花葬


原点

「智影」
 かすかにオレンジの残る紺色の空を遠めに見ながら、智影は河原に座っていた。背後にはすぐ雑木林がある。それが陰になっていて、川沿いの通りから此処は死角になっている。
「帰ろう」
「………」
「みんな心配してるよ」
「陽汰、」
 振り返らないまま、智影は足元の草をちぎった。
「夢、みたんだよ」
「夢?」
 陽汰は立ち上がろうとしない智影の横に座って、頬杖をついた。
「………」ちらりと陽汰をみて、それからぼそりと、言った。「殺される夢。殺されて、埋められる夢」
 手にもった草を、くるりと回して。伏せた睫毛のしたの眸は、ひかりを吸って赤っぽい色をしている。
「僕はもうとっくに死んでいるはずなのに、埋められてるってわかるんだ。躰に土がどんどんかぶさって、ひかりがだんだんなくなって、重みと一緒に暗闇のなかに落ちていく」
 一気に喋ると、ちぎった草を更に半分にちぎった。草はふたつになった。
「最近よくみるんだ。正夢にでもなるのかな」
 おどけたように。横顔は、わらっていた。細められた眸は、ただ沈む太陽を。みていた。
「なんで智影が殺されるんだよ」
 言うと、智影は少し驚いたように陽汰をみて、それから、さっきとは少し違う顔で、わらった。やわらかい、やさしい笑みだった。同じ顔をしているはずなのに、陽汰はこんな笑顔なんて出来ない。
「何でだろう。でもさ、誰にだって、殺される理由なんかきっとないんだよ」
「理由もなく殺されるなんておかしいよ」
「そうかな。だって、通り魔とか、最近よく聞くけどさ。あれだって理由なんてないんじゃないの? やる側にも、やられる側にも」
「あれは、なんていうんだっけ、快楽殺人、とかいうやつじゃないの? 刺すことが快感、といかいう。刺されたほうは、なんていうか、運がなかったんだよ」
「そうかな、僕だったら、刺すことが快感だとしても、ちゃんと考えるよ。発覚しないように捕まらないように。快感のために人生棒に振りたくないから。何も考えずに、刃物を持って夜道で――ああ、昼間の場合もあるけど――突然誰かを刺すなんて、無計画にもほどがあると思わない? 刺されたほうだってたまったもんじゃないよ」
 ある日突然、背後から終わる人生。そんなのってない。
 草は、何時の間にか数えられないくらいばらばらになっていた。
 ばらばらになった草のカケラを、ぱあっと、花嫁がブーケを投げるように。投げた。ひらひらと、赤色に染められた緑は、影になって河原を滑り落ちていった。
 陽は、もう完全に沈もうとしていた。
「でもまあ、殺される夢ってのは、物事の好転を表すとも言うしね」
 はは、わらって。
「帰ろっか、」
 何事もなかったかのように、言った。事実、何も、なかったのだけど。
「…何だか、立場が逆になってない?」
 陽汰が言うと、そうだっけ、と智影はわらった。今度は年相応な、笑顔だった。


     ***


 部屋にベートーベンの「運命」が響いた。
 智影は我関せずといった感じで、ベッドに座って文庫を読んでいた。ふたりの間を仕切るカーテンは、開け放たれたまま。最近視力が落ちた、という智影は、プラスチックフレームの黒ぶち眼鏡をかけている。
 表示など、見るまでもなかった。
 陽汰は「運命」を鳴らしつづける携帯をもってベランダに出た。
 後ろ手で硝子戸を閉めて、通話ボタンを押した。
「何か用、」
『あら、ぞんざいな言い方ね』
 電波の向こうで、おそらく表情ひとつ変えずに、神谷響子が言った。
「響子がこっちにかけてくるなんて珍しいじゃないか」
『そう?』言った後、少し間があって。『そうかもしれないわね』
 晩春の夜。曇っているせいか、微妙に風が湿っている。
「それで、用件は?」
 響子がこうして個人的に電話をかけてくるということは、何か、用事があるのに違いなかった。家の固定電話ではなく、陽汰の携帯電話にかけてくる、その行動自体が、何かあるのだということを物語っている。
『ねえ、今からちょっとでてこれない?』
 うっすらわらったような口調で、響子が言った。
「今から? もう9時過ぎてるけど?」
 振り返って部屋の中の掛け時計を見る。ちらりと、智影と目が合ったが、お互いすぐに逸らした。
『ふぅん、陽汰は真面目なのね』
 その言い方がなんとなく皮肉っぽくて――事実皮肉なのだろうが、たぶん響子は無意識だ――陽汰は電話を耳から少し離した。顔をしかめるが、当然その表情が響子に伝わることはない。
 再び電話を耳元に戻して、瞬きをしながら、言った。
「何処に行けばいい?」
 言うと、空気か震えるようなわらい声が聞こえた。


