死すべき人間、生きるべき人間


 ねえ、自分が死んで哀しい?





0.

 殴られたんだ、それだけわかった。
 でもそれだけ。
 他には何もわかりはしなかった。
 殴られた、その意識だけが。頭の中に浮かんだ。
 何で殴られたんだろう?
 何故だろう。
 殴られるのには何か理由があったはずだけど。
 わからない。
 わからない。
 襟首掴みあげられて、拳で思い切り。
 ああ、今嫌な音がした。思う。
 意識の外側。不可侵、ここは俺だけのモノ。
 痛い。
 痛いかもしれない、もしかしたらこれ。結構。
 痛いかもしれない。
 胃の中が熱くなる。おかしいな、何も食べてないのに。
 鳩尾を刺激されて。
 湧き上がってくる。何かが。
 もういっそのこと、死んだほうが楽だよな。
 絶対。
 絶対そうに決まってる。
 確信なんてもんじゃないね。
 これはもう。
 決定事項だ。

   +++

 目を背けたくなる。
 光景。
 運命だと、言ってしまえばそれまで。
 変えられないんだよ、説明はたったヒトコトで足りてしまう。
 傍観者だな、目を背けたまま、思う。
 何でこんなこと、するのだろうか。
 何で、何もしないでただ見ているのだろうか。
 助けてあげられるかもしれないのに。
 これも運命だから?
 あれもこれもすべてすべてすべて。
 変えられない運命だから。





1.

「誰ですか、」
 眼の前にいた女の子。10歳くらいの、何故かこの暑苦しい夏に黒尽くめ。露出は極端に少ない。
「死神です」
 微笑って、女の子は言った。
「ボクの名前はテル。きみは?」
「高町一」
 こたえると、満足そうに彼女は笑った。
「高町くんか、よろしく」
「…よろしく、」
 いったところで、気付く。
「死神…て、言いましたよね?」
 敬語になる。どうしてか。
「そうだよ」
「俺、死んだんですか?」
「そうだよ」
 表情を変えずに、さらりという。
「そうですか、」
「ボクはね、高町くんを迎えにきたんだ」
「何処に行くんですか?」
 わかっているのに問うてしまうのは。何故だろう。
「世間様であの世って称されるところ。そこで輪廻のサイクルに組み込まれるのを待つんだ」
 あの世。そうだ、一は死んだんだから。そこに行くのは当たり前。
 死んだんだ。
「どうして泣くの?」
 テルが不思議そうに、やさしく、訊く。
「泣く?」
 顔に触れると、手が濡れた。
「泣いてなんかいませんよ」
 ぽたりと、滴が垂れた。暖かいのか冷たいのか、よくわからないけれど。果たして、水源は何処なんだろう。
「泣いてなんか、いません」
「そう、」
 テルの小さな手が、一の服をつかんだ。長袖の袖口。掴んだ手は、本当に小さくて。一より小柄なのに、見上げたテルは。
 何年も前に死んだ母さんのように。
 懐かしくて哀しかった。

   +++

 あの世というからにはそんな感じなのかと思ったら、全然、この世と一緒。ただ、建物の数は少ないし、低いものばかり。古都、そんな印象を受ける。
「こっちだよ、」
 テルが―――今は地面を歩きながら言う。手は相変わらず、袖口を掴んだまま。離そうとはしない。それは、一が逃げるかと思っているのか、それとも何か違う思惑があるのか。
「高町くんはさ、」
 振り返らず、淡々と気軽と、テルが問い掛ける。
「自分が死んじゃって哀しい?」
 自分が死んで、哀しい?
 それは、どういうことだろうか。
「よく、わかりません」
 楽になりたかった。それは真実。意味も意義もわからない父親の暴力を受けるたびに、楽になりたかった。その楽になる方法が「死」なら。きっと哀しくはない。
 哀しくないはず。それに。
「俺が死んで、泣く人間はいませんから」
 自分も哀しくないし、みんな、哀しくない。
「そんなことないよ、」
 見ると、振り返って。
 まっすぐ俺を見上げて。確信的に。
「誰かが死んだら、誰かが哀しむんだ」
「それは、愛された人の特権ですよ」
 誰からも愛されなかった人間には、決して与えられないもの。
 哀しみは愛情の裏側。憐れみは愛しさの裏側。表と裏は常にひとつで。表があれば裏があり、裏がなければ表はない。
 一には表の裏も裏の表も、裏も表もありはしない。
 存在すら、曖昧。
 だから。
「誰も哀しんだりしません」
 テルは何か言おうとして、でもやめて、また歩き出した。後ろ姿は哀しいような、そんな気がした。
 父親の暴力は母親が死んでからはじまった。
 いつも唐突に、突然、掴みかかって殴って。蹴って。一は抗うことも出来ずに、まるで人形のように。一度殴り始めたら、それは簡単には終わらない。はじめはどんな理由だったか知らない。しかし殴るうちに理由はすりかえられて、終わりは何処にもありはしない。口の中が切れて血を吐けば、畳が汚れると殴り、蹴られて吐けば、汚いとさらに蹴られた。
 終わりは何処にもなかった。
 そしてその終わりは、また酷く唐突に。眼の前。
 父親は淋しかったのだと思う。
 母親が死んで、残ったのは義理の息子ひとり。血の繋がらないコドモ。愛情なんて抱きようがなかったのだろう。それがわかっていたから、抵抗なんかしなかった。出来なかった。
「後悔していない?」
 問う声に、こたえるべき解答はひとつ。
「してません」

   +++

 どうしてだろう。
 死んだら哀しいじゃないか、死んだら。魂は死ななくても肉体がなくなり魂が離れ、輪廻のサイクルに復帰して、記憶はリセット。
 本当は死ななくても、その人として過ごした時間は。出会った人の記憶は。想いは。感情は。消えてなかったものになって。
 自分には何も残らないまま。
 すべて中途半端なまま。
 哀しくないわけがないじゃないか。
 なのにどうして。
 背後の少年を思う。
 どうしてそんなにあっけなく死を受け入れるのだろう。
 愛されなかったから? 愛されなかったら死んでも良いのだろうか。
 ちがう、違う。そんなわけはない、そんなことはありえない。
 涙が出そうになるのを、テルは何とか抑えた。
 泣いてはいけない。これはテルではなく、彼の問題なのだから。
 重ねてはいけない―――。





2.

