花葬


自殺

 携帯のバイブで、浅い眠りから引き上げられた。幸い、夢はみなかったようだ。悪夢を見た後の、粘りつくような不快感はなかった。
 手探りで携帯を探り当てて、電源ボタンを押した。
 もそりと枕から顔を上げると、メールの着信を告げるランプが緩慢に明滅していた。
 二つ折りの携帯を開くと、”メールを受信しました 06:28”という簡素な文句が並んでいた。
 落下防止の柵から軽く身を乗り出して、下を見る。布団をかぶった智影の頭が見えた。起こしてしまった、ということはなさそうだった。
 慢性的に睡眠の足りない頭をぶるぶる振って、ひとつ大きく息を吐く。そろそろ切り時になっている髪を指ですきながら、メールを開いた。
 響子、だった。
 ふと指の止まったボタンが、あっという間に湿っぽくなる。顔を上げて、窓を見ると、カーテンの隙間から見える硝子は白く水滴で曇っていた。
 二の腕をさする。
「今日は、寒いんだな」
 おそらく無意識のうちに、そう呟いていた。
 音を立てないように、はしごを降りた。元々は二間だった部屋を、わざわざ一間に改装した後、2段ベッドで分けたという部屋だが、ベッドの上下それぞれ自分の部屋とは反対側にはカーテンがかけられていて、きちんとしきられてはいる。開けてしまえば関係ないが、少なくとも寝ている間だけは開けないのがふたりの間の不文律だった。
 押入れの箪笥を開けて制服を出そうとして、ハタと手を止めた。今日は土曜日だが、休日の土曜日ではなかっただろうか。机の上に置いた携帯の日付を見て、確信する。
 12月23日。第4土曜日。とはいえ、どちらにしろ祝日だった。
「…休み、なのに」
 声帯を震わせない声で、言った。か細い声は、陽汰自身にも聞き取れないほど小さかった。
 押入れの箪笥の中から適当に、ジーンズ、シャツ、セーターとコートを、こちらを向いた回転椅子に投げる。コートを投げたときに、ぎぃと泣くような音を立てて、椅子が半回転した。吃驚して振り返ったが、ベッドの下段にかけられたカーテンは揺れもしなかった。
 ほぅ、と息をついて、クローゼットを閉めると、さっさと着替えを済ませ、コートを羽織ると携帯をもって部屋を出た。
 家の中は静まり返っていた。冬特有の、金属音がしそうな冷気だけが空間を支配していた。
 1階で寝起きしている両親も、まだ眠っているようだった。
 サラリーマンに専業主婦の、何処にでもいる何の変哲もない夫婦だ。派手な喧嘩もするし、言い争いもする。だがその火の粉がふたりに降りかかることはまったくなく、言い争いもいつの間にかおさまっていることが多い。ここのところは、特に目立った諍いはないように、陽汰の目には映っている。
 彼らにとって、土曜日は休日。祝日は祝日。ふたりが中学に上がってからは、休日に何処ぞに出かけると言うことも少なくなった。早くても9時を過ぎないと、起きてくることはない。
 それでも念を押して、足音を立てないように玄関までゆっくり進む。
 いつも学校に履いていくスニーカーを突っかける。紐がゆるくなっていたが、結びなおすほどではなかったので放っておいた。
 玄関の鍵を開けるときに、がちんと、錠の上がる音がした。ひやりとした。普段ならまったく気にもならない些細な音なのに、静まり返った空間だといやに響くような気がする。
 そっと引き戸を開けると、きちんと振り返って、両の手で閉めた。
 門を出て、2階を振り返る。閉められたカーテンは閉められたままだった。
 ふたりが小学校に上がるころに、中古で購入した家は、築40年は経っているらしい。伝統的な日本家屋という面持ちを持つ家は、築年数の割には傷みも少なく、つくりからしてかなり頑丈なようで、家自体に関するトラブルには一切無縁だった。せっかくのマイホームなのにいまどき引き戸なんて、と母親は不満そうに言っていたが、懐古趣味のある父親は、それが味なんだよ、とか、言っていたのを記憶している。その割には、双子の部屋には2段ベッドなる西洋チックなモノがおかれていたりもする。
 引っ越した当時は、玄関先で、そんな両親の真似をして遊んでいた。たいていは陽汰が母親の役で、智影が父親の役だった。
 それが味なんだよ、と胸を張って言う智影は、父親にはありもしない髭をさすると言う私的な演出をしていた。
 あれから、もう8年が経った。
 あのころは、こんなことになるなんて、思ってもいなかった。
 響子からのメールは、簡単なものだった。
『今から校舎裏の花壇に来て。智影を埋める。』
 智影を埋める。
 簡素な文面は、文字以上の意味は何も語ってはくれなかった。
 その文面は、あまりにも現実味がなくて。しかし、わらい飛ばすことは出来なかった。
 陽汰にそんなこと、出来ないことは、きっと響子だってわかっているだろう。
