彼女のいた世界
ねえ、倖せ?
彼女が僕の前からいなくなってから、3年の月日が経っていた。
だから、突然目の前に現れた彼女に、僕は自分の正気を疑った。別れは突然で、そして、再会もまた突然で。
唐突に。確かに。
あのころと同じ穏やかな表情が、僕の前にいた。
黒い、長い髪。どんぐりのような、黒目がちの眸。白い肌。
「渉」
僕を呼ぶやわらかい声。
「…、」
声の出ない僕に、彼女は足りない身長で僕を見上げて。
懐かしい微笑み。
彼女と出会ったのは、大学3年の春。所属研究室での顔合わせの席だった。文系で、派手な女の子が多いなかで、彼女は大人しいという意味で少し浮いた存在だった。ひとと騒ぐのが苦手だという彼女は、ゼミの飲み会にも、結局最初の1回しか顔を出さなかった。
―――何してるの?
談話室でひとり佇む彼女に声をかけたのは、本格的に夏が始まろうとする7月のはじめのことだった。
―――え、
驚かせないように声をかけたつもりだったけれど、彼女は慌てて机の上のノートを両手で隠した。細い指の間から、彼女の丁寧な文字がぽつりぽつりと覗いていた。
―――なにか、カキモノ?
―――いや、あの…
彼女の顔は見る間に朱に染まっていき。僕は何だか悪いことをしたような気分になった。
―――いや、嫌なら言わなくたっていいよ
―――…ぁ、
―――それに、それも見てない
座っていい? 問う僕に、彼女はノートを閉じて、どうぞ、と言った。
それから、他愛もない話をした。大学生がするような話から、天気の話まで。はじめは戸惑っていた彼女も、そのうち緊張が解けたのか、だんだん饒舌になっていった。彼女がこんなに喋ったのは、後にも先にもこれっきりだった気がする。
―――わたし、学校でこんなに話したのってはじめて
そんな彼女のことばに、僕はささやかな特権を得たように思った。
「渉?」
部屋のなかからの声に、僕は我に返る。
奥の部屋から、律子がひょこっと顔を覗かせる。玄関先に立つ彼女に目を留めて、反射的だろうか、軽く会釈をする。それから僕に視線を向け、だれ? と問う。
「あー…」
僕はなんと説明したらいいのかわからないまま、視線を宙に泳がせるしかなく。
「辻田くんの彼女さん?」僕が何か適当なことばを思いつく前に、彼女が僕の脇から顔を覗かせて律子に問う。「え、はい…」「わたし、辻田くんの大学の同級生の小島莢子といいます」
「どうきゅうせい」
「そう、ゼミがね、一緒だったんだよ」
僕ひとりが焦って、取り繕うようにそう纏めた。律子は特に疑うこともなく――実際嘘はひとつも含まれていないわけだし――居住まいを直して、自己紹介をした。
「え、と。渉の彼女をやってます。二条律子です」
僕を挟んでふたりの女の子。慌てているのは僕ひとり。だってこんなの、ありえない顔合わせだから。
僕と律子と莢子。
「ちょ、ちょっと出てくる」
いいながらサンダルを引っ掛ける僕に、律子は何もいわなかった。後から何て言えばいいのだろうか。けんかになるかもしれない。事情を話したって、律子は頑なに「ありえない」というだろう。
「どうしたの?」
背中を押すようにアパートの敷地を出て、それから莢子の細い腕を掴む。涙が出るくらいに懐かしい感触。細くて、少しでも力をこめると折れてしまいそうで。
「渉?」
僕を呼ぶ声。腕越しに感じる、たどたどしい歩き方。かつて、世界で最も愛した存在。彼女がいれば、僕は他に何も望まなかった。富も名声も、何も。彼女がいる、そのささやかな倖せで、僕という器は常に満たされていた。
5分ほど歩いて、公園にたどり着く。彼女をベンチに座らせて、僕も隣に座る。公園には砂場と滑り台しかなくて、そこでは母親に見守られて、幼い子供たちが遊んでいた。
「…、さやこ」
うまく言葉が見つからなくて、僕はようやっと彼女の名前を呼ぶ。その名前を口にするのは、2年ぶりのことだった。記憶がうずいて、痛い。
「なあに?」
首をかしげて、莢子は微笑む。怒りの感情なんて持ち合わせていないような、何処までも透明で、無垢な表情。
僕は恐る恐る、膝に添えられた彼女の手に触れる。莢子はそれに気づくと、僕の手を、両掌でそっと包み込んだ。
あたたかかった。
「渉の手、冷たいね」「え、」「相変わらずだなぁ」
莢子は愛しそうにゆっくりと掌に力をこめて、僕を見上げる。全然、変わってないね。あれから、3年も経ったっていうのに。
彼女の名前を呼ぶことをやめたのは、彼女がいなくなってから1年経つころ。僕の世界から突然いなくなって、大きな穴を開けた”莢子”という存在を、忘れてしまいたかった。どうしようもなく愛していたからこそ、忘れないと生きていけなかった。
それでも、忘れようと思えば思うほど、彼女の記憶は色濃く何度も思い出されて。名前を口にするだけで、何度も涙した。僕は彼女の遺したものをすべて処分するだけでなく、彼女の名前も、一緒に記憶の奥底にしまいこんだ。鍵をかけて、もう2度と、口にしないように。
―――莢子
最後に彼女の名前を呼んだのは、彼女がいなくなってちょうど1年目の、雨の日。
「びっくりしてる、でしょう?」
