ひかり
はじめから、わかっていた。
彼は、僕にとってトクベツになるんだ、と。
「さいじょう、いち?」
「…はじめ、」
「じゃあ、いっくん」
「は、?」
「あだ名。僕は橋本和馬。すきに呼んでいいよ」
6年前。地元の3つの小学校から寄せ集められた公立中学の、1年5組の教室で。
僕は、はじめて西條一に出会った。
41人のクラスメイトが、ざわめく教室の中で。彼はひとりぼんやりと、窓の外の桜を眺めていた。
「僕、中央小なんだけど、いっくんは?」
「…俺は、希望が丘…」
「…あれ、希望が丘って、学区違うよね?」
「別にいいだろ」
ふいっと顔を背けて。僕を避ける。
父親は外に女を作ってほとんど家に帰ってこない。母親は、僕が学校に行っている間に、男を家に連れ込んでいる。
母親が17歳のときに生まれた僕は、既にふたりの生活の足枷的な存在でしかなかった。29歳の両親。お互いをかろうじて繋ぎとめていたのは、僕という存在だけ。
でもそれさえも。
もう手遅れなんだと知っている。
はじめてセックスをしたのは、小学校6年のとき。相手は、まだ初潮もきていないクラスメイトの女子だった。お互いに興味本位で。僕は、いつか垣間見た、母親と知らない男とのセックスを思い返しながら、その子の躰に指や舌を這わせた。
絶頂というものを迎えることは出来なかった。躰に残ったのは、鉛のようにおもったるいダルさだけだった。
それでも、僕は機会さえあれば、いろんな女の子とセックスをした。要は、家族3人、みんなが狂ったようにセックスに没頭していたわけだ。一体どんな家族なんだろう。
そんな両親も、僕が高校を卒業した1週間前についに正式に離婚した。僕の親権は父親が持つことになった。母親は何の文句も言わずに、僕を手放した。
何も期待していなかったけど、すこしだけ傷ついている自分がいた。
中学に入って、出会った西條一と、僕は意識して一緒にいるようになった。彼といるときは、”本当の自分”になれる気がした。何も知らない、無垢な子供に。
とうの昔になくしてしまった、幼さを。彼のそばにいれば得られるような気がした。
「和馬、」
彼は僕のことを名前で呼び捨てた。クラスでそう呼ぶのは彼だけだった。
「なんだい、いっくん」
そしてそれと同時に、彼のことを「いっくん」とあだ名でよぶのは、僕だけだった。僕はちょっとした特権を得たように、彼を「いっくん」と呼び続けた。
中学3年のときに、間違って相手の女の子を妊娠させてしまったことがあった。もちろん堕ろすしかなかったわけだけど。僕ははじめて、相手の女の子に対して申し訳ないと思った。
今まで、行きずりのようにセックスをしてきた女の子の数は、もう両手両足の指を総動員しても足りない。なかには、何を勘違いしたか、泣きついたり、烈火のごとく怒ってひっぱたかれたこともあった。そのたびにいっくんは僕に釘を刺した。「ほどほどにしろよ」
中学3年の一件のとき、いっくんははじめて僕を殴った。何処か純粋で、暴力が嫌いで。今まで誰も殴ったことがないといっていた彼が。
はじめて、僕を殴った。
僕は殴られた頬を押さえることも忘れ、座り込んだまま、あっけにとられていっくんを見上げるしかなかった。
涙の滲んだ眸で。
放課後の赤いひかりが世界を染め上げていくなか。
「おまえ、自分が何してんのかわかってるのか?」
「何って、セックスだよ」
「俺は、今までずっとお前に言ってきたよな。ほどほどにしろって。行きずりで女とやって愉しいかよ!? そんで、女を傷つけて――子供だって殺して!」
コロシテ。
「殺してなんかないよ。子供っていったって、ただの細胞の塊じゃないか。意識も意思もない。ただの――」「和馬!」僕のことばを遮って。震えるほど握り締めたいっくんの両手。流れる涙は、一体誰のため何だろう? 妊娠した女の子のため? それとも堕ろした子供のため?「もう、自分を傷つけるの、辞めろよ」
「――え、?」
「和馬がやってることは、みんなが傷つくことだぞ? 女子だって、今回みたいに、子供が出来たら、その子供だって。和馬自身だって。みんなみんな傷ついて、何もいいことなんかないじゃないかっ」
「…いっくん、」