 昔から響子には突飛なことを言うことが、たまにあった。智影が上級生に襲われて死に掛けている、家が火事になって両親が死んだ、軒下で飼っていた猫が車に轢かれて死んだ―――など、子供が言うにはあまりにも酷い嘘だったけれど。因みに、その猫は一昨年老衰で死んだ。
 今回もそれに類するものだろうと思う。だけど、明らかに冗談だとしても、わらい飛ばせないのは。
 ”死んだ”でも”殺す”でもなく、”埋める”、なんていう表現。
 事実を確かめることも必要だったが、諌めることも必要だと思った。
―――あまりにも、タチが悪すぎる。
 自宅から学校までは、歩いて30分ほどの距離にあった。近道をすれば数分の短縮は可能だったが、陽汰は敢えて、遠回りする道を選んだ。
 家の立ち並ぶ通りを抜けて、川沿いに出る。そのまま道なりに20分ほど歩くと、雑木林が見えるあたりに出る。立ち止まることはなく、しかし歩みを遅めて。
 埋める。
 埋めた、場所。
 埋めたのは。陽汰、自身。
「あー、兄くん!」
 心臓が跳ね上がるような愕きで、足が止まる。少し間を空けて振り返ると、渚が川とは反対側の、住宅街からの階段を上がってくるところだった。
「どうしたの、こんな朝早くに」
「、柏木こそ、」
「あたし? あたしはね、ゲンタの散歩」
「ゲンタ?」
「そ、うちの忠犬」
「でも、犬なんて―――」
 渚は黒のジャージのパンツに厚手のパーカー、手袋という出で立ちで、確かにそれっぽい格好ではあったが、犬は何処にもいなかった。
 困惑した顔の陽汰に、にっこりわらうと、渚はくるりとい後ろを向いて、指笛を吹いた。
 ぴゅぅ、という通った音がして、しばらくもしないうちに、先ほど渚が上がってきた階段から、ハスキーらしき緑色の眸をした犬がひょっこり顔を出した。犬――ゲンタだったか――は、白い息を吐きながら、尻尾を大回転させながら渚の足元に駆けてきた。
「ゲンタ、お座り」
 指を揃えた手で押さえるような仕草をすると、ゲンタは素直に座り―――寝そべった。
「ゲンタ、それは違うでしょ!」
 起こそうと屈み込んだ渚をちらりと見上げると、ゲンタはさらに腹を見せた。尻尾は相変わらず大回転。
「忠犬…ね、」
 くすくすわらう陽汰に、「普段はこんなことないんだけどナー」困ったような顔で、陽汰を振り返る渚の手は、少し荒いながらもゲンタの額を撫でていた。
「叱らないの?」
「うーん。まあ、悪いことしたわけじゃないし。とりあえずは、誉めとかないと、かな」
「犬はしっかり躾けないと大変って言うけど、」
「あ、大丈夫。そこらへんはね、ちゃんとしてるんだ。お座りなんて、基本の躾だけに飽き足らない人間が教える、ただのおまけでしょ?」
「まあ、それは飼い主の自由だけど。ていうか、ハスキーなのに、ゲンタなんだ?」
「本当は柴犬をもらう筈だったんだけど、何処でどうなったかハスキーになっちゃってて。お父さんがね、小屋もゲンタってプレートも作ってたし。ね、ゲンタってなんか小僧っぽくてかわいくない?」
「それは…」笑顔で見上げる渚に「そうだね」陽汰も自然と笑顔になって言った。
 存分に撫でられて満足したらしいゲンタは、ひょこりと起き上がると陽汰の足元に懐いてきた。
「で、ゲンタは人見知りとかしないの?」
「普段はそれなりにするんだけど。……兄くん犬平気なんだ。すき?」
「好きでも嫌いでもないけど平気なのは平気、てところかな。どうして?」
「弟くんは犬、嫌いっぽかったから」
「ああ、智影は一度犬に咬まれたことがあってさ。それ以来小型犬以外はどうも駄目なんだ」
「ふうん、―――あ、そうだ。兄くん何か用事があったんじゃないの?」
 ゲンタを離そうとしながら、言う。
「え、あ…うん、」
 なんでもない日常の温かみに、ふと冷たさが混じった。
「ごめんね、時間とっちゃって」渚は申し訳なさそうに言う。
「いいよ、僕も何も言わなかったし」
「もう、ゲンタ! ごめんね兄くん。ゲーンータ!」
 渚はなかなか陽汰から離れないゲンタの首輪に、パーカーのポケットから出した綱を繋ぐと、無理やり引っ張った。陽汰も身を引くように後退すると、やっとのことでゲンタは離れた。
「この子、よっぽど兄くんが気に入ったらしいよ」
「それは光栄だね」
「まあ、兄くん良い人だし。懐く気持ちもわかるかな」
「…そうかな、」
「そうそう。じゃあね。また学校で!―――ほら、ゲンタ行くよ」
 両手で綱を持っているので、手こそ振らなかったが、渚はいつもどおりの笑顔で河原のほうに降りていった。陽汰は胸元で手を振りながら、普段の笑顔で。
―――兄くん良い人だし。
「良い人、か」
 吐き出した息と一緒に、体温までもが逃げていく。そんな気がした。
 動きを止めた掌を、見た。ただ掌があるだけで。
「全然、そんなこと、ないのにね」
 河原に降りていった渚は、すぐに雑木林に隠れた。
 陽汰は長い瞬きをすると、また学校に向かって歩き出した。
 先ほどまで同級生に向けていた笑顔が、一歩歩くごとに、乾いた地面に枯葉のように落ちていく。


