花葬


贖宥

 携帯を持った彼女。
 微笑んだ顔。
 表示されたメッセージ。
 目の前の光景。
 すべてが、あまりにもかけ離れていて。なのに。繋がっている。ひとつの線で。ひとつの点の延長線上に。
 繋がっている。
 目を閉じれば、そこにはいつでも。”そのとき”が蘇る。いつまでも。いつまででも。
 記憶の。目を逸らせない場所に。いつまででも居座り続ける。
 閉じた目を開くと。
 広場の真ん中には、シザンザスの赤とピンクの花弁が風に揺れている。
 そこには”死”など存在しない。その花の下には、すでに息をすることのない肉の塊が埋まっているだけなのだから。微生物に分解されかけた、哀れな肉の塊。魂魄はすでにもう、何処にもありはしない。そこにあるのは”死”ではない。ただの”存在”。
 そう、自分に言い聞かせて。
 2年と3ヶ月が過ぎた。
 その間に、川は拡張工事が行われ、川幅が広くなったのに対して、雑木林は狭くなった。陽汰の寄りかかる木の、すぐ後ろに水の流れる音が。聞こえる。
 満ち潮になれば、潮の匂いさえ。含んでいる。
 咲き誇るシザンザス。ピンクの花弁に、赤を抱いた。鮮やかな色彩。
「あなたといっしょに、」
 口に出した花言葉。自分が口に出していいのか、陽汰自身にはよくわからない。
 いっしょに。
 いっしょにいたいのなら。どうして埋めたのだろうか。
 いっしょにいたいのなら。どうして排陥なんてしてしまったのだろうか。
 選べるわけがなかった。そもそも、選ぶべき対象としてはあまりにも違いすぎた。違いすぎて、近すぎて。
 選べるわけなんて。
 なかった。
 思い出す。
 2年以上経っても、記憶は色あせることはない。いつまでも自然色で陽汰に迫る。14歳の晩春とかぶって、混ざって、どろどろになって迫ってくる。
 手をついた地面の下には。
 今はもうすでに形を残さない、弟がいる。
 大事だった、双子の弟がいる。
 同じ容姿を持って、なのに中身は面白いように違う。弟がいる。
 “かつて”の、弟だったモノが。
 “ある”。
 2ヶ月前に植えたシザンザスは、植えたときよりも、赤が濃くなったような気がする。図鑑やインターネットで見る写真のどれとも違う。赤の強いピンク。
 まるで。
 智影を吸い取っているかのように。
 ここにいるんだと、主張しているように。
 “いる”のではないのに。”ある”だけなのに。
 2年の間に、いろんな花を植えた。
 春には紫陽花を。夏には向日葵を。秋にはコスモスを。
 どれをとっても、何処か赤っぽく見えてしまうのは。
 きっと。
 否。
 陽汰だから。
 空になったペットボトルをコンビニ袋にしまって、立ち上がる。
「また、来るよ」
 そうやって声をかけること自体が。
 きっと間違っている。
 すべてを奪い取った陽汰が。言っていい台詞ではないのだ。
 間違いなく。
 川のほうに雑木林を出ると、ぽたりと頬につめたいものを感じた。
 触れると、水で。
 見上げて、雨だとわかる。
「あめ、か」
 まだ春の浅い日に降る雨は冷たい。
 ぽつぽつ零れる滴には、涙のような温かささえ。
 何処にもない。


