サイクル


―――――ありがとう





0.

「いやです」
「いやね、そう言いたい気持ちもわかるんだけどね」
「じゃあそんな仕事言い付けないで下さい」
 あの世、再生課。社内電話。
「何が楽しくて、「紫糸(しし)」なんかの担当を―――」
「まあね、言い分もわかんないでもないけど。そういうわけだから。ね、観念して。よろしく」
 がちゃん。つーつー…。
「やってられないのだ」
 溜息。
「大変だねえテルちゃんも」
「そう言ってくれるのはタカさんだけです」
「まあ、死神稼業で「糸」に関わることもそうないし。貴重な体験じゃない?」
「じゃあ、タカさんいきますか?」
「遠慮しておくよ。老体に肉体労働はこたえるんでね」
 恨みがましい視線に、タカさんは椅子のコロでもってテルと距離をとった。
「なんで、いまだ平なんだろうボク」
 憐れだ。面倒くさい仕事ばっかりしているのに。
「まあ、行ってきなされ若人」
 ひらひら手を振りながら、タカさん。
「ボクもはやく事務員になりたいのだ」
 ぼやいても、誰もリアクションはくれない。

 +++

 不安だった。 
 いつか眼の間に現れるんじゃないかって思うと。
 死してなお、輪廻再生のサイクルで。
 また眼の前に。
 そう思うと不安だった。不安でたまらなかった。
 そんなとき、いかにも怪しげな行商から、一冊の本を買った。嫌に古ぼけて、広辞苑ほどに分厚い本。
 御代を払おうと思ったら、もう行商はいなかった。
 狐につままれたような気分で、あたりを見回してもそれらしき人物はいなくて、本当に狐につままれたのかと思った。
 この本も気味が悪いと、棄ててしまおうかと思ったが、どうしてか棄てられなかった。
 家に帰って広げると、中は意外と綺麗だった。ページの欠落もないし、破れてもいないし文字のにじみもかすれもない。
 本には、あらゆる「糸」についてかかれていた。赤青黄色。金、銀。紫、黒。
 どれもこれも訳のわからないことばかり。日本語でかかれているから、文字は読めるけど。でも、これが何の糸に関することなのか、全然わからない。
 しかしそのなかで、眼を引いたのは。
 「紫糸」という、糸だった。
 死してなお、世に縛り付ける「糸」。
 作り方―――結び方は。
 無理では、なさそうだ。

 +++

 彼は特別だった。
 そこにいるだけなのに、それだけではなく。
 どこか引きつけられて、重力のよう。
 何も求めていないように見えるのに、常に何かを求めて。
 私にはない、何かをたくさん持っていた。
 好きだったと、今ならわかる。
 だけど、あの頃はそんなこと全然わからなくて。
 ただ漠然と。言いなって思っていただけだった。
 なのに、突然死んで。死んで、終わりで。
 突然置いていかれたような気がして。
 淋しくて哀しくて。
 穴が空いたような気持ちを。
 今でも、はっきりと覚えている。





1.

 クラクションと閃光。
 悲鳴と叫び声と。
 何が起こったのかわからないまま。
 衝撃と、空白。
 それで終わり。

 終わりの、はずだった。

 +++

 遠山和尋。
 16歳。

 小さな地方都市。そのなかで、いちばん高い15階建てマンションの屋上の、さらに上。そこから地上を見下ろすと、人間は人間として認識できない。ただの点。ゴマ以下だ。

 現在、浮幽霊。

 あくびをしながら、この13年間変わらない都市の景観を眺めていると、全部が嘘のように思えてくる。
 自分が死んだのも、こうして13年経った今でもこの世に縛り付けられていることも。
 全部嘘っぱちのよう。
「でもまだここにいるんだな」
 いるものは、しょうがない。そう諦めたのは7年を越えた頃だった。
 何か意味があるのだろう。何か。その何かがなんなのか、今はよくわからないが。
 ふわりと空を泳いで、地上に降りる―――とはいってもせいぜい2メートルくらいまで。幽霊だけにぶつかったりはしないが、行く人行く人が自分の躰をすり抜けていくのは決して気分のいいものじゃない。むしろ不快だ。
 13年経って、人並みも変わった。流行も変わって、今反抗してる子はスカートを短く折ってだぼだぼのソックス履いて。ルーズソックスとか、いったか。
 女の子の足が見えるのは男としてよろしいのだが。寒そうでならない。おやじだな、と歳をとらない自分に思う。
 13年経っても、姿は未だ16の時のまま。顔こそ見えないが、爪も伸びないし髪も伸びないし、服だってずっと同じモノ。歳をとっていないと考えるのが順当だろう。
 本来俺と同じ世代のやつらは、もう既に30も手前のいい大人になってしまった。
 置いていかれたような、微妙な孤独感。俺だけ、ずうっと子供のまま。そう言ったら、きっとやつらは羨ましいとか言うに違いない。
 全然、羨ましくなんかないのに。
 2月の風はやはり冷たいのか、皆コートの前をかき合わせながら早足で歩いている。俺が死んだのも、確か2月だったが、あの日は一足も二足も早い、暖かい日だった。
 あれから13年。
 いい加減しつこいが、13年も経ってしまった。
 もはや輪廻転生なんか信じない。きっとずっと、こうやってふらふらしつづけるんだろう。
 そう、諦めていた。

