あわゆき


 壊す勇気が欲しかった。



   @


 新聞を開くと未成年の起こした事件が目に入る。
 メディアのなかで、大人たちは彼らのことについて何も知らないくせにわかったような口ぶりで難しい単語を並べたてて誤魔化している。
 僕にだって、彼らが何を考えているか――何を考えていたのか――なんてわからない。
 でも、その代わり、僕は大人たちのように、根拠もないようなことを言ったりしない。だって僕は本当のことが知りたいから。
 彼らが何を思って”犯罪”を起こすのか。
 彼らが何を思って”犯罪”を起こしたのか。
 知りたい、そう思うと同時に、彼らを酷く羨ましく感じる。
 僕は日常を完全に壊す勇気なんかなかった。日常どころか、自分さえ、感情さえ、壊す勇気なんか持てなかった。
 キレることの出来る彼らが、僕はとても羨ましい。


     *


 とろとろ、淵から引き上げられた先の、現実には。
 もうはやなんの希望さえ、期待さえ、抱いていない。
 薄暗い部屋。アナログ時計はまだ右半分を指していて。
「…、2時」
 呟いて、眠りに着いたのは何時だったか記憶をたどる。起き上がろうかと思ったが、躰が鉛のように重くて、1秒と思考しないうちに諦めた。
 3月16日。
 出席すらしなかった高校の卒業式から、15日が経った。いい加減卒業証書をもらいに行かないといけない。私立なのに、卒業させてくれてありがとう。3年になってから、あんまり学校、行ってないけど。
 木村純が登校拒否を始めたのは、高校2年の冬だった。
 何がどういう要因でそうなったのか、彼女自身よく把握出来ていない。ただ、行きたくなくなった。それだけ。
 体調を崩した秋ごろから、躰が重くて眠れなくなった。精神疲労はぐったりするほどなのに、躰は眠ることを拒否した。それとほぼ同時に、食べることも嫌になった。自分のなかに何かが侵入することに、尋常ではない嫌悪を感じた。飲み込んだ途端、躰のなかで腐って腐臭を放ちそうで。
 そうしたら後は、転がり堕ちるだけ。
 底まで落ちたら這い上がれるかな―――人生そんなに甘くないヨ。
 ぞわぞわざわざわ、躰のなかから、”何か”が出たいと叫んで暴れている。
 出したいのは、純だって同じ考えなのに、出す方法がわからないし、”何か”は、出たい出たいばっかりで、どうやったら出て行けるのか教えてくれない。
 ざわざわすると、それはやがて不安となり、異常な方法で放出される。
 何処が限界なのか、純にはわからない。自分の躰のはずなのに。
 無理やり寝返りを打って、薄い壁を拳で一回殴った。殴りつけた拳は、そのまま引っ込める力もなく、ずるずる、ずり落ちて毛布の上に落ちた。
「何か御用かな、」
 ノックもなく部屋の扉が開いて、暖色のひかりが差し込んだ。純は腕でひかりをさえぎる。ひかりのせいで、部屋の闇はいっそう濃さを増す。「ノックしなよ」小さく抗議した。「なにそれ、それがこんな時間に呼び出したヒトのいうこと?」
 挑戦的な言い方で。弟の誠は扉を閉めた。空間に、再び濃度の高い闇が落ちる。一拍置いてから、誠が言った。「また”発作”?」
 “何か”が暴れだすときを、ふたりの間では”発作”と表現している。
 頷いた純に、誠は何も言わずにベッドの端に座ると、純の額を撫でた。「相変わらず乾燥肌だね」「うるさいよ」「減らず口がでるなら安心」
 急速に闇に慣れていく視界。姉弟なのに全然似ていない誠のにやり、わらった顔が浮かび上がるように。
「誠、」「何」「おねえちゃんって呼んでみてよ」「なんでだよ気持ち悪いな」「いいじゃん、減るもんじゃないし」「減るよ俺の体力ゲージが」「…省エネ。」「地球に優しいの」
 ことばの応酬。純がはぁ、苦しそうな息をついたのを聞いてか、誠が不意に言った。
「おねえちゃん」
 純の額に触れたままの掌は、3月の気温のなかで、ただひとつの木漏れ日のように。温かい。
「ありがと。ああ、もう僕いつ死んでもいいや」
「…大げさだな純は」
「愛情表現だよ。僕なりの」
 誠にも純の表情が見えているのか、雪融けのように、やさしくわらった。とても12歳とは思えないほどに、大人びた表情で。つられて、純もわらってしまう。
「純さ、みんなの前でもわらえばいいのに」「わらえたら世話ないね」「………」
 額を行き来する誠の指が、髪を撫でて梳いて。
「僕もわかってるよ。これじゃ、駄目だってコト」
「そ、」
 誠の手に、純は自分の手を重ねる。明らかに体温の低い純は、掌にじわりと、やけどのような熱を感じる。
「こんな時間まで起きてるなんて、若いね」
「だって俺まだ中1だもん。中1のころは、純もめちゃくちゃ夜更かししてたじゃん」
「何年前だよ。忘れた」
「人間は忘れないと生きていけない、んだよね」
 誠の手の甲を一回叩くことで返事に代える。「純の口癖だもんね、」
「僕も若かった」
「なんだそりゃ」薬指で額を軽く叩いて。「あ、そうそう。純にいいこと教えてあげるよ」
「…」無言で見上げると、誠は天井を見上げていて。「犯罪。明日の朝刊とかニュースとか、愉しみにしてると良いよ」



 4時を回ったころ、寝る、とヒトコト残して、誠は純の部屋を出た。
 ひとり残った純は、重いまぶたを閉じた。重いからといって、イコール眠いわけではない。躰のパーツのすべてが、活動を拒否しているだけで。
 生きていることは悪いことばかりじゃない。ただ、純には少ししんどいだけで。
 生きていることは良いことだ。ただ、純にはその魅力がイマイチわからないだけで。
 無理やり上体を起こして、カーテンを睨む。春先にはまだ少し足りない日、まだ太陽は地球の反対側の、端っこを漂っている。
 胃の辺りから、得体の知れないものが上がってくるのを感じる。掌で押さえると、どくどく、波打っているのを感じた。
 此処には何がいるのだろうか。
 “何か”、と、形容するのは簡単なことだけど。
 数ヶ月前から、純の躰のなかに住み着いて。何をしているのだろうか。
 吐くものもないのに、吐きたいと感じる。何を吐くというの?
 叫びたい。声と一緒に出て行ってくれない?
 壊してしまいたい。世界とか日常とか、そんなたいそうなスケールは要らないから。せめて、自分自身だけでも。純自身だけでいい。
 ばらばらに、粉々に、壊れてしまえばいいのに。
 壊し方がわからなくて、壊す勇気もなくて、壊すのが怖い。
 結局何も出来ないままに、純は惰性で毎日を過ごすしかない。
 壊せないから、ただ、正常な部分を残したまま。


