015/ニューロン
彼女を、一度も抱いたことがない。
僕は彼女を抱く権利を、毎晩のように金で買っていたのに。
*
「こんばんは」
部屋に入ってくると、彼女は艶めいた微笑で僕に言う。客に対する態度だと、わかっていた。それでも、僕は何処か癒されていた。
彼女の本当の名前を、僕は知らない。響奏(ひびきかな)というのはいわゆる源氏名ってやつで、だけど、その名前に縋りつくように。僕は彼女を指名し続けた。
僕は生まれたときから、金に困ったことはない。親から与えられるものであるべき愛情の代わりに、いっしょに過ごす時間の代わりに、有り余るほどの小遣いを貰ってきたからだ。
ベッドに腰掛ける僕の隣に、彼女が座る。薫るのは、あまく眠くなるような香水。
彼女に触れることはない。それは、初めて彼女を指名した夜から、変わらないこと。はじめは不思議そうな顔をしていた彼女も、今では何も言わないで。僕の買った2時間、ただ黙って僕の隣に居る。
それだけで、僕は満足だった。
1時間50分経ったら、僕は立ち上がって、彼女にチップを渡して部屋を出る。地下へ伸びる階段を上がって、見上げた空は、都会のそれとよく似て、ピンクと紺を混ぜたような、偽物くさい本物の空。
「クロ」
大学で、僕はそう呼ばれていた。黒野という苗字と、僕が犬っぽいからだって、年齢がばらばらの同級生たちは言う。
「どうしたよ、暗い顔して」
いつもどおりなんだけどな。思いながら、「そうかな」いつもどおりの返答をする。
「そんなシケた顔してると、女も近寄んないぜ?」
困ってわらう僕に、彼は漫画みたいにわらった。
「な、今日コンパあるんだけど、どうよ? 来ない?」「あ…遠慮しとくよ」「何だよー付き合い悪いなー」
そういいながらも、同級生は離れていく。じゃ、またメールするよ。そう言って、彼にメールを貰ったことは一度しかない。
すぐに建物の影に隠れた彼の後姿を見ながら、僕は気づく。
彼の名前を、知らないこと。
他人に興味が持てなかった。それは、たぶん僕自身が興味を持ってもらえないからだと思う。物心ついたときから、家にはひとりきりだった。父親には月に1度しか会えなくて、母親は僕が学校から帰ってくるころに仕事に出た。
僕は、愛人の子で、俗に言う隠し子だった。”だった”というのは間違っているかもしれない。僕は今も、あの母親から生まれて、あの父親の遺伝子を持っているのだから。
愛想わらいと、柔らかい口調があれば、表面上誰とだって付き合えた。陰で何を言われているのかなんてわからないけれど。それでも、陰は所詮陰でしかない。表が上手く出来てれば、当面の問題はない。
小中高と地元の公立に通った。たぶん12年間同じ学校に通っていた子もかなりの人数いただろうけど、僕は誰ひとりまともに覚えていない。
覚えていなくても生きてこれた。
僕は物忘れをすることは少なかったけれど、物を覚えることもほとんどしなかった。
覚えなくても、生きていけるのだと知ったから。
ぼんやりと歩くことがすきだった。何も考えないで、ただ足の動くままに、一日中歩き回る。もしかしたら、こういうのを徘徊というのかもしれない。
その名前が僕の目に飛び込んできたのは、いつものように意味もなく歩き回っているときだった。
小さな町にはいろんなものが所狭しと詰まっていた。通りをひとつ入れば、歓楽街があり、商店街があった。
地下へと続く階段の入り口に置かれた、安っぽい看板。軽薄な色使い。反射的に、風俗だとわかった。
目に痛い色に彩られた看板のなか。数人の女性の写真と、名前。
僕は迷わずに階段を降りると、彼女を指名した。
彼女は二時間、僕のそばに居た。僕は二時間、彼女の時間を買った。
性的な行為に及ぶことは一度もなかったし、僕も彼女も、しようとしなかった。
僕が何も言わなければ、彼女もまた、何も言わなかった。だから彼女はきっと、僕の年も名前も知らないだろう。
*
ごく稀に、家に帰ると母親が居ることがあった。
そんなときでも、僕は母親と会話らしい会話をすることはない。僕は母親が見えないように振る舞い、母親は僕なんか居ないように振る舞う。
