花葬
排陥
「どうだった?」
「……どうとも、」
中学3年、12月の期末考査。1月から始まって、3月まで続く高校受験の前の、最後の関門とも言えるもの。当然内申にも響くし、此処でのテンションが入試まで続くものと思えと、進路指導の教師は言う。
「どうとも、てことは良かったんだ」
前の席から身を乗り出した柏木渚は平然とこたえる陽汰に深いため息をついた。
「何で良かったって決め付けるわけ?」
たった今担任から配られた紙には主要5科目と副科5科目の得点と校内偏差値、円グラフが書かれている。
「だって兄くん1年のときから学年50に絶対入ってるもん」
渚とは中学から一緒になった。1年のときは陽汰と、2年のときは智影と、3年でまた陽汰と同じクラスになった。陽汰とも智影とも親しくしている渚は、男子は総じて苗字呼び捨てが私的なこだわりだったらしいが、双子ではそういうわけにもいかず、かといって名前では呼ばないで、”兄くん””弟くん”と呼んでいる。名前では呼べないらしい。何だか、恥ずかしい、とか。何とか。
「最近トップ50には御無沙汰してるけど?」
「あれ、そうだっけ? この間の中間も10以内に入ってなかったっけ?」
「それは智影だよ」ため息混じりに返す。
「あれ? そうだっけ?」
「………厭味を言うならもっと上手に言おうよ」
「あ、違う違う! 厭味なんかじゃないって!」
渚は慌てたように手を振る。きっと本当に悪意なんてないのだろう。少し、わらえたりする。
「ううむ、そっかあ。低迷気味なの?」
「そうとも言うね」
「ふうん。ねぇ、兄くんって公立希望だっけ?」
「一応ね。そろそろ前向いた方が良いと思うんだけど。中嶋さんの視線が痛いよ」
「え、」
「柏木さん」
待ってましたというようなタイミングで、担任の中嶋冴子がにっこり声をかけた。
「…はーい」
適当な返事で渚は前を向いた。
それまで伏せていた紙を表にして、数字を見る。
「………」
決して、良いとは言えない評価。
学年上位50以内なんて。ましてや10以内なんて、まず取れるわけがない数字。
努力をしていないわけでは、ない、と思う。塾には通っていないし、予習もしないけれど、復習はきちんとしてきたし、試験勉強だってちゃんとやった。
だけど。
中学2年の夏あたりから、成績が伸び悩んでいた。
はじめはただの努力不足だと思っていた。サボっているという自覚はなかったが、ないだけで、実際はサボっていたのではないか。
しかし、それからどうあがいても成績は上がらなかった。一時期は慣れない予習にも手を出してみたが、効果はなかった。
何が原因なのか。
両親や教師にはわからないで通している。
しかし、陽汰自身にはわかっていた。
晩春の、あの夜。出来事。それが、陽汰の何かを塞き止めている。漏れることもないほど、強固に。
そうではないと、思いたかったが、それ以外に思い当たることなど何もなかった。長い間、不眠に近い状態なのも、原因はそこにのあるだろう。
それ以外に何かあるとしたら、それこそ”わからない”。
「―――以上、終礼お終い!」
担任の声と同時に、立ち上がる者喋りはじめる者帰る者。
陽汰は小さなため息と一緒に、成績表を鞄にしまった。試験の終わってからの二日間は、3年だけ半日で放課になる。帰って試験の見直しをしなさい、というのが学校側の建前だが、実際どれほどの生徒がそんなことをしているのかということを思えば、建前は所詮建前でしかないと思われる。
実際に陽汰も、これまでの試験でそんなことはしたことがなかった。
しかし。
「今回ばっかりは…かな、」
この成績で公立志望なんてちゃんちゃらおかしい。担任はにべもなく無理だというだろう。
ぱらぱらはじまった掃除の邪魔にならないよう、陽汰は席を立って壁にかけてあるコートを取ると、教室を出た。
そのまま、何処に行くでもなくふらふら校内を徘徊する。他の学年はちょうど昼休みで、校内は何処も賑やかだった。
この中学には、剥き出しになった廊下が数多くある。教室前はさすがに壁があるが、校舎の北と南の端にある階段、特別教室棟の廊下、校舎1階廊下―――校舎内といえども外気温とそう変わらないのだ。これで教室に暖房完備だったら、きっとみんながみんな体調を崩すだろう。だから、教室外でコートを着ようがマフラーを巻こうが、それは生徒会でも職員会議でも公認のことなのだ。その証拠に、教師もジャケットを着ていたり、手袋をはめていたりする。
校舎の2階にある連絡通路――ここも剥き出しだ――から、特別教室棟に渡る。秋の一大イベントである文化祭、総合文化祭が終わったばかりで、特別教室棟は閑散としている。賑やかなときには陽が昇るころから夕方遅くまで生徒がいるからか、この時期は余計に人気のない淋しさを感じる。
渡りきってすぐ左横に、生徒会の目安箱が置かれている。年季の入っていそうな木の箱に、問題用紙の裏紙などを利用したメモ用紙と鉛筆が常備されている。何か要望がありましたらなんでもどうぞ―――がキャッチコピーだが、実際に投函された意見が実現したという例は少ない。