     ***


 雨の音が。
 近づいて遠のいて。止む気配だけは、一向にない。
 立ち込めるアスファルトのにおいさえ、数日に渡る降雨に押しとどめられて地面にこびりついて。
『………』
 電話の向こうの響子は、ことばを発しない。
 一通りの会話が済んだ後の、空白。
「………」
 陽汰もまた。黙ったままで。
 お互いの息遣いも聞こえない機械越し。ただ、小さなノイズだけが回線が繋がっていることを示す。
 陽汰の机の上には、広げられた英語の参考書と辞書。無造作に投げられたシャーペンの先は、文末につけられた”?”をさしている。
「響子、」
 呼ぶ。
『…なに、』
 こたえる。
「雨、止まないね」
 カーテンが半分だけ開いた窓から覗く、黒い風景。硝子には無数の滴の走った跡。
『そうね。かれこれ、1週間、かしら』
「梅雨だから、かな。やっぱり」
『じゃないかしら。良いことよ。水不足は嫌だもの』
「、そうだね」
 幼子のような口調に、顔がほころぶ。
 確実に大人になっていくのに。響子には何処か、いつまでも子供ような幼さがある。それと同時に、まだ子供なのに、完全に成熟しきった大人のような行動も。
 突然に外が照らされて、地面を揺さぶる音がした。
「雷、鳴り出したね」
『陽汰は、雷は嫌い?』
「嫌いじゃないけど、すきでもないよ。すきなの?」
『すきよ。一瞬なのに一瞬じゃないもの』
「そう、」
 雷は落雷という爪痕を残す。それはモノを燃やしたり、壊したり、生き物を殺したりもする。雷自体は一瞬で姿を消すのに、爪痕はいつまでも痕跡を残す。
「…そろそろ、寝るよ」
『そう。おやすみなさい』
 特に引き止めることもなく、響子は言った。時計は午前2時を報せている。
「おやすみ」
 少しの後、ぷつ、という回線が切れる音。電話を切るのは、かけたほうからだというマナーがあるらしいが、陽汰は自分から電話を切るのはすきではなかった。たとえそれが、ただの勧誘の電話だとしても。
 携帯を閉じて。親指でサブディスプレイを撫でる。去年買い換えたばかりの携帯。最新はすぐに時代遅れになる。デジタルは”02:08”を表示していた。
 頭のなかで、映像ともことばとも形容できないものが、ぐるりぐるりとまわる。それは、赤かったり黒かったり。モノクロだったりカラーだったり。刹那に変化する。
 片手で、携帯を開く。待ちうけには、幼いころの陽汰と智影。数時間に1回だけ表示するよう設定してある。
 わらった、同じ顔。まだ響子とも出会う前の、物心ついたばかりの。
 お互いが何よりも大事で。
 お互いが何よりも近かったころ。
 10年以上前の。昔と形容するには充分すぎる過去。
 声に出さずに。
 ちかげ、と。呼ぶ。
 ベッドの向こう側。2年と半年――3年近くが経って。なのに何も変わらない。母親は陽汰の部屋の同じように智影の部屋の掃除をして、季節によってシーツや布団を取り替える。
 そこにいるべき人物だけが、抜け落ちた空間。
 携帯を閉じて、充電器にセットした。
 ノートの上に突っ伏す。
 空間のなかで。自分だけが進んでいる。時間の流れに沿って。躰も大きくなって、考えも変わって。
 陽汰だけが。
 この空間のなかで異物のように。
 陽汰だけが。
 何も変わらない空間で変わっていく。
 智影は変わらないのに。記憶のなかの智影は。15歳のままで。陽汰と同じ顔だといっても、実感がわかない。もし、智影がベッドの向こう側に存在したら。
 もしかしたら、陽汰とは違う人間になっていたかもしれない。
 顔も、性格も。
 お互いにそれぞれ個人だけの、変化があって。
 同じとはいえなくなっていたかもしれない。
 可能性でしかありえないそれは。しかし可能性だけにはとどまらない。
 何度も考える。
 何度も考えた。
 心臓のあたりを、真綿で絞められたような苦痛。記憶が与える痛み。
 目を閉じると、すべてが終わるようで。
 でも何も終わらないということを。
 陽汰はもう既に、嫌と言うほど知っている。


 黒。
 赤。
 肌色。
 白。
 闇にまみれた色彩が。目の前をぐるぐるまわる。
 目を閉じても、両の手でまぶたを押さえても。色は消えない。
 何かがかぶさるような音。重み。
 目を開けると、丸いひかり。自身を包む、大きな丸いひかり。
 掌の下の感触。湿っていて、冷たい―――土。
 みぞおちに落ちる感覚。触れると、そこにもまた、土。
 躰の下の土。まるいひかり。かぶさる土。
 ひとつひとつが繋がって。組み合わさって。
 あ、埋められているんだ。
 結論に達する。
 思考をめぐらせる間にも、躰には土が間髪なくかぶさり。
 動こうにも躰は言うことを聞かない。
 叫ぼうにも、声が出ない。
 目は見たままを脳に伝え、耳は聞こえるままを脳に伝える。
 光は土の闇に侵食されて。
 視界は徐々に闇に蝕まれ。
 逃れることも出来ずに抵抗も出来ずに。
 ひかりは闇に喰い尽くされる。


