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倫理なんて理想論だよ、
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世界は理不尽で不平等だ。
世の中には五体満足で金があって莫迦やってる人間がゴマンといるのに。違う場所では五体不満足で金もなくて莫迦やってる暇があったら働くなり物乞いするなりしないと生きていけない人間もいる。真剣に生きているのは間違いなく後者なのに、堕落しきった前者がまるで勝ち組のようにでかい顔で闊歩する。
どうしてそんなことが赦されているのだろうか。
もし、神さまなんてものが存在するのなら、訊いてみたい。
―――あなたは一体、何を思って何をもって、この世界をつくったのですか?
*
杉崎壱也にとって、夜眠れないなんてことは良くあることだ。高校に進学して、1年も終わろうかという3月。通気性の悪いコンクリートのなかにいるのに、何処からか風が忍び込んできて、足先をかすめて体温を奪っていく。
小学校に上がると同時に与えられた机の上には、明日の試験科目である数学Tの教科書と参考書、ノートが広げられている。公式に蛍光ペンでラインを引き、教科書には印をつけ――他の生徒のものとそう変わらない。
変わらない。
個性個性と叫ばれ崇められ求められていても。結局は”没”個性が、当たり障りなく、世の中を渡っていくうえで良しとされている。
試験中の人間は真面目に勉強すべし。
その考えに、誰も異論は唱えないだろう。その通り。反論の余地なし。余地どころか猶予も一部の隙間もないですネ。普段勉強しないんだから、試験中くらい勉強しなさい――たいていの、勉学放任を謳っている親はここぞとばかりにそう主張する。
しかし。
前日になってがつがつ詰め込んでいるようじゃ、試験なんて出来るわけがない。ノートに数学の公式をひとつ空で写して、シャーペンを持つ手に違和感を感じる。文字なんか書きたくない、苦痛に似た違和感。
膝を抱えて、目線にある時計に目をやる。
午前2時。
目を閉じても、もともとひかりの少ない部屋の中で。闇はあまりにも存在感が薄く。
―――、
静寂の耳鳴りのなかで。
何かが聞こえたような気がした。”何”なんて、わからないけれど。何か。音。声。それすらもはっきりしない何かが。
顔を上げて、椅子を回転させて、扉を見る。
朝になって、たとえ壱也が起きてこなくても。誰もこの扉を開けることはない。父親は壱也よりも早く家をでる。4つ下の妹の陽菜子は、いつも朝壱也が出かける直前に起きてくるから、いないならもう学校に行ってしまったと思う。
普通の家庭ならば、朝起きていかなかったら、母親が起こしにくるのだろう。
だが、杉崎家には、”母親”というモノは存在しない。
もちろん、最初からいないわけではない。4年前、母親は、彼女の30歳の誕生日に。いなくなった。それだけで。
母親は、高校卒業と同時に、卒業した高校で教鞭を取っていた父親と結婚した。ちょうど1年後に、壱也が生まれた。
いつごろから付き合っていたのか、なれそめは、――父親にも母親にも、訊いたことはない。しかし、”禁断の愛”に女子学生が憧れきゃあきゃあ言っているような現代において、そのテの話はフィクションでもリアルでも、溢れかえっている。中学に上がるころには、壱也にも大体の想像はついていた。
19で壱也を産んで。23で陽菜子を産んで。
30歳と言う、区切りの年に。
母親は、消えた。
どこかで生きているかもしれないし、既に死んでいるかもしれない。
仮に母親が、生きているとしても死んでいるとしても、壱也の関わる世界に、母親はもういない。何処にも。
水分が熱され気体になるように。
つかむことが出来ない水蒸気に。
分子に。
蒸発。
してしまった。
腕を伸ばす。
視界のピントが、腕にあわせるべきなのかそれとも扉にあわせるべきなのか、迷ってぐらぐらしている。別にどちらだってかまわない。この行為に何か意味はありますか? いいえありません。
もし、空気をつかむことが出来たなら。
何か、変わっていたことがあるだろうか。
ぐっと、掌を握り締める。爪が食い込んで、痺れたように痛い。
きっと。
「何も、変わらない」
もし、変わっていたら―――?
そんなパラレルワールド、ありえない。
*
チャイムが鳴ると同時に、教室のありとあらゆるところから歓声が上がる。
「終わったーっ」「ビバ! 春休みっ」「もうどうにでもなれーっ」「俺はこの日のために生きていたんだっ」「それは大げさだろっ」
最後列の生徒が試験用紙を集めながら、親しい友人に声をかける。「ねえ、出来た?」声をかけられた生徒は決まってこういう。「全然駄目」苦笑いを忘れずに。
「なあ、壱也。どうだった? 数学! 数学Tはっ」
「まあまあ。」
「っかー! やっぱり壱也はいわねえな!」
「…。”全然駄目だったヨ”」
「めちゃくそ棒読みじゃん!」
前の席の月島は、わらいながら突っ込んだ。「らしいけど!」
「そりゃあ、そんな期待に満ちた目で言われたら…言うしかないじゃん?」
壱也が肩をすくめて言うと、月島はしし、とわらって前を向いた。月島が前を向いた瞬間、壱也のなかの温度が、急速に下がっていくように感じた。否、実際は下がってなどいない。はじめから、躰のなかに宿る感情の体温は限りなく低くなっている。それに気が付いたのは、つい4年前。母親がいなくなったとき。
壱也は、自分が薄情な人間なんだと、感じた。
泣けなかったし、哀しいとも淋しいとも感じなかった。感じないようにしていただけなのか、それとも本当に何も感じなかったのか。今となっては曖昧すぎてあの出来事に何かを感じ取ることは難しい。
いつの間にか教室に入ってきていた担任教師が、学級委員に指示を出している。「進路希望調査の紙を集めておいてね」
進路、ということばに教室が波立つ。来年度の文理希望調査は2学期末に既に集められているが、今回は具体的な大学名を聞いてきている。壱夜は白紙のまま、何も考えていない。
適当なことばを残して、担任教師は教室を出て行った。途端、ざわめきが大きくなる。
手元の進路希望調査の紙を眺めて。何度か瞬きを繰り返す。
進路。
未来。
将来。
自分は一体何をしているのだろうか、―――考えても、先のことなんか想像出来ない。未来はただ、創造することしか出来ないだろう。
「壱也、どうするよ。コレ。書いた?」
窓際の席の北野が遠征してきて、終礼と共にさっさと帰ってしまった、すぐ真横のクラスメイトの席に座った。
「いんや。書いてない、」
「壱也ってさぁ、文系理系どっちだっけ?」
「一応、希望は理系で出した」
「一応? なにそれ?」わらいながら、北野が言う。
「保険だよ。文転は出来るけど、理転は出来ないだろ? とりあえず理系に行っとけば、あとから文系に変わるのは楽チンなのさ」
「へぇー考えてんのなー」