開校何十周年記念だかの青銅の文鎮が置かれたメモ用紙の上に、小さな折鶴が置かれていた。藁半紙のプリントの裏か何かで折ったのか、光沢のない灰色で、風でも吹けばふいっと飛んでいきそうな代物だった。
陽汰は折鶴の翼の部分をつまむように手に取ると、目線の高さまで持ってきて、ふっと吹いた。折鶴はくるりくるりと不規則に回って、滑るようにタイルの床に逆さまに着地した。陽汰の想像通りだった。呼吸ふたつ分、頭から着地した折鶴を眺めた後、拾い上げると、階段を上がった。
特別教室棟の3階には、階段を中心にして、左右に美術室と技術工作室がある。それぞれが、通常教室みっつ分をぶち抜いた広さで、3分の1ずつ美術部、技術工作部の部室として使われている。
左側にある美術室の、美術部入り口には中学総合文化祭のポスターが貼られていた。11月に終わったのに、彫像が描かれたポスターはさも当然のように、訪問者を迎える。
扉に手をかけると、少しの抵抗の後に、すんなり開いた。
なかには、イーゼルと、その前に座る響子の姿があった。
「、やあ」
予想していた光景に、後ろ手で扉を閉めた後、声をかける。
響子はゆったりとした動作で陽汰を見た。それから、壁にかけてある時計を見る。
「早いのね」
「時間を約束した覚えはないけどね」
「…それもそうね」
口元に指を当てて、響子はうっすらと目を伏せた。闇色の睫毛が肌に影を落とす。
「相変わらず、響子の折る鶴はきっちりしてる」
手に持っていた折鶴を、差し出すと、響子は親指と人差し指で、翼をつまんだ。
メモ用紙の上に折鶴。
陽汰と響子の、ふたりの間だけで通じる合図のようなもの。折鶴があったら、美術室にいる―――という合図。
特に急用でもなく、居るという、ただそれだけのことを知らせるだけのもの。
しかし、折鶴をおいたからといって、相手が来るとは限らない。見なければそれまでだし、誰かに処分されてしまえばそれまでだ。
ちょっとした、損得の少ない賭けのような、そんな感覚で。
「珍しいね、幽霊部員が」
陽汰も響子も美術部に所属しているが、まめに通う陽汰とは別に、響子はめったに姿を見せない。姿を見せるときは、決まって誰もいないときか、もしくは大きな展覧会が終わった直後。この3年間、1年の4月から所属しているにもかかわらず、響子はどの展覧会にも出品したことがない。それどころか、1枚の絵も残していない。ときたま素描はしているらしいというのは、美術室におきっぱなしになっているスケッチブックから見て取れた。
「なんとなく、来てみただけよ」
そう言って、イーゼルに視線を戻した。
近づいてセットされたキャンバスを見る。
深い青を基調とした、光の少ない絵。
見たことない、絵だった。
「響子が描いたの?」
まさか、と思いながら問いかける。
「まさか、」
陽汰が思ったとおりの返答が、返ってきた。
「違うわ」
「じゃあ、授業生が描いたやつ?」
キャンバスの棚には、一応の区切りがあるものの、部員と一般の生徒のキャンバスが入り乱れて置かれているので、部員と区別するために、一般の生徒を授業生と呼ぶのが、美術部の通例だった。
「そうね、」
響子の後ろに回って、陽汰は改めてキャンバスを見た。
深い青を基調に、黒、紫、灰色などの、暗色ばかりが目に付く。油彩を使用しているようだ。何度も何度も同じキャンバスで書き直したのか、それともわざ塗り重ねてあるのか、全体的に厚みがあり、凹凸が目立つ。
その暗色をかいくぐるかのように、ところどころに水色や黄色いグラデーションを纏った白い円が小さくいくつか描かれている。
「これ、何を描いていると思う?」
響子が言った。
振り返りもせずに、絵を凝視したまま。
「何……そうだな、都会の星空、みたいな感じに見えるけど」
夏休み前の修学旅行で行った東京の空は、こんな感じではなかっただろうか。
圧倒的に彩度の低い絵。その中に浮かび上がるような、白い円形の点。
「これ、土の中じゃないかしら」
「土の中?」
考えつきもしなかった発想に、響子を見ると、彼女は爪の綺麗に切りそろえられた指で、キャンバスを撫でた。左手の小指の爪にだけ、深い赤のマニキュアが塗られていた。
「埋められるって、きっとこんな感じなのよ」ぽつりと、言ったあとに、もう一度「きっと、」言った。
この1年と数ヶ月の間、その話題が響子の口から洩れることは一度もなかった。メディアも、秋になろうかというころに新聞の小さなベタ記事で少年の失踪を伝えただけで、特に騒ぎ立てることはしなかった。注意して見なければ、陽汰でさえ見逃してしまうような小さな記事だった。
響子のことだ、きっと忘れてしまったに違いない、陽汰はそういうふうに思っていた。しかし実際は、そうではないのかも、しれない。
響子もまた。
何かを塞き止められて。
何かが停止して。
いるのかも、しれない。