 机に突っ伏したまま、眠っていたようだった。
 上体を起こすと、背骨が何度か鳴った。
 机上の置き時計を見ると、5時を少し過ぎたところだった。
 カーテンの向こうは、まだ暗いままで。耳を澄ませば雨脚は夜よりも近く。雨に曇る街灯の灯りが、まるで人魂のように浮かび上がって見える。
 高校3年になってから。こうやって机の上で夜を明かすことが多くなった。受験勉強だといえば聞こえはいいが、ただずるずると何もする気が起きない夜のほうが多かった。参考書を広げる、辞書を広げる。それだけ。
 立ち上がると、箪笥から着替えを出して、階下に降りた。
 梅雨だからだろうか、それとも何日も降り続く雨のせいだろうか。何処となく躰が湿っぽく感じる。
 階段を下りて、すぐ斜め前にある両親の部屋のふすまは、既に開いていた。覗き込むと、布団もたたまれていた。智影がいなくなってから、陽汰は両親が眠っているところを見たことがなかった。
 廊下の先を見ると、台所には、すでに明かりがついていた。
 それを横目に、陽汰は風呂場に入った。
 早く目が覚めた朝には、前夜に風呂に入っていようがいまいが、シャワーを浴びるのが習慣になっていた。今日はそうではないが、悪い夢を見ると、必ず汗まみれだからだ。
 悪い夢。
 埋められる夢。
 智影が昔、よく見るんだ、と言っていた夢。
 昔。
 昔、
 3年前を昔と言うなんて、少しおかしいような気もする。3年とは言っても、正確には2年と半年だが。
 感覚としては、酷く、遠い昔のような気がするし、ついこの間のような、気もする。
 曖昧な感覚とは別にして、時間は立ち止まることなく、3年と言う月日は何ものにも変えがたい。
 服を脱いで籠に放り込むと、後ろ手ですり硝子の扉を閉めた。
 蛇口をひねると、冷水が飛び出した。調節しているうちに、ちょうどいい温度になる。
 湯を頭からかぶりながら、掌を、見た。土などついていない。血などついていない。握って、開いて。ちらりと見えた色彩に、あわてて両手を擦り洗う。
 曇った鏡に映った顔。かつてはふたりのものだったこの顔も。今は自分ただひとりのものでしかない。
 名前を呼ぼうと、口をあけて。
 閉じた。
 懐かしむなど。
 悼むなど。
 陽汰がするべきことではないのだ。
 する権利など、何処にも、ない。ないのに。
 記憶は存在を呼び起こし、名前を口にしたがる。
 忘れてはならないと。存在を抹消してはいけないと。
 忘れてはいけない、と。
 心臓のあたりから込みあがってくる。感情。
 タイルの壁に、掌を押し付けて。
 強く、目を閉じた。


「おはよう」
 台所の扉を開けると、母親が忙しそうに朝食の支度をしていた。
「父さんは?」
 LDまで見渡した後に、問う。
「出張ですって」
 陽汰のほうを見ずに、母親はこたえた。
「そう、」
 タオルで頭を拭きながら、席について、小さく苦いわらいを浮かべた。
「母さん、ひとり分多いよ」
「え、そう?」
 ひい、ふう、みい、―――指で指しながら数えて、「ちょうどよ」言った。
 父親が仕事に行った今、家には陽汰と母親のふたりしかいない。それなのに、食卓には3人分の朝食が用意されていた。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
「警察からも、連絡、ないんでしょ」
「ないわねえ」
「そろそろ、3年、経つよ」
「そうねえ」
「智影、もう、帰ってこないんじゃないの?」
「………」
 ぴたりと、母親が動きを止めたのを、陽汰は背中越しに感じた。
「母さんの気持ちもわかるけど―――」
「ねえ、ようちゃん」
 陽汰の向かいに座って、母親がぐいと覗き込む。
「確かに、ちいちゃんは突然いなくなった。でもあの子は、家や家族を棄てるなんて絶対に出来ない子だわ」
「母さん、」
「それに、”まだ”3年よ」おどけたように微笑んで。「たった3年なの。ひょっこり帰ってきて、ご飯がないと淋しいでしょ?」

