漂流夢
ひとつの世界が終わっても、大元のところでは何も変わってはいない。
小さな、微弱な変なんて、あるもないも同じ。ただそれを、どう受け止めるか、で。
世界は哀しいくらい、何も変わらない。
「0」
眼の前が真っ白になった。
肌を打ちつける吹雪に、世界に戻ったことを感じる。
何処なのか。
深影を見たあの場所なのか、それとも違う何処かなのか。
―――――イィイイイイィィィイイ……―――ン
反射的に耳を塞ぐような、高音。
振り返るな―――そう言われたことも忘れて、振り返った。
「―――――………」
そこには、何もなかった。
さっきまであったはずの林も、遠くに見えたはずのやぐらも。何もかも。
まるでそこには、はじめから何も存在しなかったかのように―――…。
幻?
白昼夢?
肩にかけられた匡の上着に触れる。
確かな、麻の感触。―――――幻では、ない。
ならば何故、何もない?
何故?
「―――――――い」
声。
だけどそれは、深影でも匡でも陽でもない、聞き知らぬ声。
「おーい、そこにいるのかあ!」
―――――そこが、お前の世界だ
額が、熱い。
「おーい、ここだあッ」
気がついたらそう、叫んでいた。
「1」
神隠し。
皆がそう言った。
「どっか行ったまま、1週間も戻ってこないから、皆で葬式出す準備までしてたんだぜ?」
病院の大部屋で、文弥のベッドの横に座って、山崎暁人はため息混じりに言った。
「いっそのこと、出してみれば良かったのに」
読んでもいない、眼で追っているだけの文庫本から視線を上げて、おどけたように言った。
「そーだったなー、あー、葬式饅頭くいてー」
あーあ、と叫ぶように呟いて。ふたりで笑った。
見舞いに来る友人たち。点滴交換や、検温にやってくる看護婦。やさしい医師。暖かい布団と、適度なざわめき。
気が抜けるような毎日。
あの1週間―――文弥にとっては3日間だが―――の濃度が濃すぎて、他のものがすべて薄く、すりガラスの向こうのように感じる。
窓の外は、冬の、僅かに色素の薄い緑が繁っている。今日は今年一番の寒さらしく、控えめに伸びた枝枝に薄く張り付いた氷が、太陽の光にちかちかと輝いている。
ずっと九州で暮らしていた文弥にとって、"樹氷"と呼ばれるそれはとても珍しかったが、今はそれすらも素直に感じられない。
「北沢!」
「―――え、あっうん」
何ぼっけーとしてんだよ、という暁人に、うん、と曖昧に頷いた。
「ちょっと……」
暁人はため息混じりに組んでいた足を解き、じっと文弥を見た。
「お前さ、何かあった?」
帰ってきてから、ずっとおかしい。
―――――何かあった?
「何も、ないよ」
そう言ったら嘘になる。だけど、話すことも出来なかった。"狭間"であったこと、すべて。
「よく、覚えてないんだ、ほんと」
嘘つき、とどこかが叫んでいるような気がした。
*
何処かで。
引っかかっている。
魂の群れに押し潰されそうになったあのとき、聞こえた声が。
―――――お兄ちゃんッ
あれはおそらく、深影の声。
抑えのきかないような、耳障りな高音で。
必死な。
"お兄ちゃん"……?
文弥は一人っ子だ。兄弟なんていない。まして、あんな歳の近い妹なんて、いない。
くんっ―――――と、どこかが引っかかる。
違和感。
何かがおかしい。何処かが、歪んでいる。
何処かが。
「2」
闇の中に、舞っては消える灯火。
濃密な、重い空気。肺の中に沈み、細胞に纏わりつくような。
ひゅるっ―――
一際大きな灯火―――火の粉。網膜に蛍光色の残像を残し、再び闇に還っていく。
天と地と。何処に手足があり、目があるのかさえわからない。
ゆるいゼリーのなかに、躰半分だけ沈んでいるような。
嫌な浮遊感。
漂っているみたいな。
どこかもわからない眼の前で、思い出したように、ちらちらとあらわれては消える、火の粉。
眼に、記憶に痛いのに。そむけることが出来ない。離せない。
鮮やかな、オレンジの炎。
―――――………、
その中に、何かが映ったような、あったような。
何か、何て認識する間もなかったのに、哀しいという感情だけが生まれて、置き去りにされて。
眼を閉じて開いたら。そこはもう、見慣れた白いコンクリートの天井。
*
「本当に、心配したのよお?」
器用にくるくるとりんごを剥きながら、母が呆れたように言った。
「じゃあ、もっと心配したっぽく言ってよ」
おそらく何の意味もなくうさぎに切られた楊枝付きりんごを受け取りながら、文弥も負けじと返す。
「そおねー、―――――やっぱりいいわ、何か今更気恥ずかしいし、」
肩を竦める母に、文弥は眉を上げるだけで反応して、りんごに視線を落とした。
うさぎのかたち。
「フツーに切れば良いのに」
「何で? 良いじゃない、かわいくて」
かわいくて。
「可愛いから、嫌なんだよ」
可哀想になってくる。食べられるためだけ、なんて。
可哀想過ぎる。
「や…なんで泣くのよ、」
母は驚いて、鞄からハンカチを取り出すと、文弥の顔に押し当てた。力の加減が全然下手で、痛いくらい。
「母さん、何か言った?」
首を振る、ちがう、と呟く。
母の手が頬に触れて、睫に残った涙を拭っていく。家事をし慣れていないやわらかい、だけど水気のない手。定まった稼ぎのない父に代わって、家の家計を支えている手。
やさしい。
母の匂い。
あたたかい、懐かしい。
―――――?