 痛い。
 痛いよやめて。
 離して。

 繰り返される仕打ち。
 否、仕打ちではなく、奉仕。
 自分に望まれるべくして行われた行為。それを望まれて、親元を離れて遠くまで。

 ああ、父親は。母親は。
 どんな顔だっただろう。
 どんなふうに名前を呼んでくれただろう。
 どんなふうに。
 愛してくれただろう―――


「テルさん?」
 呼ばれて気がつく。
「あ、えーっと…何?」
 高町くんは心配そうに、見下ろして。でもすぐに視線をあわせるように屈み込む。
「大丈夫ですか?」
 ココロの底から、無意識の底からの心配。
「うん、全然平気だよ。―――ほら、此処の建物」
 こんなにやさしいのに。
 偽善ではなく思い込みでもなく。
 こんなにやさしいのに。
 高町くんは建物を見上げて、小さくため息をついていた。哀しみか諦めか安堵か。判断こそしかねるものの、それは確かにため息。
「さ、入って」
 掴んでいた袖口を離して、背中を押す。一は戸惑いながらも、硝子の自動ドアをくぐった。

   +++

 さっきも、思ったのだが。
 あの世というのは。
 もっとこう…違うものをイメージしていた。
 此処は生きていたところと変わらない。通りには人が歩き、建物の中にも人がいる。もちろん、誰の背中にも羽根なんてファンタジーなものはついていない。
 背中を押すテルは、何か無理をしているように感じる。たった少し前に初めて会った子のことなんて、何がわかるわけでもないけれど。
「あっちだよ、受付」
 言われるままに、絨毯の上を進む。毛足は短いのに、足音はほとんどしない。
 受付、とかかれたプレート。置かれたカウンターの中には女の人がふたり。何処かの企業のビルと、全然変わらない。行ったことこそないけれど。
「こんにちは、」
 にこにこ笑顔のお姉さん。
 テルを見たら、背中合わせに立って、親指を立てて怒ったような顔をしていた。一体どんな意味があるのだろうその表情に。
「あの…」
「はい。―――では、お名前をお願いします」
「…は、はあ」
 差し出された紙とノック式ボールペン。因みにインクは紺色。
 紙は、市役所に出すような…婚姻届に似ている。婚姻届の、ひとり分だけ。
 名前ふりがな性別職業、現命中の住所と電話番号と―――専門分野、スリーサイズ。
「あ、あの…」
 思わず赤面してしまった。
「わからないものは無記名で結構ですので」
 笑顔のまま、お姉さんは言う。案外、こう言う状況には慣れているのかもしれない。いや、きっと慣れているのだろう。女の人はともかく、男が自分のスリーサイズを知っているなんてことはまずないだろうし。
 それにしても…真面目な書類のはずなのに、なんてふざけた…。
「社長の趣味ってわかんないよね」
 いつの間にか足元に座っていたテルがぼやく。
「あらテルちゃんおかえりなさい」
 受付のお姉さんがカウンターから乗り出すようにして笑顔で挨拶をする。事務的ではない、からかうような笑顔。
「うん、ただいま」
 ひらひらと片手だけで挨拶して、テル。
「社長は、上?」
「のはずだけど、―――あ、はい確かに」
 何とか書き込めるところだけ書き込んだ書類を渡すと、お姉さんはカウンターの中に収まって書類をチェックした。その後、「認」という丸いはんこを景気良く押す。
「あ、それ頂戴」
「あら、直々?」
「そうだよん」
 お姉さんはしまいかけた書類をテルに手渡した。お姉さんは乗り出し、テルは背伸びをして。
「じゃあ行こうか」
「訊くまでもないですけど、何処に」
「社長室」
 やっぱり、とは思ったけれど。どうして社長に会わなくてはいけないのだろうか。
「あの、一応訊きますけど、―――どうして?」
「VIP待遇だよ」
 絶対、違うと思う。一の何処がVIPなのだろうか。
 エレベーターの前で、何人かとすれ違う。呼称こそそれぞれだが、みんなテルに挨拶する。テルも応対する。だいたい「くん」とか「ちゃん」付け。
 エレベーターに乗り込むと、階数表示のいちばん上、5階を押した。社長室と言うのはやっぱり最上階にあるらしい。
 書類に目を通していたテルが、「ん、スリーサイズは?」にやりとして訊いてきたが、一はこたえなかった。


