046/名前
雨が降っていた。
「あんた、ずぶ濡れね」
傘を差し出して、言う。その子は道端に傘もなしに座り込んでいた。
男の子は濡れた前髪の間から、見上げて、言う。
「…かっこいい?」
まさかそんな台詞がでてくるとは思わなくて、しばし絶句。
「そういえるなら大丈夫だと思うわよ」
「お姉さん、結構きついね」
表情を変えずに、男の子は淡々と言った。
「そう? そんなことはないと思うんだけど」
あたしも、淡々と、返してやる。
「きついよ。普通はそこで、可哀想、とか思うもんだよ」
「……あんた絶対大丈夫だわ」
何と言うのだろうか、自分が綺麗だと知っている子ほど図太いものだ。
「ねえ、拾ってあげようか?」
「………」
男の子はじっとあたしを見上げる。やがて、消え入りそうな声で言った。「どうして?」
「『可哀想』だから」
言うと、男の子は少し驚いたように、わらった。
「ねえ、名前、何ていうの?」
「なまえ?」
まるで初めて聞いた外国語のように、男の子は復唱した。
「そう、名前。あたしはサイジョウカナコっていうの。あんたは?」
「………。お姉さんの好きに呼んで良いよ」
その瞳は、何処か淋しそうに見えた。
「どうして? 名前くらいあるでしょ?」
男の子は首を振った。「俺、名前、ないよ」
「まさか、」
思わず笑ってしまう。名前がない? そんなわけないじゃない。
「じゃあ、『雨』って呼ぶよ?」
「どうして?」
「あんたと出会った今が、雨だから」
「……じゃあ、それで良いよ」
反論されなかった。安易だね、とか、言うかと思ったのに。
「雨」
呼んだら、男の子は瞳をこちらに向けた。首をかしげる。「何?」
あたしは何だか、笑ってしまう。
「別に。なんでもない。―――行こ?」
手を差し出すと、彼はそっと握り返してきた。雨と同じ、冷たい掌。
引っ張り上げると、思ったよりずっと軽かった。きっとあたしより軽いに違いない。
「雨、」
呼んだら、視線を感じた。
今は『雨』って呼ぶけど、いつかはちゃんと、名前、教えて欲しいな。そんな風に思ったけれど、言わなかった。雨の掌は、すぐにあたしの掌の体温と同じになる。
名前があるならきっと、自分でいつか、そういう日がくるだろうから。
もしかしたら、彼には本当に名前がないのかもしれない。でも、それでも。
いつか。
(2003/08.10 917文字)
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