「そういう北野は?」
「俺? 俺は文系で出した。なんだかんだで、前回の2学期期末の数学1点だったしな!」
あは、そんな感じで、北野は自分の頭をぽんっと叩く。北野の数学1点は、ある意味クラスの伝説となっている。0点を取るのは簡単だが、1点は逆に難しい。部分点を取らないといけないからだ。
「伝説の男…か、」
「カッコ良いよなソレ! 俺絶対将来子供に自慢するね! 父さんは高校時代伝説の男と呼ばれていたのだよ! みたいなっ」
将来。
「伝説の内容を知ったら莫迦にされるよ?」
「いいんだよっ」
壱也は想像出来ないものを、北野はいとも簡単に口にする。出来ないものを目の前にして、出来る人間を目の前にして。抱く感情はふたつ。
羨むか。
妬むか。
「いいのかよ」
自分はどちらだろう。
少しだけ、考えた。
「要は、コミュニケーションだよなっ大事なのは」ちっちっ、指をふりながら接近戦で言う。
「そうかいそうかい」わらいながら。わらいは引きつっているかもしれないけれど、勘付かれない自信がある。
思考の、先、こたえは出ない。
「ま、その前にさ。壱夜とはどのみちクラス別れそうだし。来年」
「どうして?」
「壱也くらい出来たらさ、やっぱ来年は特進上がりじゃね?」
「どうかなー」
壱也の通う私立空が丘高校には、普通科・理数科・芸術科の3科が設置されており、普通科と理数科にはそれぞれ各学年に、1クラスずつ授業料が半額になる特進コースが設置されている。さらにそのなかで首席になると授業料が完全免除になる。たいていの人間は、特進コースを目指し、首席を狙う。
「ま、あそこの人間は頭のつくりが違うし、」こめかみを、とん、指で軽く叩いて、おどけたように言う。「僕程度じゃ無理でしょー」
「またまたぁ、杉崎くん謙遜しちゃってぇ」
「そういう北野くんはどうなんすかぁ? 世界史とかありえないくらい出来たそうじゃないですか」
「まあねー」
「邪魔。」
「「……」」
突然頭上から降ってきた声に、壱也と北野は、ほぼ同時に顔を上げた。
「掃除、したいんですけど?」
声の先には、満面の笑みを浮かべた篁紅子がいた。はっきりモノを言うタイプで、男子には特に言いたいことを我慢しないしことばも選ばない。
ぐるりと見ると、既に他の机は下げられていた。北野と顔を合わせると、壱夜はこどもっぽく苦笑いしながら机を下げた。そのまま、荷物を持って廊下に出る。
「壱也壱也!」
「なによ、」
廊下で、月島がぺたりと座り込んで待っていた。
「冷えない?」
「若さでカバー!」
「ああそう、」わらう。月島はしし、とわらって、手招きをした。「ちょっとちょっと、」
壱夜は北野と顔を合わせる。どうぞ、と目で言われ、壱也だけが月島のそばにかがみ込む。「なに?」
「うわさ」
「うわさですか、」
「壱也、今回の試験だけど」
「うん、」
少し間をおいて。
「ありえないほどでたらめ書いたってホント?」
「……」
近づけていた耳を離して。顔を見る。どきどきわくわく、目をきらきらさせた月島がいた。
「なんで?」
なんでもないように。
わらって、訊く。
「うわさ」
にっこりわらって、月島。
背後を振り返ると、北野は壁に寄りかかって天井を眺めていた。つられて壱也も見上げるが、うっすらほこりをかぶった蛍光灯しかなかった。
「何でそんなことする必要があんの?」
「特進に上がりたくないから」
「んなわけないじゃん。授業料半額だよ? 私立はタダでさえ高いのに」
「知らなないしそんなの」頬杖をついて、にこにこしながら。「ま、うわさだし」
「所詮うわさだね」
「だね」
「帰る?」
「俺はもうちょいケツを冷やしてく」
「あ、そ」
呆れわらいの表情で、立ち上がる。北野をみると、ちょうど目が合った。「帰る?」
「帰るよ」
言った壱也の声は、あまりにも日常的で、当たり障りのない声。
廊下を歩きながら、壱也はふと思いついたように、北野に問うた。
「なあ、」
「なんだね杉崎くん」
「北野は、特進に上がりたいって思う?」
「思わねー」「そう、」「なんでんなこと訊くのん?」「なんとなく、」「なんとなく、か」「そうだよ、なんとなく。今日も寒いね」
「寒いな、」
うわさ。
うわさはうわさ。
根も葉もない、よく言うけれど。それでもうわさには多少なりの根拠は存在する。小学生のあの子って実はソープに勤めてるんだって――そんなうわさはうわさとして成立しない。あまりにも嘘だから。
―――今回の試験だけど、ありえないほどでたらめ書いたってホント?
こんなうわさが流れるということは、そういうしぐさを壱也がしてしまったということだ。答案を見て、明らかな不正解を書いたつもりはない。数学ならば、途中式で、+を−にしたり、その程度。
答案を見て、何かを勘付いた人間はいないだろう。
ならば、やはり壱也自身の態度の問題だろうか。
高校入試のときも、当時の担任は壱也の特進コース合格に太鼓判を押した。でも、壱也は現在普通コースに在籍している。特進に入れる自信はあった。でも手を抜いた。周りの人間には、試験のときは緊張して…、そう言っている。担任も仕方ないよな、と明らかに失望したふうにわらっただけだった。
失望は怖くない。
怖いのは失墜だ。
墜ちないためには、自分の実力以上に上らないこと。
父親は何も言わなかった。壱也がそうしたいならそうしなさい、理解を示したような台詞の裏に、何があるのか壱也は知らない。知りたいとも思わない。もしかしたら、そこには教師のように失望があるかもしれないし、本当にことばのままの気持ちがあるのかもしれないし、ひょっとしたら、何もないかもしれない。
墜ちたくない。
存在の価値も。
人間関係も。
誰とでも話を合わせられる。誰とでも、ある程度までは親しくなれる。
何も失いたくない。
何の質も落としたくない。
そのためには、今のステージを維持し続けなければならない。
理不尽で、不平等な世界で。
自分を維持していくための、防衛術。
「なあ、壱也」
「うん?」
小高い丘の上にある学校から帰るには、坂を下って一般道に合流しなければならない。丘ひとつ丸まるが学校の敷地だからだ。
学校指定の紺色のコートが、いろんな色に混ざって、ぽつりぽつり、坂道を下っていく。去年まで自由だったコートは、今年から指定になった。生活指導上の理由らしいが、詳しくは知らない。そのため、1年の女子生徒は、マフラーでおしゃれ欲を満たすのに日々頑張っている。しかし頑張れば頑張るほど、マフラーも学校指定が入りそうだな、という話を、壱夜はたまにクラスメイトとする。
「最近寝てる?」伸びをしながら北野が言った。胸に刺繍された校章が生地にあわせて歪んだ。
「なんで?」
「いやー、肌、荒れてるぞー」
びしっ、どこかでみた化粧品のCMのように、指差す。
「女の子みたいなこと言うね」指先で頬に触れて、壱也は苦笑いする。
冷えた指先が冷えた頬に冷たい。指先はどれだけ冷えているのだろうか。血管詰まってませんか?