"なつかしい"
母は、今ここにいるのに。
懐かしいなんておかしいのに。
だけど、無性にそう感じる。
どれだけ、そうしていただろうか?
「じゃあ、母さんそろそろ会社に戻るから」
「、うん」
切りかけのりんごにラップをし、果物ナイフを脱ぐってしまうと、母は立ち上がって、病室を出た。
頬にはまだ、母の手の感触がはっきりと残っている。ふと病室を見回して、誰もいないことにほっとした。昼過ぎで、皆デイルームや売店などに出払っているようだ。
……今の見られてたら、恥ずかしいよな。
子供とはいえ、文弥は15歳、中学3年。躰つきも子供というよりは大人に近いし、声変わりだってした―――はずだ。変わってないと言われるが。
かわってない。
「かわってない」
頭に浮かんだことばを復唱して、窓の外を見た。
冬の、低く輝く太陽に、氷の溶けて濡れた植物がきらきらと輝いていた。その光に眼を細めて、ベッドに横になった。
特に硬くもなく軟らかくもない、平べったいベッド。今朝替えたばかりのシーツはまだごわごわしていて、躰に馴染まない。
泣く、という行為は、何よりも体力をつかうような気がする。
慣れていないから、かもしれない。
きつすぎる麻酔のように、躰の末端までじわりと痺れて、動かなくなって。
沈むように、眠りに堕ちていった。
*
てんてん…てん………―――――
くすんだオレンジ色のゴムボール。
小さな子供が遊ぶような。
ふわふわと。
ボールが転がった先には、こちらに背を向けた、ひとりの少女。
ボールは少女の足元で止まり、少女はそれを拾い上げた。
5、6歳の、幼い少女。
デニムの、膝丈のオーバーオールのスカートをはいていて、艶のある黒髪を頭の横の高い位置で結わえている。
ボールを拾い、文弥に向かってまっすぐ向けられた瞳は、深い深い、深海に眠る黒真珠のような。
何処かで見たような、既視感。
少女の小さな唇がちらりと動いて、音を発しようとする。
やめろ、
―――――、
聞きたくない
やめろッ
―――――お兄ちゃん、
何かが壊れる音。
今までせき止めていた何かがすべて壊れて、中身が全部流れ出すような。
溢れ出すような。
―――――お兄ちゃんッ
重なる。だぶる。あのときの深影の声と。
重なる。一部が、ぜんぶが。
額が、熱い。
「3」
くるしいの、かなしいの。
おぼえていなかったことが。
ほっとしたの、うれしいの。
わすれていてくれたことが。
*
1週間後、文弥は退院した。
もともと悪いところなどなかったのだが、検査が思いのほか長くかかってしまったのだ。
退院するとき、看護婦たちが小さな花束をくれた。出来合いの、何処の花屋でも千円程度で売っているような、安っぽい花束。
なのに、そこに挿まれていた小さなカードのことばが、少しだけあたたかかった。
―――――退院おめでとう
小さな丸っこい、だけど丁寧な字で。
こんなことば、退院する患者には誰にでも言えるのに、書けるのに。特別な思いなんて込められていないのに。
何故か。
あたたかく感じられた。
久しぶりの家。
何処も変わっていないのに、ひどく物足りない、空っぽな印象。
4LDKの、何処にでもある中流家庭の小さな一軒家。築十年も経っていないのに、この物足りなさは何だろうか。
「ただいまー」
「おー、文弥ーッ」
一階奥の和室から、父が待ってましたと言わんばかりに飛び出してきた。その勢いで文弥に抱きつこうとしたところを、母に阻止される。
「はいはい、文弥は疲れてるんだから」
「久々の父子の感動の対面なのにー」
「見舞いのひとつも行かなかったのはあなたの勝手でしょ?」
「…だって、締め切りがさあ…久々の仕事だしー……」
父はフリーの小説家である。特別売れもせず、外れもせずだが、やはり"特別"売れないからか、それとも何処の出版社にも籍を置いていないからか、定まった依頼もなく、仕事の本数は年に数本あるかないかだ。勿論定給などないので、代わりに母が、文弥が小学校にあがってからずっと商社に正社員として勤めている。
「じゃあ、父子の感動の御対面は仕事をちゃんと上げてからね」
満面の笑みを浮かべる母に、父はしぶしぶ仕事部屋としてつかっている和室に引っ込んだ。
「さて、母さん今日は一日休みとったから、夜はあったかいイイ物食べさせてあげるわね。何かリクエストは?」
「ん、何でも良いよ」
そう? と少し気抜けしたように母は小首をかしげた。
「俺、ちょっと寝るから」
あったかくするのよ、ということばを背中に受けながら、文弥は久々の自室のドアを開けた。