 エレベーターは途中の階で止まることなく5階についた。
 開くと、そこは小さなホールのようになっていた。天井は一部ステンド硝のように極彩色の硝子が嵌め込まれていて、天然採光が差し込んでいる。
「すごいよね、ボクこれはすきだな」
 見上げる一に、テルが賛同する。
 書類を丸めて、とんとん肩を叩いている。
 見た目は、本当に、10歳かそこらの女の子。背丈も170センチに足りない一の腰より少し高いくらい。
「ところで、テルさんっていくつですか?」
「ん〜何だい、婦女子に歳を訊くなんて野暮だねえ」
 にやにやしながら言う。「幾つに見える?」
「……10歳…ですか、」
「あー…おしいね、ボク11歳なんだよね見た目は。」
「見た目は?」
「ああ、気にしない気にしない。わかったところで高町くんにメリットなんか皆無だし」
 顔の前で掌を振る。何となく訊きづらい雰囲気になって曖昧に頷くと、テルはにっこり笑ってまたさっきまでのように袖口を掴んだ。
「さて、面会面会」
 何処か楽しそうな、声音。何処か壊れそうな、そんな気もする。
「あの、テルさん」
「何だい言ってごら〜ん」
「無理、してませんか?」
 漠然と、思っただけだけど。
 ぴたりと、動きが止まる。図星だろうか。
「……テルさん?」
「やだなーそんなわけないじゃん。ボクはこれが素だよ地だよん」
 振り返らずに声だけ明るく。強引に一を引っ張って、扉の前。ダークチェリーの、やけに年季が入った扉。他は白が基調にされているので、ここだけ明らかに浮いている。
 テルがちらりと俺を振り返って、それから書類を持った手で扉をノックした。
「はいどうぞ」
 中から、テノールの応答。テルが背伸びをしてノブに手を伸ばす。苦しそうだったので、代わりに開けた。
「わあ、ありがとう」
 内開きの扉。開けると眼の前に机。そこに座っていた短髪の青年が顔を上げた。両手に持った書類を机において、微笑う。背後からの光に、右耳のカフスが光った。細長い、耳の側面を覆うような、金色。
「おかえりテル。いいのかな、こんなところで油を売って。タカさんがため息吐いちゃうよ」
「仕事の一環だから良いんだよ」
 そう言ったテルの左耳にも同じモノが光っていた。今更、気付く。
 青年―――おそらく彼が社長だろう―――はテルから視線を上げて俺を見ると、ああ、と頷いた。
「なるほど、仕事の一環ね」
 彼は立ち上がると、机の前のソファを勧めた。
 テルが袖口を引っ張る。座ると、隣にテルが座り、向かい側に青年が座った。
「はい、これ規定のやつね」
「はいどうも」
 青年は書類を受け取ると、ざっと目を通した。銀縁の細身の眼鏡。その奥の瞳が文字を追って動いているのが良くわかる。
「うん、―――スリーサイズは?」にやりと、テルと同じことを訊く。
「え、えと…あのですね、」
「いや、良いですよそんな真面目に困らなくても」
 青年はにっこり笑った。人当たりの良い笑顔だと思った。
「申し遅れましたが、私この会社の社長などを務めていますコウと申します。どうぞ御見知りおきを」丁寧な座礼。急に改まってしまう。
「あ、はい。どうも、」
 差し出された手を握ると、意外と暖かかった。生きている人となんら変わらない。青年―――コウは、テルに問う。
「まあ、書類は問題なし。他には特に不備はないようだね。受付の認定印も受けてるし。それで、何か問題でもあるのかな、」
 テルに訊く。
「問題?」
「わざわざ此処まで持ってきたんだ、何かあるんだろう?」
「あー…えーっと……」
 天井を仰ぎながらこめかみを押さえ、何かを探すテルに、コウはため息を吐く。呆れではなく、しょうがないなというような、やさしいため息。
「うん、良くわかったよ。そういうわけですかそれは大変だ」
「そう、そうなんだよ。やっぱ社長わかってる〜」
 何かが通じたらしい。一はひとり疎外感を感じながら、彼らの会話を聞いている。
「じゃあ、えーっと…高町さんですか、しばらくうちの社員寮を一室貸しますので、そこで生活なさって下さい」
「は、」
「輪廻のサイクルに復帰する順番はまったくのランダムでして。時間がかかるかもしれませんし、かからないかもしれません。ぶっちゃけ言いますと、そこのあたり私たちには―――」
 そこで一端言葉を切る。
「―――まったく!! もってさっぱりわからないのです」
 「まったく」を強調されてしまった。
「というわけでして、あなたの場合はこちらでも調べることがありそうですし。そういうことで、何卒ご了承願えませんでしょうか?」
「はい…」
 そんなの、頷くしかないんですが……。

   +++

 テルが高町を連れて部屋を出た後、コウは内線電話を引き寄せた。再生課回収係の内線番号を押す。
「あ、もしもし。コウですけれど―――はい、あのですねお願いしたいことがあるんですけどよろしいですか?」
 受話器の向こう側で、敬語は止めて下さいよ、という苦笑いの声が聞こえた。





3.

 社員寮―――「暁泉寮」という表札がかかっていた―――は、これもまたこの世にあるものとさして変わらないものだった。
 さらにいうならば、一が生前住んでいた家と、変わらない。父親とふたり。母親が死んだ後、ずっと。
「はい、これ鍵ね」
 寮母さん―――キヨと名乗った―――が鍵を渡し、簡単な寮則について話してくれた。
 日付変更から夜明けまでは寮は閉門。その間は出入りともに不可。隣上下の住人に迷惑がかかるようなことはしない。女性の連れ込みは禁止(ここは男子寮らしい)。朝食と夕食は定時に1階の食堂で出してもらえるが、無理に行く必要はない。などなど。主に常識に問うようなものばかりで、難しいことはない。
「朝は7時から8時まで、夜も7時から8時まで。何か質問は?」
「いえ、特には」
「そうかい。じゃあ何か問題があったらいつでも言っとくれよ、」
 闊達に笑って、キヨはばしばしと一の肩を叩いた。顔を顰めたが、キヨは気付かずに行ってしまった。いや、気付いてあえて何も言わなかったのかもしれない。
「さて、じゃあボクはお暇するんだよ」
 にっこり、テルが微笑う。
「あ、はあ」
 一が引き止める理由も思いつかないまま、テルは手をひらひらしながら、去って行った。
 ひとりになって、一はあてがわれた部屋の扉を振り返る。突然ひとりになってしまって、どうして良いのかよくわからない。この時間は勤務時間なのだろう、他の部屋からは物音ひとつしない。
 とりあえず、扉を開けてみる。
 中は6畳一間。開けてすぐ左側に簡素なキッチンがついている。ガスコンロがひとつ、その上には何故か薬缶が乗っていた。持ち上げるようとしたら、あっけなく持ち上がった。どうやら中身は入っていないらしい。いや、入っていたらいたで退いてしまうが。
 ガスコンロの横には、流しがあって、そこには洗い桶がぽつんと置かれていた。
 埃はない。どうやら空き室はキヨが掃除しているらしい。コンロの奥の壁に腰までしかない小さな冷蔵庫があった。開けたが、当たり前に中身はからだった。
 買い物、行かなきゃいけないのかな、と思ったが、一はお金を持っていなかった。それに、こちらの通貨のことなど何も知らない。案外いらないのかもしれないが、何もわからないまま安易に外出するのは憚られた。なんとなく、でしかないのだが。
 何もすることがないまま、部屋の真ん中に座りこむ。目の前には硝子戸。網戸で霞んではいるが、外は晴れているらしい。カーテンは右端に寄せて止められていた。
 畳が温まっていて、やさしいと感じる。
 そういえば。
 自分の顔に触れた。昨夜あれだけ殴られたのに、何処も痛くない。
 胸に触れる。腕、足。何処も微塵の痛みも感じない。
 死んだから、だろうか。
 死んだから、もう痛みすら、ないのだろうか。
「おとうさん、」
 呟く。やさしかった。母親が生きていたころは。
 それが、母親が亡くなってから、一変。
 理由もなく―――少なくとも、一にはわからない理由で―――殴られて、抵抗できなかったのは。
 父親が淋しいのを知っていたからで。
 こうして死んで、ひとりになって、改めて思う。
 自分が死んで。
 父親は今どんな気持ちなのだろうか。
 哀しいと、思っていてくれるだろうか。
 殴っていたこと、後悔、しているだろうか。
 それとも、なんとも思っていないだろうか。
 殴る対象がいなくなって物足りないとでも思っているだろうか。
 物足りないでも良い、一のことを、覚えているだろうか。
 考えていてくれているだろうか。
 目を上げると、日が眩しかった。眼を閉じると、涙が出た。