「ま、いいんだけど。壱也の肌の荒れ具合とかは別に」
差した人差し指をくるくる回す。
「なんだそりゃ」
「寒いなぁ、」
「…寒いねぇ、」
「壱也ぁ」
「うん、」
「うわさはうわさ」
「うん?」
北野を見た壱也に、北野は意味深にわらった。
「ま、そゆこと」
「わけわかんない」
*
ノブに手をかけて、鍵が開いていることに気が付いた。
陽菜子が閉め忘れたのか、それとも空き巣でも入ったのか。どちらにしろ無用心だが、盗られるものは何もない。
扉を開けると、玄関のたたきに陽菜子のスニーカーが行儀よくそろって迎えてくれた。
「帰ってるんだ、」陽菜子のスニーカーの横に、自分のスニーカーもそろえておいて、家に上がった。「ただいま」
廊下の突き当たりの居間の扉を開けると、奥の台所にいる陽菜子の斜め後姿があった。肩まである髪を、今日はふたつ、三つ編みに結っている。
「ただいま、」
改めて壱也が言うと、陽菜子はくるっと兄を見てわらった。「おかえりおにいちゃん」言って、すぐにフライパンに意識を戻す。
「もうちょっと待ってね。今日はね、ひなの手作りミートソースのスパゲッティだよ」
陽菜子は、家族の前でだけ、自分のことを「ひな」と愛称で呼ぶ。142センチしかない身長と幼顔で、初印象で12歳には見えない。今も、コンロの高さに足りない分を、台に上って補っている。
「今日は早いんだな」
「うん、卒業式の練習で、6年生はお昼までだったの」
「そっか、」
鞄を居間のソファに置いて、テーブルに腰掛けた壱也に、陽菜子が振り返らずに言った。「ちゃんと服着替えてきてっ」「なんで?」わらいながら問うと、「ソース散っちゃうととれなくなっちゃうよ」顔だけ壱也を見て、ぷうっと頬を膨らませた。
その顔が、とてもとても愛らしくて。護らなければと思う。その感情は、世間ではシスコンと呼ばれるものかもしれないが、壱也は充分”兄”の範疇に入るものだと思っている。
「はいはい」「はいは1回っ」「……」噴き出さないように、壱夜はそそくさと居間を出た。
母親がいなくなったのは、陽菜子が小学校2年のとき。それ以来、彼女は出来る限りの家事をこなすようになった。炊事掃除洗濯。父親は生活指導主任という立場上、出勤は早く帰宅は遅い。はじめは壱也も出来るところで手伝っていたが、片手間にやっている壱也よりも、陽菜子はあっという間に感覚として家事を覚えていった。今では陽菜子がいないときだけ壱也が変わりにやっているが、そもそも陽菜子が家を空けることは極端なほど少ない。
机の上に鞄をおいて、詰襟のホックをはずした。首周りに余裕があるので、イチバン上までしめても苦しくない。お陰で抜き打ちの服装審査にも引っかかったことはない。たいていの男子は詰襟のホックを注意されるから。
中学では、成績を、上の下の上位を維持するように心がけた。出来すぎてはいけない。かといって、不出来なのはもっといけない。勉強なんて、目立たない程度に出来ればいい。だから高校入試も、上位の公立校ではなく、中堅どころの空が丘を受験した。それも、特進コースではいけない。普通コースに受かるように。
制服をハンガーにかけて、クローゼットにしまった。ジーンズとシャツ、パーカーを着て、ベッドに腰掛ける。
空が丘高校は、3学期制をとっている。よって、年間、定期試験は5回行われる。2学期期末までの4回を平均すると、壱夜は特進上がりぎりぎりのところだった。空が丘の特徴として、2年進級時に、特進コースの下位15名と、普通コースの上位15名の入れ替えが半ば強制的に行われる。
普通コース1学年160余名中、上位15名。壱也にとって、入ろうと思って入れない数字ではなかった。だからこそ、注意が必要だった。
今回は、明らかに順位を落とす必要があった。クラスで10番台を目処にやっていたが、壱也の所属する1年3組は、他のクラスより群を抜いて成績が良いということが、2学期期末にわかったため、それでも危ないことがわかったからだ。
膝にぺたりと胸をくっつけて、斜め先の壁を見る。
伸びた前髪が、視界を邪魔する。そろそろ散髪に行かないとナ、ぼんやりと思った。
勢いをつけて上体を起こすと、そのまま立ち上がった。
そろそろ昼食の用意も出来たころだろう。
「卒業式って、いつ?」
「15日だよ」
向かい合ってスパゲッティを食べながら、短い会話をする。陽菜子は散らさないように食べるのに一生懸命で、壱也はそれを見ながらフォークにくるくると巻きつける。
「小さいよなあ、」
ぽつり、呟く。陽菜子は気付かない。
142センチ。毎年春の計測の記録を見ているが、3年生のときから、陽菜子は数ミリしか身長が伸びていない。6年通じての折れ線グラフは此処3年間ほぼ真横に伸びている。
壱也自身は、小学校3年から6年の3年間で、20センチほど伸びた。壱也自身が、もともと幼いときに小柄だったせいもあるのかもしれないが、それでも女子に比べれば伸びは少なかった。小学校の間は、女子のほうが発育がいいから。なのに、陽菜子は発育のカケラさえ、よく見ないとわからない。
柱につけていた印も、此処2年ほどやっていない。定規並みの細かさになってしまうし、陽菜子もきっといい気分はしないだろうと思ったから。
発育不良とか、そんな深刻な問題ではないと思うが、あまりにも伸びてないよなあ、と、兄として心配してしまうのも無理はないだろう。
「陽菜子、」
「うん、」一通り皿の中身を片付けた陽菜子が、顔を上げる。「口の周りにたくさんついてますよお嬢さん」陽菜子は慌ててティッシュで乱暴にごしごし拭いた。「とれた?」「とれました」言うと、陽菜子はにっこりわらった。
「15日ってさあ、平日だよな」
「うん、だよ」どうかした? そんな表情で。
「父さん、行けるのかな」
「……」ふと動きを止めて、俯いた。
「陽菜子?」
「うん、どうだろ?」
壱也の呼びかけに、先ほどと変わらない笑顔で、陽菜子は返した。
21時を過ぎたころ、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま、」
居間の扉を開けた父親が、穏やかな笑顔で言う。
「おかえり、」
ロジック雑誌から顔をあげて、ソファに座っていた壱也が声をかけた。
「おかえりなさい」
壱也の足元に座ってテレビを観ていた陽菜子も、笑顔を向ける。
「今日のごはんは何かな、」
「麻婆茄子だよ」壱也が言うと、父親は「そうか」頷いた。「着替えてくるから、支度してくれないか」
「うん、」壱也の膝に手を置いて勢いをつけると、陽菜子は立ち上がって台所に行った。父親はその後姿を見ながらネクタイを緩め、壱也をみて微笑むと、2階に上がっていった。
「おにいちゃん、」
再びロジック雑誌に目を落とした壱也に、背後から陽菜子が声をかけた。「うん、」振り返らずに、声だけで返す。「どうしたの?」
「…呼んでみただけ、」
予想外のこたえに、ペンを止めて壱也が振り返ると、台所の明かりのなかに、陽菜子が立っているのが見えた。
後姿は、小説とかドラマみたいに、何も語ってはくれない。
こちこち、秒針が動く音。料理を温める電子レンジと、フライパンで野菜を炒める音。
ロジックのマスをひとつ埋めていくたびに、壱也の思考は停止する。振り返りたいけど、振り返ることも出来ないで。
陽菜子。
4つ年下の妹。
大事な妹。
父親。
公立高校で数学教師をしていて。
生徒からも同僚からも信頼が篤いという。
シャーペンの芯をかちかち押し出して。数センチでたところで、音もなく雑誌のざら紙の上に落ちた。
私服に着替えた父親が、居間に戻ってきて、台所で支度をしている陽菜子に声をかけた。壱也には音としては聞き取れても、声としては聞き取れない。
振り返り見ると、後ろから抱きかかえるように躰が重なって見えた。後ろから覗き込んでいるだけなのだろうが、壱也には、なんとなくその様子が”いやらしく”見えた。
父と娘。
きっと良くある構図に過ぎないだろうに。
ただ、気になったのは。
父親に隠れた陽菜子の躰が。
縮こまって見えたこと。
ただでさえ小さくて華奢な躰が。
さらに。
小さく小さく。
「父さん、」呼びかけて。振り返った父親の顔。居間より少し照度の低い台所で。影の濃く刻まれた。
「なんだ?」
にこやかなはずなのに、穏やかなはずなのに。
感じるのは、痛いくらいの疑問。
その表情は何?