部屋の中は、文弥がトモダチとスキーに出かけたあの日から変わっていない。
多少なり掃除はされているが、読みかけの本までそのままだ。
部屋の空気は冷たく、低く漂っている。
机の上においてあったリモコンで、暖房をつける。設定温度は、少し低めに。
着替えなどを詰めたデイバックを降ろして、ベッドに倒れ込んだ。病院とは違って、少しスプリングがきいている。二週間だれも使わなかったベッドに染み込んだ空気は冷たい。外気と何ら変わらない。換気も十分されていたようだ。
文弥の体温に触れて、空気はあたたまり、心地よい温度になっていく。心臓の音がベッドの中で何度も跳ね返って、耳元で鳴っているように感じる。
心臓の音、生きている証。
今、ここにいる。
眼を閉じると、涙が流れたのを感じた。
変だな、と少し微笑った。
今更のように、エアコンが温風を吐き出し始める。
人肌の風に、躰が深く沈んでいくのを感じた。
*
薄紅色の靄。
濃くなって薄くなって、漂って。
文弥を包んでは、離れ。
掴もうとすると、指の間からすり抜けて。
泣きそうになる。
哀しくて、たまらなくなる。
―――――みかげ
ひゅるっ、と反応するように一瞬濃くなって、消えた。微笑ったみたいに。
消えたのに、文弥の眼にはまだ、靄のあとがはっきりと残っていた。
*
食卓には、文弥の好物が並んでいた。
どれも美味しいはずなのに、あんまり味を感じなかった。
不審に思われない程度に食べて笑って、早々に部屋に戻った。
つけっぱなしの暖房で、部屋はだいぶ暖まっている。
エアコンを切って、机の上の読みかけの本を手に取った。300ページもない、薄っぺらい本だ。残りはもう100ページをきっている。多分寝てしまうまでには、読みきれるだろう。
ベッドに寄りかかるように床に座って、文字に眼を走らせた。
本は、あまりメジャーではない外国人作家の中篇集。作者はイギリスの出身らしく、典型的なラストが描かれていた。
小説には、ラストで大きくふたつのパターンに分けられるという。ひとつはイギリス的と言われる、悲劇的なラスト。もうひとつはアメリカ的と言われる幸せなハッピーエンド。
文弥はイギリス的な小説が好きだ。心に低く響くから。
この本の最後の話は、遺産相続の末の兄妹の葛藤が描かれていた。殺すか殺されるか―――。ラストでは、妹を殺した兄が、結局発狂し、自らも命を絶っている。
哀しい運命。
憐れな人間の本性。
だからどうしようもなく、愛しく感じる。
もう一度冒頭からぱらぱらと拾い読みし、本棚に入れた。
ふと眼についたカレンダーによると、明後日から学校が始まるらしい。
「課題、やってないなあ…」
冬休み初日にトモダチとスキーに行き、"狭間"に迷い込み、そのあと一週間入院した。それだけで、文弥の15の冬休みは終わってしまった。
もったいないような、物足りないような。だけど、何にも代えられない。
いない間に新しくなったカレンダー。つるつるしていて、小さな傷ひとつ見当たらない。ただふたつだけ、母が書いたのだろう、印が入っていた。
ひとつは明後日。もうひとつは月末の、―――高校受験。
「あー、」
すっかり忘れていたとぼんやり思いながら、丸のついた数字を撫でた。
ここは、文弥の世界。
15歳、中学三年生、高校受験。
現実のピントが合ってくる。
そしてそれと同時に、"狭間"が少しぼやけたように感じた。
それが、寂しいような、哀しいような、不思議な、入り混じった気持ち。
翌日はずっと、ベッドの上でぼーっとしていた。休みに入る前にもらっていた課題は既にやっていたので、残るは日記、という中学3年生らしからぬものだけだった。
書くことなら、たくさんあるかもしれない。
小説家、父などは、文弥の体験談で文庫一冊上げられるかもしれない。だが、生憎文弥にはそういう趣味も才能もない。まして日記になんて、書く気になれない。
ちゃちな三文小説以下になってしまう。そうしたら、たぶん、すぐに薄れてしまうから。
気がつくと、日が沈みかかっていた。
気づかないうちに寝ていたらしい。幸い、夢はみなかった。
頭の奥に、カタチのわからない痺れが残っている。
それからもう1度寝たらしいが、今度もやはり、夢はみなかった。
「4」
「推薦入試まで後二週間を切りました。体調崩したりしないようにね」
担任は笑いながら言った。その笑顔が神経質そうに引き吊っているように見えたのは、果たして文弥だけだっただろうか。
文弥の通っている学校は、何処にでもある公立中学だが、進学率は県でも1、2を争う進学校でもある。