―――男の子はね、人前で泣いちゃいけないのよ

 母親が言っていた。生前。
 でも、今はひとりだから。ひとりだから―――良いよね?
 おかあさん、
 おかあさん―――母親は。
 死んだ。一が10歳のころ。
 どうしてだったか、よく覚えていない。
 事故だったか、病気だったか、それともまた違う何かだったのか。
 覚えていない。大好きな母親、大好きだったのに―――死んでしまったら。そこで停止。
 一もきっと。
 此処で停止。
 止まってそれから、どうすれば良いのかなんてわからないけれど。
 涙が出て、止まらなかった。

   +++

「へえ、そうなんですか」
 テルは社長室のソファでしたりと頷いた。
「うん、そうなんだよ」
 コウは机にほお杖をついて、同意する。
「で、ボクはどうすればいいんでしょう?」
「あれ、そこはテルくんの考えるところでしょ?」
 ふっつーに。社長―――コウは笑顔で言う。
「事実は事実だよ。真実、嘘。偽善に偽悪に。行動にはいろいろあるけどね。私たちがやってるのはどれでもない。ただの事実の整理だよ」
「また…唐突だにゃ〜」
 テルはふわー、と頭を押さえてソファに沈み込む。
「私は必要な事実はそろえたし。それにこれは仕事の一環ではないしね」
「うぐ。」
「本当はね、仕事に私情を持ち込んじゃ駄目なんだよ、」
 にっこり。言いながら、コウは自身の右耳、カフスを引っ張った。
 ここには、糸が繋がっている。コウにもテルにも見えない糸。否、見えないようにしている糸。
 ふたりを繋ぐ、ふたりの原点である、酷く物理的な。
 「黄糸」と呼ばれる、絆の糸。
「例外なんて、認めていたらキリがないのはテルくんもわかってるでしょ? だけど、寛容な私はその例外を認めようじゃないか」
「なんですか、その含みは」
 げんなり、沈んだまま、テルは返す。そんな様子など軽く無視して、コウは言う。
「これが終わったら、久々に一緒に寝ようか」
「……。セクハラ?」
「いやだなー愛情の現われだよ。それに、何処の世界に11歳の娘と寝てセクハラ扱いされるいわれがあるって言うんだい?」
 血は繋がってないのに、とは言わない。それは禁句。タブー。それを言ってはいけない。あのときから、ずっと。無言の、暗黙の了解。
「ボク、もう白寿のおばあちゃんなんだけどな…」
「見た目は11歳だろう? そんな事実なんて関係ないない。それに、私よりずっと年下なのは事実だしね」
「矛盾してるんだよ」
 それはもう素敵なほど。
 此処まで矛盾しなくても良いじゃないか、とテルは思う。
 だけど。
 これに救われたのも確かな事実で。
 世の中には、いろんなことがある。
 いろんな事実がある。正論でも矛盾していても、どれでも。そして、それに救われている誰かがいる。
 それに救われている、テルがいる。
「でもね、思うんですけども」
「職務に熱心なのは良いことだね。で、何だい?」
「……。それって、何か意味はあるんですかね」
「ないだろうね。彼は死んだんだ。それは変わらないよ」
 事実は事実。笑う。酷く残酷に見えるのは、どうしてだろう。
「だけどね、それでもきっと、彼は今よりも救われるんじゃないかな。―――いや、そういうのは語弊があるかな」
 不自然な、考えるようなポーズ。演技が出来ない人だ。
「テルくんはきっと、今よりも救われるよ」
「社長って、イイヒトだけど。そうじゃないですよね」
 言うと、それは光栄、コウは満足そうに笑った。





4.

「やあ」
 さわやかな挨拶だった。
「…おはようございます」
 いつの間にか眠っていたらしい。畳の上で直に。
「さあ起きようやあ起きよう今起きよう」
 追い立てるようにテルが腕を引っ張る。肩の関節が抜けてしまいそうだ。否、人間の躰はそんなに柔には出来ていないだろうけれど。
 今何時だろう、思って。気付く。―――この部屋には時計がない。
「あの、今何時でしょうか、」訊ねると「そんなの知らないよん、でも朝朝〜」と丸め込まれた。否、丸め込まれたというのには結構な語弊があるような気がするが、今の一にはそれを否定するだけの余裕がなかった。もとい、眠すぎて。
「早起き…ですね、」
「まあね、寄る年波には勝てないのさっ」
 老人は早寝早起き、まあそんなことが言いたいのだろう。
「あなたが言ってもなんの説得力もありませんし、納得も出来ませんよ」
「高町くんを説得する気も、高町くんに納得してもらう気も、ボクには皆無なんだよ」
 さらりと、結構傍若無人なことを言われた。
「はあ、まあ…良いですけど別に」
 長いものにはまかれろ、強いモノには逆らうな―――父親との暮らしで学んだ事実。染み込んでしまった、たった数年足らずの時間で。
「はい、しんみりしな〜い。空気が澱むんだよ。ボクそういうのが似合うキャラじゃないんだよね」
 何処までも…いや、言うのは止めておこう。一は寝ぼけ眼で思った。
「ところで、あの、なにか用があるんですか」
「うん。あるよ大有りだよ。とりあえず下の食堂にでも行かないかな?」
 食堂。ということは、今は朝の7時から8時の間、ということだろうか。だいぶ頭が冴えてきたようだ。
「……。ところで、」
 先だって扉に手をかけたテルの後ろ姿に問う。
「何かな」
「此処、女性の連れ込みは禁止だとか何とか…言われたんですが、」
 言うと、テルはにっこりと愛想よく笑った。普段からこんなふうに笑えば、きっともっともっと愛嬌があって可愛く見えるだろうに。
「それはありがたいおことばありがとうなんだよ。でもね、ボクは特別なんだな」