     *


『H県紅灯市に住む、私立高校に通う少年Aが、自身の父親を殴って重傷を負わせた事件が、15日未明起こった。警察は少年を補導。事件の詳細を調べている。
―――地方紙社会面より一部抜粋』

 なるほどね。
 新聞を広げて、純は声に出さずに呟いた。誠がいっていたのは、間違いなくこのことだろう。テレビのローカルニュースでも同じものを扱っている。センセーショナル、そんなことばさえ、死語じゃないのかといいたくなるような現代のこの国で。
 同じ市に住んで、同じ高校に通っている”少年A”が、父親を殴って、重傷を負わせたという事件。
 開いた新聞にも、同じ記事が、テレビ欄のすぐ裏に、割と大きめに報じられている。
 小学生が悪口を言われたからといって同級生を殺すような今のご時勢、高校生の男子が父親に重傷を負わせるなんてこと、別段センセーショナルでもショッキングでもない。澱んだ世間に墨汁が一滴落ちたところで、結局は澱んだまま。
 何も変わらない。
 人々も、何も変えようとしない。
 少年法の改正が繰り返されて、適応年齢がどんどん下がって。そのうちコドモだとかオトナだとか、そんな境すらなくなるのではないだろうか。犯罪を犯したものは犯罪者。一律。それでいいんじゃないかと、純は思う。
 コメンテーターの顔を、凝視しながら。思う。
 あなたたちに何がわかる?
 父親を殴った少年。重傷を負わせるほどに。その現場をみたわけでもないだろうに。その少年のことをなにひとつ、生身の人間として知っているわけでもないだろうに。
 怒りでも呆れでもない。
 ただの空っぽな感情が、純のなかを行ったりきたり。
「おはよう、」
 言いながら、隣に座った誠に、純は視線だけ向けた。目の前のテーブルには、4人分の朝食が用意されているが、純はひとつも手をつけないまま、新聞を読みふけっている。父親も母親も、そんな純の態度に、今となってはないも言わない。
 はじめ、両親は純の変化に戸惑いながらも、どうにかしなくてはとあれやこれや行動を起こしていた。しかし、そのどれも、さしたる成果は得られなかった。病院にかかることを嫌がる娘を、なだめてすかして、ようやく学校のスクールカウンセラーのもとに通わせることを承諾させた。
「食べないの、」「うん」
 誠とのごくごく短い会話を終わらせると、純は牛乳をひとくちだけ飲みこんだ。むあっと、吐き気が上がってきたが、口をぬぐって抑え込んだ。眉ひとつ動かさずに。
「ごちそうさま」
 新聞をたたむと、純は食卓を立った。母親が何か言いたそうに純を見たが、何も言わなかった。いつものこと。
 居間への扉を閉めると、みぞおちをさすった。胃がストを起こしている。最高に気持ち悪かった。
 いつからこうなったんだろう、そんなことばが頭を掠めたが、一瞬で振り払った。考えても無駄なことに頭を使うのはもったいない。



「何してんの?」
 食事を終えて戻ってきた誠は、自室に入ると開口一番そう言った。
「…」
 純は誠のパソコンに向き合ったまま、片手を軽く上げて返事に代えた。向き合った、とはいっても、純はパソコンの使い方を知らないので、マウスをぐりぐり、意味もなくポインタを動かしているだけ。
「調べたいことがあるの?」
「うん」
 純の後ろで、クローゼットからコートを出しながら、誠が問うと、純はあっさり頷いた。
「それって、父親殴ったやつのこと?」
「うん」
「…」足音が近づいて、純の肩越しに、誠の黒い腕が伸びた。学生服の上からでも、自分の腕とは違うな、思った。男と女は、どうして骨格からして違う生き物なんだろうかと少しだけ考えた。
 カチカチ、デスクトップに出ていたメモ帳のアイコンをダブルクリックすると、5行ほどの短い文面が現れた。
「コレは何かな」あごに手を当てて、純が問うと、誠はマフラーを巻きながらこたえた。「そいつのごくごく簡単な情報」「ほほぅ、さすがだね誠くん」「ま、こうくるのは慣れてるから」「さすが僕の弟だ」「光栄ですお姉さま」
 言いながら、文面に目を通す。ゴシック体の細い文字は、簡素に事実だけを語る。
『杉崎壱也 15歳
 私立空が丘高等学校1年普通科
 家族構成、父妹(母親は数年前に失踪)
 父親は高校の数学教師
 成績は上の中の上』
「その程度だったら、調べればすぐにわかっちゃうんだよね」純のすぐ後ろで、すっかり出かける支度を済ませた弟は何事もないように言った。「で、印刷いたしましょうか?」
 優秀な執事のような口調に。「頼むよ」有能な企業家のようにこたえた。