「1ヶ月くらい、前になるかしら、あそこに行ったの」
指でキャンバスを撫でながら、響子はぽつりぽつり、続ける。
「何が起こったのか、もう感じることすら出来なくなっていたわ」白い点にたどり着いた指が、とんとん、とゆっくり跳ねた。「草が生えているの。まばらに。1年前と何も変わらない。ただの雑木林と、ただの空き地。でもね、ひとつだけ、違うところがあったの」
キャンバスに指を触れたまま、顔だけ、陽汰を振り返る。
「花よ」
「…花?」
「コスモスが咲いていたわ。広場の真ん中より、少し奥に入った―――彼が息果てた木のそばに」
それはとても不自然に。
しかし確かに、存在していて。
「辺りを見ても、他の何処にもコスモスなんて咲いてないの。おかしいでしょう? そこにだけ、咲いているの」
そこにだけ。
不自然に。
まるで誰かが植えたかのように。
人工的に。
コスモス。
“秋桜”という漢字にふさわしく、ひかりの少ない雑木林の中で、ひときわ、色彩鮮やかに。
「私、愕いたわ。とても。だって、まるで献花のようだったから」
死者を悼むための。
花。
死者。死んだ人間。
悼む。弔い。
「自生してるのなら、もっと群生しているはずなのに。一束だけ、」
一束だけ。
導かれる結論は、ひとつ。
誰かが、見ていた。
誰かが。
あの夜のすべて。
すべてを。
見ていた。
「でも、愕いたけど同時に、少しだけ、愉しくなったの」
唇が、うっすら、わらいの形を作って、目じりが気持ち下がる。何も知らなければ、それはさぞかし美しい微笑みだっただろう。
「誰かしら、秘密を知っているのは」
キャンバスから指を離すと、響子はイーゼルから絵をはずして、膝に置いた。
見下ろしながら、上から下へ、視線を動かす。
陽汰は、くらりと、眩暈を感じた。
目の前の、何処か愉しそうな、響子の姿。秘密、と、言ってしまえば少し可愛らしくも聞こえるような口調で。
どうして、愉しいなんて言えるのだろう。
あの夜の。
すべてが。
露見する。
それは、陽汰の、平凡の終わりを意味していて、同時に響子自身のことでもあって。
なのに。
何が愉しい?
「どうかしたの、」
「……いや、」
「怖いの?」
「そんなふうに見える?」
おどけたように言う。体側に垂らした手を、響子の手が握った。指先は冷たいのに、掌は温かい。かすかに湿り気を帯びた、掌。
「見えるわ。陽汰はとても怖がりだもの。小さいときから変わらない」
「そんなことない。全然平気だよ」
手を振りほどこうとしたが、思ったよりも強い力で、それは叶わなかった。
「怖がりなのに、強がりなのね」
言い方が、妙に、ココロに響いて。
涙腺が、決壊しそうになる。
絵を膝から降ろして、イーゼルに立てかけると、響子は陽汰のほうに躰を向けて、見上げた。
ふたりのときだけに見せる、母親のような眸。否、母親よりも、やさしく、深く、冷たいくせに温かい。
陽汰が何も言わないでいると、響子はやがて、手を離した。今まで触れていた部分に、空気が触れて、余計に、冷たく寒く感じる。
離れた手を、今度は陽汰から、握った。
「怖いよ、」
言った。
「誰かに見られていたなんて、凄く、怖い」
壊れる。
何にもない日常。
平凡な毎日。
陽汰が今まで築いてきた、すべて。
何もかもが壊れる。
「怖いんだ…」
握っていない、もう片方の手で。額を押さえる。じわりじわりと、何かが溶け出していく。
脳の中の。
普段は見向きもしないような、触れもしないような。否、見ないように、触れないようにしてきた、もの、が。
響子が、握っていないほうの腕を伸ばして、陽汰の二の腕に触れた。伝うように肩に触れると、やさしいちからで引き寄せた。
陽汰は抵抗することなく、それに従う。
頬に触れる、響子の髪。匂う、かすかなやわらかい香り。
抑えた嗚咽が、小さく美術室に響いた。
***
12月も1週間が過ぎようかというこの時期、雑木林の木々も、大半が葉を落としている。だからといって見通しがいいかといえば、そんなことはない。
美術室で素描をするという響子と別れた後、陽汰は学校から遠回りに川沿いに来ていた。遠回りであることに、特に意味はない。ただ、まっすぐ足を向ける気にならなかった、それだけのことだ。
河原に下りて、川側から雑木林に回りこむ。頭の中に、夜の光景が交差するのを抑えられなかった。
あれ以来、雑木林に足を踏み入れたことはないし、川沿いの道を通るときも目を逸らしてきた。早く忘れたい一心で、しかし、忘れることは出来なかった。
鞄を背負いなおして、大して高さのない木々を見上げた。木々に続く空は、雲ひとつなく晴れ渡っている。雨の気配なんて、するはずもない、空。
一歩足を踏み出すごとに、乾ききった木の葉が粉々になる音がする。夏よりもいっそう痩せて見える木々に触れながら、奥に進んでいった。
雑木林のなかは、あまり風を感じなかった。風がいくつもの木によって分散しているのかもしれない。