     ***


 地面に座り込んで、頬杖をついて、響子は花壇を眺めていた。
「響子、」
 呼ぶと、視線だけ、陽汰に向けた。
「遅かったのね」
「時間が時間だからね」
 コートの袖をめくって腕時計を見ると、響子は「そうね」と小さく言った。腕時計のバンドから、ちらりと白い傷跡が覗いた。
「響子、」
 ため息と同時に吐き出したことばに、視線を花壇に戻した響子が言う。
「メール、見たんでしょう?」
「見たよ。冗談にもほどがある」
「ジョー、ダ、ン」
 一音一音はっきりと口を開けて。発音して。わらう。
「私、冗談なんて言わないわ」
「じゃあ何、寝言か何か? それともいつものタチの悪い嘘?」
「いいえ」
 低めの、甘ったるい声で。甘いくせに、冷たい声で。言う。
「まさか、本気だとか、いうんじゃ―――」
「本気よ」
 さらりと。
 何事でもないように。
 声音には、笑みさえ。感じられる。
「私、本気よ」
 今度は、ちゃんと顔を陽汰に向けて。目を見て、言う。
「…は、冗談じゃない。本気になんて出来ないよ」
「陽汰は出来なくても、そうなの」
「僕は智影を埋めるなんて出来ない。響子がそうしようとしてるんだとしても、僕は加担しないし、出来ない」
「智影は、私たちを見棄てようとしてるのよ」
「…違う」
「違うの? 本当に?」
「智影は僕の心配しているだけなんだ。それに、響子には迷惑だってかけない。あれは、僕がひとりでやったことだって、そう言う」
「無理ね」
「無理じゃない!」
 声を荒げた陽汰から、視線をはずして、響子は再び花壇を見た。花壇には、智影があの場所に植えたのと同じ、ユリオプスデージーが黄色い花弁をかすかな風に揺らしていた。
「子供のつく嘘なんて、すぐにばれてしまうものよ。今までだって、子供の犯罪が隠しきれた試しなんてないわ」
「なら、どうせ、今回だってそのうちばれる。それなら、先手を打って自首したほうが良い」
「そうね。でも、自首した後は、一体どうなるのかしら」
 言われて、口ごもる。
 自首した後は、どうなる? 智影は大丈夫だと言った。ならばきっと、大丈夫だ。だって、智影は嘘をつかないし、陽汰を見棄てたりもしない。絶対に。見棄てたりしない。
「罪は、法律の上で償って、自分自身に背負うものがなくなったとしても、消えやしないわ。人間の記憶は曖昧で、欠陥だらけだけど、つまらないことはいつまでも覚えているものなの。中学生が、人を殺して埋めた。彼は何処にでもいる、普通の子供だったのに―――ちょっとセンセーショナルな感じがするでしょう?」
 地面を撫でるような響子の指が、やけに白く見えた。
「確かに、法律では護ってくれるわ。だって少年法に保護された未成年だもの。顔だって名前だって公開されないでしょうね。でも、情報は何処からでも洩れるの。そこに人が居ればね。日本中何処に居たって同じよ。いつの間にか発覚して、ずっと好奇の目に晒されて生き続けるの」
「なら、今自首してもしなくても、そのうち発覚する。だったら今、早いうちにしたほうが、」
「そうかしら」
 わずかに土のついた指を擦ると、ロングスカートの上に、細かい砂が落ちた。
「自首なんてしなくても、智影がいなくなれば、事実は誰にもわからないままだわ」
「僕が、僕自身で自首するかもしれないよ?」
「それなら仕方ないわね。陽汰の自主性を尊重するわ」
 あっさりと、響子は言った。
 あっけにとられる陽汰に、響子はゆっくり笑みをつくって。口を開いた。
「でも、陽汰はそんなことしない。私だって、しないわ。だって私たちは、お互いにお互いの秘密を掴んでいるんだもの。運命共同体だわ」
 宣言のように言うと、響子は立ち上がって土を払い、ゆるやかに俯いて、陽汰に一歩、近づいた。
「運命って、兄弟の絆よりも、」
 また、一歩。
「双子の絆よりも、」
 一歩。
「強いと、私、思うの」
 陽汰と響子の間には、1メートルの、距離があった。
 響子は足を止めると、顔を上げた。まだ陽の昇りきる前の、かすかなひかりに、いつも以上に、白く、抜けるような肌が浮かび上がっていた。
 流れるような動作で、陽汰に向かって、腕を伸ばした。
「私が大事? それとも、智影が大事?」
 どちらが、大事。
 選べと、響子は、そう言うのだろう。
 視線を、降ろした。
 切りそろえられた爪。白くて長い指。少し曲がった肘。細い肩。肩から胸に流れる、闇色の髪。卵形の顔。白い肌。形のよい唇。すっと通った鼻。黒目がちの眸。斜めに分けられた前髪。
 幼馴染。
 はじめて唇に触れた。
 はじめて躰を繋いだ。
 秘密を共有する。
 残酷な面を知っている。
 やさしい面を知っている。
 冷たさは底を知らない。
 何よりも温かい。
 トモダチ以上の好意を持っている。
 誰よりも大事。
 誰よりも―――智影よりも?
 智影よりも、大事?
 選べと、そういうのなら。
 どちらかを。
 選ぶのなら。
 選ぶの、なら。


     ***


 陽汰が部屋に戻ると、智影は机に向かっていた。
「ただいま」
 いつもどおりに、声をかける。ふい、と顔を上げて、振り返った智影は、本を読んでいるのでもないのに眼鏡をかけていた。
「おかえり」
 智影はわらって、返した。
 智影が陽汰に自首を勧めてきてから、1週間以上が経っていた。しかしあれ以上のことを、智影から言ってくることはなかった。陽汰から言い出すのを待っているようにも見えたが、陽汰もまた、何も言わなかった。
 いつもどおりの日常が、何の変哲もなく、過ぎていた。
「受験勉強?」
 机の上の参考書を指差すと、智影は「ああ」と頷いて、閉じた。
「止めなくてもいいのに」
「ううん、どうせキリが良かったし」
 言いながら、イヤホンを引っこ抜いた。
「何か聞いてたの?」
「え、ああ、ヒアリングのカセットだよ」
 智影はイヤホンのコードを纏めて、レコーダーごと机の中にしまった。
「智影は、公立志望だったよね」
「うん。市立。陽汰と同じところだよ」
 椅子を回転させて、陽汰のほうを向いた。陽汰はコートのボタンをはずしながら、押入れの鴨居にかけているハンガーをとった。
「僕ね、私立に転向するかもしれない」
「え、どうして?」
「純粋に数字が足りなくて。それだけだよ」
 プラスチックのハンガーで宙に円を描く。なんでもないことを言うように。事実、何でもないのだ。
 ここら辺一帯では、私立は総じて公立よりランクが下がるため、私立を受けると言うことはイコール、成績が芳しくないと言うことを物語っている。
「今からでも頑張れば、何とかなるよ」
「でも、もう内申も出ちゃってるし。今からやっても、成績の数字が変わるわけじゃないよ。父さんたちには、悪いなって思うけど」
 ハンガーにコートをかけると、鴨居にかけた。
「諦めるなんて、陽汰らしくないね」
「らしくないなんてことないよ。それに、智影の言ったように自首するなら、高校入試なんて、全然、関係ないよ」
「………」
 智影は、何も言わなかった。
 振り返ると、眉間にしわを寄せた、陽汰と同じ顔があった。
「どうかした?」
「なんでもない」
 智影はふるふる首を振って。眼鏡をはずすと、ベッドに入って、カーテンを閉じてしまった。
 しゃら、という音が、何か抗えない一線を引いた音のように。
 陽汰のなかに響いた。

―――私が大事? それとも、智影が大事?