「もう辞めろよ。な? 淋しいんなら、俺がそばに居るから。俺は和馬のトモダチで、親友で。ずっとそばに居るから。だからもう、傷つけるだけのセックスなんかやめろよ」
「…いっくん、」言って、僕は自分がわらっているのに気づいた。「無理だよ」
「和馬っ」
「僕はこうして生きていくんだ。決めたんだ。だから、いくらいっくんの頼みでも、駄目だよ」
「…」
「ねえ、いっくん、僕はこういう生き方しか知らないんだ」
俯いた視線のさきの、いっくんの上靴が、床を蹴って。教室を飛び出していった。
「いっくん、」
いっくんも僕を棄てる? 棄てはしなくても、嫌がる? まるで両親のように、僕は邪魔な存在になる? もう、トモダチじゃない? 親友でもない? もう、僕にはわらいかけてくれない? もう、僕の名前を呼んでくれない? 僕のそばにいてくれない? ―――それも、仕方がないのかもしれない。
僕は、確かに最低の人間だから。
女の子をとっかえひっかえ、一時しのぎでも、誰かと繋がっていたくて。少しでも、両親と近い位置にいたくて。
それが間違っているとしても。
「あーあ…」
頬に触れると、刺すように痛かった。でも、彼を失ったかもしれないと思うと、ココロの方が何倍も痛かった。
翌日からしばらく、いっくんは僕に近寄ろうともしなかった。それはきっと、当たり前の結果なんだ。
それから、僕はしばらくセックスを控えた。なんとなく、する気にならなかった。携帯にメールが入るたびに、過剰に反応して。
まるで恋焦がれる女の子みたいじゃないかと。自分で自分をわらった。
女の子とのセックスを控えるといっても、週に1回はなんだかんだでセックスしていた。なんとなく、それが僕のアイデンティティ、みたいなところがあったから。
冬休みに入る直前のHRが終わった後、久しぶりにいっくんが僕に話しかけてくれた。「和馬、」ぶっきらぼうに、僕を呼ぶ彼は、あの一件より前のままで。でも、何処かに痕を残して。
どうして彼に傷跡が残るのだろうか。傷つけた僕には残っていないのに。
「なに?」
僕はかばんに教科書をつめながらこたえる。いっくんがどんな表情をしているのか、凄く気になったけど、あえて見なかった。見ることができなかった、のほうが適切かもしれない。
怖かったから。
欲しているのと同時に、完全に失ってしまうことが。
どうしようもなく、
怖かったから。
「一緒に、帰らないか、」
「…」手を止めて、僕はやっといっくんを見上げる。「…え、?」
「別に、嫌なら無理強いはしないけど」
視線を横にそらしながら。もごもご、言う。そのしぐさが、なんだかおかしくて懐かしくて、僕はふきだしてしまう。
「何わらってんだよっ」
不機嫌そうに言ったいっくんの頬は、少し赤くて。
「なんでもないよ。帰ろう」
僕はこみあげるわらいを抑えながら、席を立った。
「結局、言わなかったね」
僕はアイスティーにポーションミルクをたらして遊びながら、いっくんに言う。高校を卒業してから1週間。
「…」「志麻に」「…」「入学式で一目惚れして、結局卒業するまで―――」
同じ高校に進学して、――僕はそのためにものすごい受験勉強をした――卒業して。入学してすぐに、僕はいっくんにある事実を告白された。
それは、帰り道のこと。朝からずっと様子がおかしかったいっくんは、ついに口を割った。
「俺、すきなこ、できた…」
一瞬、よく理解できなくて。僕は瞬きを繰り返し。
「…ホントに?」
ようやっと切り返した声は。たぶん結構無様に震えていたと思う。何だろう。何でか、傷ついていた。そのときの僕。
「だれ?」
問うと、いっくんは顔を真っ赤にして。「しま、」言った。「志麻薫」
「でも、志麻って彼氏いるみたいだし…」「知ってる、そんなこと」耳まで真っ赤にして。いっくんはどうしようもない焦燥感に突き動かされるように頭をかいた。こんな彼を、3年つるんできて、僕はこのときはじめてみた。
話を聞くと、入学式で見て。いわゆる一目ぼれってやつで。志麻に彼氏がいるんだろうというのは左手のリングから想像出来たけど、それでもすきだ、て。
「はつこい?」
僕が訊くと、いっくんは少ししてから。