目の前が開けて、あの、小さな広場があった。
そこには木がないせいか、落ち葉もあまりなく、草もほとんど生えていなかった。あのときよりも植物が少ないと感じるのは、冬だから、かもしれない。
今来た道を振り返る。道らしい道が、あるわけではないが。
誰もいなかった。
否、誰がいたからといって、別段困ることがあるわけではないのだが。
誰もいないことを確認して、改めて前方を見た。特に、花らしいものは、なかった。それらしい木に目星をつけて、目を凝らすと、枯れた植物があることがわかった。
近くで見て確かめようと、足を踏み出して、陽汰は気づいた。
この地面の下に。
少年が眠っていること。
きっと今はもう、微生物に分解されていて。でも、まだ残っているに違いない。此処に眠っているという、証が。
あるに、違いない。
とっさに口元を覆った。何かが出て行きそうになったが、一瞬我慢すると、それはすぐに下がった。
深呼吸をして、ゆっくりと瞬きした。
一瞬の闇の中に、白い赤い、何かが浮かんだような、気がした。
大きく頭を振って、陽汰は広場をぐるりと回る形で、木のそばに寄った。植物は、背が高い、ということしかわからなかった。花弁はすべて散り、かつて緑であっただろう部分はすべて色あせた褐色になってしまっている。
「コスモス…」
茎に触れる。水気のない、硬い繊維。
「―――陽汰、」
心臓が。押しつぶされるような。感覚。
息を吸い込もうとして、でも、喉から先に、いかない。気管が痙攣しているかのような。
躰全体が震えそうになるのを、目を強く閉じて押さえ込む。平静にしろ、自らに、言い聞かせる。
何も見ていない。何も知らない。
平静にしていろ。
肺からすべての空気を押し出して、少しだけ、吸う。
大丈夫、自分にヒトコト、しっかり言うと、振り返った。
「どうしたの、こんなところで」
智影が、いた。
予想外の人物に、陽汰はすうっと気の抜けて、へたり、座り込んだ。
智影はすでに私服に着替えていた。黒いダッフルコートに、スコップと、鉢植えとペットボトルの入ったビニル袋を持っている。
「智影こそ、」
「帰りがずいぶん遅いとは思ってたけど、こんなところで寄り道なんて」
陽汰の問いにはこたえずに、珍しいね、と語外に匂わせて。
「そうかな、」
「夏の町内会の清掃にも来なかったのに」
スコップで空中に円を描きながら、かすかにわらう。
「なんとなくだよ、」
視線を逸らしながら、陽汰が言うと、「そう、」智影はそれ以上追求してくるようなことはなかった。
「ちょっと、ソコ、いい?」
スコップで、陽汰がへたり込んでいる木の根元をさす。
「あ、――ああ、」
立ち上がろうと地面に手をついて、ハタ、と動きを止める。
「どうかした?」
首をかしげる智影に、陽汰は苦笑いしながらこたえた。
「腰が、抜けた…」
きょとん、として。そのあとに、ちいさく吹き出した。
「変なやつだな」
そういいながら、手を伸ばす。「ハイ、掴まって」
陽汰は半ば引きずられるように、ひとつ隣の木に寄りかかった。
「気が小さいのは昔っから全然変わらないね」
「そうだっけ? はは、そういうの、」
響子にも言われたよ―――言おうとして、やめた。言わないほうがいい、なんとなく、そんな気がした。
「そういうの、?」
「いや、なんでもない。僕は昔からそういう肝っ玉の小さいやつなんだよなーって。思っただけだよ」
「昔といえば、千春ばあちゃんは死んだときのこと、覚えてる?」
陽汰と向かい合う方向に地面に座って、智影は地面を掘り返し始めた。心臓がしゃっくりをしたような、おかしな鼓動がしたが、場所も違うし、スコップなんて小さなものではどうにもならないと気づいて、陽汰は――表面上は、おそらく――無反応でやり過ごした。
「千春…ああ、父方の」
「あのときは、僕たちまだ小学校の2年生でさ。哀しいって言うより、何でっていう感情のほうが強かったよね。特に陽汰は、全然わかってなくて、」
6年前の、確か2月の出来事だった。父方の祖母――陽汰と智影は千春ばあちゃんと呼んで、結構懐いていた――が、心筋梗塞で亡くなった。突然だった。
つい先月、正月に会ったばかりで、そのときには「あたしゃしぶとくしつこく生きる女なんだよ」なんて、言っていたのに。
まだ58歳で。死ぬには早すぎると、葬式のとき、みんなが言っていた。
「そのとき、陽汰ってば千春ばあちゃんの枕もとで、早く起きないかなぁなんて言ってて」
「ああ、そうだったそうだった。千春ばあちゃんは昼寝とかよくする人だったから、死んだだの起きないだの言われても、全然、わかんなくって」
―――おばあちゃんはもう起きないんだよ。
―――どうして? お昼寝してるだけだよ。
―――あのね、ようちゃん。おばあちゃんはね、もう、死んだんだよ。
「通夜が終わって、御棺に入れるって言うときにも、凄い嫌がってて、父さんたちを困らせたよね」
「駄目だって思ったんだよ。入れちゃ駄目だ、て」
―――やだ、やぁだ!