 響子の声が、記憶から引き出されて、耳の奥で、再生。
 ふすまに手を当てたまま、寄りかかった。木枠と紙のふすまは、陽汰の重みにきしり、音を立てた。
 どっちが大事か、なんて。
 どっちも大事だ。
 比べられない。比べちゃいけない。
 比べるべき対象ではない。あってはならない。
 でも、
 選べと、言われたら。
 僕は、


 朝早く、陽汰が出て行ったのには気づいていた。
 あんな時間に、しかも祝日に、何があるのかは知らないが、外出する正当な理由なんて考えられなかった。智影の考えのつくところはひとつで。良い気分はしなかったが、止めるようなことはしなかった。
 そして、帰ってきたのは、10時。
 3時間以上。
 何をしてきたのだろうか。
 過干渉は、たとえ双子だろうがするべきではないことはわかっていたし、以前の智影なら気にもしなかっただろう。
 しかし、今は違う。
 陽汰はぐらぐら、不安定な状態で。
 正しい方向に導かないと、簡単に堕ちていきそうな、危うさがある。
 おそらく、響子に会いに行っていたのだろう。呼び出されたのか、それとも陽汰から誘ったのか、定かではないが。
 智影は陽汰を見棄てない。
 ことばは、智影にとっては揺るぎ難い真実だが、それが陽汰にとってどれくらいの真実なのかは、判断できなかった。智影と同じくらい、真実であって欲しかったが、違う人間である以上、独り善がりの確信は出来ても、確証など得られない。
 響子はきっと、自首するという陽汰を止めるだろう。事実、1年半以上が経ち、事の露見していない今の状態では、自首しないほうが、社会的には楽な人生が送れることは確かだった。智影が死体を掘り起こし川に流したことで、事実は明るみに出たが、死体が発見されてからの2週間、警察は、陽汰や響子はもちろん、智影にさえたどり着くことは出来ず、死体の身元さえはっきりしない。
 自首するなんていうのは、自分自身の首を絞める―――そう判断されても、仕方のない状況ではあった。
 しかし。
 陽汰の精神がどれくらい持つかどうか、智影にはわからなかった。
 響子の言うように、不調こそ続いても、ずっと壊れないままかもしれない。だが、智影の思うように、壊れても、おかしくはない。
 どちらも、可能性でしかないけれど。
 陽汰が、響子の側に回ることも、考えられないことではなかった。智影にとって、いちばん大事な人間は間違いなく陽汰だ。智影にはすきな女の子もいないし、陽汰以上に気の許せる親友もいない。しかし、陽汰は違う。陽汰は智影よりトモダチも多いし、おそらく、響子に好意以上の感情を持っているだろう。智影のことを大事だと思ってはいるだろうが、いちばんかどうかと言えば、智影に確信は持てなかった。
 陽汰が外出している間、録音したテープを聞きながら、考えた。
 智影と響子の考えは、対極に位置している。
 選ぶ陽汰は、ひとりしかいない。
 贖罪をとるか、贖宥をとるか。
 それは、どう説得しても、強制しようとしても。最終的に選択する陽汰にしか、選べない。
 もし、陽汰が贖宥を―――響子を選んだら。
 最悪、智影を待っているのは。
 死。
 智影だって、万人がそう思うように、死ぬことは恐ろしい。
 やりたいことだってあるし、ただ漠然とでも、生きていたいと、思う。
 だが、それと同時に。
 死んでも、仕方ないと、済ませてしまえそうな、自分もいた。
 “死”を、可能性として、考えていないわけではなかった。死体を掘り起こした、あのときに。”死”は、頭のなかに、確かに可能性として存在していた。
 だけど、そこで怖気づいては何も始まらないと。
 思った。
 何も始まらないし、何も終われない。
 何かのざわめきを感じて、陽汰のあとを尾行して。雑木林の中で、死体を埋める陽汰を見たとき。いつか、こういうときが来ると、思っていた。傍らに響子がいたことは、思いを確信じみたものに変えるには十分だった。
 死ぬかもしれない。
 思うと、怖かった。
 響子に。誰でもない、陽汰に。殺されるかも、しれない。
 1週間、2週間、1ヶ月、数ヶ月経っても、事実は露見しなかった。見て見ぬふりをしてしまおうと思った。下手に動けば、きっと自分が埋められる。殺される。
 その恐怖を押しのけて、智影に行動を起こさせたのは、陽汰の異変だった。異変の原因を知っているのに、それまでと同じように、見て見ぬふりは、出来なかった。真実に目をつぶれても、事実には目を背けられなかった。
 カーテンの向こうにいるだろう、陽汰に、声に出さずに、言った。
「僕は、陽汰を見棄てることなんか、出来ない」
 たとえ”ふり”でしかないとしても、真実は知らないふりが出来る。だけど。事実を否定出来るほど、僕は、器用じゃないよ。
 見逃すには、大きすぎる。
 どうしても、視界に入る。意識に入る。
 考えたくないけれど。たとえ、智影の独り善がりだとしても。
「出来ないよ…」
 小さな音になって出たことばは、陽汰の耳に届く前に、宙に融けてばらばらになった。