 父親に重傷を負わせた少年A。
 犯罪者。
 15歳。
 杉崎壱也。
 純が通っていた、空が丘高校の1年。
 中規模とはいえ、山ひとつ分の敷地と、1000人を越える人間が在籍する学校で、みたことのない顔がいることはそう珍しいことではない。ましてや学年が違えばなおさら。
 印刷された紙を眺めて。ベッドの上でだらりと全身の力を抜く。それがイチバン楽なようで、イチバン人間らしさを拒否したものだと感じている。
 食べられなくなってから、急激に体力が落ちた。今では自宅までの9階分の階段を上ることは死刑判決に相当する。  10日ほど、水だけで生活したことがあった。食べないわけではないが、すべて吐き出して。それでも、純は死ななかった。生きていた。
 食べなくても人間はそう簡単には死なない、そのことを、自分の躰でもって知った。死ぬのは難しいことも。別に死にたいわけではなかったが、”死”というものには、素敵な響きを感じていた。死にたいわけではないのに、死ぬ方法について。、四六時中考えていたときもあった。
 あのとき、純は本当は、死にたかったのかもしれないが、今となってはよくわからないまま。
 杉崎壱也は、どうして父親を殴ったのか。”殴った”という表現は、酷く幼稚で、やさしい響きを持っているように感じるが、実際は”殺す”に匹敵するほどのものだったのだろう。じゃなかったら、15歳とはいえ、父親相手に生半可な気持ちで勝てるものではないと思う。
 誠もあと3年したら、父親を殺すことが出来るようになるだろうか。きっと出来ないだろう。いや、父親だからこそ、殺すことが出来るかもしれない。
 愛情は、裏返せば憎しみに通じる。
 憎しみは、裏返しても憎しみでしかありえないのに。
 杉崎壱也はどんな顔をしているのだろうか。同じ高校の生徒なら、探せばクラス写真くらいすぐ手に入るだろう。犯罪者だからこそ、そういう写真はこれからどんどん出回る可能性は高い。
 犯罪を起こした彼は。
 一体どんな人間で。
 どんな顔をして。
 どんな表情で暮らし。
 どんな気持ちで”罪”を犯したのか。
 そこに理由はあるのだろうか。
 そこに正当性はあるのだろうか。
 考えても。純に”本当のこと”なんてわかるわけがない。
 犯罪者は、壊す勇気を持った者だ。純には壊す勇気なんかなかった。壊せない者は、犯罪者にはなれない。
 犯罪者という。
 一種称号のような。
 社会的にはまったく輝かしくなんかないのに、黒く鈍くひかる。
 魅せられているのに、近づくことは出来ない。それは万人すべてに平等に門戸が開かれているはずなのに、近づけないのは純自身。怖気づいているのは純自身。
 自分自身さえ壊せなかった純は、中途半端な破壊行為と修復行為を繰り返して。
 何も変わらない現実に失望さえ出来なくて。
 ただただ、何も期待しないことで時間を過ごしていく。
 杉崎壱也は、壊すことが出来た人間。どういう理由で背景をもって父親を殴ったのかなんてわからないけれど、それでもそれだけは確か。
 杉崎壱也は、壊す勇気を持っていた。
 純は持っていないモノを。
 確かに。
 もっていた。
 もっていたからこそ、壊すことが出来て。
 もっていないからこそ、純には壊すことが出来ない。
 その差は少しのようで。
 その少しは。
 何よりも大きく深く、横たわる。


     *


 目を開けると、部屋のなかが暗かった。
 いつの間にか眠っていたようで。けだるい躰が眠りを欲している。それは麻薬を欲しがる常習者のように貪欲。
 呼吸が、生きていることを示し。
 体温が、生きていることを示し。
 眠りを欲するこの躰も精神も、まだ確かに存在している。
 がちがちに固まった指先を、融かすように動かすと。骨が軋む、いやな音がした。
 ぼんやりした思考は、考えることを拒絶する。ただ息をするだけの、意味のない存在に成り下がる。植物みたいに成長もしない。ただ、そこにいて息をしているだけの存在。
 視線を下に向けると、純のほうを無防備に向いた手首が目に入った。色白の肌に、浮かび上がる青い血管。
 キリタイ。
 不意に浮かんできたことば。そんなこと出来ないのに。わらいたいのに、顔はわらわない。
 リストカットをする勇気さえ、純にはなかった。
 死ねないただの自淫行為に等しいというリストカットさえ。
 その程度の破壊も出来ない。怖くて。
 怖がってばかり。
 何もかも。
 自分は、犯罪者にはなれない。杉崎壱也のように、壊すことなんか出来ない。
 羨ましい。
 犯罪を犯すことが出来た彼が。
 純には最高に。
 羨ましい。
 タンタン、扉がノック。続いて、誠が顔を覗かせた。そのまま部屋に入ってくる。
「早いね、」かすれた声で純が言う。「もう5時ですがお姉さま」腕を組んで誠が応答した。「ああ、そう」時間の感覚がおかしいな。思ったけど、声には出なかった。
「そろそろなんか食ったほうが良いんじゃない? もう5日ほど水分すらまともに摂ってないじゃん」
「冬だから、」「理由になってないし」
 すかさず突っ込んで、手に持っていたコンビニのビニル袋から、ゼリー飲料とプリンをとり出した。「どっちがいい?」
「…カロリー」
 ぽつり、いうと、ゼリー飲料が渡された。「多いほう」にっこりわらった誠がよく通る声でいった。
 そのままベッドサイドに座り込むと、誠はプリンを食べ始めた。「カロリーは低いけど、こっちのほうがブドウ糖とか多そうな味だよね」特に純のほうを見るでもなく、頷いて言った。
 ぺろりとプリンを平らげた誠が振り返ると、純はベッドの上にゼリー飲料をほっぽり出したまま、ぐったり横になっていた。「どうしたの」
「…握力、ゼロ」
 純のヒトコトに、誠は半身振り返って、プラスチックのふたを開けて納得する。「あ、確かに無駄に握力いるねコレ」
 手渡されたゼリー飲料に口をつける。一口飲んで、ぽつ、言った。「吐きたい」
「弟の愛情を吐くのね…」嘘っぽく目元をぬぐう誠に、わらってもう一口飲んだ。誠が自分のためを思ってくれていることは知っている。少なくとも親より、よっぽど純のことをわかっている。
「ねえ、誠」
「あい。」
 ベッドに腕とあごを乗せて。純を見る。
「僕、勇気ないよね」
「ビビりだよね。基本的に」はじけんばかりの笑顔で。
「…そんな、はっきり言うんだ…」
「でも、純が欲しいのは、カッコいい勇気じゃないでしょ」シーツの上で、指を踊らせながら。「そういう勇気はもたなくってもいいよ」
 “カッコいい勇気”。
 何を基準に”カッコいい”といい、何を基準に”カッコ悪い”というのだろうか。そんな話を、以前誠としたとき、彼はふうん、と考えてから言った。―――世の中の大人の判断規準じゃないの? あとは、その人その人の考え方。世界規準なんかないんだよねきっと。
―――あったらわかりやすいし楽でいいのにね。
 最後に付け加えて。
「純?」
「…」
 みると、誠はとん、自分の口を指差していった。「ヨダレ」純が口元に手をやると。「嘘だよ」わらった。
「誠、」
「ん、」
「…なんでもない」
「そ。」