―――陽汰、いい加減にしなさい。
―――千春ばあちゃん箱の中に入れちゃやだ!
「やだやだ、って、散々駄々こねて。枕元から引き剥がそうとするのに反抗して、千春ばあちゃんに抱きついて。そしたらびっくりして、漏らしちゃって、」
「当たり前だよ。こっちは寝てると思ってたんだから」
添い寝するとき、いつも祖母は温かかった。そのぬくもりが、まったく感じられなくて、理屈でもなんでもなくて、ダイレクトに、強制的に、理解させられた。
ああ、もう、死んでるんだ。
生きてないんだ―――。
「あのときも、腰抜かしてたよね。ちいちゃんぼく立てないって、言われたのを覚えてるよ」
「そういうのを考えたら、智影は冷静だったなー」
「陽汰が幼すぎただけだよ」
智影は終始、陽汰のように駄々をこねたりわからないことを言ったりしなかった。どっちがおにいちゃんなのかしら、母が言っていた。
「実はさ、僕、千春ばあちゃんの家にいってすぐに、顔に触ったんだ。死んで、まだそんな時間経ってなかったけど、冬だったし、もう冷たくなってて。それで、わかっちゃったんだよね。生きてないんだってこと」
スコップを置いて、ビニル袋の中から黒いビニルの鉢植えを取り出した。枯れた植物は丁寧に抜かれて、陽汰とは反対側の地面に静かに置かれていた。
「じゃあ僕にも言ってくれればよかったのに。触ればすぐわかるって」
言うと、智影はあごを上げて、少し考えるふうにした。
「僕はね、たぶん陽汰みたいに、わかりたくなかったんだよ。大好きな千春ばあちゃんが、もう生きてないなんて、信じたくなかった。でも、僕自身はもう完全に理解しちゃってたから、」
鉢植えから取り出した花は、やわらかい黄色で、咲いているのもあれば閉じたものもあった。そっと穴において、手で、周りの土をかぶせる。
「陽汰を見て、少しでも気持ちを緩和させようとしたのかな」
わかってしまった哀しさ。淋しさ。わかってしまったら、もう、わからなかったときには戻れない。絶対に。
「本当は、わかんないフリをしたかった」俯いて、「けど、出来なかった。知らないふりなんて、所詮”フリ”でしかないんだよね」
そう言って、智影は、伏せるような視線から、やがてまっすぐ、陽汰を見た。
そこで。
陽汰は唐突に、理解した。
理屈なんか抜きで。
ああ、智影は知っているんだ。
すべて。
知っているんだ。
「この花、ユリオプスデージーって言うんだ。ギリシャ語で、”大きな目を持つ”て意味なんだって」
喉が、干からびたような感覚。響子のことばに感じた眩暈とは、比べ物にならない。世界が、ぐるりと、斜めに、回転した。
「大きな目のとらえる世界って、やっぱり、大きいのかな」
困ったようにわらって、でも、笑顔なんて、もう、陽汰の目には、入らない。
「―――コスモスは、」
出てきた声は、莫迦みたいに、かすれきっていて。
陽汰自身、聞き取るのは、困難なほど。
智影が、植えたの?
その問いが、声が、音が、出てこない。
「僕が植えた」
ことばを引き継ぐように、智影が、言った。
ユリオプスデージーの苗に、ペットボトルの水をやりながら。
「…、どうして? こんな、何もない場所に―――」
「”何もない”、」
陽汰のことばを反芻して、智影の視線はユリオプスデージーに向けられたまま、苦しそうに、目を細めて。
陽汰のほうなど、見ていない。
なのに、痛い。
空気が、鋭利な刃物のように、皮膚を、気管を、肺を、傷つけていくような。錯覚だとわらえない、痛みが。
「何も、ないんだ? ここには」
陽汰と同じ声が、違う人間から発せられて。
違う人間なのに、まるで陽汰自身が発しているかのようで。
わからなくなる。
何が間違っていて、何が正しいのか。
何が怖いのか、何を恐れているのか。
真実は。
事実は。
何処にある。
何が。
ホントウなんだろう。
「ユリオプスデージーも、9月ごろから咲いてる花らしいんだけど、やっぱり秋にはコスモスだと思ってさ」
さっきの痛みなど何処に感じさせない笑顔で、智影が言う。
「どうしたの?」
にっこり、わらって。
「なんでも、ないよ」
陽汰には、そういうだけで、精一杯。
「寒いね」
「――え、」
「風邪ひきそうだ。帰ろう。もう立てる?」
今のは。
今のは、何だ?
「うん、大丈夫」
陽汰は自身で立ち上がって、コートの土を払う。
「今日はきのこのシチューなんだって。エリンギ入り」
「ああ、あのワンアップきのこみたいなカタチした」
「そうそう」
さらりとでた、いつもどおりの台詞。口調。会話。
今―――今?
今何かあった?