「…」
うなずいた。
「初心、だねえ…」なんというか、反応が。
そんな初恋から、3年がたって、僕はクラス委員の実権を駆使して、いっくんに志麻にとりあえず思いを伝えるチャンスをいくつも作った。林間学校も修学旅行も、同じ班になるようにした。もちろん僕も同じ班だったけど。
「言う機会がなかった」
僕のやったことを知ってるくせに、いっくんはこんなことをいう。酷いなあ。「ずぅっと同じクラスだったのにィ?」僕は少し悔しいから、わらいながら言う。
僕の手からポーションミルクが掻っ攫われた。どばっといっくんのアイスティーのなかにポーションミルクが落ちていく。
余裕ないなあ、なんて。いっくんのそんな様子を見ながら思う。
「機会がないんじゃなくって、いっくんには当たって砕ける度胸がなかっただけだね」
わらうのをやめて、僕はアイスティーを細いストローでかき回す。澄んだ琥珀色が白濁色に変わっていく。
「当たって砕けるなんてばかなことしたくないだけだよ」「傷つくのが怖いって素直に言いなよ」
いっくんのことばに応酬。今度はガムシロップを入れる。いっくんはぐぅの音も出ない顔で、僕をにらむように見る。僕はそれをかわすようにわらった。よく女ウケがいいといわれる表情で。
「ま、後悔とかしてないなら、いいんだけど?」
これでもかと含みを持たせて、僕は言う。
「志麻の彼氏ってさ、どんなのか知ってる?」
「…知ってるよ」
志麻薫の彼氏は、頭もよくてスポーツも出来て、顔もよくて、将来有望なタレント。住んでる世界が違うような人間。
「なんていうか、彼氏の正体知ってから、いっくん敵前逃亡だよね。志麻のことはすきなまんまで」
「あんな男と比べて、どう勝ち目があるよ? 俺はお前みたいなタラシでもなければ、当たって砕ける無策な莫迦でもないんだよ」
「否定はしないけど、タラシって言うの辞めてよ」
事実だけど。なんか改めて言われると微妙な感じがする。
「ま、策を練ったところで無駄だっただろうけどな」
「そうかな」
「…どういう意味だよ」
氷が安定を失って、からん、崩れてグラスのなかで音をたてた。僕は少し間を置いてから、いっくんに言う。
「怒らない?」「何を?」「今から僕が言うこと。いっくん絶対怒らない?」「…モノによるぞ」「怒らない?」「…わかった。怒らない」「ホントだね?」「ホントだよ」
くどいほど確認してから、僕はアイスティーを一口嚥下して言った。
「僕、一回だけ志麻とえっちしたことあるよ」
反射的に立ち上がったいっくんに、僕は静かに視線を向ける。「怒らないって言ったよね」
何か言いたそうだったけど、台詞に毒気を抜かれたのか、またファミレスの安いソファーに元通り座った。フロアスタッフの視線が微妙にこちらに向けられている。
「……なんだ、それ?」平然としたふりで。
「言っとくけど、僕だけじゃないよ? クラスの…そうだな、僕が知ってるだけでも3人としてるよ。志麻は」
「…嘘だろ、」
「ジ・ジ・ツ。」
一音一音綺麗に発音してあげる。こういうのを、いらぬ親切って言うのかな。
「やっぱり、彼氏が彼氏だけあってさ、志麻も相当可愛かったじゃん。そこらのアイドルなんかよりずぅっと。誘われたら断れないよね」
まるで他人事のように思い出す。僕を斜めに天井を見上げながらため息混じりに言う。「僕だって、断らなかったし」思い出しても、志麻は綺麗な躰をしていた。「お前が言ってもなんの信憑性もないぞ」「僕だってえっちする相手くらい選ぶ権利あるよ?」「そりゃそうだけど…」
ショック。という単語が、一字一字、いっくんに降りかかっているようで。目つきが虚ろだ。
「ま、もう卒業しちゃったし。いっくんは県外でしょ? 進学先。もう関係ないじゃん。初恋はほろ苦いって相場が決まってるんだし」
にこにこわらいながら僕は言うさらに毒気を抜くように。いっくんは何かを諦めたように脱力した笑みを浮かべた。
「和馬の初恋もほろにがかったわけ?」
「そうだよ」
頬杖をついてこたえる。僕の初恋か、言われて思い返すけど。いったい誰を好きになっただろう。どの女の子をすきになっただろう。考えても、どの子もいまいち、ピンとこない。