疑問を感じる理由すら、壱也にはわからなくて。
疑問を感じる意味すら、壱也にはわからなくて。
「呼んでみただけ、」
なんて言ったらいいのかすら、わからなくて。
さっきの陽菜子と同じ台詞を。
吐いた。
*
玄関を開けて。
いちばん最初に聞こえてきたのは、悲鳴のような泣き声。
声は耳に残って残って、恐怖感を煽り立てて。ざわざわ躰内に音を作り出す。
歪む世界。
上る階段。
眩暈に似た、感覚。
上りきった先の。
両親の部屋。
開け放たれた扉。
陽菜子の小さな背中。
声をかけようにも、壱也自身声が出なくて。
どうかしないといけないのに。
どうにも出来ないと、何処か悟りきっていて。
陽菜子の奥の、部屋のなか。
乱暴に引っ掻き回された室内。
ひたり、
背後の音。
振り返ると、そこには。
濡れそぼった母親がいて。
膝下丈のスカートから滴るのは、水滴。
色は。
色は、あかいろ。
おかあさん、呼ぼうとして。
手に持っていた、名も知らない花が。ほろり、床におちて。
手に力が入らなくて。
声が出なくて。
陽菜子の泣き声だけが、鮮明に、酷くダイレクトに。
世界を支配していく。
世界を。何もかもを巻き込んで侵食して。
ひたり、
フローリングに落ちた水滴が、クラウンを残して、花を呑みこんで、波紋を広げる。
―――壱也、
声は聞こえないのに、母親は確かに。
壱也の名前を呼んだ。
伸ばされた手が、そっと。
壱也の頬を撫で擦る。
闇に慣れた目が、ぼんやりと浮かび上がる室内を見渡す。
目だけで。呼吸すら忘れて。
此処は何処だと、認識を早急に要求する。
照明、机、クローゼットの扉、本棚。――壱也の部屋。
大きく息を吸って、吐いて。何度も瞬きをして。
涙が一筋、こめかみを伝った。
夢。
今のはただの夢。
母親はいなくなった。それは事実。
赤く濡れそぼった母親なんかいなかった。それは虚実。
陽菜子は泣いていた。事実。母親が背後に立っていた。虚実。
「ホラーって季節じゃないだろ、」
呟いて。両掌で顔を覆う。
酷くのどが渇いていた。
傷が出来たように、呼吸をするたびに鈍い痛みがする。
水が欲しい。夢を醒まして。
上体を起こすと、ひとつ息をついて、ベッドを降りた。
4年前。
小学校6年生だった壱也が家に帰ると、陽菜子が泣いていた。
小学校2年生だった陽菜子は、今よりも小さくて。顔を真っ赤にして泣いていた。両親の部屋の入り口で。
家の中は空き巣が入ったようにめちゃくちゃで。
箪笥や下駄箱が乱暴に開けられていた。
でもそれは空き巣なんかじゃなくて。
母親自身が開け放していったものだと、後からわかった。
母親はいなくなった。
彼女の、30歳の誕生日に。
帰り道、道端に咲いていた、名前も知らない花を、母親のために摘んで帰った。でも、それを母親に見せることは出来なかった。
朝。
いってらっしゃい、言ってくれた笑顔を最後に。
母親は壱也の世界から消えてしまった。
理由は知らない。父親も教えてくれなかった。もしかしたら父親すら、知らないのかもしれない。
廊下に出て、階段を下りようとして。
陽菜子の部屋から明かりが洩れているのに気が付いた。壱也の部屋から階段を挟んで反対側にあるため、部屋からでは気付かなかった。
今が何時なのか、正確なことはわからなかったが、壱也がベッドに入ったのは既に24時を回っていたことを考えると、結構な時間であることは確かだった。12歳が起きていていい時間ではない。
立ち止まって扉を見ていると、声が聞こえてきた。
甲高い、艶めいた。
この家にいる女は陽菜子だけで。
でも、陽菜子のこんな声を、壱也は聞いたことがない。
「ひなこ…?」
無意識に出た声。小さくて、発した壱也自身、聞き取ることは難しい。
足音を立てないように、下りた階段を1段上がって。父親の部屋の前を通り、陽菜子の部屋の前に立つ。フローリングには、灯りが三角形に長く長く伸びている。それをじっと見て。部屋の中からは、陽菜子の声が断続的に、聞こえてくる。それにあわせて、きしきし、軋む音も。一緒に。
聞こえてくる。
床を泳いでいた視線を、少しずつ、上げていく。
木目から、扉の角、室内に敷かれたカーペット、ベッド――背中。
大きな、父親の背中。
父親の、両わき腹の辺りから、白い足が伸びている。小さなその足は、陽菜子で。
何故か父親は全裸で。ベッドの軋みと一緒に躰を――下半身を、揺さぶっていて。
何ヲシテイルノ?
渇いた喉の、最後の一滴の水分までもが。
蒸発していく。
軋むベッド、全裸の父親、父親の躰を跨ぐように広げられた、陽菜子の足。
ひとつひとつが組み合わさって。
出てきたこたえは。
壱也には到底、許容できないことで。
「陽菜子、陽菜子ぉ、」
あえいだ呼吸で娘の名を呼ぶ父親は。
今まで見たこともないほど獣じみていて。
娘の躰に自分の躰を沈めていく父親は。
今までみたこともないほどに、獣でしかない。
軋みが大きくなって、父親の背中が、軽く痙攣して。
それはまるで、合図。壱也は足音をたてないように、廊下を後退する。喉の渇きなんか、忘れ去ってしまうほどに。さっきの夢なんか、御伽噺のように生易しく。
目の前の光景だけが、頭のなかで何度も何度も反芻する。今のは何、何? 何何何何何何?
ああ、もう、なにも、なにもかも、わからない。
自室の部屋の扉を閉めて。
扉に寄りかかったまま、ずるずると床に座り込む。
金属バットでメタ打ちされたような頭痛で、目の前がくらくらしている。
今のは何だ? 今のは何だった?
男女のお付き合いというものをしたことがない壱也にとって、”それ”は動物の本能か、もしくは莫迦げたフィクションでしかなかった。
セックス。
行為の名前は知っている。
でも、それは決して、父娘でして良いことではないはずだ。
どうして。
父親が、陽菜子とセックスなんかする?
どうして。
陽菜子が、父親とセックスなんかする?
どうして。どうして、どうして?
考えれば考えるほど、胃のあたりがむかむか、熱を持ってきて。吐き出したい欲求に駆られても、部屋を出ることができない。隣は父親の部屋。その隣は陽菜子の部屋。もし父親に遭遇したらどうする? なんて言う? もし陽菜子にそうぐうしたらどうする? なんて言えばいい?
わからないわからないわからない。
でも、出さないと。いけない。吐き出さないと、躰のなかから腐ってしまいそう。
室内を見回して。目に付いたゴミ箱まで這っていって。床と平行の位置に顔を向けた瞬間、躰の中身が逆流した。
渇いた喉が、切れて痛みが走ったが、壱也にやめることは出来なかった。
何もかもを吐き出して。
何もかもを吐き出せば。
少しでも何かが変わると、そんな気がして。
A
いつもどおりの朝だった。
壱也が制服に着替えて階下に降りていくと、既に父親は出勤した後で。テーブルの上には父親が作った朝食にラップがかけておいてあった。
それを見て、何度か瞬きをして。
目を閉じた闇が現れるたび、父親の背中がちらつく。
朝の静寂のなかに、陽菜子の甲高い喘ぎ声が聞こえる。
しかし目を開けてみれば。
そこには確かに。いつもと変わらない日常しか存在していない。
いつもと変わらない朝。
いつもどおりの朝。
何ひとつ、変わったところなど見当たらない。
ただただ、日常が、存在している。
テーブルについて、サラダにかけてあるラップをはずす。レタスの緑と、トマトの赤色が目に痛い。
息をつくと、喉が鈍く痛い。
何も変わらない朝。
きっと、昨夜のことも、夢だったに違いない。ゴミ箱に吐いたのは確かな事実でも、その原因が夢じゃなかったなんて言い切れない。