何もなかったよ。何も。
何もなかった。
智影を疑うなんて、どうかしている。
並んで家路につきながら、陽汰は思う。
兄弟なのに。双子の弟なのに。
そう、たとえ、智影がすべてを知っているとしても。
双子の兄を、警察なんかに突き出すわけがない。
一緒に生まれたから。一緒に育ったから。
その、無二の兄を。
見棄てたり、しない。
しない。
***
土のにおいと何かの臭い。
黒い土のなかの、汚れた黄色い存在。
目を背けたくなるような、現実。夢ではない、幻ではない。
現実。事実。―――真実。
1年と、数ヶ月。
もっとはやく、行動を起こすべきだったのかもしれない。
もっとはやく、正すべきだったのかもしれない。
何故しなかったのか―――怖かったから、かも、しれない。
振り返った先の、戸惑った表情。引っ込めた手。見慣れた顔の、眸のなかの、見たことのない、殺意。それ自体はすぐに消えたけれど、でも、確かに存在した、日常には存在し得ない感情。
殺されるかも、しれない。彼自身はそれを望まなくても、きっと、彼女は黙っていないだろう。
でも、怖がっていては、いけない。しないと、いけない。
このままではいけない。
不審な行動。
常に何かに怯えたような、表情。
夜中にうなされて、飛び起きて。
今、やらなければならない。
正義感とか、そういうのではなく。
救いを。
償いという名の救いを。
暗い穴の中の、腐敗しきったモノ。それと同じだけ腐敗きった感情。
「還るなんて、嘘っぱちだ」
なくなりもしないし、消えもしない。
***
『12月11日未明、H県紅灯市を流れるT川の河口付近で、男性のものと見られる死体の一部が発見された。腕と思われる部位は完全に白骨化しており、少なくとも死後1年以上が経過していると思われる。
―――――地方紙社会面 一部抜粋』
***
「おはよう、」
7時30分を少し過ぎたころの教室には、響子しかいなかった。
いつもは陽汰と一緒に家を出ることが多いが、園芸部に所属する智影は、週に2度ほど花壇や菜園の手入れのために、早朝に登校することがあった。そのため、今朝も陽汰に特に不審に思われることはなかった。
響子はちらりと智影を見ただけで、すぐに本に視線を戻した。
「今朝のローカル、観た?」
鞄を机に置いて、声をかける。
「観てないわ」
そっけないこたえが返ってきたが、特に意外でもなんでもなかった。陽汰とは違い、響子は智影にはあまり気を許したような態度をとらないからだ。
智影の席は廊下側のいちばん前にある。響子の席は窓際のいちばん後ろ。
「死体が発見されたんだって」
席について、鞄の中身を机の中に入れながら、智影はまるで”今朝も寒いねえ”というような口調で、振り返りながら言う。
「……そう、」
「市内の、川の河口付近で」
「……そう、」
ほとんど本から顔を上げないで、響子は機械的に返事を返す。無視しないのは、無視すること自体が面倒くさいからかもしれない。
「物騒だよね」
対角線上、教室でいちばん離れているのに、誰もいない早朝の教室には、よく声が通った。
「見つかった死体は、15、16の男のものらしいけど。いまや男も危険な時代なんだね」
「………」
「その死体って、川で見つかったのに、埋められていた形跡があるんだって」
「……、」
ハタと、響子が本から目を上げると、智影と目が合った。椅子に横に座って頬杖をついて、にこりと、わらっていた。
「そう、」
「死んでから1年半くらい経過してて、死体はどろどろなんだって」
「………」
返事は、しなかった。智影は前かがみに、踵を床に打ちつけながら、続ける。
「その男って言うのが金髪で、遊び人だったらしいよ。捜索願も、いなくなって3ヶ月以上経ってから、やっと出されたくらいで―――」
「ずいぶんと詳しいのね」
響子の反応に、智影は足を止めた。床の一点を見たまま、言う。
「そうかな、テレビで言ってたまんまだけど」
「私、今朝テレビは観てないけど、ラジオは聴いていたわ。確かに市内で死体が見つかったって言うニュースはあったけど、見つかったっていうのと、それが男のものであると言うだけで、詳しい情報は流していなかった」
「それで?」
「どうして、そんなことを知っているの?」
「さあ、僕には虚言癖があるのかもよ? 適当に詳しく言って、みんなが感心するのを見て偽モノの優越感に浸って楽しむんだ」
「……。あなたとは長い付き合いだけど、―――」
「”そんなくだらない嘘はつかないわ”?」
後半の台詞を取って、うつむき加減のまま、視線だけ、響子に向けた。
「長い付き合い、か。確かにそうだね。小学校で一緒になって、それからもう9年も経つ。人生の半分以上、か。はは、確かに長い付き合いだね」
わらう。クラスメイトとくだらない話をしているときと、同じように。
つと、響子は眉を寄せた。
「じゃあさ、長い付き合いのよしみで、僕が何を言いたいのか、わかる?」
わらった口調のままで。
「さあ? 私はテレパシーなんて出来ないもの」