「遠山くんってキミ?」

 誰に言っているのかわからなくて、しばらく無視していたら。
「あれ? 遠山くんだよね? 遠山和尋享年16歳浮幽霊くんだよね? 間違ってるっけ? 遠山くーん?」
 しつこい。
 あまりにしつこいが、まさか人間相手に俺の姿が見えるわけもないので、幻聴だと自分を納得させる。
「あ、無視? ナニナニ無視しちゃうの? それならボクだってやっちゃうよ?」
 何かを振りかぶる音がして。
 ぱーんっ
「痛っ」
 とっても歯切れのいい、そうこれは―――ハリセンチョップ。
 何ゆえハリセン?
 そこでようやく振り返ると、白と黒の、やけに対照的な色遣いの服を来た女の子がいた。同じ目線に。
 同じ目線。に。
 ということは。
 この子も浮いているという、ごくごく単純な事実なんだけれども。
「何で?」
 ていうか、何でハリセンが当たるの? 何で痛いの?
「やっと気付いた。やっほ〜」
 ひらひら、小さな手を振りながら。にっこり。
 年のころならば10歳前後の。小柄で黒髪の。幼い女の子。
「ボクねーテルっていうんだーよろしくー」
 あはははは。
 あはははは、あは……ははは―――って、何?!
「あの…」
「何? 質問? いいよおっけーなんでもござれい!」
「あんた誰?」
 ぱーんっ
「ぎゃあっ」
「駄目だなー減点だよー切符切っちゃうよー?」
 殴られた頭に鮮烈な痛みが走る。実に13年ぶりの痛覚の刺激に、のたうち回る。空中で。
 その様子を見ながら、テルは楽しそうにハリセンを抱える。このハリセン、痛いってもんじゃない―――凶器だ。
 痛すぎ。
「というわけで、年上のヒトにはそんな口きいちゃ駄目駄目。あ、ボクヒトじゃなかったなー」
「じゃあ、何なんだよ―――いや、何なんですか?」
 構えたハリセンを下ろして、テルは少し考えるように首をかしげた。
「そうだな―――死神ってやつ?」
「もうそっち系の方に用はないんですが」
 死んでしまった人間相手に死神も何もあったものか。しかし、死神が13年も前に死んだ人間に何の用があると言うのだろうか?
「うん、まあそうだろうね。ボクね、あの世で再生課ってところに勤めているんだけど」
 再生課。どっかの会社のような言い方だ。
「そこは、死んだ人がまた輪廻のサイクルに復帰するのを補助するのが仕事なわけね。で、ボクは、キミ、担当」
 指を刺しながら説明。ボクは、テル。キミは、俺。
「つまり俺は?」
「輪廻のサイクルに復帰するって言うわけ」
 にっこり笑って、それって嬉しいことのはずなのに、なんか。
 変な感じ。
 死んだときみたい。
 ぼうっとほうけてる俺に。
「あれ? 何かもっとリアクションプリーズ!」





2.

 気がついたら、何処でもない場所にいた。
 そこが病院だって気付くのに、少し時間がかかった。
 別に何処も悪くないし痛くなかったから、悪いかとも思ったけど、無断で家に帰った。
 家に帰ったら。
 誰かの葬式してた。
 誰が死んだのかと思って覗くと。
 俺の葬式だった。
 ガラにもなく混乱して、触れもしないのに親父に掴みかかって。
 泣けもしないのに泣いた。

 あれから、ずっと。
 この町でふわふわしている。

 +++

「下界なんていつ振りだろーいやーん変わんないねー」
 俺のことなどそっちのけで、テルは久々という世界の様子をうきうきしながら見ている。高度を上げて、見下ろすと、すぐそこにはもう隣町。町内ぐるっと歩いても、せいぜい2時間くらい。小さな、都市というのさえ、笑ってしまうほど小さな町。
 俺はここで生まれて、ここで育って。ここで死んだ。
「遠山くんってさ、浮幽霊でしょ?」
 ふと振り返って、テル。
「知らない。多分それで間違ってないと思うけど」
 動くのは自由。誰かに憑いているわけでもない。ただこの町でふらふらしてるだけ。
「死んでから、ずうっと、この町?」
「一応」
 ふうん、腕を組んで、俺の周りをぐるりと回った。
「一種の自縛霊かな、」
「自縛霊?」
「そっ。この町に縛り付けられてんの」
 簡単にあっけなく、縛り付けられている、とか。
「もしくは想い人でもいるのかな。でもそういう場合ってその人に憑くのが普通なんだよねー」
 うーん…うーん、うううーん。
「まあいいや。浮幽霊のほうが楽だしね」
 何が楽なのかわからないが、勝手に納得して、テルはふわふわと高度を上げた。それを見上げながら、心底変な気分になってくる。
 誰かと会話するなんて、本当に久しぶりのことで、何をどういったら良いのか、なんだかイマイチ良くわからない。
「自然体だよ」
 頭上から、テルが言った。
「構えてるとさ、肩凝るじゃん」
 自分の肩に手を当てて、首を鳴らす。この音も、誰にも聞こえてないんだと、気付くのに何年かかかった。
「遠山くん、この町なんかイイトコない?」
 そう言われて、すぐに返答できない俺。
 この町のイイトコ?
「ないっすよそんなの。こんな小さな町だし名産とか名物とかないし」
「じゃあさー遠山くんの好きだったところとかは?」
 「だった」って…過去形にしやがった。まだこの世にいる人に対しては失礼な発言だ。強く否定できないのがなかなかな痛いが。
「そこの」
 そうして、町のはずれ近くにあるマンションを指さす。15階。この町でいちばん高い建物。
「屋上」
「ふうん。なんかありがちだね」
 何気ないことばにカチンと来る。
「何がありがちなんすか」
「ヒトってさ、何か開放的な場所が好きなんだなって。成仏できないのって、たいていああいうところにいるんだな。憧れって偉大だね」
 凄い言いようだ。言いたい放題。そんなふうに言われる筋合いなんて。
「何様だよ」
「死神さま」
 さらりと言って、俺を見下ろし笑ったテルの顔に、さっきまでの子供みたいな表情はなく。
 それは酷く冷たい。
 確かに「死神」の表情だった。
「まあ、気分を害したなら謝るよ。ごめんね」
 謝るよ。とか言いながら。「ごめんね」の語尾まで言い終わらないうちに、テルはマンションの方に向かっていた。
 ふわふわ、本当に漂うみたいに。
 俺は他に何もしようがなくて、テルの後についていくしかなかった。