生徒は勿論、否、生徒以上に教師が、そのプレッシャーを感じているようだ。この時期になると、何人かの先生が傍目にも極端に痩せる。変な学校だと、文弥は自分が三年になって思った。
SHRが終わって、帰る準備をしていると、背後から暁人が抱きついてきた。
「―――、ナニ?」
はじめはかなり戸惑ったが、さすがに2年近く付き合っていると慣れてくるからおかしなものだ。
「やだなー、つめたーい」
「山崎はあったかすぎ」
「あ、いーなその表現! イタダキッ」
「――――で、何か用があるんだろ?」
文弥のことばに、暁人はそうだった、とようやく背中から離れた。
「いっしょにかえろ。」
はあ?! と思わず聞き返しそうになるのを何とか抑える。
「別に、イイけど」
「らっきー、じゃあ四時に脱靴でなッ」
なんでまた…と問う前に、暁人はさっさと教室を出て行ってしまった。
「………変な奴」
だけど、たぶん何の意味もないだろう明るさに、少し救われたような気がした。
スニーカーの底がふわふわしているように感じる。
薄っぺらいゴムが入っているだけなのに。
詰襟の学生服にダッフルコート。定番とも言える格好だ。事実、右を見ても左を見ても、三人にひとりは文弥と同じような格好をしている。
腕時計を見る。四時ジャスト。
「遅刻…か、」
暁人が約束の時間ちょうどにくることはまずありえない。まず五分は遅れてくる。
文弥も慣れた、というか、あまり時の流れに頓着がないので、いつもぼんやりと待っている。それに、遅れてくる理由も知っているつもりだ。
暁人はもともと、時間にはきっちりしていた。それが、昨年だったか、彼女に振られてから、一転こうなった。
彼女との待ち合わせの時間より、30分近く早く待ち合わせ場所に着いてしまった暁人は、偶然彼女の浮気現場を見てしまったらしい。向こうも、まさかこの時間にいると思わなかったのだろう。しかし、浮気現場を押さえられた彼女は、こともあろうに開き直り、暁人を散々こき下ろした。公衆の面前で。
暁人は何も言えずに、言われているままだったと言う。それ以来、あえて遅れるようになった。早く行かなければ、何も気づかなくてすむから、と暁人はからから笑って言っていた。それを見て、逆に文弥が泣きそうになったのを、よく覚えている。
都会とは言い難い、しかしそれなりに栄えた街の狭い空。吹き降ろしてくる風は、乾いていて冷たい。
額の印の傷は、完全に治った。もう触れても痛くない。
だけど、確かに感じる。五つの直線。
"狭間"は薄れていって、世界ばかりが鮮明に迫ってくる。
こうして徐々に、否、思ったよりよっぽど単純に簡単に、忘れていくのだろう。そして最後には、"狭間"すら幻だと笑うのだ。記憶の片隅に深く埋めて。もう二度と見向きもしなくなる。思い出さなくなる。
「おーまたせっ」
待った? と笑う暁人の吐く息は白く、寒いな、とぼんやり思った。
「相変わらず、ルーズだな」
とん、と小さくジャンプして、からかうように言った。
「ホメても何もでないぞ」
「良いよ、別にホメてないから」
「さみすぃー」
「言ってろ」
こうした冗談が言えるようにいなったのも、たしかついこの間からだった。
すたすたと歩き出した文弥の後ろから、暁人がスニーカーを履きながらケンケンで追いかけてきた。
「っと―――、冗談だって。通じないなー北沢くんはー」
靴を履いた暁人が文弥の隣でヤレヤレと肩を竦めた。
「それはどうも」
それからしばらく、無言で歩いた。
暁人は何で一緒に帰ろうと言ったのだろうかと、文弥は思った。
やがて、周りの学生たちがそれぞれの方向に散ったところで、暁人はようやく口を開いた。
「北沢、」
「なに」
「おまえさ、ほんとのほんとに、大丈夫?」
「―――だから、何が?」
その、なんだ…と少し考えて、暁人は続けた。
「見舞いに行った日も、学校に来てるの見ても、思ったんだけど―――何、悩んでるんだ?」
「―――――別に」
何でもないよ。
何でもない。なのに、文弥はふい、と顔を逸らしてしまう。
暁人はちらりと文弥を見て、ふうん、と納得していないように言った。
「、俺、おかしかった…かな」
「かなり、前より格段に大人しくなったしな」
「……そう」
不意に、暁人が立ち止まった。文弥が振り返ると、暁人はやめたッと叫んだ。びっくりしている文弥の腕を引っ張って、ずんずん歩く。
「え、―――ちょっと山崎ッ」
「やめたやめた、こっぱずかしいッ」
「こっぱずかしいって何がッ?!」