   A


 3月17日。
 いつもどおりの眠れない夜を過ごして、純は数週間ぶりに、高校の制服に袖を通した。卒業証書をもらいに行かないといけないから。
 とろとろ支度をして、10時ごろに家を出る。母親が車で送っていこうか、と申し出たが、要らない、と断った。ちゃんと最後に「ありがとう」を付け加えて。
 3月半ばの景色。
 陽射しは春を感じさせるのに、気温や空気はまだ冬だと主張する。
 アスファルトに跳ね返る陽射しが、引きこもりになれた皮膚に痛い。吐き出す息が重く白く、沈みこんで消える。
 中途半端な時間だからか、人通りは極端に少ない。家ばかりが立ち並ぶ景色。塀の上では、お約束に猫が純を見ている。しっぽをゆらめかせながら、純を一瞥すると、つい、つまらないものを見てしまったわ、そんな顔で。
 実際に純がつまらないものなのかどうかはわからない。自分自身で判断すると、だいたいが極端な過大評価か極端な過小評価になってしまうから。判断は出来てもアテには出来ない。
 風が吹くと、伸ばしっぱなしの前髪が視界をばさばさ遮る。
 目を閉じて歩くと、ふわふわ、空に上っていくような感覚。いつかみたアニメ映画で、主人公の少女は嬉しくてスキップして、見えない階段で空に駆け上がって行った。そう、まるでそんな感じ。
 目を開けて、足元には、現実味しかしない深い青色のアスファルト。つま先をこすりつけると、じゃりがり、小石がぶつかり合う音がした。
 道路の右端を歩きながら、右手を壁に添える。でこぼこしたコンクリートブロックが冷たくて、ところどころ暖かい。全身で感じる温度が、高かったり低かったり。変温動物は大変だな、思う。

―――、

 何かに呼ばれたような気がして振り返った。
「……」
 何もいなかった。
 通ってきた道は、3年間通った、そのままの道。たいした工事もなく、家も植物も道路も、何もかもが変わらないまま。3年が過ぎたなんて、景色を見ただけでは判断なんかつかない。
 何も変わってないのに、純だけが、ただ通り過ぎていくようで。
 もちろん、通り過ぎていくのはすべての生き物で。純だけではないのに。今此処にいるのが純ひとりだからか、ぽつりひとりだけ、置いていかれたような。
 妙な孤独感。
 莫迦げていると、わらい飛ばすのは、あまりにも簡単。



 数週間ぶりの学校は、授業中にも関わらず、騒然とした雰囲気が漂っていた。
 生徒用の出入り口から入って、上靴に履き替える。この上靴も、今日帰るときに一緒に何とか処分しないといけない。名前など書いていないので、棄てたところで、色から、3年のものであることはわかっても、誰のものであるかはわからない。
 空が丘は、学年ごとにそれぞれの色が決められている。1年は赤、2年は青、3年は黄色――というように。入学した年に当たった色が、その学年の色として、3年間使われる。つまり、純が入学した年には、1年が黄色の学年だったということだ。
「木村さん」
 顔を上げると、担任の清川が軽く手を上げてこっちに向かってきているところだった。「待ってたよー」
 にこやかな表情で。純は清川が怒ったところを、2年間担任として付き合ってきて、1度も見たことがない。男なのに、女のような人当たりのよさが、生徒から支持されている。
「おはようございます、」
「うん。おはよう。ちょっと早いかな、」腕時計を見ながら言うが、あっさりわらった。「ま、早いくらいがいいよね」
「…はぁ、」
「木村さん、卒業式のあとにね、文集配ったんだ。それも後から渡すね」
「…」要りません、とは言わなかった。文集とはいっても、純は一文字も書いていない。原稿を提出してください、という清川のことばをまるまる無視して、冬休み明けから1回も教室には出向かなかったし、顔も合わさないようにしていたからだ。
 はじめて担任をもったという清川にとって、純のような生徒はずいぶんと負担になっただろう。なのに、彼はいつもにこにこわらっている。
「…清川先生、」「うん?」
「私、本当に卒業できるんですか?」
 誠以外の前では、純は一人称を”私”で統一している。目立つことをすると、指摘されたりしていろいろ面倒くさいから。
「どうしてそんなことを訊くの?」心底不思議そうに。「だって、ほとんど授業にも出なかったし…授業の欠課日数とか…」
「木村さん、」ふと真面目な表情になって。純より30センチほど背の高い清川は、かがみこんで、純を見上げていった。「今日は卒業証書を取りに来たんだよね?」
「…一応、」
「僕は、木村さんに、卒業証書を取りに来てって、電話したよ」
「はい、」
 数日前に。電話をとったのは誠で、いつものようにベッドの上でぼんやりしていた純に、ひょい、子機を手渡した。
「卒業出来ない子に、わざわざそんな電話しないよ。木村さんは、今年度の空が丘高校の卒業生だよ」にっこり。わらって。ぽん、と純の腕を軽く叩く。何でこのひとはこんなふうにわらえるんだろうか、つと疑問に思った。
「はい、」
「うん、よかった」立ち上がった清川に、純は思ったことをそのまま口に出した。「先生、高校より小学校の先生になったほうが良かったんじゃないですか?」
「…」きょとんとした表情で。「僕は空が丘の教師やってて倖せだよ」そのことばと共に、笑顔へと融けた。
 清川のうしろを着いていって、校長室に入る。
 空が丘高校の校長は民間出身の、しかも女性で。就任した当初は、ずいぶんと話題になった。民間出身の校長の自殺などが話題になった時期だっただけに、自殺するんじゃないか、というような話が校内校外で囁かれたが、就任から2年経つ今も、彼女は毅然と校長の椅子に座っている。
「おはようございます森山先生」清川が礼をしたのをみて、純も浅く会釈する。「2組の木村さんです」
「おはようございます」
 森山校長は立ち上がると、引き出しから卒業証書と筒を出して、ふたりに前の応接椅子を勧めた。「待っていましたよ」
 特にわらうわけでもなく、表情は厳格な教育者のようで。だが決して、相手を押しつぶすような威圧感は感じられない。
「木村純さん、ですね」
「…はい、」
 正面に座った森山校長は、ようやく、すこしだけわらった。「卒業、おめでとうございます」
 丁寧な手つきで。差し出された卒業証書を、純はおずおず、受け取る。「……」「どうかしましたか?」
 校長の問いに、純は視線を上げて。首を振った。「ぃぇ、」
「どうか、自分を信じて、歩んでいってくださいね」
 校長はそれだけいうと、あとはただにこやかに座っているだけだった。