僕は母親から生まれたはずなのに、生れ落ちてしまったら、もう何の関係もないというのか。
大きなマンションの一室に、ほんのときどき、一緒に居るだけ。一緒に居ると言っても、所詮同じ空間に居るに過ぎない。
母親なんて居るも居ないも同じ。
父親を一度も「お父さん」と呼んだことがないのと同じ。呼んではいけないのだと、わかっていた。だから呼ばなかった。僕の周りを通り過ぎていく人たちが家族の話をしていても、僕に家族のことを問うてきても、僕にはこたえるものがなかった。
だから僕には、想像の中だけでの、温かい家族が居る。
そんなもの、何処にもいない、ことばのなかだけの、偽物たち。
暗い玄関の灯りをつけると、母親が倒れていた。
長い髪を床に広げて、無造作に。愛人として生きてきたのだと証明するような豊満な胸は、躰は、微動だにしないで床に寝そべったまま。
「……、」
何かかけるべきことばはないのか。逡巡して、ないことに気づく。
最後に母親とことばを交わしたのは、いつだったのかさえ、覚えていない。
目の前の動かない女は、そもそも母親なのだろうか。僕はこの人形のような人から生まれてきたのだろうか。
足元が崩れて、僕は座り込む。
聴こえるのは、外のざわめきと、僕自身の息遣い。
「……ぁ、」
腕を、指を、伸ばして。
ああ、そうか。そうなんだ。
シナプスがひらめいて、ニューロンが結合する。静かな興奮が、僕をさす。
僕はやっと理解する。動かない。動けない。動かない。僕はこの人から産まれた。この人が、僕を産んだ。
指が、こわばったふくらはぎに触れた。
2月の空気と、怖いくらいに似た、感触がした。
彼女がそばに居た。
そればは彼女の意志ではなく、僕のひとりよがり。彼女は彼女の人生のなかの2時間という時間を、買われただけなのだから。
いつもと同じ、遠くなく近くなく、彼女は居た。
触れようと思えば触れられる。でも、僕は今まで一度も彼女に触れたことはない。
彼女を見ると、彼女もゆっくり僕を見た。自然なアイメイクが、彼女の視線を深くする。
「お願いがあります、」
言うと、彼女の長いまつげが震えた。
「僕を、殺してください」
「……」
「お願いです」
彼女は何も言わない。
「お金ならいくらでも払います。だから、」
「此処は死ぬ場所じゃないわよ」
はじめて聴いた彼女の声は、思ったよりも少し低かった。「それに、残念だわ」
「……」
「あなたと居る時間、すきだったのに」
「……」
僕の顔を、ローアングルから覗き込む。眸は黒く吸い込まれて沈んでいきそう。
「死ぬなら、此処じゃない、私の見ていないところで死んで頂戴」
するりと僕と間合いを取った彼女から、母親と似たにおいがした。無意識に掴んだ彼女の肩は、やけどしそうなほど、温かかった。
彼女を押し倒す。母親と同じように、髪の毛がシーツの上に無造作に広がる。
「どうして、」「……」「どうして僕をおいていくんだ」
母親なんか居ない。父親を「お父さん」と呼んではいけないのと同じ。
そこに居るけれど、母親なんて存在ははじめからいなかった。
なのにどうして。
母親だったものは、今もまだ玄関に横たわっているだろう。
母親だったもの。
僕を産んだ人。僕が産まれたのは、母親が居たからなのに。
彼女の指が、そっと僕の頬を撫でる。
電気信号が脳の中に広がっていく。
閃きと煌きが次々と脳内を走っていく。
彼女のくびに手をかける。簡単に折れてしまいそうに、細く、温かかった。
「おいていかないで、」
おいていくなら、はじめから、僕なんか産まなきゃよかったのに。
そこに居るだけで、よかったのに。母親らしいことなんて何ひとつ望まなかったのに。
彼女の指が僕の髪をすいて、引き寄せる。躰すべてが温かい。羊水のなかというのは、こういうものなのだろうか。
「おいていかないで…」
呟く僕に、彼女は最後まで何も言わなかった。
(2005/12.27 3217文字)
ずっと書きかけだったものをこっちに転用しました。
本筋はちゃんとあるんだけど上手くかけないまま。
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