いっくんはミルクだけのアイスティーを飲んだ。甘党なのにガムシロップなしで。
案の定、眉間にしわが寄った。
いっくんと別れてから、クラス委員の相方、日野文恵からメールが入った。謝恩会の場所が決まったというものだった。場所とはいっても、クラスメイトの松本小百合の両親が経営している焼肉屋、という、うちのクラスにしてみればお決まりの場所だった。文化祭の打ち上げとかでよく使わせてもらっている。
僕は了解の旨を日野に返すと、いっくんにメールを打った。
『今日の夜7時から、松本の家で追い出し会だ!』
文面は少しふざけたくらいがちょうどいい。送信。
送信完了の文字を見届けてから、僕はクラスのほかのメンバーにもコピペコピペで送信していく。
クラスメイトの半分に送ったところで、僕は一足早く松本の家に向かった。
「あ、橋本いらっしゃい」
店の引き戸を開けると、松本が快活な笑顔で言った。僕よりは低いけど、女子としては結構高めの身長で、男女ともにウケがいい。
「日野は?」
「ん? ああ、買出しに行ってもらった」「ひとりで?」40人いるんですよ? 材料なんてものすごい量になるだろうに。「だって橋本来るの遅いし!」びしっと指を突きつけられた。「僕のせいかよ」「まあね♪」
ため息をつく僕に、松本はにっこりわらって。「ヤマダヤだよ。文恵が買い出しに行ったの」「…いってきます」
「いってらっしゃーい」
ひらひら手を振られた。ヤマダヤなんて此処から走っても10分くらいかかる。何でそんな遠いとこに買い出しに行くのだろうか。もっと近所に大きいスーパーなんていくらでもあるだろうに。
日野文恵は、僕のセフレの一人だ。でも彼女はほかの女の子とは明らかに違って、何も言わなかった。お互いが必要なときだけ躰を重ねて、ほかは本当にどこにでもいる友達と同じ扱い。それが楽で、クラス委員も2年3年と一緒にやってきた。
はつこい。
日野との距離がちょうどよくていいなあ、と思ったことはあるけれど。これは恋愛感情に繋がるものなのだろうか。
なんだか、本当にピンとこない。
僕に恋愛感情なんて、あるのか?
全力ダッシュでヤマダヤに向かいながら。頭のなかではサミットが開かれる。議題、橋本和馬の恋愛感情とその対象について。数人の僕が議論する。そういう妄想。
完全に息が上がっていたが、ヤマダヤにつくころには、サミットの議論は白熱化していた。それを無理やり解散させて、僕は開けっ放しの自動ドアから店内に入る。
青果コーナーを通り過ぎて、精肉コーナーへ。平日の昼だからか、あまり込んでいない店内で、日野はすぐに見つかった。
「日野!」
呼ぶと、彼女は驚いたように顔を上げた。「…橋本くん」
「どうしたの?」歩み寄る僕に、日野は心配そうに声をかけた。僕がいまだぜはぜは言っているからだろう。運動不足だ。
「松本、から、ここに買出し、来てるって、聞いたから」
「あ、小百合が。――で、来てくれたんだ?」
「一応、ね」
「…ありがと」
わらった日野の顔は、見慣れているのに、何だか違うようで。
「さ、買出し、済ませようか」
日野の細い腕からかごを奪うと、僕は言った。
「ねえ、橋本くん」
「なに?」
買出しの帰り。大量の肉と野菜を抱えた僕に、日野が話しかける。
「橋本くんって、恋したことある?」
「…なに? 急に」「ある?」僕の戸惑いなんか他所に。日野が問う。「そうだねー。…ないかな」何を馬鹿正直にこたえているんだろう、僕は。ここははぐらかしてもいいところなのに。
「本当に? 18年も生きてきて?」
「そうだよ。悪い…?」
「いや、悪くないけど。――そっかあ。橋本くんってやることはしてるけど結構初心なんだ」
愉しそうに顔のすぐ下で指を絡ませて。日野。
「初心、かなあ。僕相当ヨゴレだと思うけど?」「じゃあ私はヨゴレな橋本くんと何回もえっちしたわけ?」
軽く見上げる表情。公道でそんな会話。女の子って理解に苦しむなあ。別にそれもいいけど。
「そういうわけ」
「あは、ひどーいっ」
「ま、そんなもんでしょ。僕たちの関係って。日野”さん”」
「…。だよねーっ」