「こっちよ、」
 河原の下のほうで、響子が呼んだ。低めの声、室内でも屋外でもよく通る。
 陽汰はあたりを見回すと、川沿いの道から、河原の斜面を下りた。
「誰にも言わずにきた?」
 響子の横に立った陽汰に、問うた。電話を切るときに、響子に言われたこと。誰にも言わないで出て来てね?
「…ああ、黙って出て来たよ。多分誰にも気づかれてないと思う」
「そう、」言ったあとに、ちらりと目を逸らして、「智影にも?」言った。

―――智影にも?

「言ってないよ」
 たとえ双子の弟だとはいえ、お互いのプライバシーの距離はきちんととっているつもりだし、智影がふらりと何処かに行くときにも、気づいたって何処に行くのかなんてことを、陽汰は智影に問うたことはない。
 ただし。同じ部屋にいるのだから、気づいたっておかしくない。響子のいうとおり、”何も言わず”に出ては来たけれど。
 気づかれなかったのか、といえば、確信は持てない。
 響子は後ろを見ると、そのまま言った。
「雨が降りそうね、」
 言われて空を見上げたが、星こそ見えないものの曇ってなどいない。くすんだピンク色に縁取られた紺色の夜空が広がっているばかりで。
「晴れてるけど?」
「――来て。こっちよ」
 陽汰の問いにはこたえず、響子は陽汰の腕を掴んだ。薄手の長袖越しに感じる響子の指は細くて冷たかった。
 引っ張られるままに、河原を雑木林の方に回りこむ。
 雑木林と河原は、それぞれ鉤型にかみあっていて、すぐに川沿いの道から死角の場所に入る。
 雑木林のなかに入ると、ひんやりとした空気が頬に感じられた。植物の吐き出す酸素と、躰の細胞ひとつひとつにまで、纏わりつくような冷気。
 雑木林のなかには、ひとつ小さな広場みたいな場所がある。そこだけ木がなくて、草もちらほらとしかなくて、膝丈の下草が、周囲をずらりと囲んでいる。
 掴んでいた腕を、少しだけ力を込めて握ってから、響子は手を離した。
 ひとりの男が、広場の奥、力なく木に寄りかかっていた。
 響子を見たが、彼女は何も言わずに、まっすぐ男を見ていた。
「―――響子?」
 呼んでも、返事をしなかった。
「響子、」
 だらりと垂れた腕に軽く触れて揺すって。それでも反応はない。突然糸が切れてしまったように。男も響子も、ぴくりとも。動かない。
 応答がないので、陽汰はどうしたらいいのかとひとつ息をついた。
「起こしてあげて」
 ぽつりと、響子が言った。
「……え、」
「起こしてあげて。」
 ゆっくり陽汰を見て、また、言った。大きな闇色の眸には、困惑する陽汰が丸く歪んで写りこんでいた。
 わけがわからないまま、陽汰は男に近づくと、上体をかがめるだけで肩を揺すった。無反応だった。声をかけた。無反応だった。近くで見ると、男というよりは、陽汰とたいして年恰好の変わらない少年だった。
 しゃがんで、少年の顔を覗き込んで。違和感を感じた。
 少年は両目を見開いていた。否、片目だけ、微妙にまぶたがゆるく。今からウインクをするよ、その瞬間を連射でとらえたよう。その、一枚だけを、切り取って顔に貼り付けて。
「、おい」
 シャツから出た手首に触れて、想像しなかった冷たさに反射的に手を引っ込めた。その反動で、しりもちをついてしまう。
「…あ、」
 口に手をあてがって、何かが出て行くのを阻止する。何かが出て行く。それは悲鳴なのか驚愕なのか恐怖なのか。それとも物理的な何かか。
 息が細切れになって、不規則に肺から押し出されていく。息が出来ないのに、躰は息をしようと必死になっていて。
 あるはずのない、冷たさ。いつか感じたことのある、無機物のような。冷たさ。
 生きている人間には、ありえない、体温。否、体”温”なんて。そこには、温かみの欠片さえも。ない。ないのに。
 死んでいる―――?
 ふ、と肩に。感触が。やはり冷たい、何か。