―――たった3年なの。

 それはまるで、母親自身に言い聞かせているように聞こえる。
「…うん、」
「さ、食べましょう」
 手を合わせて食事を始める母親を見ていると、言わなければならないと、闇に埋もれた良心が主張する。
 しかし。
 良心が行動のすべてになるのなら、智影が帰ってこないなんてことにはならなかった。
 良心の呵責なんて、保身と庇護の前に出れば、何の力にもならない。
「ようちゃん?」母親が、不思議そうな表情で陽汰を見ていた。「食べないの?」
 かすかにわらって首を振ると、陽汰は箸を取った。
「いただきます」


     ***


 陽汰の通う私立高校は、自宅の最寄り駅から郊外に向けて3駅ほど離れたところにある。だが、中学に通うのに30分歩いていたのと比べると、距離的には遠くても、気持ち的には近く感じた。
「おはよう兄くん」
 陽汰がホームで電車を待っていると、渚が声をかけた。朝の定例行事だった。陽汰はヘッドフォンをはずすと、ブレザーのポケットにしまった。
「おはよう」
 親しい友人のほとんどが公立高校に進学したなかで、渚だけが陽汰と同じ私立高校に進学した。
「今日も雨だねー。いつまで降るのかな」
「……まあ、梅雨、だし」
「週間天気予報でも1週間見事に傘マーク。ありえないよ」
「仕方ない仕方ない、」
 斜め上の空には、どんよりとした灰色の雲が居座っている。たまに雲越しに太陽がぼんやりと見えるが、はっきりとした姿は見せない。
「梅雨にしたって異常だよ」
「異常気象は流行りだからね」
「そんな流行り廃れの問題かな、―――あ。」
 首をかしげた渚が、小さく声を上げた。
「どうしたの?」
「神谷さん」
 渚はきょろきょろ、よく視線の回る子だと。思う。
 誰かが通り過ぎたり、気づかないようなちょっとしたことにもすぐ気がつく。
「おはよう」
 改札からの階段を上ってきた響子は、ゆったりわらって返した。「おはよう」
 響子は、陽汰と同じ方向の、ふたつ先の駅近くにある県立高校に進学した。毎年東大合格者を二桁出す学校として有名な、県でも有数の進学校。
 興味本位で入試問題を見せてもらったが、問題からして、まるで暗号のようだったと記憶している。
「何かさ、3年になって殊に思うんだけど。神谷さんって、なんだか丸くなったよね」
 響子が離れたベンチに座ったのを見て、渚がこっそり耳打ちした。
「…そう?」
「そうだよ。あたし中2のとき同じ委員会だったけど、超ポーカーフェイスで。にこりともしなかったんだよ?」
「そう、」
 確かに、響子は表情がころころ変わる人間ではないが、陽汰といるときは喜怒哀楽――怒ったところは見たことがないが――くらいは見て取れた。
「兄くんは親しかったみたいだから、別かもしれないけど。とにかくほとんど表情変えない人だったな」
「ふうん、」
 高校こそ離れたが、陽汰と響子の関係は現在進行形で進んでいた。すきだとか愛してるとかいう単語がお互いの間を行き来することはなかったが、離れられないという感覚だけは共通していた。
 ふたりの関係を知っている人間は、おそらくもう、いない。
「すきな人でも出来たのかなあ、」
 突飛な発言に、陽汰はふき出しそうになるのをすんでで抑えた。
「そりゃまた、随分と、」
「少女趣味、かなあ? でも、恋愛くらいじゃないかなーあんなに人が変わるのって」
「処世術じゃなくて?」
「むぅ、そんなこと言うんだ」
 ふくれっ面をした渚が、ふいっと顔を背けたところで、電車の到着を告げるメロディーがホームに流れた。
「そんなことより、この間の大会、準優勝だったらしいね」
「え、ああ。でも市大会だから」