     ***


 翌、月曜日。  いつもどおりに学校に行くため、陽汰はスニーカーを引っ掛けて、紐が解けていることに気がついた。
 鞄を横に置くと、玄関マットの上に腰を下ろして、紐に指をかけた。
 智影のスニーカーは、もうなかった。今日は確か、園芸部で、早朝に出かける日だったはずだ。何処となく、ほっとしている自分がいた。
 靴紐を結ぼうとするが、指がかじかんでいるのかうまく結べなかった。数回失敗して、ようやくカタチになった。
「ようちゃん」
 母親の声に振り返ると、客間からひょっこり顔を出していた。15歳にもなって、陽汰のことを”ようちゃん”なんて愛称で呼ぶのは母親と祖父母、親戚のおばさんたちだけだ。お互いは小学校の中学年あたりから名前で呼び合うようになったし、父親は小さいころから名前で呼ぶ。
「何?」
「ちょっと、こっちに来なさい」
 思いのほかまじめな表情の母親に、何事かと、靴を脱いで近づく。
「どうかしたの?」
「実はね、コレ」
 差し出された弁当包みに、あっけにとられた。
「ちいちゃん忘れてっちゃったの」
 先程までの真摯な表情は何処へやら、母親はにっこりわらった。
「だからようちゃん、持ってってあげて」
「…うん、別に、いいけど」
「ありがとー。母さん助かるわー」
「何で客間から顔を出すの?」
 玄関から入って突き当りが台所になっている。そこから顔を出せば早いのに、わざわざ部屋を迂回して客間から、という理由がよくわからない。
「だってー、廊下には暖房利かないでしょ?」
「…うん、そうだね」
「うん、じゃあ、ヨロシクね」
 笑顔で言うと、母親はぱたりとふすまを閉めた。「あーさむーい」なんて声がふすま越しに聞こえる。
 手渡された弁当包みを見ると、メモのようなものが挟まっていた。包みを持つ角度を変えてみると、「ゴメンネ」と母親の左下がりの特徴ある字で書いてあった。
 口元が緩むのがわかった。40歳を過ぎているのにずいぶんとかわいいことをするんだなあと、思った。
 玄関に戻って、鞄の中に入れると、スニーカーを履いて。ふと、陽汰の顔から笑顔が消えた。
 紐が解けていた。
 解けているというよりかは、ゆるゆるになっていて、今にも解けそうな、と言った感じだったが。
 靴紐が切れると不吉だ、なんていうことばが、脳裡によぎった。
「…まさか、」
 呟いて、紐を解いて結びなおした。切れているわけではない、ただ解けかけているだけだ。今度は1度できちんと結べた。
「いってきます」
 台所の扉が薄く開いて、母親が顔を出し、「いってらっしゃい」と言った。陽汰も笑顔で。
 いつもどおりの朝。
 何も変わらない。
 変わらない。
 後ろ手で引き戸を閉めて、笑顔がすり落ちるのを感じた。
 変わらない。それは、今日までのこと。
 明日の朝、母親はわらっているだろうか。
 明日の朝、陽汰はわらっていられるだろうか。
 明日の朝、日常は存在するだろうか。

―――私が大事? それとも、智影が大事?

 触れた響子の掌は、少し湿っていて、冷たかった。
 陽汰は自身の掌を見た。器用でも不器用でもない、特に何が出来るわけでもない掌。洗っても落ちることのない土に汚れている。
 振り返る。家。こちら側を向いているのは、陽汰の部屋のベランダ。
「ちかげ、」
 口から出た名前が、心臓に響くように痛かった。


「…れ?」
 1校時が終わった後、陽汰が智影のクラスにいくと、教室はもぬけの殻だった。
 教室の廊下側壁に並んでかけてあるはずの体操服袋がない。
「体育、ですか」
 そういえば、さっき廊下で団体とすれ違った。
 同じ学年で、双子と言えども、弟のクラスの時間割までは把握していない。ただでさえ、学期末の今日は特編授業が組まれており、壁に張られた時間割ではなく、担任から配布されたB5の紙に印刷された時間割で授業が進められていた。
 仕方ない、と教室の前扉から入ると、教卓の上に置かれている座席表を見た。智影は廊下側のいちばん前の席だった。
 机の上には、前の授業で使ったのか、それとも次の授業の準備なのか、B5サイズのスケッチブックと黒い革製の筆箱と、水彩鉛筆のケースが置いてあった。筆箱は、進学祝に両親が贈ってくれたもので、陽汰も色違いの同じものを使っている。
 筆箱はノートの横に、水彩鉛筆のケースと重ねておいてあった。ファスナーのヘッドについた、”Chikage・T”のキーホルダーが、スケッチブックに挿まれている。昨年の誕生日に陽汰が智影に贈ったものだった。手作りなので見栄えは良くないが、センスは悪くないと自負している。
 ふと、気になってキーホルダーの挿んであるページを開いた。
 描きかけの、教室の絵だった。まだ彩色はされていない。陽汰よりも絵が巧いし、たまにこうして描いているのに、智影は美術部には入らなかった。陽汰が誘ったら、植物て良いよね、とだけ言った。
 何となく、ページを繰った。次に描いてあるのは携帯電話だった。完成しているようだったが、彩色はされていなかった。下の端に、”電波…?”と書かれている。何が”?”なんだろうと思いながら、ページを繰った。
 木の幹と、コスモスが描かれていた。顔からわらいがすぅと引くのがわかった。これは、あの広場のコスモスに違いない。淡いピンクと緑で、ささっと彩色してある。でもそれは、決して雑には見えないで、何となく、古いフィルムを想像させた。
 ページを繰った。
 黒い水彩が紙のほとんどを埋めていた。一瞬ただ乱暴に塗っただけのように見える。失敗した絵にでたらめに線を引くような。
 しかしよく見ると、ベースの黒に、ところどころ紺やら青やらが混ざっている。暗色ばかりの色の中に、修正液で描いたのだろうか、白い円形の点が、いくつか描かれていた。
 何処かで見たことのある絵だと、思った。
 絵の隅々まで眺めていると、思い当たった。

―――これ、土のなかじゃないかしら。

 美術室で、響子が見ていた絵だった。あれは深い青をベースにしていたが、似たような色遣いで、白い点があるところも似ていた。
 特に気にしてはいなかったが。
 あれは、智影が描いたもの、だったのだろうか。