久しぶりに母親の夢を見て。動揺して。それであんな夢をみたに違いない。
そう、夢だった。父親と陽菜子のセックスなんてありえない。壱也の想像力がどうにかしているだけだ。
冷蔵庫からドレッシングと牛乳を取り出して、食卓に置く。
分離したドレッシングを、人差し指でしっかり蓋を押さえて振る。一度ケチャップを、蓋を押さえずに振って飛び散らせたことがある。それ以来、無意識に押さえるようになった。
フォークで刺す感触が、リアルに指先に伝わる。
リアル。現実。
感覚を伴って、認識される現実。
「おにいちゃん、」
居間の扉に寄りかかるように、陽菜子がいた。「おはよう、」
「おはよう」
口のなかのレタスを飲み下してから返す。「今日は、早いんだな」
「うん、」喉の奥で返事をして。ぼうっとした表情に、壱也は違和感を覚える。
「どうかしたの、気分悪い?」
立ち上がって、陽菜子の額に掌をあてる。じわり、熱い。「熱、あるのかな」
「ううん、大丈夫だよ」壱也を見上げる陽菜子の表情は、熱っぽくて虚ろで。頬はうっすら紅をさしたように赤く。
「大丈夫じゃないだろ、」陽菜子をソファに座らせて、壱也は和室の箪笥から体温計を出して手渡す。確か台所の戸棚の中にレモネードがあったはずだと陽菜子に背を向ける。
「おにいちゃん、」呼ばれて振り返り。服のすそから体温計を入れるときに、覗いた陽菜子の腹には、痣のようなものが。いくつかあって。
「陽菜子、」「うん、」「おなか、虫にでも刺されたのか?」こんな季節にそんなことありえないと思いながら、壱也は訊ねる。「…う、うん。そうだよ」
えへへ、無邪気そうに、わらいながら。
「そっか、」7分まで注いだレモネードを陽菜子に手渡して、その手で額を撫でる。気持ちよさそうに目を閉じた陽菜子の表情が、媚びる娼婦のように。見えて。
目を逸らした。
「おにいちゃん?」
「ん、」
「ひなは大丈夫だから、学校、行って? バス、遅れちゃうよ、」
「いいよ。もう試験も終わったし。陽菜子のほうが大事だから」
隣に座って、小さな頭を引き寄せる。壱也の肩にちょこんと乗った頭を撫でながら。目の前にちらつくのは昨夜の行為。
「陽菜子、」
「うん、」
安心しきった声に。何も言えなくなる。
昨日の夜、なにしてた? そんなこと。訊けるわけもなくて。
「なんでもない、」
「うん、」
撫でる髪は手に馴染んで。もし、昨夜のことが事実ならば。自分は何をどうしても、陽菜子を護らないといけない、思った。
「ひな、大丈夫だよ」
視線を下げると、陽菜子がにこり、わらっていて。「そっか、」相槌を打ちながら、髪にそっとキスを乗せる。
「体温計、もういいよ」
この家にある体温計は電子式ではない。今どき保健室でもみない水銀式。
「7度3分。微熱だな、」
灯りに透かしながら壱也がメモリを読み上げると、陽菜子はうぅ、小さくうなった。「聞いたらしんどくなってきたぁ」ずるずる、陽菜子の躰が、肩から壱也の膝に不時着する。
「じゃあ、休めば良いよ」
肩口を優しく撫でて。壱夜は体温計のメモリを再度眺める。
「うー…」
指を組んで、額にあてて。迷ったように。
「学校には僕が電話しとくから」
「……おにいちゃん」
「なに?」
「今日、遅刻しちゃう?」
「僕?」
問うと、こくり、頷く。
「そうだな、もうバス、間に合わないし」
ちいさくわらって言うと、「じゃあ、」陽菜子の小さな手が壱也の手を握った。「もう少し、ひなのそばにいて、」
「……」陽菜子は普段甘えたことを言わないせいか、ことばがきしきし、心臓に響く。「いいよ、少し寝るといい」
「うん、」
わらって。陽菜子はゆっくり目を閉じた。
帰宅ラッシュのバスから降りると、どんよりとした空から、ぽたり滴がたれた。
「雨、」
顔をしかめて、壱也は家路を急ぐ。
朝、陽菜子が完全に寝入るのを待って、何かあったらメールするように、とメモを置いてそっと家を出た。そのときにも空は泣きそうにぐずっていたが、まあいいやと傘は持たずに出てきた。
バスを待つ間、小学校に電話をして、父親にメールを入れる。返信は帰ってこなかったが、通信レポートが返ってきたので、届いてはいるはずだ。
道行く人はみんな傘を差している。3月の雨は、全身濡れるにはまだまだ冷たすぎる。
途中のコンビニで、陽菜子に何か買って帰ったほうがいいかと思いたち、スポーツドリンクを買う。今朝は微熱だったが、もしかしたら今夜あたり熱が上がるかもしれない。メールがなかったので、大事にはなっていないと思うが、もしかしたらはありえることだ。
もしかしたら。
昨夜の出来事は。
現実、だった?
違う。その”もしかしたら”はありえない。きっと。きっと―――。
玄関の鍵は開いていた。どうやら先に父親が帰ってきたらしい。「ただいま、」声をかけるが、反応はない。
靴をいつもどおりに脱いでそろえて、廊下に立つ。
―――ぁ、
声。
心臓を叩き潰されたような。
痛みとも認識できない感覚。
声。
それは壱也が今背を向けている、居間から。聞こえてくる。確かに。
確かに。
声が。
聞こえて。
聞こえて。
フラッシュバックする。昨夜の光景。もしかしてもしかしてもしかして。
ありえない。
頭のなかで、必死にことばを探し出して。
「ありえない。」
声に出して。聴覚にも認識させる。今壱也が考えていることは、想像力の暴走だ。そう、暴走でしかない。
虚実だ。夢に似た。そう、白昼夢。
目を開けてみる夢。
唾を飲み込むと、痺れるような痛みがした。口腔内の傷は治りが早いというが、それでも数時間で治るわけではない。
ぎし、踏み出した足、フローリングの軋みに、身を竦める。口から心臓どころか、臓器のすべてが出て行ってしまいそうで。実際出て行ったら、どれだけ、解放感を得られるだろうか。
居間の扉を、薄く開けて。なかを覗き込む。
声が大きくなる。陽菜子の。昨夜に良く似た。甲高い、聞いたことのない声。
「は、んぁっ―――」
ぐらり、油が水に混ざりこんでいくような。決して交わらないモノ同士が、混ざり合うように。
扉を開けて。壱也が室内に入っても。ふたりとも、気づかないで。
父親が陽菜子を背後から犯すさまは、本物の獣のよう。否、獣でしか、ありえない。獣以外に、どんな生き物がこんなことをするというのだろうか。
「陽菜子、」
父親の声。息が上がっていて。喘ぐような。
「――っ、ぁ、おとうさ、―――」
おとうさん。
おとうさん。
おとうさん。
おとうさん。
おとうさん。
「ひな、も、だめぇっ」
ひな。
家族の前でしか口にしない。陽菜子の愛称。
家族の前でしか。
家族。
家族。
家族。
家族。
家族。
そのとき。
壱夜は確かに聞いた。
倫理の崩壊する音を。
素晴らしくささやかな音でもって。実にあっけなく。
モノが風化していくように。
目の前の光景すら、白く色をなくして。
風化してしまえばいいのに。
陽菜子、呼ぼうとして、口をあけようとして。でも、喉で詰まった声はかすかな音さえもたてられずに。
そこで、記憶がするりと抜け落ちて。
雨が躰に刺さる感触で。
空を見上げたら、雲が低く壱也を押しつぶそうとしていた。
手にはコンビニの袋を持っていて、スニーカーは突っかけたまま。紐が解けて泥に汚れている。
吐き出した息は白く空気に消えていき。
学校の近くの公園だと、気づくのに少し時間がかかった。
記憶が飛んでいる間に、ずいぶんと家から離れたところにきてしまったらしい。
公園に人の姿はなく。
濡れた遊具は壱也に興味のカケラも示さない。あんた此処で何してんの、さっさとお家に帰んな。
からっぽな感情の器に。