 渚は小学校に上がる前から、剣道を習っていた。中学でも高校でも、剣道部に所属している。
 開いた扉から、溢れ出る人が一段落したところで、乗り込む。朝、郊外に進む電車は、中心部に進む電車よりもかなり空いているが、雨ともなると例外で。車内はいつもの倍近い乗車率。
「再来週の県大会にも出るんでしょ?」
 入り口付近の棒に寄りかかって、問う。
「一応、ね」
 うっすら眸を伏せた渚に、陽汰はそれ以上は訊かなかった。
 景色は住宅街から、少しずつ緑が多くなる。たかが3駅とはいえ、移動は市をまたぎ、高校に入ったばかりのころは物珍しい気持ちで外を眺めていた。それも今となっては、見慣れた景色でしかない。
「兄くんは、どう? 最後の展覧会、近いんでしょ?」
「え、ああ。でも、僕は推薦希望だし。秋の総文も出そうかなって思ってるから、最後、でもないかな」
「へえ。そっか。推薦かあ、」
 硝子に手を当てたまま、渚が呟く。外気との温度差か、それとも湿気か。掌の形に硝子が曇る。
「…なに?」
「いーえぇ。なんていうか、余裕だねぇ」
「そうかな、」
「そうだよ。あたし、偏差値こそ低いけど、公立志望だから。まだまだまだまだこれから。センターもあるし、二次もある」
「でも、それを選んだのは柏木自身なんだろ?」
 神妙な顔で陽汰を見上げて、ため息をつく。
「そう、なんだよねー…」
 会話はそこで途切れて。誰かの話し声と、電車の揺れる音が四角い空間のなかを行き来する。窓には急角度の雨の跡がついては流れ、流れてはついて。
 ふたつ目の駅で、発車した電車の硝子越しに、響子と、ちらりと目が合った。小さく指を振ってこたえる。
 渚は背中を向けていて、気づいていないようだった。
 3つ目の駅で電車を降りて、改札を抜ける。そこここに同じ高校の生徒が目立つ。
「じゃあ、あたしちょっと寄るところあるから」
「あ、うん。一緒に行こうか?」
「いいよいいよ。先行っててよ。じゃあ、また。」
 軽く手を振って、こたえて。ひとりで学校までの道を歩く。
 傘は毎日毎日雨に濡れている。雨が降っているから足り前なのだが、骨が錆びないかしらと母親が心配していた。
「ツッキー!」
 背後から高校3年とは思えない快活な声がかかる。
「………おはよう」
 顔だけ振り返って応じる。
「ツッキー素っ気ないよ!」
 素っ頓狂な声で。慣れるのには少しばかり時間がかかった。声に、というより、周囲の反応に、だが。
「いや、うん。それは認めるけど」
 背後からぐるりと、陽汰の前に回りこんだのは、同じクラスの砂倉慶介だった。変り種の多い私立文系クラスのなかでも、1、2を争う個性の持ち主。
「ねえねえ、今日の英文の訳やってきた?」
「…見たいんだろ?」
「うわ、ナニ? ツッキー、もしかしてエスパー?」
 オーバーリアクションもいつものこと。
「毎度のこと。」
「まるで俺がたかってるみたいな言いかたしちゃイヤー」
 じゃあ何だ、と言おうとしたが、辞めた。いい加減でだらしないが、コレはコレでなかなか人間としてはいいやつなのだ。
「見せてもいいけど、”ツッキー”って呼ぶの辞めてよ」
「えー。ツッキーはツッキーじゃん」
 左耳のイヤーカフスを引っ張りながら、まるで当たり前のことを何言ってんの、というようなノリで言う。私立なのに、否、私立だからか、ピアスも髪の染脱色も特に禁止されていない。”自由な校風”がウリな学校。
「いや、そりゃそうだけど」言って、「違うよ」訂正する。「そうじゃない。ツッキーじゃないって」
「調川陽汰。で、愛称がツッキー。全然普通だと思うけどなー」
「ネーミングセンスの問題だね…」
「んじゃ、”ようちゃん”って呼ぶ?」
「いや、いい」
 うっすら鳥肌がたった。