「ふうん、なかなかいい眺めじゃなーい」
 屋上の、さらにその上に陣取って、テル。
「まあ、遠山くんのキモチも多少なりはわかるかな」
 ハリセンを肩に担いだまま、少しだけ楽しそうに。
「ここに何かあるんすか?」
「ん? そうだね、モノとしては何もないかな」
 意味不明。「モノとしては何もない」って、どういう意味だろう。
「だいたいね、お迎え―――ボクみたいなのね―――って言うのは遅くても7〜8年くらいで来るものなんだよ。なのに、遠山くん13年目でしょ? いくら僕らの職務態度がよろしくないからって言っても、これはちょっとおかしいんだな」
 まあ、確かに。
 7〜8年が13年にもなれば、倍に近い。
「ていうことはー」
「ていうことは?」
「何かあるはずなんだよね。何か」
「何か…ねえ、」
 そんなふうに言われても、心当たりのこの字もない。
「あ」
 不意にテルが声をあげて、高度を落とした。落下速度に等しい。
「お、おい、ちょっとっ」
 止めようと下を見たら。
 屋上に誰かがいた。
 否、誰か、じゃない。
 知った顔だった。
「九十九、紅音…?」
「あかねちゃん、ね」
 いつの間にか背後にいたテルがぽつりと呟いた。
 ぞわりと、背筋に寒い声で。
「ふーんふうーん。つくもあかねちゃんねー」
「なんすか、気味悪い」
「なんでも〜」
 九十九紅音。
 生きてる頃、少しだけ、深い縁があった女。
 なんでまた、あんなところにいるんだろう?
 高度を落として、紅音が掴んでいるフェンスの、すぐ外側。
 あの頃とさして背丈の変わらない、小柄な躰つき。
 奥二重の眼を伏せたり、上げたり。
 肩まで伸びたストレートの髪。あの頃は、腰くらいまで長かった。
「遠山くん」
 名前に、どきりとした。呼ばれるはずなどないと、思っていたから。
 がしゃりと、リアルな。
 金属が触れ合う音。何故か、涙を誘う。
「なんで、死んだのよ…」
 なんで?
 何でなんて。
 俺が訊きたい。
 何で死んだなんて、本当に。なんでなんだろう。
「紅音」
 声に、振り返る紅音。そこには、背の高い男。誰だろう、知らない。
「深剣くん」
 みつるぎ。―――深剣有馬。
 これが?
 そう疑問に思うほど、あの頃の面影などない。黒ぶちの、細い眼鏡をかけて、スーツなんてカタイもの着て。
 まるで別人。
「また、ここにいるのか」
 責めるような。
「、うん」
 俯いて、言いにくそうに頷く。
「いい加減忘れたらどうだ? あいつは―――遠山は13年も前に死んだんだ」
 そう、変わったんだ。
 だけど、本当はそれが当たり前。
 紅音だって、深剣だって。変わるんだ。
 13年も経ったんだから。もう、コドモじゃないんだから。
「遠山くーん、大丈夫?」
 今、俺と関わっているのは。
 黒と白の、コントラストの服を着た。少しズレた。
 死神だと言う、テルだけなんだ。
「なんでも、ない」
 こんな小さな町なのに、この13年間、知った顔を見かけたことは少ない。
 紅音を最後に見たのは、一体いつだっただろう?
 生きていたのは、本当に13年前なんだろうか。
 本当はもっとずっと昔に。
 死んでいたような気がする。
「なんでもない」
「よくあることなんだよ」
 俺とフェンスの間にするりと躰を滑り込ませて、テルがテキトーなホラでも吹くように。気楽に。
「死んじゃったらさ。そこで終わっちゃうんだよ。たとえば輪廻のサイクルに復帰して、またあの世界に戻っても。また続きがはじまるわけじゃない」
 そんなの、わかっている。
 わかっている、はずだった。
「遠山和尋っていう人は、13年前に終わったんだよ」
 だからはやく、生まれ変わろうよ。
 テルの表情は少しだけ優しくて、俺はどうしたら良いのか。
 死神なのに。そんな表情するなんて。
 反則だ。

 フェンスの向こう側。
 生きている紅音と生きている深剣と。

 フェンスのこちら側。
 終わった俺と、終わらせてくれるテルと。

 対極の存在。





3.

 1周忌、3回忌。5回忌。
 人の数は眼に見えて、減っていって。
 墓を訪れてくれる人も減った。家族でさえ、盆以外では訪れようともしない。
 たまに寺の坊主が機械的に掃除してくれるくらい。
 ああ、こうして。
 時間は流れて、人の記憶も更新されて。
 こうして。
 忘れられていくんだと。