「ちょっとシリアスな俺がッ。あーもー、俺こおいうキャラじゃねーんだよッ」
わかったかッ! とすごまれて、文弥は反射的に頷いた。
「なら良し!」
微笑って。
「まあ、な。何かあったら、何でも相談のるから、抱え込んで、ひとりで壊れるようなことだけはすんなよ」
なっと肩に置かれた手は、分厚いコートの上からでもはっきりわかるくらい暖かかった。
「ちょっと、カッコ良いぞ、山崎」
「かなり、だろ?」
笑って。
「よっしゃ! 今日は俺のおごりだ、ゲーセンでも行って、パーっと遊ぶか!」
「うん」
ドオンッ―――――
地面が抉れるような震動。鼓膜がびりびりと振るえるような。
続く車のブレーキ音。
暁人と顔を見合わせて、音の方に向かった。
*
印の意味、力。
あまりに哀しい。
わかってしまうから。
"それ"が死んだことが―――――。
*
そんなに大きくない十字路で、タクシーと乗用車がぶつかっていた。そして、タクシーの車輪の下には、真っ赤な―――手。
「やばいんじゃねーの、コレ…」
暁人が眉を寄せていった。
ほう…―――――
「ケーサツと、救急車…だよな、うん、俺電話してくるわッ」
ひとり残されて、周りを見る。何処にでもある下町の風景、そこに漂い始めた、濃い血の臭い。ここだけ、世界から隔離されたような感覚。
乗用車のドライバーはハンドルにもたれかかったままぴくりとも動かず、タクシーのフロントガラスには円いひび割れと、そのひび割れに染み込んだ、血の紅。
すべてが、静止したような。
ほう―――――……
人が集まり始めて、空気が震える。ざわざわと、耳障りな。
額が、熱い。
眼が、そこに見えないものを映す。
魂―――――。
薄紅色の靄。
躰が震える。見たくないのに、魂から眼が離せない。
額が熱い。印が浮かび上がっていくのがわかる。
―――――うおおおああうおぉあうおおおぅぅおぁおうお
蘇える声。圧迫感。息が出来ないような。
ここにはないはずの感覚。なのに、眼の前に突きつけられたかのようにリアルで。
息苦しい。
(何が起こったの?)
(車の事故ですって)
(まあ、恐ろしい)
(なに、死んでるの?)
(真っ赤だー)
(見ちゃ駄目よ)
(南無南無…)
(誰か救急車とか呼んだのかよ)
(ちょっと、あの子大丈夫?)
躰が、震える。
膝が笑って、地面に膝を突いた。魂は手を伸ばせば届くくらいの高さで、かたちなく漂っている。数は―――ふたつ。
もうひとつは?
もうひとつは。
「北沢?」
眼の前がかすむ。
フラッシュバックする、光景。
動かない深影、陽。
深影の躰から染み出すように離れた薄紅色の靄―――魂。
そして、壊れていった世界。
「北沢ッ」
二重三重にぼやけていたピントが、徐々に合って、眼の前に暁人の顔があった。
「、あ」
今のは、何?
何故、こんな。
「大丈夫か? ぼーっとして」
「、うん…大丈夫」
大丈夫。
*
あの後事故現場にきた警察に、簡単な状況説明を求められた。
しかし、文弥を心配した暁人のおかげで、文弥自身は家に帰ることが出来た。
暁人ひとり、あの場に残すのは気が引けるような気がしたが、文弥にはそこに残る体力も、気力もなかった。
突然眼の前に、突きつけられた。
薄れかけていたものを。
忘れるな、ということか?
それとも、逃れられないとでも言いたいのか。
―――――時の流れが、すべてを流してくれる
匡はそう言っていた。
しかし、そんなにやさしくはなかった。やっぱり、気休めにもならなかった。
文弥は家に帰り着くと、コートも脱がずに、沈むように眠った。
「5」
どこかにあった。
忘れているのに、ほんの小さなカケラだけが残っている。
それは掴もうとすればするほど、遠くに離れ、もっと小さく粉々になった。
今はもう、その存在すら、微弱すぎて、感じ取れない。
*
頭が重い。
喉が渇いているけれど、起き上がる気にもならない。
いつの間にか太陽は遠くに沈んでいた。
眼の奥が痛い。
度のあわない眼鏡をかけているような、不快感。
「―――ッ」
声を出そうとすると、代わりに堰が出た。気管に響く、嫌な堰だった。
熱っぽいような、そんな気もしてきた。
眼を閉じると楽だったから、ずっとそうしていたいと思った。
また、少し寝た。
吹雪の中で見た。
やぐらの炎の鮮やかなオレンジと、深影の着ていた降りたての雪のように白い巫女装束と。
最後の、微笑った顔。
よかった、と。ひとことだけ残して。
何が良かったというの? 深影は死んでしまうのに、自分の、文弥のせいで死んでしまうのに。
哀しすぎるのに、どうして微笑っているの?