「何も、訊かないんですね」
 校長室を出て少し歩いたところで、純は清川に言った。
「何か言って欲しかったの?」意地悪な笑顔で。
「私がほとんど学校にこなくなって、やたらいろいろ聞きだそうとする人と、触らぬ神にたたりなしって言うか、何もしてこない人と。ふたついて。でも、校長先生には、後者に近いのに、なんか、違うって言うか…」
 もごもご、口ごもる純に、清川はふむ、あごに手を当てて。「木村さんは、校長先生がすきなんだね」言った。
「……」
 予想外の台詞に、純はことばを見つけられなくて。にこにこわらう清川に、やがて、表情が緩むのを感じた。
「やっとわらったね」
 学校を辞めなくてよかったと、純ははじめて思った。


     *


 この後授業があるという清川と別れて、純は4階にある図書室に向かった。在学中、昼休みになると何となく通っていた。特別本がすきなわけでもなく、本を借りたことなんて数回もないのに。なんとなく図書室という空間がすきだった。
 階段を1段上るごとに、体力が目に見えて減っていくのがわかった。運動不足だということはわかっていたが、此処までだとは思わなかった。3階への途中、座り込んで息をついて。純は自分の足を撫でた。背が低いのは昔からでも、前はもう少し余分な脂肪があったよなあ、と。思い返す。あのころは、どうやったら痩せられるかそんなことを考えていたが、今は食べなければ減る、ということがわかった。なにぶん不健全なダイエットだし、減るのは筋肉だけど、筋肉がなくなれば脂肪が減るわけで。
 食べなければ痩せる。
 食べなければ死ぬ。でも、1週間やそこら、水だけで過ごしても、人間はそう簡単には死にはしない。
 息が落ち着くのを待ってから、立ち上がってまた1段、階段を上った。
 3階は1年の教室が、ほぼ一直線に並んでいる。杉崎壱也が何処の教室にいたかなんてことまで、純は知らないけれど。
 きっと昨日、いや、一昨日までは。
 杉崎壱也はこの階でただの学生として生活していたのだろう。
 それに、どんなに価値がなかったとしても。
 価値のあるないなんて、それこそ本人の価値観による判断でしかないけれど。



 図書室に入ると同時にチャイムが鳴った。この時間だと昼休みに入るのだろう。司書にヒトコト声をかけて、ぶらぶら英米文学の棚に入る。特に興味はないし、純はアルファベットは読めても、英語の背表紙は読めない。学力は毎日垂れ流しで、もうほとんどなくなってしまった。
 深緑の背に、ブロック体の金文字。
 ただ美しいとしか感じない英字。意味がわかれば、きっともう少し違う感慨を得られるだろうに。勉強すればよかったな、カケラだけ、思った。
 英米文学の棚から、一冊抜き出して、ページをめくる。横並びの文字は、判別不可能。ただのアルファベットの並びにしか見えない。
 そのなかの一文に、純は目を留めた。
 指で文字をたどりながら、読む。
“I hate you and I hate me.”
『私はあなたが嫌い。そして、私は私が嫌い』
 なけなしの英語力で和訳する。
 ページを指で押さえたまま、タイトルを確認しようと裏返したが、読めるわけもなかった。文字は半分以上消えていて。
 この台詞を言ったのが、男なのか女なのかもわからない。だから、”私”と訳しても、本当は”僕”かもしれないし”俺”かもしれない。
 でも、どちらにしろ、主役か端役かわからないけれどこの人物は、相手が嫌いで、且つ自分が嫌いで。
 少し前の、純の世界に対する基本姿勢に似ていた。
 何もかもが嫌な時期があって。自分が死ぬだけじゃなくて、世界なんて終わってしまえと思っていた。何もかもを巻き込んで、なくなってしまえばどれだけいいだろう――とか、そんな、終末思想。
 本棚に寄りかかって、座り込んで。躰から力を抜くことは赤子の手をひねるよりもずっとずっと簡単。
 本当は終わらないことを知っているから、だから言えることの極み。もし本当に世界が終わってしまったら、それは酷く残酷なことになるのだろう。夢や希望や期待や、煌くものすべて。純は持っていなくても、それらを持っている人は確実にいるわけであって。