 高校での友人の大多数が、陽汰が双子であることを知らない。それは、智影が中学卒業前にいなくなったことと、同校出身者が渚しかいないということに大きく起因する。
 中学では、呼び分ける意味もあって、ほとんどの友人に名前で呼ばれていたが、高校では苗字で呼ばれることがほとんどだった。
「おはよう、」
「おはようツッキー」
「ツッキーおはよーぅ」
 だが、教室に入って、呼びかけられる名前は”ツッキー”が多い。慶介の影響であることは間違いない。みんながみんな面白がっている、というのもあるだろうが。
「………オハヨウ」
 いちいち訂正するのも面倒くさくて、陽汰は席に着いた。
「ツッキー、ノートぷりーず」
 両掌を揃えて差し出す慶介に、諦めた表情で鞄の中から出したリーダーのノートを渡す。
「サンキュー。すぐコピってくるから待っててね」
 慶介本人は可愛らしく言っているつもりだろうが、そうは見えない。曖昧にわらっておいて、陽汰はやり過ごした。
 ざわめく教室。始業15分前だが、教室にはまだずいぶんと空席が目立つ。5分をきらないと埋まらないのがほとんど。時間にルーズと言うわけではないのだろうが。このクラスには5分前行動はあっても、10分前行動など存在しない。
 コミュニケーションを切断するために、陽汰は机に突っ伏した。こうしていれば、たいていの人間は声をかけたりすることはしない。
 3年。
 “たった”3年。なのか。
 それとも。
 “もう” 3年。なのか。
 その判断は、陽汰には出来なかった。
 少なくとも、法律の上では、”たった”3年に、なるのだろうけれど。
 目を閉じると、闇があった。闇の中を探ると、周りの音が遠のく。うっすら空調のきいた教室に、人工ではない冷気が混じりこんだような。
 錯覚だとわかっているのに。
 幻覚だとわかっているのに。
 感じる。確かに。存在しているように。
 感触。手ごたえ。音。声。視覚の情報。
 智影は”いなくなった”。
 はじめ、誰もが疑問を抱かなかった。ちょうど冬休みに入るころだったのもあったし、智影はふらりと何処かに行ってしまうような人間だった。ふらりと何処かに言って、ふらりと帰ってくる。
 智影はいなくなった。
 母親も、父親も。渚も。智影を知る、すべての――当たり前だが陽汰と響子は除外して――人間が。
 誰も智影が死んだなんて思っていない。何処かで生きていると思っている。信じている。
 組んだ腕を解いて、掌を見る。
 汚れた、掌。
 土と血に。汚れて。とれない。
 3年間。響子とも、智影の話はしなかった。
 響子の部屋で、汚れた学生服を洗い、シャワーを浴びて。見た目は綺麗になったのに。見えない汚れは、取れない。
 シャワーを浴びて、学生服が洗濯機のなかで回っているのを見ても、現実味がなかった。なだれ込むように響子を抱いても、快楽には中身がなかった。すべてが、すべてでもって。陽汰からかけがえのない、何モノにも変えがたいに何かを。
 攫っていってしまった。
 高校に進学して、周りが智影の存在自体を知らない人間が増えて。それがせめてもの救いだった。同校出身者は渚だけで、渚は学校では陽汰のことを苗字で呼ぶ。陽汰が喋らなければ、智影の存在は誰にも知られることはない。
「調川」
 顔を上げると、慶介だった。
「ノートサンキュー。愛してるぜっ」
「、どうも」
 笑顔に笑顔で応答。立ち去らない慶介に、陽汰が首をかしげたところで、チャイムが鳴った。
「…座らないと」
「……。あ。うん。だな」
「どうしたの、」
「いや、なんでもないよん」
 ぼうっとしたような表情は一瞬で、へらりとわらって慶介は自分の席に戻っていった。
 その後姿を見ながら、陽汰は何かが首筋を過ぎるのを感じた。