莢子は僕の手を包んだ両手を見つめたまま、言った。細くて高い、莢子の声。2度と聞くことはないと思っていた声。
「いきなりわたしがあらわれたから」
「…」
「びっくりするよね。当たり前か、」
空を見上げて、おどけた声で。声音は明るいのに、ココロに痛いくらい泣きそうに哀しそうで。
「莢子―――」「ねえ、」たまらず呼びかけた僕に、莢子は覆いかぶさるように問いを投げかける。
「渉は、今倖せ?」
「、え…」
大学を卒業して、就職して、律子がいる今の生活。―――莢子のいない生活。
「ぼくは、」言ってはいけない。わかっているのに、僕はそれを口にしようとする。「僕は、」
「倖せ、」
「さやこ、」
違う、僕は。僕が言いたいのは。
「そんな泣きそうな顔しないで。渉は今、きっと倖せすぎて、わかんなくなってるんだわ」
「…」
「倖せが日常に融け込んでるの。ねぇ、渉」
手を離して、莢子の小さな後姿が世界を遮る。
「わたしは、今倖せよ」振り返らないで、言う。「渉が倖せそうで、わたしも、すごく倖せ」
何もいえない僕に、莢子はすこし勢いをつけて、振り返る。
「はじめはちょっと不安だったよ。だって渉ってば、ずっと泣いてたんだもん。わたしのせいで、渉が不幸になっちゃうのは、なんだかやりきれない」
「さやこ、」
僕はどうして、彼女の名前を呼ぶことしか出来ないのだろう。彼女のいなかった3年間を埋めるために? 一緒に過ごしたのは、たった1年間だけで。四季を一周したら、彼女はいなくなって。
彼女のいる世界は、もう何処にもなくて。
彼女のいた世界に、僕はひとり取り残されて。
「やだなぁ、わたし、渉を泣かせるために来たんじゃないよ?」
莢子の指が、零れ落ちる涙の滴を攫っていく。その手を掴む。もう何処にも行かないで、そう願うように。
「渉、」
するりと、莢子の手が僕の指から逃れる。
「わたしね、渉にどうしても伝えたいことがあったの」
「…」
「わたし、渉に出逢えて、本当に倖せだった。少しの間だったけど、一緒にいられて、倖せだったよ」
「さや―――」
「ありがとう」
―――じゃあ、またね
それが最後だった。
それから突然連絡が取れなくなって、一週間後、僕はようやく彼女の死を知った。
交通事故、だった。
大型トラックに轢かれた彼女の遺体は、遺族以外に見せられることはなかった。
彼女の葬儀にすら間に合わなかった僕は、彼女の母親に教えてもらった墓石の前で、立ち尽くすしかなかった。
ずっと一緒だと思っていた。
これからの時間を、共に過ごしていくのだと。
ずっと一緒だと思い込んでいた。
こんな結末を、僕は予想していなかった。
―――じゃあ、またね
「おにいちゃんだいじょうぶ?」
服のすそを引っ張られて、僕は唐突に現実に引き戻された。
さっきまで砂場で遊んでいた子供が、心配そうに僕の顔を見上げていた。
「どこかいたいの?」
別の女の子が、自分も泣きそうになりながらいう。僕は袖で涙を拭うと、なんでもないよ、と子供たちの頭を撫でた。大丈夫だよ。
たったそれだけのことばで、彼らは笑顔になると、また砂場に戻っていった。ふと目が合った母親たちと、軽く会釈を交わす。
ベンチには、僕しかいなかった。
「莢子」
呼んでも、もちろん、返答などあるはずもなく。
突然の別れの後の再会は、また突然の別れで終わった。
3年前、彼女は突然僕の世界からいなくなった。いくつもの接点で繋がっていた僕と彼女の世界は、なんの予告もなく切り離され。
かつて彼女のいた世界で、僕は生きている。
大学を卒業して、就職して、律子がいる。莢子のいない世界。
―――倖せ?
彼女は僕にそう問うた。倖せかと。僕を置き去りにした彼女が、僕に倖せか否かを問う。最後に彼女の名前を呼ぶまで、僕は倖せなんかじゃなかった。莢子という存在が大きすぎて、いなくなることなんか考えたこともなくて、ただただ生きている自分に絶望した。
莢子は3年と言う年月を越して僕の前に現れた。どうして今になってだったのだろう。やっと、忘れかけていたのに。やっと、立ち直れたと思っていたのに。
どうして。
「渉、」
反射的に振り返ると、律子が立っていた。
「律子、」
「何よ、泣きそうな顔して」
彼女は帰ったの、訊かれて、僕は応える。ああ、還ったよ。
「そう。それで、キミはひとりでナニ感傷にふけってるのかな?」
「いいや、」
「帰ろう」
僕に手を差し出す。律子の表情には、何の迷いもなく、その腕はまっすぐに僕に向けられている。
それをみて、僕はココロのなかで、莢子に言う。僕は倖せだよ。
莢子がいないと、生きていけないと思っていた。それくらい、愛してた。でも、莢子がいなくなって、どうしていいかわからなかった僕に、手を差し伸べてくれたのは律子だったんだ。律子のお陰で、僕はまたわらえるようになった。
「どうしたの、わらって」
僕は律子の手をとると、いつもよりすこしだけ力をこめた。
「倖せだなって思っただけだよ」
彼女のいた世界で、僕は生きている。彼女はいなくなったけど、それでも僕は生きていける。
握った掌に、僕は日常に融け込んでいた倖せを紡ぎだす。
(2005/05.08 4115文字)