 朝食のメニューは決まっているらしかった。
 一応メニュー一覧表などというモノがあったが、朝食に至っては1週間7日―――日付日時の単位はこの世と同じらしい―――、ぶっ通して「和食」と豪快な筆文字で書かれていた。喰いたくないやつは外行きな、という雰囲気だ。残したらきっと地の果てまでも追いかけられるのだろう。いや、あくまで一の想像でしかないが。
「ん〜やっぱり此処の味噌汁はおいしいのだ」
 満足そうに、御椀を両手で持って啜るテル。
「嬉しいこといってくれるねーテルちゃん」
 カウンターの奥から、食堂のおばちゃんが豪快に笑った。きっとあの「和食」の字はあの人の作品に違いない、なんとなく、思った。
 浅漬けを咀嚼しながら、視線だけであたりを見回す。
 テルほどまでとはいかずとも。下は中学生くらい、上は総白髪のご老人まで。外見の年齢層は10代前半から80代後半、と言ったところか。広範囲もいいところだ。
「此処にいる人たちって、みんなテルさんみたいな仕事をしてるんですか?」
「うん? そうだよ? 結構ポピュラーな職業だしね死神って。―――あ、その浅漬け貰ってもいいかな?」
 ポピュラーらしい。一の皿から浅漬けをひとつつまんで、テルは満足そうに茶碗を取った。
 和食党なんだな、―――とまあ、これも確信のないことなのだが。思った。実に幸せそうに皿を開けていく様を見ていると、こちらの食欲もましてくるような気がするのは、きっとこちらにとっても幸せなことなのだろう。
「まあ、死神っていってもやってる仕事の内容ってそれぞれだし。ボクみたいにあっちとこっちを頻繁に出入りしてるのもいれば、ずーっとこっちだけの仕事もあるし。あっちに言ってばっかりの仕事もあるし。適当だね。それでもって曖昧だね、曖昧で―――」
「曖昧で?」
「忘れちゃったんだよ」
 間。
「あ、そうですか」
「あ、今呆れたね? こいつ莫迦じゃねえのとか思ったね? 酷いよ? 人権侵害だね訴えてやるーっ」とかいいながら、全然そんな風には見えない。演技が出来ない人なのかもしれない。
「訴えてやるって、頻繁に聞きすぎてもう既にイマイチ実感湧かないことばですよね」
「……。無視しないでよ。まあそうだね、人間ってそんなもんだよ」
 いつの間にかからになった食器を重ねて、テルは湯飲みで一服している。一の皿には、まだ3割方残っているというのに。
 あれだけ喋って、一体いつの間に?
「あ、ボクは気にしないで。ゆっくり食べて良いよ。うん、全然気にしてないよ。これっぽっちも、そうだね、このお茶のなかの御茶っ葉のくずほどに気にしてないから」
 といってみせてくれた湯飲みの中には、結構な葉くずが沈殿していた。要は、暗に早くしろと言いたいのか。
「テルさんって横暴ですね」
「強引だといってくれたまえ」
「…どっちもどっちですよ」言うと、にやりと笑った。今度は愛嬌のカケラもない笑顔で。「まあね」

「高町くんってさあ」
 しばらくの沈黙の後、ぽつりとテルが言った。
「父子家庭、だったよね?」
 視線を泳がせて、頷く。
「痛いところだったりする? ソコ」
 一の胸のあたりを指差して、テルが言う。ソコ―――ココロ、痛い?
「そうですね、まあ…気持ちよくはないですよ」
 温くなった味噌汁を飲み干して、返答。痛いないはずはない。痛みが快感なほど、一はマゾじゃない。
「そっか。……高町くんおお母さんって、死んだんだよね」
「…何が言いたいんですか?」
「別に、職務質問みたいなものかな。気軽にこたえていいよ」
 職務質問は軽々しく答えて良いモノじゃない、思ったけど言わなかった。
「10歳だったと思いますけど。死んだって言うよりは、いなくなったって言うほうが、感覚としては近かったですね」
 学校から帰ってきたら、そこに既に母親の姿はなかった。父親がいて、泣き腫らしたような真っ赤な目で、一を迎えてくれた。
 おかあさんは? 訊くと、もういない、父親はそれだけ言った。
「でも、死んだんだよね」
「でしょうね。葬式とか、俺は行きませんでしたけど」
 違う。正確には、「行かせてもらえなかった」。母の葬儀がひと通り済むまで、ずっと父方の家に預けられて。
 母親は死んだ。その事実を突きつけられたのは、いなくなってから一月も経ったころだっただろうか。
「死んだらさ、人って何処に行くんだと思う?」
 飲み干した湯飲みを不安定に斜めに。テーブルと指先とで弄びながら目線だけを一に向けて、問う。
「此処でしょう?」
 わかりきったこたえ。自身が死ぬ前なら、きっと「そんなのわからない」そう言っただろう。しかし、死んでしまった今となっては、こたえは明確。
「うん。正解。そのとおりなんだよ」
「何が言いたいのか、わかってきたような気がします」
「察しが良いね。まあそういうことなんだよ」
 湯飲みをまっすぐ、安定させて。微笑う。
「拒否っていう選択肢はありですか?」
「どうして? 会いたくないの?」
 誰、とは言わないで。
「こんなカタチで、会いたくありません」
 死んだ母親、死んだ息子。再会はあの世で。―――莫迦にするわけではないが、―――そんな、お子様童話じゃあるまいし。
「それに、母が死んだのはもう何年も前。未だに此処に留まっているんですか?」
「嫌だなーボクらの仕事はそういうコトだもん。わからないほうがおかしいね。詐欺だね。訴えられちゃうよ」
 淡々と。
「彼女が此処に止まっている、その行為自体に特に理由はないよ。高町くんと一緒だね。輪廻のサイクルに組み込まれるまでの順番待ち、かな」
 嘘、テルは声には出さずに思う。彼女が順番待ちなのは事実。しかし、それだけではない。
「それに、突然にいなくなったんなら、お別れだってしてないんでしょ? いいんじゃない? こんな機会、万にひとつくらいしかありえないよ」
「確かに、そうですね」
「ノリが悪いなー高町くん」
「それはミミタコです」
 母親が死んでから、父親が荒れるようになってから。一は急激に話さない子どもになった。殻に閉じこもる、はたから見れば陰気な、暗い子供。
 話したいことはたくさんあった、言いたいこともあった。ひとりでは淋しかった。哀しかった。だけど、余計な口を利けば自分の首を絞め、憐れだと同情されるのは何よりも嫌だった。
「それに、会うことによって、俺にどんなメリットがありますか?」
「メリットなんてモノが必要なの? 即物的だね」
「現実的といって下さい」
「あんまり変わらないね。まあ良イイケド」
 本当にどうでも良さそうに、テルは瞬きをする。睫毛も瞳も、髪の毛も服装すら。闇に紛れてしまいそうな黒。漆黒と言うよりは、暗闇といった方がきっと的を得ているだろう。
「ボクたちにだってメリットなんかないよ。むしろ手間が増えてデメリットってやつかな」
 箸を置いて、息をつく。
 気がつくと、人は疎らになっていた。そのはずだ、時計は既に8時を過ぎていた。
「でもね、高町くんには、きっと価値があるんじゃないかな」
 きっと、救われるんじゃないかな。
「そうでしょうか、」
「そうだよ、これボクの勘ね。結構当たるんだな、これが」
 言いながら、耳の奥で反芻する。コウのことば。
 無視しながら、テルは続ける。
「ねえ高町くん。昨日さあ、自分が死んでも誰も哀しまないって言ったでしょ」
「…言いましたね」
 テルと同じように湯飲みを持って、一は思い出す。