どうして?
ふみや、
「ふーみーや、」
呼ばれた名前に、文弥はぼんやりと眼を開けた。何の前触れもなく眼の前にあった父の顔に、今さっきまで見ていた夢のカケラが一気に遠のいて記憶から抹消された。
思い出そうとしても、もう二度と思い出せない。
「―――父さん、」
何?
「ゴハン、だけど―――もしかして、気分良くない?」
父は懐出をしていた丹前から手を出して、文弥の額に触れた。そしていかにも火傷しそうな素振りで、手を離した。
「おっと、こりはいけませんなあ。ふむ、とりあえず、コート脱いで」
かあさーんッ文弥熱があるよー!
「やめてよ、恥ずかしい」
丹前の裾を引っ張って、叫ぶのを止めさせようとする文弥に、父はあっけらかんと訊き返した。この人はいつも、こういうところがある。
「何で?」
「何でって、ガキじゃないんだから」
父は少し驚いたような表情をして、微笑った。
「親にとってはさ、子供は何時まで経っても、いくつになっても子供なのよ」
文弥も親にになったらわかるって。
「そんな、もんかな」
熱で、既に回らなくなり始めている舌を回して、文弥がそう言ったとき、母が階下から駆け上がってきた。
体温計の数字は、38.6。
母は慌てて薬局に走っていった。
文弥はいつも突然熱を出す。それまで何の兆しも見せず、ある日突然。その度に母は慌てふためいていた。今回も、その例には洩れなかったようだ。一体、文弥がいくつになるまで続くのだろうか。もしかしたら、父の言ったとおり、親にとって子供は何時まで経っても、いくつになっても子供なのかもしれない。
しかしこれはあまりにも、過保護な気もしないでもない。
自分の子供は、もう少し落ち着いて育てようと、文弥は心に誓った。
とりあえず父が持ってきた濡れタオルで額を冷やしながら、文弥は寝巻き代わりのジャージに着替えて、ベッドにきちんと横になった。
哀しいかな、数字で表されると、だるさは数段増しになった。
「じゃあ、お父さんは退散するから、ゆっくり寝て、養生しなされよ」
うん、とこたえたような気がしたが、よく覚えていない。とにかく躰がだるくて、吐き気もしてきて、文弥は帰ってきた母から薬をもらって飲むと、ずるずると浅い眠りを繰り返した。
*
熱は意外にも後を引いた。
病院に行かなかったのが、その原因の一部かもしれない。
母はこれ以上会社を休むことが出来ず、父は締め切りだー、と部屋に篭りきりだった。過保護かと思ったら、こういうところはそうでもなかった。こんなことを言ったら、母に不可抗力よ、と反撃されそうだ。父は多分、それも良かれと微笑うだろう。そういう人たちだ。
だけど、文弥は両親に不満をもったことはない。金銭面ではあまり融通はきかなかったが、それでも出来る範囲のことはいつでもしてくれた。
いつも、やさしかった。
熱を出してから5日後の夜、文弥はどうにか物が食べられるほどまで回復した。
「あ、文弥、先生着たけど、出られる?」
6日目の昼過ぎ。大事をとって休んでいた文弥のもとに、担任がやってきた。反射的にカレンダーを見て、担任がわざわざ家に着てまで言いたいことは、すぐにわかった。
高校入試まで、あと1週間。このままずるずるといかないか、勉強は大丈夫なのか、とくぎをさしに来たのだろう。
文弥の受験する県立高校は、県でもトップクラスの進学校で、推薦枠もひとつふたつと、数えるほどしかない。そのイスを運良く偏差値ぎりぎりで獲った文弥は、担任にとって、恐らく頭痛の種なのだろう。なにせ、「ぎりぎり」なのだ。推薦枠を裂いておきながら、落ちました、などといった結果が出た日には、担任は、他の職員から睨まれても文句は言えないらしい。昨年の副担が教えてくれた。
無理をせず、ランクを下げて受験したらどうか、とも言われていた。しかし、なにぶん文弥が妥協せず、成績も、充分とは言わずとも足りていたため、向こうも強く出られなかったようだった。
父も母も、文弥の進路についてはあれこれ詮索はしてこなかった。相談ごとがあったらいつでものるからね、の程度だ。
出たところで、何を言われるのか、おおよその見当はつく。
文弥は腕で大きくバツ印を示した。父はグーに親指を立て、「了解!」と階下に降りていった。こんなとき、こういう親で良かったとしみじみ思う。
交渉は難航しているようだ。ベッドで上体を起こしたまま、耳を澄ましながら思った。
しばらくして、何とか勝利を喫した父が、得意満面の笑顔で文弥の部屋を覗いた。
「万事順調!」
「ことば、間違ってない?」
「そんなこと気にすんなって!」
じゃ、父さんは退散するから。
そう言い掛けた父の背中に、声をかけた。行かないで。
かすれて、聞き取りにくい声だった。
父は振り返って、あたりを見回し、自分を指差した。文弥が頷くと、父は微笑って、良いよと、と後ろ手で扉を閉めた。