「杉崎、やっちゃったんだって?」

 突然背後から聞こえてきた声に、純は視線だけ背後を見ようとして、でも自分の肩までが限界だった。人間の視覚の限界。
「みたいだな。てか、お前そういう言い方する?」
 男子がふたり。
 時計を見ると、まだ昼休みも半分以上残っていて、生徒の姿は少ない。そもそも昼休みに図書室に来るような生徒は少ないし、たいていの生徒は別館として構えられた図書館にいくからだ。
「だって事実じゃん」あっさり、声の高いほうが言った。「それに俺、杉崎はいつかやるっておもってたヨ」
「なんだそりゃ」
「頭の良いやつの考えることはイマイチ、俺たちみたいな凡にはわかんねってこと」
 ふざけた口調で。わらいを含んだ声音。
「確かに、杉崎は相当できたけど。来年特進上がり確実ってみんな言ってたしな」「杉崎、それが嫌だったみたいでさ、今回の学年末相当酷かったらしいぜ」「相当、」「そう、相当。学年で下から数えたほうがはるかに早いって」「毎回うちのクラスで上位10位くらいを行ったり来たりしてんのに?」「な。わかんないだろ? 特進上がりはメリットばっかりなのに。いくら普通科だっていっても」
 空が丘の特進コースは、学年普通科理数科、各科上位30数名で構成されていて、授業料の半分が免除になる。特進コースのなかで首席になれば、全額免除。タダで私立高校に通えるわけで。理数科特進コースは空が丘の花形だが、普通科特進コースも、文系の生徒にとっては同じくらいの意味を持つ。
 たいていの生徒は特進コースを目指して、特進コースの生徒はみんな首席を目指す。
「異常なくらい、”普通”にこだわってたよな」
 声の高いほうは、ぽつり、言って。もう片方はしばらく何も言わないまま。やがて、零すように言った。
「”普通”は何モノにも通じる免罪符だからな」
 彼らはきっと、杉崎壱也をよく知っていて。その関係はきっと、トモダチと形容されるようなもので。
 トモダチらしいトモダチなどいない純には、彼らの心情など想像すら出来ないけれど。でも、かつてトモダチがいたころの純だったら。
 今の彼らの会話に、何を感じただろうか。
 普通にこだわっていたという杉崎壱也。
 自分が思っている以上に、他人は見えないところを見ている。
 おそらく本人はそれに気づくことはなくて、こうやって盗み聞きして。彼ら以外に、杉崎壱也ではない純が、はじめてそれを知る。杉崎壱也とは何の面識もなければ昨日はじめて知ったような人物に、何も思う節も含むところもなくて。
 ただの純粋なる情報として。
「杉崎の人生だから、俺たちが云々いうことでも、ないんだよな」声の低いほうが言った。「な、月島」声の高いほうはツキシマというらしかった。
「オトナだね、北野は」茶化して、ツキシマは言った。「俺は、杉崎に同情するよ」
「なんで?」
「もっと、気づいて、止めてやれるようなトモダチがいれば良かったね、みたいな」
「ヒトデナシー」
「お前もな」
 くつくつ、押し殺したわらい声。
「あんたたち、何してんのよ」
 女の子の声が混じる。絨毯に吸収されなかった足音が、床越しに純の腰に伝わる。
「噂話。篁もどうよ」
 ツキシマが言った。「噂話?」怪訝な声で、タカムラという彼女は返す。
「また、杉崎のこと?」「そうだよ」
 ”また”
 その単語が、これが繰り返されている話題だということを表す。
「あんたたちって男なのに女みたいなことすんのね」
「男女差別?」
 キタノが言った。「違うわよっ」タカムラが噛み付く。「いい加減にしなさいよ。みっともないわよ。あんたたち特に杉崎と仲良かったじゃない」
「仲が良かった、か」キタノが、少しの間をもって。「じゃあ訊くけどさ、トモダチの定義って何?」
「何言ってんのよ」「そのまんまだよ」「そのままって―――」「篁さん来年特進上がりでしょ? それくらいわかってよ」
 莫迦じゃないの、言外にそうにおう言い方。特進上がりの生徒は、こういう扱いを受けることが多い。純が2年に進級するときも、クラスに2名特進上がりの生徒がいたが、からかわれているのか妬まれているのか、善意と悪意が入り混じったことばを、一部のクラスメイトから浴びせかけられていた。人間って穢い、そう思ったのを覚えている。
「仲良さそうに見えたのよ、あんたたち。よくわらってたし、よく一緒にいたし」
「…それだけ?」
 あっさり、キタノが言う。「それだけよ」分が悪そうに、タカムラ。
「杉崎はわらってなかったよ」黙っていたツキシマが言った。「あー…わらってたのかにゃー。張り付いてたけど」ぺしぺし、自分の顔でも叩いているのか、そんな音。
「あいつはたぶん完璧な演技をしてたと思うけど、やっぱりボロってでるんだよ」「最近は特におかしかったしな」キタノとツキシマが交互に言った。
「なあ篁、トモダチなんてさ、たいていはこんなもんだって」
 諭すように、やさしく、キタノが言った。
「最低だわ。あんたたちって」
 そういって、タカムラは来たときよりも足音を立てて去っていった。
「…言い過ぎた?」
「かもにゃん」
 なんでもない会話のあとのように。ふたりは言って。
 確かになんでもない会話と、言ってしまえばそれまでのものでしかなくて。
 何がどう特別だったわけでもなく、何がどう奇抜だったわけでもなく。
 高校生なら一度くらい考えてもいいことで。
 それにしても。ただ漠然と感じるのは、不干渉という名の無責任さ。しょっぱいな、杉崎壱也。



 昼休みが終わる数分前に、ふたりは時間差で図書室を出て行った。
 しばらくしてから、純も図書室を出た。一面を覆う窓から差し込むひかりは午後のキツイものに変わっていた。
 階段を降りていく途中で、スクールカウンセラーと鉢合わせした。
 にこやかに挨拶をし、最近調子はどう? と問う彼女に、純は曖昧な笑顔で。適当に返事を濁した。
 何を言ったのかは覚えていない。


     *


 卒業証書の筒が、手に馴染まない。
 もらって数時間で、馴染むも何もないのかもしれないけれど。何だか間違った、違う誰かのものをもらったような感覚。
 これは僕のじゃない。
 でも棄てることはできない。もったいない。何だか妙な気持ち。
「わけのわからないものだらけだ」
 ぽつり、呟いたことばは、白い息になって、灰色の空に向かって融けた。
 寒いな、見上げると。
 いつの間にか、陽射しは分厚い雲に覆われて。空は手が届きそうなほど低く。
 指先は気が付けば血の気が引いてうっすら白くなって。
 アスファルトは、触れればきっとそのまま掌を凍りつかせてしまいそう。
 トモダチの定義。
 杉崎壱也。
 普通。
 もし、杉崎壱也が普通の枠から出たくなくて、でも出てしまったのなら。
 それは酷く、純に近い。ある日突然、”普通”という枠から、登校拒否という方法ではみ出した純と。似ている。
 でも純とは違う。
 杉崎壱也は犯罪者。もしかしたら人殺しになるかもしれない人物。
 純ははみ出しても、犯罪を犯しはしなかったし人殺しもしなかった。
 少しのようで、
 決定的な、
 差異。
 そして、それが出来た杉崎壱也が。
 純には酷く羨ましくて。
 自分が怖くて壊せないものを、いとも簡単に壊してしまった彼が。羨ましくてたまらない。
 純は、何も壊すことが出来なかったから。
 周囲の環境はおろか、自分自身でさえ。
 学校を降りて、少し歩くと、小さな公園がある。遊具は冷え切った空気にさらにその金属の体躯を冷たくして。
 その公園の奥の端に、ブランコがひとつ。ふたつの腕を揺らめかせて。
 そのうちのひとつに、黒い服を着た少年が座っていて。