―――埋められるって、きっとこんな感じなのよ。

 智影の机に包みを置くと、陽汰は美術室に向かった。


 美術室に入った時点で、2校時の開始を告げるチャイムがなったが、陽汰は無視した。保健室に行ってましたとでも言えば、たとえ成績が下降気味だろうが、素行の悪くない陽汰を疑う教師はいないだろう。
 美術室はちょうど空き時間だったらしく、棚とカーテンで仕切られた授業教室のほうからは物音ひとつしなかった。
 扉を閉めるのも早々に、キャンバスが置かれている棚から例のキャンバスを探す。
 12人しかいない美術部員に比べ、授業生は全校生徒。幸いだったのは、油絵や水彩画は3年のみに与えられる自由課題だということだ。
 6クラス分。一応わけてこそあるが、めちゃくちゃに混ざっていると思って間違いはないだろう。
 試しに智影の在籍する5組のスペースにあるキャンバスをひとつとって、裏の木枠に書かれているクラス氏名を見ると、2組の生徒のものだった。
 それを、元の場所に戻すのもどうかと思ったので、一応2組のスペースに突っ込んでおく。
 とりあえず此処にあると信じて、5組のスペースから、抜いては見る、抜いては見るの作業を延々と繰り返す。クラスの間違っていたものがあると、はじめは律儀にもとのスペースに戻したりしていたが、途中から辞めた。キリがない。
 5組すべてを見終わったが、あの絵はなかった。
 となると、残りの5クラスすべてのものをチェックしないといけない。
 ひとつため息をつくと、1組の端から取り掛かかろうと、授業生の棚の端に移動したときに、ふと部員の棚の端に放置してある響子のスケッチブックに重ねるように置いてあるキャンバスが目に入った。
 取って見ると、あの絵だった。
 響子のスケッチブックには、特に名前が描いてあるわけではなく、表紙の隅に”K.K”と小さく書かれているだけのものだ。美術部員ならば誰もが知っているが、顧問や授業生は知らないだろう。もし智影ならば、響子のもののそばに自分のものは置かないだろうと思う。
 たまたま、わかりやすい部員の棚の端に置いたのか。それとも、響子が、自分のスケッチブックのそばに置いたのかは、陽汰にはわからなかった。
 裏返して木枠を見ると、”3−5/調川”と、絵筆で書いたのだろう、太さの不均等な文字で書かれていた。
 腕を張って少し遠めに絵を見る。この間見たときよりも、少し筆が進んでいるようだった。白い点が、明らかに減っている。少なくとも数箇所はあったはずなのに、今は中心に近いところにひとつ、ぽつりとあるだけだった。
 智影は何を思って、この絵を描いたのだろうか。
 美術の授業で油彩水彩の自由課題が与えられたのは、夏休み明けの9月のことだった。おそらく、その時点で智影は事実を知っていた。否、14歳のあの夜から、すべてを知っていたに違いない。
 何を思って、この絵を描いたのだろう。
 腕を引いて、絵を見下ろす。指で撫でると、油彩の凹凸がまるで点字のように、何かを語ってくれるような、そんな気がした。しかし陽汰の思いとは別に、凹凸は何も語ってはくれなかった。絵はただ、そこに存在しているだけで。陽汰の知りたいことをなど、何ひとつ教えてはくれない。
「ちかげ、」
 名前。
 弟の名前。
 大事な弟の名前。
 でも。
 でも、
 口を開いて、でも声は何も出ないまま、閉じた。
 絵を棚に戻すと、陽汰は美術室を出た。
 閉めた扉に寄りかかる。階段を挟んだ反対側、技術工作室では授業をしているらしく、ざわめきが聞こえた。
 ちらりと見て、世界が違うな、陽汰は思った。
 実際にはたった数メートルの距離しかないのに。あそこにいる彼らと、陽汰の間には、先の見えないほどの距離が開いている。
 ついこの間までは、”そこ”に居たような気がする。
 あちら側にいたような気がする。
 否、”ついこの間”ではなく、晩春の、あの夜までは。
 陽汰は確かにあちら側の人間だったのに。
 俯いた視線の先、タイルの床が、ぐにゃりとぼやけて歪んで。闇に融けた。


     ***


 体育を終えて教室に戻った智影は、机の上に弁当包みが置かれているのを発見した。
 陽汰が持ってきてくれたのかな、思って、気づく。
 閉じて出て行ったはずのスケッチブックが開いていることに。
 それは、キーホルダーを挿んでおいた描きかけのページではなく、何ヶ月か前に描いた、黒い絵の描かれたページだった。
「陽汰…?」
 他の誰か――響子が見たかもしれないと言う可能性も、あった。彼女は喘息か何かで体育を見学して保健室に行っているからだ。
 しかし。
 何処かで。陽汰だと、確信していた。
「―――わ、おい、調川!」
「え、」
 顔を上げると、級長の藍川がじっと智影を見ていた。中学生なのに186センチ90キロという巨漢である彼は、柔道部の主将をしていたというつわものでもある。
「なに」
 特に笑顔をつくるでもなく言う智影に、ぐい、と太いファイルを差し出した。
「日誌。お前、今日日直だろ。さっきそこで担任に会ってな、渡しとけって」
「あ、ああ。ありがとう」
「……」
 用が済んだだろうに、腕を組んでじっと智影を、半ばにらむように見る藍川に、少し怯みながら問う。「…なに?」
「顔色がよくないが、気分悪いなら倒れる前に保健室に行けよ」
「………」
「どうした?」
「いいや、何でも。御心配どうも。痛み入ります級長」
「その言い方、少し直したほうがいいぞ」
 わらって言うと、藍川は自分の席のほうに行った。
 顔色が悪い――ね。
「駄目だなあ、」
 誰にも聞こえないような声で呟くと、唇だけでわらった。


 土のなか。
 暗闇に、浸食されていくひかり。
 重みと、湿気と、隔絶されていく世界。
 叫ぼうと口をあけると、口腔に、容赦なく土が入り込む。吐き出すこともできずに、土は食道に入り込み、細胞を傷つけながら嚥下されていく。
 たすけて、
 くるしい、
 おもい、
 たすけて。
 最後のひかりが、閉ざされる、そのときに。
 見えた。世界の、最後のひとかけら。
 自分の顔。
 わらって泣いてまっすぐで歪んだ、自分の。顔。

 さわさわ、声に顔を上げる。
 目の前には、妙に黒光りした中年の顔があった。
「………」
「余裕だなあ、調川」
 ぼやけた視界をはっきりさせるために、何度か瞬きをする。ばらばらになった思考のパズルが、徐々に組み合わさっていって。
「スイマセン」
 教師に対する、然るべき台詞が、出た。
「成績が良いからって、いい気にならずに、しっかり地道に努力しろよ」
 笑顔とは言いがたい表情で、教師は言った。本人はおそらく、満面の笑みをしているつもりだろうが。
「…すいません」
 しおらしげに繰り返すと、腰に手を当てた教師は教卓に戻った。
「お前らも良いかー、気ィ抜くなよー!」
 言って、教師は板書を再開した。
 机の上に投げ出していたシャーペンを拾うと、芯を押し出す。ノートに理科の図を写しながら、頭の中ではさっきの映像を思い起こしていた。
 夢、だったのだろう。おそらく。
 夢。埋められる夢。
 幾度となく、繰り返して。みる夢。
 何日も続いて。みなくなったと思ったら、また始まる。
 シャーペンの頭を咬むと、プラスチックが歯に当たってこつ、と音がした。