―――自分が死んじゃって哀しい?
―――俺が死んで、泣く人間はいませんから

「事実、ですよ。単なる」
 一体誰が。一の死を哀しむというのだろう、悼むと言うのだろう。きっと、誰も。死んだことすら気付かないのではないか。
「あのね、人間はさ、みんな生きるために生まれてくるんだよ」
「死ぬために生まれてくるっていう人もいますけどね」
「無常観っていうやつ?」
「……。それは明らかに違うと思いますけど」
「ふうん、まあいいや。でも、それは間違ってるよ」
 湯飲みに視線を落として、それからテルを見る。
「人間にはいろんな人間がいる。人種の違いじゃないよ、外見じゃない。中身だね、性質の問題だよ。強欲な人もいれば貪欲な人もいれば欲のない人もいる。聖人君子のような人がいれば冷血漢もいる。道端で倒れてる子供を見て、かわいそうだと思う人がいればなんとも思わない人もいる。虫を殺して罪悪感に苛まれる人がいれば人を殺してものうのうと生きている人もいる。その人たちみんな、生きてる理由も意義も意味も、全然違う。感じ方も違うし、想いのカタチもそれぞれだよ。だけどね、みんな共通してることがひとつだけあるんだ」
 何でか、泣きそうな表情で。続ける。
「―――みんな、生きてるんだ。生きるために生まれてきたんだよ。死すべき人なんか、ひとりもいやしない。殺人犯だって独裁者だって死ぬべきじゃない。生きていることに意味がある。意義があるんだ。そこに存在すること、生きていること。全部が全部、必然なんだよ」
 死すべき人間なんて、世の中にはひとりだっていない。
 みんな生きている。みんな生きるために生まれてきて生きるために生きている。
 湯飲みを置いて、一は息をついた。
「俺が、生きるべき人間だったと」
「高町くんだけじゃない。ボクも、高町くんのお父さんもお母さんも、みんなだよ」
 死んだ人がいる。だけど、みんな生きていた。
「あなたに、それがわかるんですか?」
「わかるよ」
「………」
「ボクはね。現代から言えば結構キツイ時代に生まれたんだよ。身売りとか間引きとか、日常的常識として行われていた。ボクは女だったから、殺されることはなかったけど。男の子はいっぱい殺された。みんな、生きていたかったのに。生きるために生まれてきたのに」
 生まれた弟、哀しそうな両親の表情、責めるような村人の表情。気がつけば、弟は何処にも存在しなかった。
「現代はあのころに比べたら格段に豊かになって、なのに、まだ生きられない子っていっぱいいるんだ。望まない妊娠、中絶―――人殺しが横行している。それも人道的にね。その時代、生まれてきた子供は幸運だよ。あのころと同じくらいにね」
 そんな中で生まれてきて、どうして死んで良いものだろうか。
 そんなこと、許されるわけがないのに。
「すいません…」
「……。謝ることなんかないよ、ていうか、高町くんが何に謝るって言うのさ」
「いえ、……」
「、あー湿っぽい、湿っぽいよっ」
 腕をばたばたさせながら、テル。食堂はすっかり人の気が失せていた。
 一は溜息を吐く。

―――みんな、生きるために生まれてきたんだよ
―――死すべき人なんか、ひとりもいやしない

 生きるべきだった? 自分が?
 そんなの、信じられないけれど。
 溜息。

 っぱあん―――

 突然の理不尽な衝撃に、一は湯飲みを取り落とした。幸い中身はなくプラスチックだったため、湯飲みは軽い音を立てながら床に転がった。
「? ??」
「湿っぽいんだよーっ」
 見ると、テルがテーブルの上に立っていた。手には身の丈ほどもありそうなハリセンが握られている。―――何処に持っていたのだろうか。
「良いよ悪かったよまじめなことを言ったボクがいけなかったっ」
 突然まくし立てるように、叫ぶ。
「知ってる? 溜息ひとつ吐くと倖せが一個逃げるんだよっ。高町くんの倖せもうふたつも逃げちゃったよっ」
「…はあ、」
 ていうか、痛いんですけど。
「もういいからっ行くよっもう決定だからねっ」
 テーブルの上を横断して、一の横に飛び降りる。鼻息も荒く、テルは一の服の袖を掴んだ。
「あの、」
「文句あるっ?!」
「……。いえ」
 ハリセンをちらつかせながらそんなことを訊くのは反則行為ではないだろうか。
 一を引っ張りながら、テルの中では、まだ回っていた。
 ことば。


―――テルくんはきっと、今よりも救われるよ





5.

