに毎日接していて、疲れたりいやになったり、飽きてしまったりしませんか?」彼は笑ってこういった。
「毎日違う子ども達だ。たしかに用意する内容は同じように見えても、実際には全く違う。なぜなら、子ども達が一人ひとり違うから。」この答えに私はうなった。なるほど、そうなのだ。教育プログラムというのは、プログラムこそ一定のかたちや使う教材に共通性があっても、その時間にスタッフと関わり合うのはたった一度のそのときだけの「プログラム」なのだ。スタッフと子ども達との両者で築きあげていく、双方にとってもたった一度のものなのだ。 


おわりに   体験型の教育プログラムの本質
      ーー「人」の感性を通じた交わりーー


 生き物を介在させた、体験的要素を含む学習の本質とは何だろうか。体験の場を整えることもさることながら、その体験が、場を整える側にも、そして子ども達の側にも「たった一度の」ことだということ、私はそこに大きな意味を見いだす。
 また、クラスの仲間やグループという集団のなかで、お互いの知見や感想を言葉にして交換しあうことは、それぞれの個人の体験を共有しあい、互いの理解も深めあえる。子ども達が同じ時間と空間を動物と人間で共有しあったという体験の意味を将来それぞれに振り返るとき、私たちとしては、つまり動物園側・「体験学習の場の提供」側としては、そこに、私たちの役割を見いだしたいとも思う。そういった「子どもー生きている動物ー動物園」の交流の本質的意義をこれからも分析していきたいものである。
最後に、子ども達と動物園側との「動物を仲立ちとした交流」という視点から問題提起をしておきたい。
 野生のゴリラ研究では第一人者の山極氏がある会合で私の質問「山極さんは、動物園にいるゴリラたちの前で、どのようなことを来園者の方に伝えてみたいですか」に対してこう答えてくれた。「私はアフリカの野生のゴリラのいる場所で、ガイドの仕事を現地の人としているが、その経験を生かし、自分の感性でゴリラたちの行動の説明や自分の考えていることを伝えたい。」
 動物園は確かに野生動物を野生状態で見せているわけではない。家畜も経済動物としての飼育をしているわけではない。すなわち、来園者と動物園側との「動物」をなかだちとした交流の場である。しかし、その交流の目的は様々である。山極さんには山極さんなりの「野生動物の研究でつちかった自分の感性で」というこだわりがあり、私には私の「子ども達にこれを知ってほしいのだ」という願いというこだわりがある。そういったこだわりが交流に持つ役割というもの、それは人々の心の奥深くとの接触の可能性をもつ。生きている動物達はそうした可能性を押し広げてくれるのだ。なぜなら、動物はその個体の生を彼らなりに生きていて、彼らをどう見るかは私たち人間の感性と直接に関係しているからだ。子ども達はその「どう見るか」をたいへん直接的に表現しあう。私たちはそこに深く感動するのである。

 教育とは「伝えたい内容(なにを)」を持つ側が「伝えたい対象(だれに)」にたいしてもつ情熱(なぜ)による不断の営みだとは言えないだろうか。そして、両者の交流の中に新しい価値が生まれていくものなのではないか。伝えたい内容とは、先人たちの知の蓄積の上に自分の知を重ねたものであり、それを未来の社会の担い手たる子ども達に伝えずにいられない、そしてよりよく生きていってほしい、その願いが教育の活動を支えるのではあるまいか。そんな気持ちで、五感を使った「たった一度の体験」を重視した実践に取り組む毎日である。

 最後になるが、本稿は、千葉市動物公園スタッフをはじめ、多摩動物公園解説員のかたがた、広島県安佐動物公園スタッフなど多くの人々のご協力により完成した。情報は、それぞれ公表された内容にそっているが、こころよくそれらを提供していただいた関係者のみなさんに心からお礼申し上げたい。

「理科ではだめだよ」 2000 創風社発行 所収 
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