     ***


「調川」
 放課後。教室掃除に分担されている智影に、藍川が声をかけた。
「、何?」
「兄貴」
 親指で指されたほうを見ると、前扉から陽汰が顔を覗かせていた。藍川に礼を言うと、智影はほうきを持ったまま扉に近寄って陽汰に声をかけた。
「どうしたの?」
 ほうきを持ったまま
「一緒に帰ろうかと思って。掃除?」
「うん、」
「そっか。待ってるよ。あとどれくらいかかる?」
「そうだな…15分あれば」
「15分か…。じゃあ、それくらいに下の脱靴で待ってるよ」
「わかった」
 陽汰は扉から離れて、廊下を、自クラスのほうに歩いていった。
 いつもどおり。
 日常。
 何事もないかのような。
 陽汰が自首について、何かを言ってくることはなかった。焦ることもないだろうと、智影も特に触れてはいない。
 事実など、まるで存在しないかのような。錯覚を覚える。あの夢さえ、ただの偶然のように。
「智影くんサボってる〜」
 同じ班の女子の声に、智影はくるりと躰を回転させると、掃除に戻った。


 脱靴で靴を履き替えて、風の当たらないところに立って智影が降りてくるのを待った。寒さは、ほとんど感じなかった。
 しばらく経ったころ、帰り支度をした響子が、階段を降りてきた。
「…あ、」
「………」
 思わず声が洩れた陽汰に対して、響子は表情ひとつ変えないまま。するりと避けて行ってしまった。
 わかってるわね―――土曜の朝に言われた台詞が、反響した。
 開いた口を閉じて、奥歯を噛み締めた。
 わかってるよ、響子。
 後姿に、声に出さずに言う。
 自分が何を選んだのか。どうしようとしているのか。
 わかっている。
 鞄を持つ手にぎゅっと力をこめると、少し、恐怖が遠のくような気がした。
「陽汰!」
「あ、」
「ごめん。ちょっと遅れた」
「ああ、いいよ別に」
「雨、降ってきちゃったね」
 言われて、外を見ると、音もなく霧のような雨が降っていた。
「陽汰、傘、持ってる?」
「持ってない」
 ふたりして庇の上の空を見上げて、ため息をつく。
「「ツイてない」」
 重なった声に、顔を見合わせてわらった。
「角のコンビニで、傘売ってないかな」
 智影の提案に、陽汰は頷く。
「あると思う。走る?」
「うん、」
 鞄を脇に抱えて、雨の中に飛び出した。
 コンビニは、校門を出てから100メートルほど離れたところにある。文化部に所属し、普段授業意外では運動と離れた生活をしているせいか、ふたりして、たどり着いたときには完全に息が上がっていた。
「運動不足…」
「同感」
 自動ドアを入って、レジのすぐそばに、白いビニール傘が数本立てかけられていた。”1本500円”という表示に目が痛い。
「絶対、元値は100円きってるよね」
「だな、」
 小声でヒトコト交わすと、レジでそれぞれ500円払った。
 物珍しそうな店員に適当に愛想笑いをしておいて、店を出た。雨の粒が先程より少し大きくなったようだ。雨音がする。
 傘を広げて、校門まで、今度は歩いて戻る。家と反対方向にあるからだ。
「あーあ。500円あれば苗のひとつでも買えるのに」
 ぼやいた智影に、陽汰も同乗した。
「絵の具のひとつでも買えるよ」
「ねえ、」
 それ以上、特に会話をすることもなく、帰路に着く。
 途中、曲がるべき角で曲がらない陽汰に、智影は声をかけた。
「ねえ陽汰、道」
「わざとだよ。遠回り」
 顔だけ振り返った陽汰は、不思議そうな表情をする智影に、言う。
「ちょっと寄り道したくって」
「寄り道なら、また今度雨が降ってないときにでも―――」
「まあまあ」
 智影の腕を掴むと、有無を言わせずに歩き、陽汰は川沿いの道に出た。
 青と緑の中間のような色をした川は、潮の流れの関係か、色が斑になっていて。その表面には無数の雨の跡が。
「最近、一緒に帰ることって滅多ないし。たまには、ふたりって言うのもどうかと思ったんだけど」
 歩きながら、陽汰が言う。
「陽汰、」
「…ていうのは、建前、でさ」
 智影の腕を掴む力を、こめる。
「明後日から、学校冬休みに入るし。僕、自首、しようと思って」
「………」
「キリがいいかな、て。思って。本当は卒業まで、って思ってたけど、意味のない受験勉強もいい加減しんどいしさ」
 躰ごと振り返って。わらいかける。
「最後に、智影とちゃんと話をしておきたくて」
「陽汰、」
「あと、」陽汰の後ろに、雨にかすむ雑木林が見えた。「ちゃんと、見ておきたくて。自分のやったこと」
「うん…」
「付き合ってくれない?」
「うん、いいよ」
「ありがとう」
 腕を離して、わらいかける、陽汰の表情。
 何かが融けるような。笑顔。
 川沿いの道から、河原に降りて、雑木林に回りこむ。
 雑木林のなかでは傘はさせないので、閉じて。なかに入る。
 智影が後ろから、ついてきているのを、しっかりと感じながら。
 広場に出たところで、立ち止まる。
 足元を見る。まだ、陽汰には踏むことは出来なかった。そこにはもう、少年はいないのに。
 智影が掘り起こして、川に流して。見つかって。
 此処にはもう、埋まっていないのに。
「花、」
 陽汰に並んで立った智影が、ぽつりと、言った。陽汰の横をすり抜けて、広場を横切って、無残に抜き棄てられたユリオプスデージーに駆け寄る。
 広場を、横切って。
 ぱち、―――火の爆ぜるような、何かが、切れるような。音が、した。
「………」
 陽汰は、鞄を置いて、その上にコートを脱いで置いた。右手の草むらのなかに置いておいた、シャベルを、ゆっくり、なじませるように手に取る。湿った木の感触が、躰のなかを走り抜けていく。
 此処には、もう、何もない。
 自身に言い聞かせて、一歩、踏み出す。
 智影は背中を向けたまま、振り向こうとも、しない。
「誰が…こんな、」
 震えた声が。聞こえる。
「酷い…」
 間合いぎりぎりで、一度、立ち止まる。
 シャベルを、ゆっくりと振り上げた。
「智影…」
 呼ぶ。可哀想な弟を、憐れむ。声音。
「よう―――」
 振り返ろうと、そうした、側頭部を。めがけて。
 空気を、横殴りに引き裂いた。