徐々に。
ふつふつ、湧き上がってくる。何か。
何もない、穴もない、何処からそんなものが湧き上がってくるのかもわからない。
熱い。冷たい。液体窒素のよう。溶岩のよう。
どろどろでとろとろでさらさらしていて。
しかし、火でも、ましてや炎でもない。
ただ熱い”何か”が。
湧き上がって溢れて。壱也のなかで。
存在感をもって。
きっとこの3月の雨ですら、触れただけで気体になってしてしまう。雨を纏わせたコンビニの袋が、風に吹かれてかさりと泣いた。
「は、」洩れた声に。片掌で顔を覆う。「泣きたいのは、こっちだ」
陽菜子と父親には肉体関係がある。
陽菜子と。
父親と。
家族で。
父娘で。
ありえない。ありえてはいけない。
でも。
あれは確かに。事実でしかなくて。
壱也の目の前で確かに。
ふたりは交わっていた。
「壱也、」
何が起こっているのか。
何があって何がどうなってこうなったのか。
壱也には。
わからなくて。
「壱也」
引き戻された意識に、顔を上げると。月島がわらって立っていた。
「移動教室だけど」
「あ、うん」
「……、」
教科書を手に立ち上がった壱也に、不思議そうに首をかしげて。「なんかあった?」
「んー、どうして?」
おどけて。茶化して。誤魔化して。言う。
「どうしてっていうか、うーん、顔が渋い」
ぴしっ、指を指されて。それが妙に様になっていて、壱夜はわらいをもらす。
「そうかぁ?」「そうだよー」「もともと渋い顔なんじゃね?」「あちゃーそうだったのかー」
額をぺし、叩いて。天井を仰ぐ。
「ま、イイケドー」まっすぐ壱也を見て。「て、チャイムなっちまいますぜダンナ!」
月島が指差した時計は始業30秒前を指していた。「ああ、こりゃ駄目だ」移動教室は視聴覚教室で、4階の端にある。とても2階の端から30秒でいける距離ではない。生徒数はそれほどでもなくても、設置科が多いと自然と施設も大きくなるもので、空が丘の敷地は相当な面積を誇っている。
「駄目じゃなぁいっ」力強く腕を振り上げて、月島が吠えた。「諦めたら負けだっ」言い終わるか否かのうちに、月島はひとりで教室を飛び出していってしまった。
「………」
取り残された壱也は、半ば呆然と見送るしかなく。気が付けば、教室には壱也くらいしか残っていなかった。
「…、」
遠のく足音と、静まっていくざわめきと。
醒めていく、壱也のなかの感情と感覚。
それに追いつくように、始業を告げるチャイムが鳴った。
「遅れたな、」
「…北野…」いつの間にいたのか、すぐ背後に北野がいた。気配などまったく無視して。「そういう自分も遅れてるって知ってる?」
「一応ココロの隅には気に留めている。たぶん」
「あ、そう」
「壱也ぁー」
「あいよ」
「なんでもない、」
「…あ、そう」
お互いに動くこともなく。時計はこちこち時を刻んでいく。グラウンドから、何処かのクラスがやっている体育の歓声が聞こえてくる。
「授業行こうか」ぽつり、北野が言った。
「そうだね、」「ていうか、次世界史だよな中川さんだよな」「うわぁ、」「一緒に厭味言われような」「実に、遠慮したいけどね…」
教室を出て、壱也も北野も何も言わないまま。上靴が床に擦れてきゅうきゅうないていた。
「北野、」
「うん、」
「人間と獣の差って何なんだろう?」
「さあ?」
肩を竦めて、北野は知らない、と囁くように返した。
*
QOL――Quality of LIFE.
生活の質、生命の質――人が人として有意義に過ごすためにはどうしたらいいのか。
試験開けの世界史の授業で観たビデオのテーマ。
“人”が、”人”として。
戦後60年近くが経ち、この国の経済状況は、世界でもトップクラスにまで上り詰めた。もはや最低限度の生活なんて当たり前。ならば、今度はその水準をあげていこうじゃないか。
“人”が、”人”として。
この国で、否、世界中のどんな貧しい国であっても。
子供が親の慰み者になっていいわけがない。
自室の天井は、築年数の分だけ重みを増して、壱也に迫ってくる。それは、壱也の身長が伸びたせいか、それとも心理的な何かのせいなのか。
腕を伸ばすと、天井に触れられそうな気がした。届くわけなんてないのに。それはまるで、無邪気に天に、星をつかもうと腕を伸ばすようなもの。
掴めるわけなんてないのに。
不可能を知らない愚かな人間。
倫理も禁忌も知らない愚かな父親。
陽菜子と父親の関係は間違っている。どうしようもないほどに根本的に何もかもが。歯車とか、何処がどうとか、そんな問題すべてすっ飛ばして。
全否定。
すべて、認めない。
でも。
壱也には腑に落ちない部分もあった。認めない事実のなかで、ただひとつ。
ひとつだけ。
陽菜子はどういう気持ちで、父親に応じているのだろうか。
嫌なら嫌と言うべきではないのか。言わないということは、もしかしたら陽菜子も同意の上に行為が行われているのではないだろうか。
父親が陽菜子に対して手を上げているようなことは考えられないし、少なくとも壱也の視認出来る範囲で、そんな傷や痣はなかった。
考えられない。
思い返して、わらいが零れた。
握り締めた掌には、何も残っていない。
空気さえ、わずかな隙間から逃げ出して。
この手で。
壱也には何が出来るのだろうか。
陽菜子を護るために。
何が出来るのだろう。
倫理とは何なのか。
父親が娘を抱くことなんて。
あってはいけないのに。
でもそれと同時に。
気づかない自分さえもが、酷く酷く、残酷なほどに。
滑稽な道化師のようで。
「おにいちゃん?」
覗きこんだ陽菜子の顔は、にこやかな笑みに彩られていて。
何もかも夢だったんじゃないかと思わせるほどに。
「どうかした? ぼうっとしちゃって」
「うん、今日も寒いから脳が冬眠モードなんだよ」
「なにそれー」
きゃらきゃらわらって。つられて壱也も笑みをこぼす。日曜日のテレビは、朝からマンネリ化した旅番組を流している。
「おはよう」
「おはようお父さん」
居間に入ってきた父親に、陽菜子は壱也に向けたのと同じ笑みを向ける。家族に向けるべき、温かい表情。
「おはよう、」
壱也と目が合った父親が、にこり、わらった。
「そういえば陽菜子、」父親が冷蔵庫から牛乳を出しながら、ふと思い出したように言う。「卒業式は明後日だったね」
「そうだよ」
父親の分の朝食を用意しながら、返す。
「お父さん、その日は学校休んで、卒業式出ようかと思って」
パックを手に冷蔵庫をしめ、反動で振り返った父親。表情は”善いお父さん”。まさしく代名詞。
「そうなの? 無理しなくってもいいよぅ」
「無理じゃないよ。娘の大事な行事じゃないか。ただでさえ参観日にも行ってないんだしな」
「…うん、」
「それとも、行かないほうがいい―――」眉根を下げた父親に、陽菜子は慌ててことばをかぶせる。「ううん、そんなことないよ! まさかお父さん来てくれるなんて思わなかったら、ひなびっくりしちゃっただけだよ」
「そっか、なら良かった」大きな手で陽菜子の頭を撫でて。ああ、なんて微笑ましい親子の構図。
「………」
「壱也、」不意に声をかけられて、壱也は瞬きを繰り返す。「な。なに、」
「お前も来るといい」「え、でも僕学校が…」「一日くらい休んだっていいだろう?」「……」父親の眸のなかには。
得体の知れない。
影。
が、みえるよう。で。
「うん、そうだね。そうするよ」
なんでもないようにわらった壱也に、父親も満足そうにわらった。
「ねえ、父さん…、」
「うん?」
陽菜子の肩を、まるで恋人のそれのように抱き寄せて。顔だけ、壱也を見て。
―――倫理って、何なんだろう?