 その手はゆっくりと陽汰の肩を撫でると、するりと、首から肩に腕を回して抱きしめた。
 背中には、ちゃんとした、体温を感じた。響子だと、やっとわかった。
「…、……死んでる、のか…?」
「そうね、」
 やさしく。掌でゆっくり鎖骨のあたりをとん…とん…、叩きながら、言った。
「死んで……ど、どうして…どうして?」
「………」
「どう……、」
 頭のなかで、ストロボが。瞬いた。
「響子…、」
 叩いていた手が、止まった。ゆっくりゆっくり、服の布地を握り締める。そのまま交差した腕を引けば、容易に陽汰の首は絞まるだろう。
「響子が、殺した、のか?」
「………。そうよ」
 沈黙の後。耳元で。囁くように、こたえた。
「なん―――」
「”なんで”? なんでかしら。わからないわ」
 わらいを含んだ声で、響子は。
「わからないわ」
 繰り返した。
「誰、なの、」
「さあ、知らない」少し間を開けて、続けた。「駅前でぼんやりしてたら、声をかけられたの。彼、私とセックスがしたかったみたい」
 何事もないように。さらりと言う。
「そのまま、近くの公園でキスをしたわ」
 そして、そのあと。
「唐突に、頭の中で何かがひらめいたの。今しかない、この機会を逃すな―――誰かが私に言ったわ」
 今しかない―――何が?
 機会を逃すな―――何の?
 その声の主は、一体、誰?
 響子はゆったりとした口調で話を進めた。
「此処に連れて来るのは簡単だったわ。彼はまったく警戒してなくて、後ろから殴りつけるのは思っていたよりもずっと簡単だった。彼は愕いたような――事実愕いていたのかしらね――表情で私をみたけど、やっぱり隙だらけで、今度は首を絞めたの。抵抗されたけど、あっけなく彼、落ちちゃったわ。ぐったりとして。心音を確かめると、ちゃんと生きていたから、安心したの」
 もう死んでいる彼を見て。響子は言う。陽汰の背後から。生きていたから安心した――既に自分が殺した少年を見ながら、不釣合いなほど、穏やかな口調で。
 これから、ちゃんと殺すのに、こんなところで死なれちゃつまんないでしょ? まるで、そう言うかのように。
「うつ伏せにして、背中を刺したわ。雑木林の一角に物置があるでしょう、そのなかにあった鎌でね。少し錆びていたけど、すんなりと穴をあけられた。彼は目覚めなかった。だからそのまま引きずって、あそこに、に寄りかからせた」
 そこでことばを止めると、響子は掴んでいた陽汰の服を離した。しわを伸ばすように、撫でる。
「そのあと、どうなったと思う?」
 愉しそうに。新しいおもちゃを見つけた、コドモのように。
「彼、しばらくして目を醒ましたわ。凄く苦しそうだった。息が出来ないって。私ね、彼の肺を刺したの。昔、何かの本で読んだのよ。それがいちばん苦しい死に方だって。息をしようにも、肺に穴が開いているから、息が出来ないの。窒息しちゃうの。私は、彼の反対側で、地面に座って彼の様子を眺めていたわ。彼は私を見ると、掴みかかろうとしたのかしら、暴れたけど、もう動けなかったみたいね」
 響子は少年を見た。響子の目には、見えているのだろうか、そのときの状況が。
「彼は大声をあげたわ。でも、此処でどんな声をあげても、誰にも聞こえない。聞いているのは、私だけなのに。錯乱でもしていたのかしら」
 首に回していた腕を、今やもう、動かない少年に向けて、まっすぐ伸ばす。
「叫び声もしぼんで、しばらくすると、動かなくなったわ」
 何かを探るように動かしていた指を、握りこんで。
 また、ゆっくりと、開いた。
 響子は陽汰の肩に手を置いて、立ち上がった。
 死んでいる。死んでいる。死んでいる。
 寒くて、手が悴むことはよくある。でも、それと、あの冷たさは違う。皮膚はゴムみたいで。水分が感じられなくて。
 金属みたいな無機質な水気のない冷たさ。