 衝撃と、音。目の前が何重にもぶれて。
 叩きつけられた地面。反射的に頭を探った掌が、じわりと熱い。
 目の前が、ぐらぐら、揺れている。躰中が、熱を発しているように。熱い。
「―――ッ」
 熱と、間隔を置いて襲ってくる、今まで感じたことのない痛み。
 細切れの息。思考回路がぶつ切れにショートして。何も考えられない。
 熱い。
 痛い。
 イタイ。
 何とか、肘で、躰を起こそうとする。
 何度も何度も、襲ってくる痛み。熱。
 骨が折れる。莫迦みたいに簡素な音。
「たす、―――ッ」
 背骨が、いやな音を立てた。
 眼球が飛び出してしまいそうな衝撃と、声を失ってしまいそうな痛み。
 痛い。痛い。痛い。
 たすけて、痛い。
 たすけて、陽汰。
「よう、た…」
 衝撃が、止まった。
 ずっと閉じていた目を開けると、頭を抑えていた掌を見た。黒ずんだ、赤い――血が。
 自分の呼吸の音だけが、聞こえる。目の前が赤い。視界は相変わらず、ぐらぐらして、酔ってしまいそうなほど。
「ちかげ」
 顔を上げると、陽汰が。呆然と、立っていて。
 智影を見ているのに、何処か空ろな。眸。
 その手には、シャベルが。智影の血に、汚れたシャベルが、握られていて。学生服にも、顔にも、点々と、赤い、染み。
「陽汰、」
―――僕を、見棄てない?
―――見棄てない。
 会話。
 智影は、見棄てないと、言った。陽汰も、智影を見棄てないと、思っていた。
 殺されるかもしれないと、恐れては、いた。でも、現実になるとは、思っていなかった。何処かで、彼らがこれ以上、罪を重ねるわけがないと、思っていた。
 だけど。
 なのに。
 誰よりも、大事だった。誰よりも、わかっているつもりだった。
 双子の、兄のことを。
 わかっている。
 つもり、だった。
 だけど所詮それは、ただの”つもり”だったのだろうか。
 見下ろす、陽汰の視線。痛みと熱で、気がおかしくなりそうで。
 ところどころ、染みのように赤に侵食された視界が、ぼやける。それは、血のせいだろうか。それとも、木々の隙間をすり抜ける雨のせいだろうか。
「ようた、」
 何とか言うことを聞く肘で、後退する。口のなかが切れたのか、それとも内臓のほうから上がってきたのか、錆びた味が、口のなかに広がる。
「ようたぁ…」
 後退する智影と、距離が離れないように。一歩一歩進む。
「やめ、やめて…」
 肘が、木にぶつかって、縋りつくように、上体を起こす。
「ちかげ、」
 陽汰の声。小さく、智影を呼ぶ、声。
「ようたぁ!」
 叫ぶと、反動か、喉の奥から血が溢れた。
「ちかげ。ちかげ。ちかげ…」
 壊れた機械のように、繰り返す、名前。
「ちかげ、」
 腰が抜けたように屈み込んで、智影の躰を探るように触れる。陽汰の掌は。震えていて。
「…あ、ちか、げ……、」
 唇はわなないて。乱れた呼吸音が。遠く近くに、聞こえる。忙しなく動く陽汰の腕を、ほとんど感覚のなくなった腕で、捕まえる。はっとした眸で、陽汰は智影を見た。
「ようた、」
「ちか―――、」
 途切れた声。陽汰の視線は、智影を追い越して。振り返るだけの力は、既に智影にはなく。視界は赤く、見える範囲はどんどん小さくなっていくようで。
「…響子、」
 陽汰の手が、智影を離れて。触れていた掌は、触れるものが遠のいて、重力のままに。
「わかってる…わかってるよ…」
 言う、陽汰の表情。
 智影を見た、陽汰の眸は、歪んで。怯えて。
 目を開けていることすら、つらくて、閉じた。闇が、降りた。

―――解放、したかった。

 恐怖から。陽汰を解放したかった。
 そのために、死体を掘り起こして。
 そのために、響子と話をして。
 陽汰のために。
 そのすべてが。
 無駄だった、のだろうか。
 智影では、陽汰を救うことなんて、出来ないのだろうか。
 陽汰にとって、護るべきものは、響子でしかないのだろうか。
 智影を排斥してまで。罪を重ねてまで。
「よ、うた…」
「……ちかげ、」
 しばらくの間の後、陽汰は、言った。
「ごめん、」
「は、はは、」心臓のあたりから、緩やかな、わらいがこみ上げてくる。「―――そ、か…」
 わらいの後には、何もない。諦めも絶望も、何もない。
 最後、だから。お願いします、かみさま。
 重いまぶたを、こじ開けて。
 ほとんどが赤く染まった視界に、シャベルを振り上げた、陽汰の姿があった。その眸は、怯えきって、今にも泣き出しそうな。
―――ちいちゃん、
 昔。
 風邪をひいて熱にあえいでいた智影の枕元で、泣いていた陽汰の顔が。
 ちらりと、目の前を掠めた。
 あのときの眸と、同じだ。成長してないな、陽汰。
 いつの間にか。知らない人間に。なって。たって、言うのに。
 そういう。とこ。変わらない。な。
「あーあ…」
 それは、おそらく、声にならずに。
「あああぁあぁあああぁああ!!」
 耳慣れない音と。ほとんど同時に。
 完全に、シャットアウト。