 こうして、人は生きていくのだと。

 まるで他人事のように。
 まるで自分のことじゃないみたいに。

 泣きたいとさえ、哀しいとさえ、思わなかった。

 +++

「ストーカーなんて、時代遅れだよー」
 後ろでテルが言う。無視だ。聞こえない聞こえない。
「遠山くん、死んでまで犯罪に手を染めるなんて罪深いよー、サイクルから除外されちゃうよー」
「ストーカーと言うのは!」
 ぐるりと振り返って、ビシッと指を差して。
「被害が出て、被害者が「これはストーカーよっストーカーだわっ」てなふうに認識して、はじめてストーカーになり得るのだ。そして罪は犯した人間がその行為を罪と認識しなけれなければ罪ではなぁい!!」
「精神論かい? カッコいいけどさ、苦しいよ遠山くん」
 ぐぅ。
 確かに、苦しいが。
 苦しいけれど。
「生まれ変わるんなら、それまでの間だけ。だし。別に何ができるわけじゃないし」
「まあ良いけどねー。付き合う身にもなってみようよ」
「じゃあ付き合ってくれなくて結構」
「そうもいかないんだなー」
 溜息。ハリセンは、背に背負われている。死神と言えば鎌ではないのだろうか、そう言ったら、テル曰く。「鎌なんて持ち歩いてたら銃刀法違反でしょ? 最近厳しいんだなそう言う取締り。というわけで、最近は自由なの。何持ち歩いてもおっけー」らしい。
 いよいよ、あの世と言うものがわからなくなってきた。
 いや、行くんだけど近いうちに。
「一応ボク遠山くんの担当だし。眼ぇ離すと上司が煩いのだ」
「ああそうですか」
 見失った。
 高度を上げて、探索。
 発見。降下。
 俺が今、テル曰く「ストーカー」しているのは、九十九紅音。
 あの日以来、なんだか眼が離せない。見えないとなんだか不安になる。どこかで、なくした感情。良く思い出せない。
 あれから13年。紅音は29歳。オトナ。コドモじゃない。
 スニーカーだった足元は、今はハイヒールになって。
 化粧気のなかった顔には、ちゃんと化粧して。
 そこにいたのは、オトナの女の人。
 俺の知ってる九十九紅音じゃない。だけど。
 だけど。
「ねえ遠山くん」
 頭上からテル。太陽にかぶって、真っ黒なシルエットになって。なのに、それすらも俺以外には影と認識されない。
「彼女、気になるの?」
 表情は見えない。
「なったら?」
 するりと、俺の前に。逆さまに。
「やめといた方が良いよ」
 笑顔のカケラもない、硬い表情で。
「なんで?」
「なんででも。ていうかね、13年経てば人間も死神も変わるよ。死者だって変わるんだ」
「俺は変わってない」
「変わってるよ。月日は確実に、モノを変質させるんだ」
 悟りきった。
 反論できないことばだった。
 俺とは違う。俺よりもずっとずっと、長い月日を生きてきた。
 言い返せない自分が、腹立たしい。
 また、紅音を見失った。追跡行為は諦めて、すうっと高度を上げた。
 町は今日も止まることを知らずに。
 ずっと流れつづける。
 こんなところにいる、流れない俺なんか放っておいて。
「あかねちゃんストーカーして。何がしたいの?」
「別に」
「理由もなく、なわけ? いやーんハードボイルドー」
「それ、絶対ことば間違えてるっすよ」
「だと思う」
 にゃははーって笑って。不意に声を上げた。
「あ。」
「な、何すか急に」
「ゴメンちょっと失礼」
 そう言うと、テルは服の中から携帯電話のようなものを取り出してアンテナを伸ばした。携帯電話なんて……あの世って結構ハイテク?
「あ、あー。はいはい―――て、げ。まじっすか? ほんとに? ―――いやですよーボク仕事中なんですー。そんな雑務は暇な事務の人とかにやってもらってくださーいって、え? 今みんなで出払ってる? て、ボクも出払ってるひとりなんですけど…。え? 何です? そう言うこと言っちゃうわけ? 労働基準法間違ってますよ改定を申し出ます。あ、そうじゃなくて。ていうか、もういい加減にして下さい切りますよ? 切っちゃいますよ? ………問答無用ですか、そう来るんですか? 後から高いですよ? 特別手当申し受けますよ? それでもいい―――て、あ、切りやがった」
 眉間に皺を寄せて、携帯電話を睨むテル。最低なんだなこのやろう、とか、上司命令なんて、なんて便利なことばなんだろう、とか、サラリーマンはつらいのだ、とか。そんなことをぶつぶつ言いながら。
「というわけでー」
 また服にしまって、腕を組んですうーっと音もなく高度を上げる。
「ボク急用。ちょっと失礼するんだよ」
「え、ちょっとっ」
「あ、大丈夫大丈夫。ちゃんとまた戻ってくるから。ね」
 まるで小さい子供に諭すみたいにそう言って。じゃあねと手を振って、消えた。寒い日の、呼気みたいに。
 あっけなく。
 消えやがった………。
 なんて、いい加減な。まあ、いいけど。
 地上を見ると、人は点のよう。いつの間にこんなに高度を上げていたのか。
 人の背丈ぎりぎりまで高度を落として、紅音を探した。





4.

 あのマンションの一室で。
 紅音はそこに住んでいた。
 ひとりじゃなくて、ふたりで。
 深剣と。
 ああ、そうなんだ。変に醒めた気持ちで、思った。そういうコト、なんだ。
 本当は、そんなことではなくて、男と女で、当たり前のことで。
 なのに莫迦みたいに。
 何か苦しい。
 テルはまだ戻ってこなくて、俺はひとりで。
 何処にいたらいいのかよくわからないまま。
 また、屋上の上に。
 意味もなく。
 ただぼんやりと。
「何で俺、まだここにいるんだろう」
 不意に口をついて出たのは、死んでからずっと思っていたこと。猛自由な肉体はなく、いってしまえば精神だけの存在になってまで。どうして。この世界に幽霊として縛り付けられているんだろう。
 テルの言うとおり、物質的な、精神的な何かに縛り付けられているのだろうか。
 それとも、ただの気まぐれなのだろうか。
 どちらでも、状況が変わるわけでもなし、構わないけれど。
 ただ、しっくりこない。いや、しっくりこないというのはおかしいのか…。なんというか、納得できない。
 こうして漂いながら、何年も、横目に時をやり過ごして。
 輪廻のサイクルに復帰するといっても。
 なんだか、それはそれで。おかしな話だ。