そんな台詞、言えるわけもなく。根っからの体育会系の父親に、高校生とはいえ壱也が勝てるはずもなく。
「いや、なんでもない」
「…。そうか、」
自室のベランダから。
莫迦みたいに晴れ上がった空を見あげて。
何となく思い出して、半透明の黒い下敷きを視界にかざす。
黒く膜の張った視界に、太陽だけが存在を存分にアピールしていて。
まるで、父親のようだと思った。
品行方正、同僚からの信頼も上々、生活指導主任なんて肩書きのクセに、毎年在校生はもちろん卒業生からも年賀状が届く。それも相当な枚数。熱血教師みたいな態度で、でも一線からは絶対に入ってこない、大人なのに子供を理解してくれる。
素敵な素敵な高校教師。
家庭においてもそうだった。少なくとも壱也は、そう感じていた。
でも違った。
母親がいなくなった4年前から、否、もっともっと前から――はじまりから、違っていた。
父親は距離感を取るのが巧かった。いつも絶妙な位置にいて、邪魔にはならないし過干渉もしない。だけど、それも違う。
そう感じさせるのが巧かっただけ。
遮光板越しの太陽のように。
何よりも強い存在感なのに、普段は彩度の高い青に紛れてしまって。なのに、一枚幕を張るだけで、その存在は浮き彫りに浮き上がる。
賑やかな声に視線を下にやると、3、4歳だろうか、幼い子供が――男の子と女の子がひとりずつ、兄弟だろうか――と父親らしき男の人が、前の道路を歩いていた。
ぼんやり眺めていると、男の子のほうが壱也に気づいて、わぁっと手を振った。女の子もつられて、小さな手を千切れそうなほどに振る。見ず知らずの壱也に向かって。
父親らしき男の人は、ぺこりと頭を下げると、ほらいくぞと言うようにふたりの背中に触れた。
壱也はぼぅっと、ただそれを眺めていた。
もしかしたら過去に。
壱也や陽菜子にもあったかもしれない光景。
パラレルワールドのなかの、ふたり、かもしれない。可能性として。
妹が生まれた――はじめて新生児室のなかで眠る陽菜子を見たとき、愛しくてたまらなくて、何があっても護らないといけないと思った。それが”おにいちゃん”なんだと。誰に教わるでもなく、無条件に無意識に、思っていた。
だけど実際、壱也はどれほどまでに陽菜子を護ることができているのだろうか。
きっとどれほども、護れていない。
でも気づいた。
護れていなかった事実に。
ならばこれから、護ればいい。
過去を振り返るのは容易い。過去を変えることは出来ない。
不可能はないなんていうけど、そんなのありえない。不可能は確かに存在する。だから、世の中はこんなにも理不尽なのだ。
窓を閉めたところで、開け放した扉のところに、陽菜子がいることに気が付いた。話しかけようかどうしようか、迷った表情で。振り返った壱也に、救われたようにわらった。
「おにいちゃん」
「うん、」
「あのね、ひな、お願いがあるの」
敷居から、陽菜子は入ってこない。いつもの表情で、でも、違う。
「なに?」
「ぅー」指をもじもじさせながら。壱也は急かさずその先を待つ。「あのね、せっかくのお休みなのに、もうしわけないんだけど、あのね、」
窓から差し込むひかりが、部屋を横切って、陽菜子の足元を照らす。3月中旬の、寒いんだが暖かいんだか、判断しにくい陽気なひかり。
「卒業式に着ていくブラウスのアイロンをね、かけて…ほし、いの、」
音声、デクレッシェンド。
きょとん、壱也はわらって。
「いいよ」
大事な妹にわらいかけた。
ほっとした陽菜子の笑みに、ココロがほわり、温かくなる。
護りたい。護りたい。
この笑みを、なくさせたくない。
たとえ相手が父親でも。
どちらも大事な家族でも。
壱也は、妹を――陽菜子を。
護りたい。
B
―――おかあさん、
眠っているはずの陽菜子が、ぽつり、声を漏らした。
腕を回した肩は、細くて丸くて、華奢で。
陽菜子の部屋で。ベッドに寄りかかって。
皺ひとつなく直されたベッド。
肩越しに、陽菜子を起こさないように、見て。ふつふつ、湧き上がる”何か”を、確かに躰のなかに感じながら。
だけどまだ、決断できないでいる自分も、確かに存在していた。自分の前に引かれたラインを、越えることの出来ない自分。躊躇し躊躇い。越えられない。
護りたい。陽菜子を護りたい―――それは何物にも変えがたい感情で、思いで願いで望み。
ならどうすればいい。児童相談所。警察。カウンセリング。思いつく単語はどれも壱也から遠く離れた場所にある。
一時的な対処でいいのか。
根本から改善すべきか。
父親という絶対的な存在を、どうやって退ければいい?
「ひなこ、」
起こさないように囁いて。
母親がいなくなった日。
その日、母親に何があったのか、壱也は知らない。
何があって何をもって、彼女は家を出て、何処かに行ってしまったのか。
壱也は。
しらない。
家に帰ると陽菜子が泣いていて。父親の反応は記憶にない。哀しんだのか動揺したのかさえ、壱也は覚えていない。
母親がいなくなって。
しばらくして、家族は”3人”で落ち着いて。
壱也にとっても陽菜子にとっても父親にとっても。
それが当たり前の”家族”になって。
なったと、思っていた。
父親が帰ってきて、壱也と陽菜子と一緒に夕食を摂った。18時過ぎまで眠っていた陽菜子を起こさないように、久しぶりに壱也がつくった。陽菜子のすきな野菜コロッケ。母親がよくつくってくれたせいか、料理をあまりしない壱也も、野菜コロッケのレシピだけはそらでつくることが出来る。
陽菜子は寝過ごしたことを何度も何度も謝った。もういいよ、壱也が言っても。それでも何度も何度も何度も。
謝った。
「陽菜子、」
「…うん、」
「陽菜子は僕の妹だよね」
「うん、」
「陽菜子は、僕の家族だよね」
家族。
血で繋がった。
親とも誰とも違う。
奇妙な繋がり。
「…」「陽菜子、」「うん」
「家族は、援けあうものなんだよ。陽菜子が疲れたときは、僕がやればいい。陽菜子がしんどいときは、僕が頑張る」かがみ込んで、ローアングルから見る陽菜子は、いつもと違う表情。怯えて縮こまって。
何にそんなに怯えているの?
「陽菜子、」
「おにいちゃん、」「うん、」「おにいちゃんは、ひなのこと、嫌いにならない?」予想だにしなかった台詞に、壱也は返すことばを見失ってしまう。
「……」返答に間が空いた壱也に、陽菜子の表情が見る間に歪んでいく。「ごめんなさい。ごめんなさい、ひな、変なこと言って。ごめんなさい、」
「ひなこ、」「ごめんなさいごめん、ごめんなさいおにいちゃん」
幼さの色濃く残る眸から、ぼろぼろ、涙が零れて落ちて。顎を伝ってフローリングに落ちた涙を、壱也は無意識に指で撫でた。生暖かくて、ぬるり、感触。
「ごめんなさいおにいちゃんごめんなさいおねがいきらいにならないでひなのこときらいにならないでおねがいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
両掌で顔を覆って頭を掻いて。陽菜子が正気を失っていく様を、壱也は目の前に。
「陽菜子」
呼んでも。陽菜子はただただ、謝るばかりで。呼んで。
何度も何度も。「陽菜子」「陽菜子」呼んで。
「陽菜子」
肩に触れると、びくり、一度大きく反応して。それから、ぴたり、泣き止んで。うっすら、わらって。「おにいちゃん、」
「陽菜子、」肩を引き寄せて、抱きしめて。陽菜子の躰は、もういつもどおりに。さっきまでの様子なんて、ただの幻のように。
「ごめんね、おにいちゃん」
耳元で囁かれた声。いつもどおりの陽菜子の声。
「いいよ。僕も悪かったから」何が悪かったのか、イマイチ咀嚼しきれなくて。でも、そう言うしかなくて。
「僕は、何があっても、陽菜子を嫌ったりしないから。僕はずっとひなのそばにいるから。ずっとだよ。ずっと、」
「ホント?」
「ホントだよ」
「ホントウに?」
「ホントウだから」
「よかった、」
ほっとした声に。しかし陽菜子の腕が壱也に回されることはなかった。
*
倫理とは何なのだろうか。
人々は何を持って禁忌としたのだろうか。