「珍しいね、文弥が父さん呼び止めるなんて」
「、うん」
突然、しかも何の意識もなく呼び止めてしまったせいで、何を言いたいのか、文弥自身何の整理も出来ていなかった。とりあえず間をつなげるように、締め切りはどう? と訊いてみた。
「締め切りか…そうだな、うん……うん、」
「特に何も言ってないけど」
「まあ、なんだ、オトナにはいろいろあるのさ」
何が? と訊きそうになったが、不毛な会話になるのは容易に予想がついたので、やめておいた。
「父さん、」
「ん?」
「おはなし、してよ」
「―――本当に、珍しいなあ」
だけど、父は心底嬉しそうにベッドの横にあぐらをかいて座った。
文也は小さいころ、眠る前に父に話をして貰うのが大好きだった。物書きの端くれである父の話してくれる物語はどれも単純で、だけど中身があって、文弥は大好きだった。
「そうだな、じゃあ、文弥だけにお話しようかな」
母さんにも秘密だからな。子供っぽく笑って、父は話し始めた。
*
雪が降っていました。
女の子は、家族と一緒にスキーにやってきました。
その日は、とても寒い日で、だけど、雪が珍しい女の子は誰よりもはしゃいでいました。雪が降ってきて、家族は泊まっていたロッジに帰ろうといいました。しかし女の子は、もう少しだけ、もう少しだけ、とひとりで残ったのです。家族も、ロッジからすぐ見える場所だったので、早く帰るんだよ、とだけ言って、先にロッジに戻りました。
それからしばらくもしないうちに、あたりは吹雪きだしました。女の子はロッジに戻ろうとしましたが、もうどの方向にロッジがあったのか、見当もつきません。女の子が泣き出しそうになったとき、急に雪が強くなって、そして突然止みました。
女の子が驚いてあたりを見回すと、男の人が立っていました。
その男の人は、神主のような服を着ていて、驚いたような表情で女の子を見ました。
女の子もびっくりして、更にあたりを見回しましたが、そこはもう一面銀世界の、見たこともない場所でした。
だれ? と、女の子は男の人に聞きました。
男の人は泣きそうな顔をして、女の子のそばに歩み寄ると、膝をついて、女の子をぎゅっと抱きしめました。
なまえは? と男の人が聞きました。女の子は男の人の腕に戸惑いながら、みかげ、と名乗りました。
―――――名は、なんと言う?
―――――みかげ
「それから―――――、文弥?」
泣いていた。いつの間にか、瞬きもせずに。
何処かにリンクして、締め付けられるような。
「そんなに、感動的だったかな?」
文弥は首を振った。そうじゃない。
「その話、何処で思いついたの?」
文弥の問いに、父はんー、と考えて、夢で見たんだ、と言った。
「ずっと昔からみてる夢なんだけどね、いつも覚えてないんだ。だけど、この間みたのは、凄く記憶に残っててね。なかなか、綺麗な―――哀しい夢だったんだ」
父は思い出すように眼を閉じて言った。
夢。
雪。
深影。
「ねえ、父さん」
文弥は涙を拭って、父に訊ねた。
「ん、」
「俺にさ、―――その、妹とか、いなかったよね?」
「イモウト?」
カタカナで発音して、父はいいや、と微笑った。
「だけど、欲しかったのは、確かかな」
だけど、不思議なもんでね、何時からか、ぱったりそんな気が起こらなくなったんだ。
「なんでだろう?」
なんでだろうね、と微笑いながら、だけど文弥にはわかったような気がした。
今まで、何処かにずっと引っかかっていたものが、少し緩んだような、そんな気もした。
ありがとう。
気恥ずかしくて、声に出さずに、文弥は父に言った。
*
確信があった、と言ったら、それは嘘だ。
何もわからなかった。
何故、深影が自分の事を「お兄ちゃん」と呼んだのか、何故、ここのところ似たような夢を頻繁に見たのか、何故こんなにも、不安定なのか。
たぶん、文弥が感じていたことが、真実だから。
安易だ、と言ってしまえばそれまでで。根拠がないと言われたら反論なんて出来ない。だけど、確かにそう感じる。
今も、文弥は"狭間"について何も知らない。そう呼んでいるのも、婆がそう形容していたからだ。
自分は何ひとつ、本当に確かで揺るぎない真実を持っているわけではない。
なのに、何処か。
闇の中に、ぽつりぽつりと浮かぶ、オレンジ色の灯火。
いつか見た夢と同じ。
漂っている夢。
夢だと、はっきり認識できる、夢。
生まれる前には、こんな感覚の中にいたのだろうかと、思った。
―――――お兄ちゃん、
何時からいたのか、たぶん眼の前に、あの少女。
髪をほどいて、ゆったり背中に流している。
黒真珠の瞳が、やさしい。
どこかに、ゆっくりと降り立った。膝を突いて、少女の頬を両手で、壊れないように挟んだ。
―――――お兄ちゃん?