 +++

「紫糸」。
 死者に結ぶことによって、輪廻再生を妨げる。
 結ぶといっても、直接死体に結ぶ必要はない。火葬する日本では、それは土台無理な話でもある。
 躰に結べればそれがいちばん良いのだが、結ぶものは実質何でも良い。生前愛用していたものなら、なんでも。
 遠山和尋の場合は、指輪だった。男性モノの、第2関節まであるような大きなごつい指輪。
 紫糸は、結んでしまえばそれと同化し、目には見えなくなる。すなわち、一度結んだら、それが生身の人間であった場合、外すことは不可能となる。
 外せるのは死神、もしくはあちらの世界に存在を許されたもののみ。
「で? 遠山くんの指輪って、何処にあるんですか?」
 役所の奥の奥。社長の前で、テルは腕を組んで問うた。
「ん、それがね。細かい場所は目下調査中」
 にっこり。
 黒縁の細身の眼鏡をかけた上司はにこやかにこたえる。
「いい加減にして下さい」
 こちらもにこやかに、応酬。しかし上司は微笑を崩す気配すらない。
「大まかな場所はわかってるんだけどね」
「じゃあはやく確定して下さいよ」
「それがね、これ以上踏み込んだら煩いのよマスコミが」
 あの世にマスコミも何もないだろうとか思われがちだが、あるにはある。しかもとびきりタチが悪いのが。
「人間に対するプライバシーの侵害だとか、不可侵条約を破る気か、とかね。スキみせると潰されちゃうんだよね」
 あはははは。
「て、そんな軽い問題ですか」
「でもないんだよね」
 とか言いながら、その表情は軽いとしかいいようがない。それとも、もともとこんな顔なのだろうか。
「ちなみに、それ、何処なんですか?」
「ん、深剣有馬ていう人の家の中」
「深剣?」
「あー、遠山くんだっけね。彼の生前の知り合い」
 さらりと。とても重要なことを言う。
「遠山くんの?」
「そう。因みに、糸結んだのもきっと彼だろうね」
「げ。」
 テルの顔が歪んでも、社長の顔は微笑を崩さない。
「駄目だよ、可愛い顔台無し」
 そんな戯言など無視して、テル。
「まじですか? 本気ですか? なんなんですか?」
「って、私に訊かれても知らないよ。今のところの調査結果からはじき出された、まあ、あくまで可能性だね」
 まあ、だろうけど。
「そのヒト、なんかあったりします?」
「あるっていうのは?」
「ヒトじゃない、能力とか」
「ないない、平気だよ。普通のヒトだから」
「でも、普通のヒトに紫糸って…」
「まあねー紫なんて、糸の中でも結構に厄介な部類に入るから……まあ、素質じゃない?」
「素質、ですかねえ…?」
「とりあえず、テルくん出動」
「嫌ですよ」
「ん?」
「だって、そんなことしたらボクが叩かれちゃいます。あいつらに職務上仕方のないことだった、なんて言い訳通じないんですから」
「言い訳じゃないから良いじゃない」
「そういうわけにはいかないんです。知ってるでしょあのしつこさ。社長だって経験済みでしょう?」
「まあねーあのときは酷かったねー」
「風呂場やらトイレやらベッドの中やら。いたるところにカメラやら盗聴器やら仕掛けられて、胃に穴開きかけたじゃないですか」
「いやあ、本当に殺されるかと思ったね。ていうか、さすがの私のちょっとキレ気味だったよ」
「そういう輩は、出来る限り敵に回したくないです」
「うん、言い分はわかった」
「じゃあ他の誰かに―――」
「いってらっしゃい」
「ボクの話聞いてなかったんかい!」
「聞いてた聞いてた、一言一句逃さず聞いてたから。はい、いってらっしゃい」
「しゃちょ―――」
「問答無用〜。早く戻らないと、遠山くん戻れなくなるし、急いだ方が良いよ」
 担当の死者がサイクルに復帰できなくなった場合、それはすべて担当の死神の責任になる。サイクルに復帰出来ないと言うことは、生まれ変われないということで。死者の数が増えれば仕事も増えて。人口密度も増えて―――要は、あとあとのしわ寄せが凄いのだ。そして、サイクルから外れた死者は「悪しきモノ」に変化しかねない。その上、ギョウム成績の上での減点もでかい。
 死神の給料は主に減点法式なわけで、ミスを犯さないように皆必死だ。
「特別手当、期待してますからね」
「考えとく考えとく」
 絶対考えないんだろうな。諦めの縦線を背負って、テルは役所を出た。
 「紫糸」を結べる人間。まあ、確かにいるかもしれない。しかし。「紫糸」を作れる人間と言ったら、かなり限られてくるのではないだろうか?
 思い当たるところがひとつだけあるが、彼らがそんなことをするなんて考えられない。まず疑われるのは自分たちなのだから。そこまで莫迦じゃないはずだ。
 作り方とか。
 普通に生きてる人間が、知って良いモノの作り方じゃない。
「嫌だね、ほんとに」
 嫌なことばっかりだ。

 +++

「遠山くん」
 背後の声に、びっくりして振り返る。
 俺みたいな死人やテルみたいなのは、鏡やガラスに映らない。だから、気配を消せば後ろにいても全然わからない。
「あ、なんだ…びっくり」
 とか言いながら、テル以外に誰がいると言うのだろうかと、思う。テル以外に誰も、いるわけないじゃないか。
「あ、えと。おかえり」
「ただいま」
 掌をひらひら振りながら、表情は笑っていない。
「どうしたんすか」
「どうもしないよ。ねえ、この家って、あかねちゃんの?」
「あ、うん」
「深剣くんも、もしやここ?」
「…みたい」
 確認するまでもなく、カーテンの隙間から見える。本当は中にも簡単には入れのだが、何となく気が咎める。
「入ろうか、」
 何食わぬ顔でテル。無表情。少しだけキツイ。
「入ろうかって…」
「だから、家宅侵入」
「げ。犯罪っすよそれ」
「ストーカーしてたキミが何を言う」
 そう言って、テルはするりと俺の体側を抜けて、室内に入っていった。
「まじ?」
 まあ、まじなんだろうけど。
 後を追って入ろうとしたら。

 あれ?