少しの間のあと、日野はいつもどおりにわらった。今の間は、なんて訊かない。被らなくていい火の粉は被らない。生きていくうえでの鉄則だ。相手がいっくんなら別だけど。
「そういえば、今日全員来るんでしょ?」「ん、そうだよ? そのために卒業式が過ぎてから1週間もしてから謝恩会開いたんだし」「でも国公立ってまだなんじゃないの?」「…さあ? でもうちのクラス、もともと国公立志望なんてほとんどいないし」「テキトーだねぇ」「そりゃもう。テキトーじゃないとクラス委員なんてやってられないよ」
胸を張って。「そこは威張るところじゃないよ?」「いいのいいのっ」
16時半を少し過ぎたころ、ぞろぞろクラスメイトが集まり始めた。僕は松本にこき使われて――日野はのんびりしてたのに――厨房と座敷を行ったりきたりしていたから、いっくんがいつ来たのかはわからなかった。
「橋本ー、野菜もう一皿持ってってー」
「一度に言ってよホントに!」
座敷のテーブルに野菜を置いた僕は厨房に向かって軽く愚痴る。
「相変わらず、和馬も松本にはあごで使われてんな」「あ、いっくん。来てたんだ」「忙しそうだな」「まあね。あごで使われてるっていうか…なんだろう、なんかあのテンション苦手なんだよ。上手く、こう、乗りこなせないっていうか…」「はしもとー!」「はーいっ」
苦笑いをうかべて。僕はいっくんに肩を竦めて見せる。
「手伝おうか?」
いっくんはよほど僕がかわいそうに見えたか、そう切り出したけど。
「いいよいいよ。それよりも、」顔を耳元に寄せて。「今日が最後のチャンスだからね」言って。「な…っ!」「ファイトいっくん」ちいさくがっつポーズを贈って、僕は松本がてんやわんやになっている厨房に戻った。
少し戸惑ったように頬を赤らめたいっくんは、18歳には見えないくらい幼く見えた。僕が志麻なら、逆にすきになるんじゃないかと思うくらいに。
17時。
定時きっかりに、担任の野島先生が店に入ってきた。
ほぼ全員が集まっていた店内は、担任の登場で一気にテンションが上がる。僕はようやく準備から解放されて、厨房でぐったりしていた。
「橋本」そんな僕に、女王様のおヒトコト。「飲み物出すから、注文とってきて」「…あの、松本さん…」「あたしも手伝うから。20人分。あ、先生も入れて21人分。ヨロシクね!」
何故そこで微妙に僕の分担が増える?
殺人的な最後の大仕事を終えて、座敷のほうではカンパイの音頭が聞こえてきた。そこらへんの盛り上がりは日野に任せた。僕もう動きたくないの…。
「えくとぷらずむー」
「なにそのアタマ悪そうな言い方…」
「酷っ」
コト、僕の前にオレンジジュースをジョッキでおいて、松本が僕の頭が乗っている厨房台の横に座った。
「お疲れ様」「…あい。」「感謝してるよ」「そうですか」「ホントだってば!」少しムキになって松本がいう。「…ま、信じてくれなくってもいいけどー」
「ありがとう」
のっそり上体を起こして、ジョッキなみなみのオレンジジュースを一気に半分ほど飲んだ。
「ねぇ、橋本」「なに?」「あんたの愛しのいっくんのトコに行かなくていいの?」「トゲトゲしいなあ。何その言い方」「まさかあんたたちコッチなんじゃないでしょうね?」ちらりと見ると、掌を口に添えた松本がおどけた表情で。なんだか、酷く莫迦らしいことのように思える。なんだろう、そのせまっくるしいカテゴリ。そんなものに、勝手におしこめないでよ。
「だとしたら?」「女子の間で結構な噂ってこと」「違うからいいじゃん。僕といっくんはフツーの、親友。それだけだよ」「ふぅん、」
あさっての方向を見ながら、松本は瓶コーラをラッパ飲みする。
「ねぇ、橋本」「…なにか?」「セックス、しようか?」「…また、発想が突飛だね」「駄目かな、」「さあね」
今まで松本をそう言うふうな人間とみていなかった僕は、誘いのことばに、少しも艶の色香を感じない。
「あたしじゃ、役不足、か。魅力ないしね」「別に、誰もそんなふうに言ってないよ」「橋本さぁ、ホントの本当は、西條のことがすきなんじゃないの?」
見上げた松本のローアングルのかお。僕は手で拳銃を模って、松本に向けて。「ばん。」