―――ひらめいたの

 何が。
 何がひらめいたのだろう。
 どうして響子は、この、見ず知らずの人間を殺したのだろう。
 どうして殺したのだろう。
 どうして。
 どうしてそんなことを。
 しないといけなかったんだ。
 しなきゃならなかったんだ。
 どうして?
 響子は、小学校のころからのトモダチで。出会ったころからどこか不思議な雰囲気をもっていて。智影とも知り合いで。だけど陽汰のほうが親しく付き合ってきて。どことなく、智影は響子のことを嫌っているようにも見えたけれど、智影はそんなことを陽汰に匂わせもしなかったし、あからさまな行動にも表さなかった。響子もそれを感じていたのか、智影よりも陽汰に接してくるほうが多かった。
 中学に入ったばかりのころ、響子の手首に気がついた。赤い線がいくつも走っていて、吃驚して、でも響子はただわらっているだけで。それが切り傷だとわかったときに、響子は試してみたかったのと、あっさり言った。人間って簡単には死なないのね。
 昔から、響子は、生きるとか死ぬとか、そういうことに異常とも言える興味を示していた。
 それがもしかして。
 こういうかたちで。
 あらわれた。
 ただそれだけなのだろうか。
 さくり、
 目の前に、木の棒が、立っていた。
 棒にそって目を上げると、響子の白い手があった。
 その棒が、シャベルであるということに、今度は下を見て、わかった。
 響子は柄に手を添えて、じっと、陽汰を見つめていて。
 彼女は何も言わなかったけれど、何が言いたいのか、陽汰はすぐに理解した。
 そしてそれを、拒否なんてしなかった。受け入れる、選択肢はひとつだった。
 陽汰は、柄の部分を持って立ち上がると、響子の手から、シャベルをとった。
 そして、その場所に、穴を掘り始めた。
 草は殆どない。此処何日か雨も降っていないのに何処か湿った黒い土を、掘り返す。
 掘った。
 無心に。
 顔を上げると、何時の間にか響子は少年の隣に座って、頬杖をついてこちらを見ていた。陽汰と目があうと、うっすら眸を細めた。
 どれくらい掘っただろうか。
 168センチの陽汰の腰まで、隠れるくらいの深さの穴が出来ていた。
「充分ね」
 顔を上げると、響子はすぐそばで、穴を覗き込んでいた。陽汰が気づかなかっただけなのだろうが、響子はいつも点から点へ移動しているような気がする。移動している間というものを、あまり見たことがないような気がするのは、おそらく陽汰の気のせいなのだろうけれど。
 シャベルを響子に渡して、穴から出た。地面に立って見ると、実際よりもずいぶんと深く見えた。底がなくて、飲み込まれて、這い上がることさえ困難な。
 その穴に沈めるために、少年の腕を掴んだ。マネキンのように硬かった。死後硬直、というやつなのだろうか。こぶしで叩いたら、硬質な音がしそうな。
 仕方なく、一旦足を引っ張って背を木から離した後に、少年の背後に回った。
「血がつかないようにね」
 響子に言われて、少年の背中を見ると、出血自体はたいしたことはなかったし、あふれ出た血も殆どが乾いてしまっていた。
「大丈夫だよ」言うと、響子は「そう、」とあっけない返事をした。
 少年は、一見華奢そうな外見とは相反して、結構な重量があった。身長も陽汰とそう変わらないか、もしくは数センチ高いのではないだろうか。
 引きずって、何とか穴のなかに放り込んだ。硬かった躰が、土の壁にぐしゃりと曲がった。どうやらまだ完全には硬直しきっていないようだった。
 穴の中で。
 少年の半開きの眸が、陽汰を見ているような気がした。実際には、何も見えていないはずなのに。何も映ってなんかいなくて、映っているとしてもそれはただ硝子にモノが映っているのと同じで。少年の、視覚の――否、すべて脳細胞はすでに完全に死滅しきっているはずなのに。
 ちらりと前歯が覗いた口元や、鼻の穴。黒ずんだ肌色のなかの、黒い穴。背景の黒とあいまって、まるで何かの抽象画のよう。
 暗色ばかりのなかで、覗いた前歯と、染色した髪の色だけが、浮かび上がっていた。
 その色に、不意に黒が混ざった。
 響子が、ひと掴みの土を落としたのだと、横を見てわかった。
 響子は陽汰のほうは見もせずに、まっすぐに少年だけを見て、土を掴んでは落とした。指こそ長いが大きくはない手がつかめる土の量はたかが知れたもので、そのペースではいつまで経っても穴がふさがらないのはすぐに理解できた。
「僕がやるよ」
 言っても、響子は反応しなかった。わざとなのか本当に聞こえていないのかは定かではなかったが、陽汰はそれ以上声をかけることはしなかった。
 山と積んであった土を、シャベルいっぱいにのせると、穴に放り込んだ。土はどさりと言う音と同時に、少年の躰を覆った。
 どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり、どさり。
―――どさり。
 少年は埋もれた。否、埋めた。響子が殺して陽汰が埋めた。