 壁が、ある。
 壁? 何でそんなモノがっていうか、何で通れないんだろう。
 ていうか、これ、壁っていうか。ガラス?
「あれ、あれ?」
 何で通れないんだろう。
 掌には、しっかりと。ガラスの感触。どうして?
「遠山くん」
 テルが顔を覗かせる。しかし俺は混乱していて、上手く状況説明が出来ない。とりあえず、ガラスを叩いてみせる。
 こつんこつん、
 かすかな、でも音。
 テルは眼を細めて眉を寄せて、俺の手を掴んだ。
「やばいかも、」
 そしてそのまま、室内に戻ろうとした。
「ちょっ、どういうことだよ。何がまずいんだ―――」
「一時的な実体化が進んでる。このままだと、戻れなくなる」
「え、ちょっと。テル!」
 戻れなくなる? 何が? 何処に?
 俺の質問に明確な答えを与えないまま、テルは家の中に入っていって、俺はベランダで。何故か触れるガラス戸の前。
 実体化がどうとか、言っていた。実体化…ということは、躰が、ということ、だろうか。
 それって、イイコトなんじゃないのだろうか。

 +++

 家の中。
 整然と片付いていて、あかねちゃんはさぞかし几帳面な人間なのではないかと思われる。
 ヒトの気配は、ふたつ。ひとつはあかねちゃんで、ひとつは深剣くんのものだろう。
 入ったのはリビングと思しきフローリングの部屋。ふたり掛けのソファと、30インチほどのテレビが置かれている。他には、電話台とファックス。そこらへんの家庭と、備品の面ではそう変わらない。
「今、何か音がしなかった?」
 台所の方にいるあかねちゃんが、玄関の方にいるらしい深剣くんに声を掛ける。
 音。自分のたてる音は聞こえないはずだから、きっと遠山くんの。
 めんどいな、呟いて、リビングに隣接した洋間に入った。
 底は寝室のようで、シングルベッドがふたつ並んでいた。ダブルベッドじゃないんだな、変なところで肩透かしのようなものを喰らう。別に、シングルだろうがダブルだろうが、ふたりの関係は目に見えているが。
 柄から見て、男物のベッドのサイドテーブルは、作り付けの棚のようになっている。そのなかを失敬。―――する前に、一応あたりを見回しておく。まさか、いないとは思うが。
 いちばん上から、最下段。全部で3段ほどある引出しの中を、くまなく見いていく。形見である指輪をそう易々と見つかるところに置いてあるとも思えないが。
―――やっぱり、ここにはない。
 では何処だろう?
 念のため、あかねちゃんのほうの棚も調べる。
 一段目、何もなし。
 二段目、何もなし。
 三段目、何も―――あれ?
 小さな、匣。
 開けると、中には、指輪。
「まさか、」
 閃いた可能性に、息を呑む。
 その音にかぶって。
 嫌な音がした。
 振り返ると、ちいさな。耳のとがった…。驚きが、違う意味の驚きに変わる。
「最低、」
 だがまあ、今更、しょうがないのだ。

 +++

 紅音がガラスに近づいて、開けた。ちょうど、日とひとり通れるかとおれないかくらい。その隙間、入れないかと思って、入ろうとしたら。
 つまった。
 紅音と、ガラスの間に。
 実体化。まさか誰かとぶつかるほどに。
「え? 何?」
 紅音は混乱したように―――そりゃあたりまえだ―――身を引いた。その隙を見て、何とか室内に転がり込む。
 紅音はあたりを見回しながら、自分の躰に異常がないか確かめている。
「どうしたんだ、」
「み、深剣くん」
 リビングには行ってきて、深剣。つかつかと紅音のほうに近づく。て、そのまま真っ直ぐ来たら……。
「ぎゃあーっ」
「うわっ」
 もろに、深剣は俺を踏んづけた。俺の声も、もしかしたらきこえるのかもしれない。なんて思ったりもしたが、もはやそんな余裕などない。
 紅音が、深剣の足元を見ながら恐る恐る呟く。
「ねえ、今、何か聞こえなかった?」
「え、あ、ああ、」
 そうしてふたりで。
 俺のほうを見る。なんとか、まだ姿は見えていないようだ。さしずめ透明人間といったところか。―――透明人間? ということは。
 ……やっぱりだ。躰が浮かばない。
 これじゃ本当に、姿が見えないだけじゃないか。
 しかしそれすらも…。
 紅音の、小さな悲鳴。深剣の驚きの表情。
 畜生、何で思った通りなことになるんだ…。
「遠山、くん?」





5.

 忘れられて、それから、何処に行くのだろう?

 町を見下ろしながら、何度かそんなことを思った。
 この町で、この世界で。
 一体どれほどの人間が、俺のことを覚えているのだろう。
 きっともう、誰もおぼえてなんかいないのだろう。せいぜい、盆に先祖代々一緒に供養されるくらいだ。
 忘れられて、存在が消えて。
 それでも俺はここにいるけど。
 忘れられた俺は、何処に行くのだろう?