「僕も、もちろん他人の気持ちなんてわからないよ」掌をひらひらさせながら、言う。「だけどね、小さいころから、陽汰の思っていることは、何となくわかるんだ。双子の特権て言うよりかは、ほら、陽汰って基本的に嘘つくの下手だし、すぐ顔に出るし、妙なところで素直って言うか。それこそ長い付き合いだから、何となく性格のパターンって言うのが見えてくるんだよね」
「普段から分析でもしてるの? 双子――兄弟なんていっても、気が置けないのね」
「神谷はひとりっ子だっけ。じゃあサンプルもないんだね」
「サンプルなんて、まるでモノのような言い方をするのね」
「そう聞こえた? そんなつもりはないんだけど。心外だなあ、」あごに指を当てながら、視線を上げる。「逆に、僕には年の違う兄弟や、ひとりっ子の気持ちとかは、わからないけど」
「それで?」
「”それで?”」
「何が言いたいの?」
上を向いたまま、目を閉じて、うっすら口を開いて、息を吐き出す。暖房機器のない教室のなかは外と変わらない寒さで、呼気は煙草の紫煙のように白くくゆって消えた。
「陽汰の考えてることが、少なからず、僕にはわかる。だけど、陽汰と僕は違う人間だから、好みとか行動とか、そういうものまでは干渉出来ない。するべきでもないけどね」
ゆっくりと目を開いて、響子のほうを向いて。
先ほどまでの笑みは、何処にもない。
陽汰と同じ顔で、なのに、陽汰は、しない表情がそこにある。
「どうして陽汰を巻き込んだの?」
「どうして陽汰を巻き込んだの、」
智影の台詞を復唱して、わらった。雪融けのような笑みだった。口元に指を当てて、こもった声でわらう。
「そうね、どうしてかしら」
「人を殺して、怖くなった?」
「そうね、少しだけ、怖かったわ」
「それで、殺した人間を埋めるのに、人手が必要で? “どうして”っていうのは、誰でもよかったていう意味?」
少し愕いたような表情をした後に、響子はくつくつとわらいだした。その様子を、智影は苦い表情で見ていた。
ひとしきりわらった後、響子は持っていた本を閉じた。ぱたりと、音がした。
「推測でものを言うのはどうかしら?」
「推測? 僕、どこか間違ってるかな」
「そうね。だって私、誰でもよかったなんてわけじゃないもの。陽汰がよかったの。そうね、陳腐な言い方だけど、陽汰は私にとって、ひかりのような存在なの」
「ひかり?」
「私ね、暗いところがすきなの。昼間よりも夜がすき。舞台よりも舞台裏がすき。白よりも黒がすき。正しいことより、ちょっとくらい間違ってるほうがすき。でもね、暗いものを楽しむためには、明るいものが必要なの。ひかりがあってこそ、闇が際立つの」
「自分の愉しみのために、陽汰を利用してるってこと?」
「それこそ心外ね。利用なんてしてないし、その気もないわ。あえて言うなら、そうね」
智影をまっすぐ見て。
「私、陽汰のことがすきなの。それだけよ」
予想外の返答に、少なからず、智影は動揺した。
「それなら余計に―――」
「すきだから、頼るの。陽汰も、頼らせてくれる。いい具合にバランスが取れてるじゃない」
陽汰と響子の間に、恋愛感情があるのかもしれないということは、智影も考えたことがあった。事実、ふたりの間に躰の繋がりがあるというのも、知っていた。しかし、結論づけるには、普段のふたりの関係はあまりにも乾いていた。恋人同士には少なからずあるだろう粘着質な部分が、まったく感じられなかった。
思いつくことばがなかった。何を言っても、意味がないような。響子の態度は、あまりに自信に満ちていて。まるで智影以上に、陽汰のことを知っていると。いうかのように。否、宣言、している。
こんなはずじゃなかった、智影は強く目を閉じて、思った。もっとうまく、事を運ばなければ。ならなかったのに。
「陽汰と、しばらく距離を置いて欲しい」
「あら、好みや行動に干渉するべきじゃないんじゃなかったの?」
「陽汰は、あれからずっと、何処かおかしい。時間が必要なんだ、自分のやったことを、ちゃんと―――」
「その先には?」
「…え、」
「その先には、何があるの? 罪には罰だ、なんて言うつもり?」
「償わないと、陽汰は壊れる」
「壊れないかもしれないわ」
「そんなのわからない」
「そうね、どちらも可能性でしかないもの」
どちらも。
壊れるか、壊れないか。
智影が正しいのか、響子が正しいのか。
罪は裁かれるべきか、それとも露見しないままに免罪されるべきか。
接ぐことばが、智影には見つからなかった。
「もう、いい時間ね」
窓の外に顔を向けて、唐突に響子が言う。
太陽がすっかり姿をあらわし、白いひかりが教室のなかを照らし出していた。
「さっきの、考えておくわ」
言うと、響子は席を立って、教室を出ていった。
開けて、またきっちり閉められた扉を見て。机の横にかけた鞄を机の上に置いた。なかに入れてあったテープレコーダーの停止ボタンを押す。
がちん、音が、した。
肺の空気をすべて、押し出す。白い呼気が、白いひかりに吸い込まれるように、消えた。
胃の辺りから湧き上がってきたものを拳にこめて、机を叩いた。
何の意味が。あった?