―――僕が、埋めた。

「雨、」
 カモフラージュにと、あたりの土も適当に掘り返している陽汰に言うでもなく、響子が呟いた。
 見上げると、額にしずくを感じた。指先で触れると、肌に染み込むような。
「、雨だ」
 ふと、視線を感じた。
 響子を見たが、彼女はぼんやりと空を見上げているだけだった。気のせいだろう、きっと。こんなところを見られたらどうしよう、大変だ、そういう思いが、架空の視線を作り出して、それを感じているのは自分だけ。
「もう、結構な時間だな」
 時計を見ると、24時を回っていた。もう、何時間も何日も、何年も過ぎてしまったような、感覚。なのに、家を出てから、まだ3時間しか経っていない。
 疲労に近くて遠い。快楽に遠くて近い。
「うちにくる?」
 響子が言った。
 響子の家は彼女の祖父がオーナーをしているマンションで、そのおかげなのか、響子は親とも別に、ひとつ部屋を持っていた。一人暮らしに近い状態。
「いや、いいよ。ちゃんと自分の家に帰る」
 響子の家に行けば、何が待っているかはだいたい想像がついた。それは陽汰自身にとって、決して悪い選択ではなかったし、この3時間に起こったことをつかの間でも忘れることができるという確信もあった。でも、そんな気にはなれなかった。
「そう、」
 あっけなく引き下がると、響子はハタと思い出したように言った。
「こういう木にも、指紋ってつくのかしら?」
 シャベルを見ながら言う、その心底不思議がった口調に、陽汰の口元がほころんだ。
「さあ?」