 +++

 紅音が、怯えたような泣きそうな、それでいて嬉しそうな。入り混じった複雑な表情を浮かべている。
 深剣は、まるでそんな紅音を守るみたいに、肩を抱いて。
 俺は、何をしたら良いのかわからないまま。
 フローリングに、カッコ悪く座り込んだまま。
「遠山…本当に、遠山なのか?」
「生憎、とね」
 本当に、生憎。何で、こんなことになってるんだろう。
 何で13年経って、今更急に、こんなことに。
「嘘…嘘よ、」
 紅音がよろよろと近づいて、俺の胸倉を掴む。
「嘘よ、こんな…」
 そう言いながら、全身くまなく見て、触って、確かめる。
「こんなはず…」
「こんなはず?」
 紅音ははっとして、俺から離れた。今、なんて言った? こんなはず? こんなはずじゃなかったとか、こんなはずないとか、そういうコト?
「紅音?」
「違う、いや…いやああああっ」
「紅音!」
 崩れるように座り込んだ紅音を抱きかかえたのは、深剣。
 紅音は、頭を抱えたまま、震えている。何がなんなのか、俺にはよく、理解できない。
「つまり、まあ、そういうことなんだよ」
 背後に、いつの間にかテル。ちゃんと床に足をついて、まっすぐ、紅音を見て。紅音にも深剣にも、テルが見えているようだ。
「これ、あかねちゃんが結んだんでしょ?」
 テルが差し出した掌には、指輪。俺が生きている頃、ずっと使っていた。紅音にもらった指輪。その指輪には、紫色の細い糸が結ばれている。糸は難渋にも絡み合って、指輪全体が紫色っぽくなっている。
「それは―――」
「さしずめ、作ったのはキミかな?」
 テルの視線に、深剣は眼を伏せた。
 紫糸。作ったのは深剣で、結んだのは紅音。
「何、どういうことだよ」
 話が読めない。テルが何を言っていて、彼らが何を怯えているのか。
「遠山くんが13年も浮幽霊やってたのも、ボクたちの対応が遅れたのも。つまりはね、これが原因なわけ」
 指輪の、糸の部分を指差して。
「その、紫色の糸が?」
「そう、まあ、詳しくは後でね」
 俺から視線を外して、再び彼らの方を見る。
「ねえ、これの作り方、どうやって知ったの? 教えてくれないかな?」
「………」
「教えてくれないと、成績下がっちゃうし、困るんだよね」
 にこやかに。やわらかいやさしい、強制。
「………」
「強情だなあ、そういうのって、長生きできないよ?」
 指輪を持っていない方の手を伸ばすと、真っ黒で、大振りの鎌が浮かび上がるように現れた。
 彼らの表情が引きつる。俺だって。ていうか、銃刀法違反とか何とか―――。
「あれ、信じてたの? 遠山くん意外とお人よしだね」
 くすくす…。
「ね、教えてよ。本当はさあ、人間にこう言うモノ向けちゃいけないんだよね」
「か、買ったんだ」
 口を開いたのは、深剣。
「何処で? 誰から?」
「知らない、」
「知らないなんてそんな―――」
 言いかけて、テルの表情が変わった。
 頭上を見上げて、げんなりと呟く。
「最低、タイムアップ」
 一同、呆気に取られていると、テルは釜の先で指輪をなで、糸を切った。
 ぷつりと、軽い、張り詰めたものが切れるような音がした。
 躰が、消えていくのがわかった。
「遠山、くん」
 紅音が、呼ぶ。俺の名前。
「遠山くん、あたし…」
 何が言いたいのか、察することすら出来ないけれど。俺は、首を振った。
 そういえば、言いたいコトとか、いっぱいあったんだけど…。死んでからずっと、紅音だけは、俺のこと忘れないでいて、墓とか、良く来てくれていた。
 紅音だけは。
 俺のことを忘れないで。
 それが、もしかしたら全然違う意味だとしても。
 俺はそれが、嬉しかったから。
 嬉しかったから。
 何か言いたくて、いっぱい伝えたくて。
 なのにいざとなったら、ことばなんか全然出てこない。
「紅音、」
 名前を呼んで、それすら、ちゃんと届いているのか。
 たくさん、言いたいコトがある。13年間、ずっと思っていたこととか、あったこととか、いっぱいある。だけど、出てこない。
 やっと、出てきたのは、足ったヒトコト。
「ありがとう」
 忘れないでいてくれて。
 どんな意味でも、存在を忘れないでいてくれて。
 ありがとう。
 紅音の眼が見開かれて、俺の方見て。
 笑ったつもりだけど、わかんなかった。

 +++

「違う、」
「紅音?」
「あたし、お礼なんて、言われるようなことしてない」
「あたしは、遠山くんが、また眼の前に現れて欲しくなかったから、だから」
「紅音、」
「死んでも、まだあたしの中にずっといて、ずっと大きいままで、忘れられなくて。だから、このままじゃあたしが、駄目になりそうだったから、」
「紅音、もう良い」
「なのに、遠山くんあたしに、ありがとうなんて」
「もう、良いから…」
「ありがとう、なんて―――」





6.