気づいてしまったら、もう見逃せなくなっていた事実。踏み込めばいいものを、踏み込めない自分が、壱也には情けなくて歯がゆいものでしかない。
陽菜子を救えるのは、護れるのは、自分しかいないと、壱也がいちばんわかっているのに。それを実行できないまま。
扉を背に座って。
かすかに廊下に響く喘ぎ声。幻聴だったら興奮できただろうか。
ああどうして。
僕は此処にこうして座っていられるのだろうか。
何を躊躇っているのだろうか。
きっと、相手が父親だからだ。
これがもし、たとえ親友でも赤の他人ならば、壱也は何の躊躇いも躊躇もなくその相手を殺しただろう。
完膚なきまでに。魂までもをずたぼろに引き裂いて。時間を遡って存在からすべて。記憶からすべて。抹消して消去してなかったことに。
ぶち殺してしまえるのに。
それが、どうして父親なんだろうか。どうして父親なんだろう。
膝を抱えて。春が日々近づいていく時期とはいえ、足元から冷気が這い上がってくる。
どうすればいい。
陽菜子を護るためには。
家を出るか。
でも、今の壱也では、自分自身さえ生きていくことは出来ない。ましてや陽菜子を養うなんてそんなこと。
出来るわけがない。
見通しなんかたたない。
母親がいなくなったときには、こんなふうには思わなかった。僕には陽菜子がいるお父さんがいる―――何の意味もない安堵感があったし、いなくなったこと自体に特に何も感じなかった。
ただ、存在が、なくなっただけで。
ぽっかり穴が開いた場所には、いつの間にか当て布がされて見えなくなっていた。
足先を掌で包むと、じわりと体温に痺れた。
階段の軋む音がして、床に横になっている自分に気づいた。いつの間にか眠っていたらしいと理解するまで、少しの時間を有した。
そろり、躰を起こしてみると、陽菜子の小さな背中が階段をおりていくところだった。大き目のTシャツに、下はジャージで。
陽菜子の部屋の扉は閉まっていた。床にオレンジ色の灯りが少しだけぼんやり。
その灯りを視界の端において、階段を降りる。一段踏みしめるたびに、軋んで耳障り。陽菜子は角を曲がって、既に見えない。
階段を降りきって、居間とは反対のほうを見ると、廊下にうずくまっている陽菜子がいた。
トイレの前で、膝を抱えて。俯いた顔は壱也から見ることは出来ない。
「陽菜子、」
なるべく驚かせないように、ゆっくり、声をかける。顔を上げた陽菜子は、つらそうにわらった。「おにいちゃん、」
「どうか、したの?」
壱也の問いに、陽菜子は視界を左右に泳がせてから、首肯した。そのまままた俯いてしまう。
壱也は陽菜子の横に座って、何処を見るでもなく視線を下げた。
夜の無音が、先ほどまでの声をすべて洗い流していくように通り過ぎていく。
「おにいちゃん、」「…うん、」「ひな、生理、なっちゃった…みたい」ぽつりぽつり、一音ずつ、恥ずかしそうに、申し訳なさそうに。言う。
「そっか、」
「どうしよう。……どうすれば、いいかな、」
髪と腕の隙間から覗く眸は。不安。そのもの。
「陽菜子、生理になるのは、悪いことじゃないよ」言っても。眸は歪むばかりで。壱也は慌てて、ことばを継ぐ。「ただ、ほら、うちには母さんがいないから、だから、言いにくいしそういうこととかよくわからないし、不安だと思うけど―――」
「ごめん、おにいちゃん」
「…陽菜子?」
「うちにおかあさんがいないのは、ひなのせいなの」「、え…?」突然の告白に、思考が着いていかない。「4年前、おかあさんがいなくなった日ね、ひな、おかあさんを泣かせちゃったの。学校で、トモダチとけんかして、だから行きたくないって、わがまま、言って」
陽菜子が学校から帰ってきたら、母親はもう家の中の何処にも、陽菜子の世界の何処にも、存在しなかった。
「おかあさんがいなくなったのは、ひなのせいなの。ひなが、おかあさんを泣かせたから、おかあさん、ひながきらいになって、だから、いなくなったの。おにいちゃんやおとうさんにも、とばっちり、くらわせちゃって、ひな、すごく、悪い子なの。駄目な子なの」
「……、」
ことばを接げない壱也に、陽菜子は顔をあげて。わらった。「ごめん、おにいちゃん」痛くて、心臓に響く笑顔だった。
「陽菜子のせいじゃないよ」「…いいよ、そんなふうにいわなくっても」「違うよ。違う、」「おにいちゃん」
「陽菜子のせいじゃないよ」
根拠も何もないのに。ただ、壱也には、そう。繰り返すしかなくて。
「ねえ、おにいちゃん」「……」「ひな、もう、赤ちゃん出来ちゃうんだね」
自嘲気味に発せられたことば。何も知らなければ、ただの台詞にしか聞こえなかったかもしれないことば。
「陽菜子、」
「へへ、大変だぁ」
酷く、無邪気な笑顔。
わらわないで。
見ている壱也のほうが。
苦しくて死んでしまいそうだから。
「ひなも、大人になれるんだね」「なれるよ」「だって、身長だって、全然伸びないのに」「なれる」「…おにいちゃん?」「陽菜子は、大人になれるよ」
もう、無抵抗な子供じゃなくなるんだ。
もう、無抵抗な子供でいることなんかないんだ。
「どうしたの、おにいちゃん」
陽菜子の指先が、壱也の頬に触れた。「涙、でてるよ」
「なんでもないよ。ごめん、」
*
朝、今日が卒業式の陽菜子は、家族でいちばんに家を出た。学校を休んだ壱也と、父親だけの、少し遅めの食卓。
食器が触れ合う音。
向かいに座る父親を、壱也は直視することが出来なかった。
「ねえ、父さん」
ぽつり、牛乳でトーストを押し流した壱也が、問う。
「なんだ、」
「倫理って、何だろう?」
とん、テーブルに置いたグラス。水滴が、掌とグラスを密着させる。滴のひとつを凝視すると、見ないでといわんばかりにするりと滴がたれた。
「倫理、か」
トーストをちぎりながら、父親。手元だけを見ていると、実際以上に器用に動いているように見える。
「そうだな。いろいろなことはいえると思うが、」そう前置きして、指の動きが止まった。「所詮、倫理なんて理想論だな」
言い切った父親のことばに。
壱也は不意に、自分のなかにあったものを理解した。
―――熱。
火でも炎でもない。
カタチない熱。
黒く塗りつぶした紙を、虫眼鏡でじわりじわりと焼ききっていくような。カタチなき熱。
焼かれていく紙はやがて。
熱に呑まれて焼ききれて灰にもならずに消滅する。
―――倫理なんて理想論だな、
そのことばに。
最後の黒が熱に呑まれて。壱也はようやく理解できた。
自分が既に、一線を越えてしまっていることを。
振り返ることも出来ないほどに。
確認するまでもないほどに。
越えてしまっていることに。
何を迷う必要があったのだろうか。
何も迷う必要なんかなかったのに。
家族だから、何だというのか。
父親だから、何だというのか。
何も躊躇うことなんかなかった。
護りたいものがはっきりしているのならば。
躊躇うべきではなかった。
陽菜子は初潮を迎えて。もしかしたら目の前にいる汚らわしい男の子供を身ごもるかもしれない。陽菜子だけでなく、陽菜子の遺伝子まで。穢してしまう。
「そろそろ行くか、」
皿を流しに持っていく父親の後姿を、壱也ははじめてまともに見た。
背中は、壱也などあざ笑うかのように大きくて分厚い。
でも。
壱也には護るべき存在がある。
何も恐れるものもなければ、もはや恐怖すらない。
母親がいなくなって、4年が経って。
気づかなかっただけで、その時点で。
“家族”はきっと、もう何処にもなかった。
母親と一緒に、”家族”すら。何処かに行ってしまったに違いない。
壱也には、もう、陽菜子しかいない。護るべきものも、家族として認めるものも。
倫理なんて理想論だと、父親は言った。
倫理なんか、きっと最初から関係なかった。だって、既に倫理なんか飛び越えた行為が行われていたのだから。
倫理なんか関係ない。
壱也はただ、目の前の獣を殺すことだけを考えればよかった。
一線を越えてしまった感情は、
もう、歯止めなど完全に崩壊して、
足枷など完全に消滅して、
ただ、
「父さん、」
目の前だけを、
(2004/08某日 24232文字)