―――あなたは、だれ?

 私はコウ、君を迎えに来たよ
 ねえ、あたしは―――死んだの?
 どうして?
 だって、コウ…さん、綺麗だから……天使さま、みたい

 笑った表情には力がなく。
 コウは雪にまみれたテルを抱き上げた。腕も足も、まるで氷のように冷えきって。

 教会でね、ご主人様が見せてくれたんだよ

 極彩色の、ステンドグラス。降り注ぐ光。家を出たその日、何も知らなかった最後の日。

 そうか…でも私はね、天使さまではないんだ
 そうなの?
 そう、死神なんだ
 しにがみ?
 そう、死んだ神様―――さあ、行こう?
 どこにいくの?

 問うと、コウはやさしく笑った。

 ここよりもずっと、良い処だよ―――

   +++

 実に。
 強引極まりない。
 扉の前で、一は思った。後ろには、テルがいる。
 勢いに押されてしまい、ここまできてしまったのだが…。それにしても。
 アパートの、質素な木製の扉。表札も何もなく、扉の左横に格子窓がついている。
 ノック。
 しなければならないのだろうが。
 でも―――。
 抵抗がある。どうしても。
 母親が死んで、―――いなくなって、もう何年も。もう会うことなどないと、思っていたのに。どうして、どんな顔して会えばいいのだろうか。
 普通で良いんだよ、テルはそう言ったけれど。普通って、どういう顔なのだろうか。自分がどんなふうに母親と接していたのか、もう一は覚えていない。ぼんやりと浮かぶイメージは、すべて曖昧で。
 不意に、風を切る音。

 すっぱあんっ―――

 ブーメランのごとく飛んできたハリセンに後頭部を撃たれ、一は勢いで前のめりに扉にぶつかった。
 振り返ると、テルは「してやったりっ」なんてガッツポーズなんかしてやがる。
「テルさん……」
 クレームでもつけてやろうかと口を開いたら。
「どちらさま?」
 声がして、扉が開いた。
 何処かで聞いた声、否、自分を育ててくれた人の声。
「あの、えっと…」
 後頭部と額をさすりながら、言葉を捜すけれど。見つからない。
 開いた扉の向こう側に、女の人。
「……あ、」
 驚いた表情。あのころと変わらない。
「はじめ?」
「―――おかあさん、」

   +++

 扉の中に消えた一を見てから、テルはずるずると座り込んで、壁に凭れた。
 と、震動に、テルは携帯を引っ張り出す。
「もしもし」
『もしもしテルくん?』
「ああ、社長」
 なんて良いタイミング。何処かから盗撮でもされているのだろうか。ありもしないことを考える。
『ん? なんだかぞんざいな返事だね。うまくいかなかったのかい?』
「いいええ、全然うまくいきましたよ、寄り道こそしましたけどね」
『ふうん。まあイイケドね。ところでテルくん、この後どうするのかな?』
「どうする、と申されますと?」
 彼が何が言いたいのか、テルにはわからない―――ふりをする。
『高町くんの行く末は―――?』
「次回にでも続きましょうか、」
『それでも良いんならいいけど』
「……。冗談ですよ。ただ、それはしちゃいけないことですからね。彼は死んだ、これは“変えられない”んでしょ?」
『そうだよ。うん? もしかしてわかってないかな、そういうことじゃないんだけど』
「じゃあ、なんなんですか」
『本気?』
「さあ、」
 曖昧な返事。なんなのか、わからないでもないけれど。
「社長はどんなエンディングをご所望で?」
『…そうだね、哀しくないなら何でも良いよ』
 哀しくないなら。
 それって結構難しい。
 でも。
「わかりました。誠意努力します」
『うん、よろしく』
「では、失礼します」
 ぴ。
 通話終了。扉のほうを見る。
 閉まったままの扉。中の様子なんて、ここからではわかるわけもなく。
「救われる……ね」
 何が救いで、何が救いじゃなくて。
 そんなの、曖昧すぎてわかんないのに。
「あたしは救われるのかな、」
 携帯を握り締めて、思った。