どうして、泣いているの?
「泣いてないよ、」
「うそ、だって、泣いてるもん」
泣いてなんかいない、たぶん、きっとそうだ。
少女の小さな指が、頬に触れて、そこに流れたものを拭っていった。
「やっぱり、泣いてる」
あは、と笑って、なのに、すぐに少女は涙眼になる。―――ねえ、どうして泣いてるの?
「みかげ、お兄ちゃんの嫌なこと、した?」
―――――みかげ
「してないよ、大丈夫だから」
「お兄ちゃん、みかげのこと、嫌いにならない?」
しゃくりあげながら、"みかげ"は言う。
何処かでなくした、大事な、大事なもの。―――――たったひとりの、妹。
今まで感じていた違和感に気がついた。
どうして、深影を「妹」だと思っていたのか。姉だったかもしれないし、もしかしたら双子だったかもしれないのに。
お兄ちゃん、と確かに深影はあのときそう言った。だけど、曖昧な記憶で、それを認めることは出来なかった。
怖かった、のかもしれない。
忘れてしまっていたことに、無意識に罪悪感を感じていたのかもしれない。
「みかげ」
懐かしい名前。忘れていた、記憶から抹消されていた名前。
「深影」
夢の中なのに、腕の中には確かに深影の、子供特有の高めの体温があった。
「6」
気がついたら、家の中にはいくつもの空白があった。
文弥が遊んだ記憶のない女の子のおもちゃや、物置にしてはスペースの広い部屋。
妹にしろなんにしろ、ここには確かに、もうひとり女の子がいた。
だんだん、現実味を帯びてくる。
だけど、父も母も、存在を覚えていない。否、知らない。
記憶にない。
それが、哀しい。
ここにいたのに、いたという証がない。まるではじめから存在しなかったかのように。
*
「受験票持った? お弁当持った?」
「持ったよ、全部」
「いつも通り、気張らずにいきなされよ」
ひらひらと手を振る父と、心配そうな母に、いってきますと言って、文弥は家を出た。
今日は推薦入試の日。
あれから何とか追い上げて、前日に解いた過去問では合格点をとれた。変なミスをしなければ、多分大丈夫だろう。
深影の夢を見たあの日、何かが吹っ切れた気がした。もちろん、深影の事を忘れたわけではないし、"狭間"が薄くなったわけでもない。何もわからないのはかわらないし、何がわかったわけでもない。
額の傷は、今でも痛む。
一生消えない、だけど、これは深影がいた証。幻じゃない、確かな証。
文弥がこれから抱えて生きていかなければならないこと。逃れられないこと。
それでも、何かひとつでも確かなことがあれば。
父が夢で、「みかげ」をみたように、家の中に空白があるように、どこかでリンクしている。すべて、ばらばらに離れているわけではない。
「おはよう」
学校の前で暁人と待ち合わせて、試験会場に向かう。
冬の空気は硬くて、吐く息は何時までも空気に残っている。
「あああ、どきどきするねえ、いいなあ、この感じ」
「山崎、それって変態っぽい」
暁人は少し間の抜けた顔で文弥を見て、笑った。
「何か、北沢らしい言い方」
「なんだよそれ」
「―――安心した、」
―――――そこが、おまえの世界だ
ここが、文弥の世界。
深影のいた世界。
匡や陽のいた世界と、何処かつながった世界。
電柱の下に、くすんだぼろぼろのダンボール箱が置かれている。
近づいて中を覗くと、小さな猫が2匹、寄り添うように丸まっていた。暖かい光景のなのに、その毛並みには艶がない。
「どうしたんだろ、これ」
「捨て猫、かな」
ほう―――――
薄紅色の靄。
吐く息とは明らかに異質の、―――魂。
「北沢?」
魂は文弥の体を一瞬包んで、昇っていった。
ふたつの魂を見上げながら、文弥は眼を細めた。
大丈夫。
これからも、こんな機会はたくさんあるだろうけど。
「気分、悪いのか?」
大丈夫。
「何でもない、行こう。―――遅れる」
額に鈍痛が走る。だけど、我慢できないほどじゃない。現れているだろう印も、下ろした前髪で見えない。
この痛みがあれば。
何も忘れない。
深影のことも、"狭間"のことも。
匡も陽も、婆も。
全部。
記憶から消してしまうのは、哀しいから。
「走らなくてもさ、じゅーぶん、間に合わね?」
暁人が不思議そうに言う。だけど、立ち止まらずに、走っていてくれる。
「いいんじゃないか? 脳の活性化」
風が冷たい。
空は透き通るような、蒼。
雲のない空に、雪の気配は感じられない。
だけど、文弥の記憶の中では、あの日の雪の残像が、今も鮮明に残っている。
(2002/02某日 14978文字)