     ***


「おかえり、」
 言われて、どきりとした。しかし、部屋から出て行って、それから戻ってきて、ただそれだけの「おかえり」に過ぎないのかもしれないと、思い直した。
 部屋に入ると、智影が本から顔を上げた。出て行く前のものと同じ。速読が特技の智影にしては、いやにペースが遅いな、と思った。
「起きてたんだ?」問うと、「……うん」と斜め下に視線を逸らしながら言った。
「お風呂、入ってたの」
 首にかけたタオルを見てか、言う。確かに風呂には入ってきていた。とはいっても軽くシャワーを浴びた程度だけど。
「え、ああ、そうだよ」
「ずいぶんと長かったね、」
「下の書斎でパソコンしてたんだよ。ホラ、今日は父さんいないから」
「そう、」
 本を閉じると、眼鏡を抜いて、陽汰の隣を通って部屋を出た。
 するりと、通り過ぎたあとの巻き起こる風に、湿った髪がぞわりとした。
「智影」
「、なに」
 お互いに半身だけ振り返って、視線が合う。
 まるで、すべてを見てきた、そんな気がするのは何故だろう。この、双子の弟には、すべて見通されている、そう思うのは、何故だろう。
 視線が痛いと感じるのは、何故だろう。
 それは、すべて知っているからではないのか。
 すべて見てきて、それで、陽汰の犯した行為を軽蔑して、陽汰自身のことを軽蔑して。
 同じDNA配列で。
 親でさえ、見間違えることのある同じ顔で。
 同じ色の眸で。
 思考さえもときにシンクロする、この、双子という奇妙な生き物は。
「どうかしたの、」
 声に、はっとする。
「いや、何でも、ない」
「……もう寝るんでしょ?」
「あ、うん」
「僕、お風呂入ってくるから」
 言って、階段を下りていく。

―――今だ

 何処かが、言う。
 こいつは見てきたんだ。すべて。確信もないのに証拠もないのにそう思う。人の口に戸は立てられない。人間はスピーカーと同じだ。何処で何がどんな形で洩れるかなんてわからない。親だとか兄弟だとか、双子だとか、そんなものは関係ない。
 罪は露見する。
 罪には罰が下る。
 陽汰は、智影に。
 兄は、弟に。
 暴かれる。裁かれる。
 すべて。すべて。
 すべて―――響子のことも。
 掘り返した死体はまだ腐敗もしていないだろう。人間の記憶は、昨日今日のことを忘れるほど不良品じゃない。すべてが露見する。すべてが発覚する。すべてが。
 すべてが明るみに出る。その前に。
 今。
 今、ほんの少し、背中を押せば。
 急な階段。運が悪ければ死ぬことだってあるし、そうではなくても無傷ではすまない。言えばどうなるかわかるだろう―――そういう、脅しにさえなれば。
 手を伸ばした。今、半歩でも踏み出せば。
―――でも。
 もし何も知らなかったらどうする? 何も知らなかったら? 何も見ていなかったら?
 何も知らない人間を、弟を。殺すかも、しれない、のか?
 それはただの可能性でしかない。知らない”かも”しれない。でも、知っている”かも”しれない。
「陽汰、」
 振り返った顔に、陽汰は伸ばした手を所在無く、引っ込めた。
「なに、」
「………」智影は、引っ込めた陽汰の手を見て。また、顔を見る。「おやすみ、」
「、おやすみ」
 言うと、智影はうっすらわらって、残りの階段をリズムをつけて足早に下りた。
 引っ込めた手で、タオルを握る。
「何、考えてるんだよ」
 誰にも聞こえないような声で。呟く。自分自身に言い聞かせる。
 智影を殺す?
 そんな、莫迦なこと。
 考えられない。
 ありえない。
 部屋に入ると、扉を閉めて、タオルで乱暴に頭を拭いた。そのままずるずる座り込んで。
 タオルの端から、見えた部屋。
 元は二間だった部屋を一間に作り変えて、2段ベッドで区切った部屋。ベッドの置かれている床部分だけが板張りで、後は畳で。
 右が智影で、左が陽汰で。
 14年間。ずっと一緒に育ってきた。
 タオルの一端で、鼻に滴ったしずくをぬぐった。
 その格好のまま、壁から天井を見上げて、智影の置いた本に目が止まった。
 もし。もし―――。
 堂々巡りだ。莫迦らしい。
 勢いをつけて立ち上がると、2段ベッドのはしごに手をかけた。