   +++

 卓袱台。向かい側には、母親がいて。
 それは酷く懐かしく、酷く居心地の悪い。光景。
「何年ぶりかしらねえ、」
 湯飲みを置いて、母親が言う。
「…5年、くらい」
 返す声は、まるで自分のものではないように感じる。
「そう…もう5年も経つのね」
 溜息混じりに、言った母親。あのころと変わらない外見、なのに、随分と老けたように見えてしまうのは、どうしてだろう。
「こんなこというのはなんだけどね、母さん、わかってたの」
「………」
「一が、そう経たないうちに此処に来るってこと」
「俺が、死ぬってこと?」
 言うと、母親は頷いた。
「どうして?」
「あの人は、―――そういう人だから」
「そういう人って、いうのは?」
「あの人はね、愛するが故にそのモノを壊してしまうの」
 愛して愛して、壊してしまう。
「だから私も、一も。壊してしまうの。壊して、それから気付くの」
 かわいそうな人なの。
 言われて、閃く。可能性。
「じゃあ、おかあさんは、お父さんに殴られて死んだの?」
 母親はうっすらと微笑って、しかし問いにはこたえずに。
「母さんね、一を待ってたのよ」
 死んでから5年間、ずっと。
「待っていた?」
 テルの言っていることと違う。テルは、母親が此処に留まっているのは、ただ輪廻のサイクルへの順番待ちだと、そう言っていたのに。
「あのね、一。お父さんを憎んだり恨んだりしないで欲しいの」
 死んだというより、殺された、―――それに近いけれど。どうかお願い、彼を憎まないで。
「一は母さんの連れ子だし、お父さんとは何の繋がりもなかったかもしれない。だけど、お父さんはあなたが憎かったわけではないし、愛していなかったわけではないの」
 だから―――お願い、憎まないで。
「そんな、こと…」
「一?」
 温くなった湯呑みを両手で包み込んだまま、一は目を伏せる。
「そんなこと、おかあさんに言われるまでもないよ」
 父親は―――おとうさんは淋しかった、わかっていた。それだけは。
「お母さんが死んで、お父さんは淋しかったんだと思う。だから、俺は我慢していた。殴られても蹴られても、ずっと我慢していた」
 今まで誰にも言えなかったこと。
「だけど、今は、思うんだ」
 見た、母親の顔。
「それじゃいけなかったのかもしれない。俺はちゃんと、お父さんに言わなきゃいけなかった、いっぱい、いろんなこと、言ってあげなきゃいけなかった」
 なのに言わなかった。淋しいんだとそう感じるだけで、何も。言わなかった。
「泣かないのよ、一」
「わかってるよ…」
 わかってるけど、それだけ。それだけじゃ、駄目なのに。
「男の人って、わかんないものね」
 母親は苦笑いで、言う。
「なかなか…わからないものだわ」
 ねえ一、呼び掛ける。
「あなたは、自分が死んでしまって、哀しい?」
「…前にも、同じこと訊かれたよ」言って、続ける。「今となっては、後悔、かもしれない」
 自分が死んで、誰が哀しむとかではなく。どうして生きてなかったのか。どうしてされるままに死んでしまったのか。
「哀しいよ」
「そう…それは良いことだわ」
「―――え、」
「自分が死んで、自分が哀しくないのに、誰が哀しんでくれるっていうの?」
 お茶を啜って、母親は言う。一を見ながら。
「母さんが死んでから、5年間、一が学校とか外で何を感じていたのかはわからないけれど。でもね、世の中っていうか、人間って、そう簡単にみきれるものじゃないのよ―――て、それもこれも、全部死んでから気がついたんだけどね」
 おどけたように。母親は表情を崩す。
「でも、気が付くのが遅すぎたとかは思っていないの。むしろ、今気付いていて良かったかも知れない。生まれ変わったら記憶はなくなるらしいけれど、それでもいいの。気づいたことに、きっと大きな意味があるの」
「…うん、」
「だから一は、まず自分で、自分を哀しみなさい。それから、考えることもあるでしょうし」
「うん、」
 ほら泣かないの、母親の指が、目元を撫でて、涙を攫っていく。暖かい、体温。死んだのに、まるで今でもそこに、人間として生きて存在しているよう。
 否、母親は―――死んでも、生きていた。
 此処で、世界は違っても。まだ留まって。
「人は、どうして生きているんだろう、」
 呟くと。母親は不思議そうに。
「生きるために決まってるでしょう? 生きるために、人は生まれてくるの。間違っても、死ぬためなんかじゃない」
 同じことを言う。あのふざけた死神と、同じことを。おかしい、ちょっとだけ、笑ってしまう。
「あら、泣いた烏がもう笑ってるじゃない」
「おかあさん、」
 手に触れて、そこにある存在を感じて。
「俺、おかあさんがいなくなって、淋しかった」
「はじめ…」
 そこにいるのが当たり前だったのに。急にいなくなって。
 淋しかったよ。
「死んで再会なんて、嫌だと思った。だけど―――、会えて…よかった」

   +++

「おかえり」
 扉を出て、建物の角で。テルが言う。
「どうも、」
 何事もなかったかのように、一は言う。
「さて、帰ろうか」
 帰ろうか、―――何処に。ああ、そうだ、あの社員寮へ。帰ろう。
「高町くん、なんか、実はあったかな?」
「あなたが、それを訊くんですか?」
「……。そうだね、野暮だったよ」
 一を見上げて、テルはホールドアップ。ことばには緩やかな笑いが含まれて。
「そういえば、テルさん俺に嘘つきましたね」
「あれ? 嘘? ボク生まれてこの方嘘なんかついたことないよ〜」
 それ自体が、絶対嘘だし。
 無視して、テルは顔だけ振り返る。
「ねえ高町くん」
「なんでしょう」
「自分が死んで哀しい?」
 含んだような、それでいて、何も含んでいないような―――曖昧な表情のテルに、一は。
 たったヒトコト、返した。
「哀しい、」





6.

「思い出したよ、懐かしいコト」
 ベッドの中で、テルは呟いた。隣で本を読むコウに。
「何だい? 素敵なコトかな?」
「ううん、最低なこと」
 枕に顔を埋めて、言う。ほどいた黒髪が布に触れてさらさらと音がする。
「コウとはじめてあった日のコト」
「素敵じゃないか」
 憮然とこたえるコウに、テルは笑った。
「あれは誤算だったんだよほんとに」
 死ぬと思ったのに。終わると思ったのに、終わらず此処にいる。
「でも、誤算でも救われたんだよ」
 顔を上げて、見上げたコウの表情は。枕元のあかりが邪魔でよく見えない。ぽつりと浮び上がったカフスが返す光が。眩しい。
 手を伸ばすと、手が重なった。大きなやさしい手。引き上げてくれた手。
「ボクは、生きているのが苦痛でたまらなかった。死にたくて、でも死ねなかった」
 苦しかった、そんなことばでは足りない。毎晩の「奉仕」、年端も行かない少女の躰に欲情する男、逆らえない自分、立場、すべてが嫌で―――どれも覆す術などなかった。
 本を閉じて。コウは明かりを消した。
「ありがとう」泣き顔なんて見られたくないから。
「何度も、死ねばいいと思った。ボクも、あの人も。だけど、死んだのはボクだけだった」
 あの人があれからどうなったのかなんて知らない。
「死んで、楽になった。痛くなくなった。コウに会って、お仕事するようになって。だけど、―――」
「もう良いよ」
 布団にもぐりこんだコウが、テルを抱きしめる。
「過去は、過ぎ去ったものは、忘れるためにあるんだ。テルは今と、未来だけを見ていれば良いんだよ」
「…うん、」
 男の人の匂い。あの人とは違う。やさしい、そう感じることが出来る。
 怖かった夜も、怖かった男の人も。
 今はそれほどでもなくなって。
 長いときが過ぎて、恐怖は薄まって。なのに、記憶は薄れることなく。
「コウは、ボクのそばにいてくれる?」
「うん、良いよ」
「痛くない?」
「痛いのは嫌いだな」
「うん、ボクも嫌なんだよ」
 繋がれた糸など無関係に。
 そばにいる。ずっと。
 テルはようやく、眼を閉じた。


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