   B


「杉崎――くん」
 面識なんかないし、見たことすらないのに。
 純は当たり前のようにその名前を口にしていた。
 ブランコから2メートルほど離れて、顔を上げた少年は、本当に何処にでもいるような。”普通”の少年で。
「杉崎くん、」
 純がもう一度呼ぶと、少年は色が薄い唇を動かして。「何か、」言った。自分が”杉崎”だと肯定するヒトコト。
「杉崎壱也くん」
「そうですけど、何か、」つと、純の手元を見て。「御用ですか、先輩」
 先輩、言われて、純は自分の手に持った筒を見た。空が丘の校章と、卒業記念の文字が、金色で書かれていた。
 何だかふっと肩の力が抜けて、柄にもなく自分が緊張していたことに気づいた。あれだけ羨ましがっておいて、結局、純は”犯罪者”である杉崎壱也を怖がっていた。
 壊すことが出来た――ある意味尊敬すべき杉崎壱也を。
 怖がるなんて。おかしい。
「ねえ、杉崎くん」ゆっくり、筒から杉崎壱也に視線を移す。黒っぽい私服を着た杉崎壱也は、街中で探せば同じような人間が数人は見つかるだろう程、没個性。髪の黒さも少し伸びかけた長さも。ひかりの少ない眸も。「ひとを殺すって、どんな感じ?」
 杉崎壱也は純をまっすぐ見たまま。やがて、枯れ葉のようにわらった。「まだ、殺してませんよ」
「……。そっか」
 視線をまっすぐ正面から返す純に、杉崎壱也は「座ったらどうですか、隣」言った。
 返答はしないで、純は隣のブランコに座った。「ブランコなんて何年振りかな、」「そうですか、」
「じゃあさ、質問を変えるよ」杉崎壱也は、ゆったり純に視線を向けた。「自分の父親に重傷を負わすってどんな感じ?」
「……」口を開いて、閉じて。”張り付いた”笑顔で、杉崎壱也は言った。「愚問ですね、」
「そうかな、」
「そうですよ」
「どんな感じもなにも、そのまんま、ですよ」
 何がそのまんまなのだろう、少し考えをめぐらせていると、杉崎壱也は足を伸ばしてブランコを漕いだ。
「今、僕が先輩を殴ります」「僕、殴られるんだ、」「喩えですよ」まっすぐ前の、何処か一点を見つめたまま。「僕が、先輩を殴る。それと同じですよ」
「……」
 杉崎壱也はどんどんブランコを漕いで、風をきる表情は、なのに何処か清々しく。犯罪者には、見えなくて。
「杉崎くん、」
 呼ぶと、杉崎壱也は漕ぎながら、器用に板の上に立ち上がった。膝を伸ばして、あっという間に純を見下ろす高さ。
「僕は、キミが羨ましいよ」
 聞こえているのかいないのか。杉崎壱也は漕ぎ続ける。そのまま空に吸い込まれてしまうのではないかというほどに。高く。
 高く高く高く、高く。
「僕は、何も壊せなかったから」
 聞こえていてもいなくても。純にとってはどちらでも良くて。地面に足をつけた純は、漕ぎ出すことすら出来なくて。
 この行動の違いが、ふたりの間の違いなのかと、ぼんやり、思った。
「僕は、キミみたいになりたいわけじゃないけど。なりたいんだ」ぽこりぽこり、零れ落ちるコトノハは、枯れ葉のように地面に落ちて。風に舞い。くるくるかさかさ。やがて誰かに踏み潰されて粉々になる。
「そこから、何がみえる?」
 聞こえていなくても聞いていなくても。
 純は問う。

「そら」

 震えもしない、確かな声で。
 杉崎壱也はこたえた。
「そら、」
 復唱した純のほうを、上から見て。曇った空を背景にした杉崎壱也の表情は。
「きれい?」
 何を言っているのか、問うているのか、その意味さえわからずに。
 純は繰り返す。「そこからみえるそらは、きれい?」
 杉崎壱也が、純の横を通り過ぎるたびに巻き起こる風が、髪を揺らす。何度も何度も繰り返して、突然。
 杉崎壱也は空を飛んだ。
 鎖から手を離して。板を蹴って。
 それはただの跳躍に過ぎないのだけれど。
 冷え切った空気のなかを、灰色を背景に、空を飛ぶ。
 黒い。鳥のよう。
 そう、―――黒いカラスのように。
 コマ送りのように。酷く不自然なコマ割りで。
 音もなく。土煙も立てず。
 文字通り、舞い降りる。
 ブランコの周りをぐるり、囲むパイプの外側に。
「重い」徐々に膝を伸ばして、まっすぐ地面に立って。「重苦しいだけです」純のほうは見もせずに、杉崎壱也は言った。
「そこからみえるそらと、大差ありません」
「杉崎くん、」
 意味もなく、ただの記号のように、名前を呼んで。でも、杉崎壱也は振り返らない。
 その背中は。何も語ってはくれない。ただそこにあるだけ。
 生死を疑うほどの永い永い沈黙の後に、杉崎壱也は振り返って。
「先輩は、こっちにはこられませんよ」
 言った。
 掌は、パイプに触れたまま。
「これが、僕と先輩の間にあるライン」
 表情をゆがめるように、わらって。張り付いていない、筋肉が描く笑顔で。
 わらい慣れていない人の作る表情。キミは今まで、ココロからわらったこと、あった?
「僕の、」杉崎壱也の掌が、ぎこちなく、パイプの上を滑る。それを見ながら、純は何も考えずにことばを発した。「僕の名前、木村純っていうんだ」
「……」
「純粋の”純”。男みたいだよね」
「……」
 何が言いたいのか、全然わからなくて。何故だか泣きそうになって。
「全然、純粋なんかじゃないのにね」
 言って。俯く。
「…僕の名前は、杉崎壱也です。難しいのほうの漢数字の”壱”に、也です」
「……」
 俯いた純には、杉崎壱也の表情は見えない。
「でも僕は、イチバンになんかなりたくなかった。なりたくない。普通が良かった」