「…痛いヨ」くすんだ緑色のように。わらって。「あたし、知ってたよ」「……」「あんたたちが、親友だけど、何かそれ以上だってこと。特にあんたのほうがね」僕のまねをして、手で拳銃を模して。「ばん。」指先を吹いて、松本はうっすら笑う。オトナのオンナみたいに。「――あたし、橋本のことすきだったから。他の子が気づかないことでも、気づいてたよ。よく見てたから」
言って、松本は厨房台から、すこし勢いをつけて飛び降りた。そのまま座敷のほうに歩を進める。その後姿に。「松本、」
立ち止まった松本は、一拍置いてから、振り返る。
「なにか?」
「僕がいっくんをすきなのは恋なのかな?」
「それを、今まさに失恋した女に訊く?」哀しみや怒りや、いろいろまじった曖昧な表情は、やがてえがおになって。「それは橋本しか知らないことだから。―――あたしは知らない」
ひとり残った厨房で。僕は天井を仰いだ。蛍光灯がちかちかして、おじいちゃんの代からやってるという文句にふさわしく旧い雨漏りの痕とか。キズとか汚れとか。
恋。
とか、
すき。
とか、
ただ僕にとって確かなのは、いっくんがトクベツだっていうことで。
それは、そんな恋愛感情なんてカテゴリに入れちゃって大丈夫なのかどうか、よくわからない。
オレンジジュースが残り三分の一になるまで考えてから、僕も座敷に行こうと厨房の安っぽい丸いすから立ち上がった。
いっくん、うまくやったかな。
片付けはいいよ。そういってくれた松本のことばに甘えて、僕は解散と同時に店を出た。このまま二次会になだれ込む輩も多いみたいだけど、僕はもう帰ることにする。いっくんも帰るというので、一緒になって並んで歩く。
「ねぇいっくん」
「ん?」
「志麻。ちゃんと言えた?」
「…」少し間があって。「言ったよ」いっくんは熱いものを飲み込んだ後みたいな表情で。
「良かったじゃん。3年間の片思い、一応でも伝えられて」
「まあ、気持ちの区切りは、ついたかな」「煮え切らないね。何かあった?」「なぁ、」「うん?」「女の子ってさ、へんな生き物だよな」
吐いた息が、夜の闇に白く浮かんで。紛れて消えて。
「そのココロは?」
ダッフルコートのポケットに手を突っ込んだまま、僕が問う。
「付き合えないけど、セフレならいいよって。言われた」
「…それはそれは。また…過激だね」
「俺はさ、気持ちを伝えたかっただけだからって、話しを打ち切った。逃げ、かな」
「別に。すいたほうが負けなわけないし。いっくん自身がよくないとおもったことをすることないよ」
「…そっか」「そうだよ」
ねぇ、いっくん。
話しかけたくて。でも、話しかけられない自分がいる。
「明日雪が降るんだってさ」
「そりゃ冷え込むわけだよね」
「雪降ったら、積もるかな?」
「なんで?」
「朝いちばんにしかみられない、綺麗な白銀のいろがすきなんだ」
6年前、はじめて出会ったときから。
僕は、いっくんが僕の特別な存在になるんだって。
わかってた。
「さいじょういちくん」立ち止まって。僕はいっくんの名前を、間違えて呼ぶ。「…」数歩前にいっていたいっくんは、振り返って。「はじめ。」初めて出会ったあの人同じようにこたえた。
「いっくん」
「んー?」
「僕、いっくんに会えてよかった。ホントにココロから、そう思うよ」
少し叫ぶように。
だいすきだよ。
いえないのは、そのひとことだけ。
「俺も会えて良かったよ」そのことばだけで。じわじわと温かくて。「これからもよろしくな」
6年前。
僕の周りには、汚い大人の放つ闇が、常に充満していた。
彼のそばに居ることで、そんなこと忘れて。年相応の子供で居ることが出来るような。
そんな気がしていた。
セックスに明け暮れる毎日。初めて叱ってくれたのは、父親でも母親でもなく、いっくんだった。
僕の周りの闇を照らす、
たったひとつのひかりだった。
僕自身が彼を望み、
彼もまた、僕を許容してくれた。
誰のひかりも通らなかったのに、彼のひかりは、闇なんかないもののように突き抜けて。闇のなかでこそ、際立ってしろく明るく。
ひかり。
「こちらこそっ」
はじめから知ってたんだ。
僕にとって、彼がトクベツになるんだってこと。
はじめから、知ってた。
(2005/02.18 10063文字)