「つまりはまあ、そういうこと」
「いや、わかんないから」
 多分あの世で。役所らしい場所のロビーで、むうっと唸ってから、テルは言った。
「指輪に巻きついてたこれね、紫糸っていうんだけど」
「しし?」
「紫の糸って書いて、ししって読むの。でね、これ一種の呪いなわけ」
「呪い、」
「そう。これを死んだ人の死体やら遺品やらに結ぶと、そのヒトの輪廻転生を妨げるの。まあつまり、ボクらのリストから消えるわけね」
 指輪から離れた糸は、今はもう黒ずんで、なんともいえない色になっている。結ばれているときは、鮮やかな紫色だったのに。
「で、これが遠山くんの指輪に結ばれていたから、13年もほっぽったままだったって訳。ここまで良いかな?」
 頷く。
「でね、これって、結構特殊な作り方でね。普通の人間は知らないんだよ、作り方」
「でも、深剣は知っていた」
「らしいね、まあ、そこは目下調査中なので、今はコメント控えます」
 それで。
「深剣くんは、まあ不安だったんだろうね」
「その不安って、俺が原因、とか?」
「ぴーんぽーん。遠山くんにアタック権が移りまーす。ま、ね。そんなとこ。詳しくは知らないよ。そこまで調べられないから。でもね、深剣くんは、糸を作ったは良いけど結べなかった。怖気づいたのかな。わかんないでもないけどね」
「それを、紅音がみつけて」
「結んだと、そういうかんじかな」
「なんで?」
「女心は男には理解できないんだよ」
「理由になってないし」
「あかねちゃんもね、不安だったんだよ」
 好きなヒトが死んだ。その人はもういないのに、死んだのに、自分の中から消えない。色あせることすらなく。なのに、忘れなければいけない。忘れないと幸せになれない生きていけない。
「死んだ遠山くんにはわかんない類の不安だね」
「さいですか、」
「で、もう良いかな? 納得した?」
「え、まだ全然」
「んー。でもね、そろそろ時間なんだな」
「時間って?」
 ホラ、テルはロビーの奥にあるエレベーターを指さした。
 ていうか、ここは本当にあの世とかいうところなのか?
「再生課実行係。輪廻のサイクルに復帰させてくれる人たち」
「ちなみに、あんたは?」
「再生課回収係」
 げんなり、そんな感じで回答。
「ふうん、」
「あ、今笑ったね?」
「笑ってない笑ってない」
「ぐー…うそつきはイイトコに生まれ変われないんだから」
「どうだかね、」
「遠山和尋さんはこちらですか?」
 ソファに深々と沈み込んだテルの頭上から、声がかかる。
「あ、ミヤちゃん。やっほー」
「どうも先輩」
 ミヤちゃんと呼ばれた女の人は―――先輩とか言っているが、外見は明らかにテルより年上だ―――俺を見て、お迎えに上がりましたと、丁寧に頭を下げた。
「あ、はい」
「さあ、行った行った」
 ひらひら手を振りながら。
「あ、うん」
 立ち上がって、ついていく。
 振り返ると、テルはソファの背もたれに隠れてもう見えなかった。

 +++

 ソファにもたれかかったまま、息をつく。
 これから社長に報告して、特別手当をねだって、またデスクに戻って。
 きっとまた次の担当が待っているに違いない。
 生まれ変わるのを。
「さて、戻ろうかな」
 ソファから勢いをつけて立ち上がって伸びをしたら、玄関の方がにわかに騒がしくなった。
 なんだろうと思ってみていると、手に手にカメラやらメモやらマイクやら持った、背の小さな、耳のとがった………マスコミの連中。
 やつらはきょろきょろしながら、テルを見つけると凄い勢いで突進してきた。
「ちょっとあなた! 人間の家に勝手に入って良いと思ってるんですか!?」
「不可侵条約を犯してますよいいんですか?!」
「死神だからって許されると思ってるんですか?!」
「職務上仕方のないことだからって、許されると思ってるんですか?!」
「鎌なんて物騒なモノ持ち歩いて良いと思ってるんですか?!」
 すうーっと。血の気が引くのかわかった。
 とりあえず、今は逃げるのみだが。

 +++

「あの、」
 エレベーターに乗り込みながら、ミヤさんに訊く。
「俺、どういうところに生まれ変わるんですか?」
「職務上お教えできません」
「あ、そうですか」
「ですが、統計的に見て、あなたにとってそんなに嫌な場所ではないと思いますよ」
 背を向けているので、表情はわからないが。優しい声だった。
 このエレベーターには回数表示がない。上に行っているのか下に行っているのか、それすらもよくわからない。
 ちん、と音がして、扉が開いた。
 何故だか、安心している。
 生まれ変わるって、こんな感じなのだろうか。
 エレベーターから出て、ミヤさんの後に続く。長く続く廊下には、左右等間隔に白い扉が続いている。
 その中のひとつの、純白の扉の前で立ち止まって、俺を振り返った。
「ここです」
「ここ?」
「この扉の向こうが、あなたの来世です」
「そう、ですか。あの」
「なんでしょう」
「やっぱり生まれ変わったら、今までのこと、忘れちゃうんですよね」
「そうですね。記憶はリセットされます」
 前世と言われる今までの、記憶を背負ったままでは、生きていけないから。
「この扉をくぐったら、それで。生まれ変わり、なんですか?」
「はい、くぐった瞬間から、「貴方」は新しい命に宿るのです」
 新しく生まれる。そういうこと。
「では、どうぞ」
 扉の前から避けて、初めて、扉の全容が見える。
 真っ白な。しみも汚れも全然ない。
 扉。
「あの、」
「なんでしょう」
「テルに、ありがとって、伝えといて貰えませんか?」
「わかりました」
「ありがとうございます」
 俺は、扉に手をかけた。
 扉は音もなく開いて、そして。
 意識はなくなって―――。



 狭い狭い道を通って、やっと出口。
 大気に、濡れた躰が冷たい。
 空気を、いっぱいに吸い込んで。
 思い切り、声を上げて泣いた。


(2002/09某日 16760文字)