―――異常なくらい、”普通”にこだわってたよな

 ツキシマの言っていたことば。
 杉崎壱也の”トモダチ”のことば。
「名前なんて、そんなもんですよ」
 親の希望とか期待とか、そんなものを背負わされて。背負わせたほうは失望するだけすればいい。沿う必要なんか何処にもない。
 コドモに輝かしい未来を強要するなんて、莫迦げているにも程がある。
「木村先輩、」呼ばれて、顔を上げると。杉崎壱也は突っ立ったまま。「壊す必要なんか、ないんですよ。壊したくても、壊さないほうが倖せなんです。たいていのことは」
 “たいていのことは”
 ならば、杉崎壱也の壊した日常は、それ以外のことだったのか。
「僕は、どうしても護りたいものがあった。だから、あいつを殺そうと思った。…でも、殺せなかった。今でも殺したい気持ちに変わりはありません。でも、正直、ほっとしているんです」
「……」
「どうしてだとおもいますか、」
 握り締めるパイプは、カタチなんか変わるわけでもなく。錆びたまま、そこにあって。純は何も言わずに、続きを待つ。
「殺せば罪は重くなる。だけど、まだあいつは死んでない。僕の罪は傷害のまま。そして、死んでいなくても、あいつはもう、なにもできない」
「死んだら?」
 重傷だという杉崎壱也の父親は。きっといつ死んでもおかしくない。
「それはそれで、僕は倖せですよ」
 呟いた杉崎壱也の眸には、一体何が移っているのだろうか。黒いひかりの少ない眸のなかには。
 純には計り知れない火に似た何かが。
 隙間なく渦めいて蠢いて。
「最後に、ひとつだけ。いいかな」
 純のことばに、杉崎壱也は何も言わず、頷きもせず。純を見た。
 繰り返す息が、白いもやになって。息をしていることを示して、それは即ち、生きているこということで。
「僕は、そっちにはいけない?」
 指差した。杉崎壱也の立っている地面。パイプの向こう側。今現在、純と杉崎壱也の間にある、明らかな差異。
 自分の足元を見て、純を見て。
 杉崎壱也はわらった。実に愉しそうに。声を上げずに、くつくつ。その掌は、まだパイプを掴んだまま。
 何をわらっているのか、理解できなくて。ただ純には返答を待つしかなく。
 杉崎壱也がわらっているのを見ていると、視界に白いものが混ざった。見上げると、空から、ひとつふたつ、白い雪が舞い降りてきて。
 コートに着地した雪は、生地の上にも拘らず、じわり、融けて水に還る。
 あわい、ゆきは。
 次第にその数を増して。
 気が付けば、杉崎壱也もわらうのをやめて、空を見上げていて。
 道路ひとつ入っているせいか、人気のない町に、静かに音もなく、雪がやってくる。あわいあわい。白い。
 儚いゆき。
「木村先輩、」
 空を見上げたまま、杉崎壱也はぽつり、言った。
「先輩は、こっちにくる必要はありません」
 静かに。確かに。
「僕の勝手な判断ですけど」
 顔に雪がついたのか、下を向いて頬をぬぐって。付け加えた。
「必要ありません」
 まるで、自分自身にも、言い聞かせるように。
「…、」
 純は返答はせずに、ただゆきのやってくるそらを見上げて。喉の奥で頷いた。


     *


 翌日の朝のニュースで、杉崎壱也が傷害で補導されたと報道された。
「ねえ、誠、」
「ナニ?」
「誠には、トモダチっている?」
「いるよ。たぶん」
 いつもどおりの構図で。ベッドの上には純が横になり、サイドに誠が座って。
「曖昧な返事だな、」「俺、ホントのトモダチなんて信じてないし」「…どうして、」
「いつかは離れていくし、もしかしたら裏切られるかも知んないじゃん」
 12歳とは思えない返答に、純は苦笑する。「そういうもんか、」
「そうやって自分から距離とってると、他のやつって入ってこないんだよな――これないのかな? とりあえず、自分が相手にとってる距離が、イコール、相手の距離になるって感じ」
「誠はオトナだねぇ」「もうすぐ13になるしな!」誇らしげな弟に、姉は声を上げないようにわらう。「3月下旬生まれって、凄まじい早生まれだよ…」「俺のせいじゃないし」「…まあね、」
 コドモは親を選べないし、親もコドモを選べない。
 何月何日に生まれるかの指定も出来ないし、何処に生まれるかの指定も出来ない。
 もしかしたら、最初から壊れた場所に生まれるかもしれない。
 壊せるだけ、倖せなのかもしれない。
 父親が死んでも、それはそれで倖せだと言った杉崎壱也のように。
「誠、」
「うん?」
「おねえちゃんって呼んでよ」
「またぁ?」
 純のお願いに素っ頓狂な声をあげながらも、誠は仕方ないな、という表情で顔を背けた。
「何度も呼ばれたいんだよ」
 トドメを刺すように言うと。
「……」沈黙のあとに。「おねえちゃん」
 ことばと同時に、じわりじわり、融けていく温かさ。
 何もかもを壊したかった。
 日常も自分自身も。何もかも要らないと思った。
 だけど実際は、何も壊せなかった。日常どころか、自分自身さえ。
 でも、この温かさがあるのなら、壊さなくて良かったのではないかと思える。
 壊さなくて。
 良かった。
 壊す必要はなかった。

―――こっちにくる必要はありません

 杉崎壱也が言ったように。
 羨ましがることはしても。実際に壊す必要など何処にも。
 何処にも、きっと存在しない。



 それから何日かして、杉崎壱也の父親――杉崎雪也が死んだ。
 新聞やテレビでは、詳しいことまでは報道しなかった。ただの続報として伝えられただけで。
 杉崎壱也の罪は、”傷害”から”殺人”に切り替わった。

―――それはそれで、僕は倖せですよ

 そう言った杉崎壱也は。
 罪がケタ違いに重くなった今でも。
 そう思っているだろうか。
 何を思って彼が父親を”殺した”のかはわからない。
 護りたいものがあった、とだけ、杉崎壱也は純に言った。
 一度壊した日常が。父親の死によって、完全に破壊されて。
 純には踏み込めないラインの向こうの、杉崎壱也は。
「名実共に、人殺し、か」
 居間から見える、地上20数メートルの空には、あの日とよく似たあわゆきが、思い出したように、ちらりはらり。


(2004/08某日 18918文字)