―――どうしてかしら?
―――少しだけ、怖かったわ。
―――陽汰のことがすきなの。
―――それだけよ。
あんな平然とした顔で、すきと言うのなら、どうして巻き込んだ。
どうして。
爪が掌に喰い込んで痛かった。
でも。
それ以上に。
それ以上に―――。
片方の掌で、目を覆った。
「………、」
悪態すら、出てこなかった。
***
予想外の人物が、いた。
「智影…?」
手に持った折鶴と、人物の相違に、陽汰は意味もないのに瞬きをした。
「勝った。」
「は?」
さらに予想外の台詞に、面食らう。
「とりあえず、扉閉めようよ。寒い」
言われて、扉を閉めた。
「勝ったって…何に?」
訊ねながら、陽汰は智影が座っている円椅子の近くに、部室の端に積んである椅子のひとつを取って置いて座る。
「賭け。陽汰が来るか、神谷が来るか」
「じゃあ、これ、智影が?」
「そうだよ」
「これ、何で知ってるの?」
「まあまあ。そんなことはどうでも良いんだよ」
「どうでもいいって―――」
「陽汰、」
ぴしゃりと、声。
「警察に行こう」
「………、え?」
智影は、まっすぐ、陽汰を見て。
陽汰も、まっすぐ、智影を見て。
「ケイサツ…?」
ことばの意味が、わからなかった。すぐに漢字が当てはまらないで、しばらく思考する。
「……、どうして?」
唇がわななくばかりで、ヒトコト発するのに、ずいぶんと時間がかかった。
「僕が言わなきゃ、わからない?」
視線が定まらない。行き場のない視線は、徐々に下がっていって。やり場のない左手は、首と鎖骨の間を掻き毟るように行き来する。
その様子に眉を寄せて、智影は確かな声で言う。
「別に、今すぐ行こうって、言ってるわけじゃないんだよ。ちゃんと自分のなかで整理して、それから―――」
幼子を諭すような口調で。口元はわらっているのに、眸は、ただただまっすぐに。わらっていない。
「僕を、見棄てるの?」
「見棄てるとか、そういうのじゃなくて、」
「嘘だ。智影は全部知ってて、それで、それで僕を―――」
僕を。
罪を犯した陽汰を。
見棄てるんだ。
軽蔑して、蔑んで。
そんなことしないと、思っていたのに。
いたのに。
「僕は、見て見ぬ振りをしようと思ってた」
立ち上がった陽汰を見上げながら、静かに言う。
「この1年と半年、事実は誰にもばれなかったし、神谷は平然と過ごしてた。でも、陽汰は違った」
うなされる夜。
叫び声をあげたこともあった。
それまで毎年必ず行っていた町内会の清掃にも顔を出さなかった。
なかなか家に帰ってこない智影を迎えに来るのに、隣町に来ても、河原にだけは絶対に来なかった。
「見てられないよ」
「………」
「もう、見てられない」
「智影…」
「僕たちは、まだ15歳だよ。陽汰を裁く法律が、陽汰が護ってくれる。ちゃんと罪を償って、背負うものをなくして。此処に居づらくなったら、どこか遠くに行けば良い。たとえ誰が見棄てたって、僕は絶対に、陽汰を見棄てたりしない」
「響子は、響子は―――」
「神谷だって同じだ。そりゃあ、陽汰よりは罪は重いだろうけど。でも、酷いことになったりは、しないと思う」
「本当に?」
「大丈夫、」
根拠など、ないけれど。口には出さなかった。
埋めただけの陽汰とは違い、響子は直接に手を下している。いくら14歳だからとは言っても、それがどれほど考慮されるのかは智影にはわからなかった。
「大丈夫だよ」
それでも、今は、確信があるかのように、言わなければならなかった。たとえ響子が否定したところで、陽汰がすべてを話せば。
事実があれば、事態はどうにでも転ぶと、思えた。
「智影は、」
「なに?」
「智影は、僕を見棄てない?」
「……。見棄てない」
仔犬のように、すがりつく眸。うっすらと、潤んだ。
見棄てるわけがない。見棄てられるわけがない。
たとえ誰を敵に回しても。智影は、智影だけは、絶対にそばに。いないといけない。
「絶対に?」
「絶対」
強く頷くと、陽汰もまた、頷いた。
背後の会話が止まったのを機に、響子は扉から離れた。
視線だけで、扉を振り返る。
彫像のポスターが、変わらず硝子を塞いでいた。
「僕を見棄てない?」
小さく小さく呟くと、かすかにわらって。
「見棄てないよ、」
誰にも聞こえないような声で、呟いた。
陽汰を先に帰らせた後の美術室で。
智影はテープレコーダーを手に、俯いて。
録音されているのは、今朝の響子との会話と、先ほどの陽汰との会話。
かちりと、再生ボタンを押す。
『智影は、僕を見棄てない?』
細かいノイズに混じって、声が。
『見棄てない』
声に返す、声。
「見棄てない、」
ノイズのない、喉を通した音。
「見棄てない」
停止ボタンを押すと、がちん、と再生ボタンが跳ねた。