     ***


 3時間目が終わったところで、下校を告げる放送が流れた。
 大雨洪水警報が発令されて、高台のほうで崖崩れが起こったとか。授業中にも、何度か雨が硝子を叩き付けて驚きの声が上がっていた。
 ”帰りたいモード”全開だったクラスメイトは歓声を上げた。陽汰はノートを閉じると、首を回した。こんな雨の強いなかで帰れと言われても、びしょ濡れになるのは必至。喜びよりも憂鬱が勝っていた。
 担任が足早に教室に入ってきたが、クラスメイトは騒ぎをやめない。担任が何度か出席簿で教卓を叩いて、ようやく静かになった。
「さっき放送で言ったとおり。各自気をつけて。この調子で行くと電車止まるからな。くれぐれも寄り道とかしないように。明日の始業は各自生徒手帳で確認して、天気予報をよく観ろよ。以上、解散」
 解散、と言い終わらないうちに、一部の生徒は話しはじめ席を立ち始めた。担任は何も言わないで、教室を出て行った。
 私立文系クラスは無法地帯に近い。基本的に”勉強なんて嫌い”という人間が集まるからかもしれない。荷物を鞄にしまって、窓のほうを見たら、ちょうど雨が硝子をたたきつけるところだった。
 帰る気が萎えた。
 こんな雨の日に傘なんて何の意味もなさない。
 凄い勢いで教室の人口密度が下がっていく。
「あれ、ツッキー帰んないの?」
「………」
「おーい、ツッキー?」
 顔の前で掌を振られて、ようやく陽汰は慶介に気づいた。
「え、あ、何?」
「帰んないの?」
「あー…うん。ちょっと様子見てからにしようかと」
「様子見ても、たぶん雨止まないと思うけど」
「少しくらい弱くならないかなってね。雨脚」
 外を指差すと、再び雨が硝子を叩いた。
「………。待つだけ無駄な気がするのは俺だけ?」
「………。いや、僕も無駄な気がひしひしとするよ」
「でも帰んないんだ、」
「いやに絡むね」
「良心的な絡みだけどね。心配してるんだよ、よ・う・ちゃん」
「”ようちゃん”とか、」
 両腕をさすると、慶介はきしし、とわらった。
「ま。なんにしろ、さっさと帰んないと、締め出し喰らうとすばり予言するね!」
「……予言って言うか、そりゃ、閉めるだろうね」
「………タンマ。俺、ちょっちトイレ行ってくるわ」
 陽汰に鞄を押し付けて、慶介はすっかり人気のなくなった教室を出て行った。
「で、自分は帰らないわけ…?」
 誰もいなくなった教室で、慶介の鞄を持ったまま、誰にでもなく、陽汰は呟いた。
 雨は止む気配どころか弱くなる気配もない。どれだけ待とうとも無駄な気がする。かといって、ずっと残っているわけにもいかなかった。教師が全員帰れば、センサーが作動する。そうなれば、教室から出ることが出来なくなるからだ。
 否、出ることは出来るが、センサーが反応して、警備会社に連絡が行き、騒ぎになることは必至。大目玉を喰らうことも必至。推薦入試を控えた陽汰には不都合極まりない。
 とりあえず、他のクラスの生徒はまだ残っているようだし、後1時間くらいならば問題ないだろう。
「響子のところも、こんな感じかな」
 ぽつりと、呟く。
 響子の通う県立彩北高校は距離的には数キロほどの距離にある。
 私立と県立だが、きっとこういうときの対応は同じに違いない。
 メールしてみようかな、と携帯を取り出したところで、慶介が戻ってきた。反射的に、握りこんで隠した。が、いくら携帯電話とはいえ、さすがに掌に隠れるわけもなく。
「ん、どうかした? オヤに連絡?」
 あっさりと見つかった。
「え、いや…」言って、気づく。別に、何を後ろめることがあるわけでもないということに。
「まあ、ね」
「ふうん」かすかに首をかしげた慶介は、陽汰を通り越して窓に近寄って、庇の上を覗き込んだ。「全然豪雨だもんな。俺も電話しよっかなー。迎えに来てママー、てなもんで」
 振り返った慶介は、片目を歪めるようにわらっていて。
―――ィン、
 陽汰は、記憶が瞬く音を、聞いた。
「………」
 慶介の鞄の、生地を握り締める。
「うん? どうかした?」
「………」
「ツッキー?」
「……あ、ごめん」
「さっきから何だよぼーっとして。ツッキーらしいっていうからしくないっていうか。とりあえず、変だぞ」
「あ、あー、そんなことないよ。確かに、ちょっと疲れてる…かな、」
「それこそさっさと帰って休んだほうがいいんじゃないの?」
「うん、そうだね。そうする」
 慶介に鞄を渡すと、陽汰は立ち上がった。
「電車だろ? 駅まで一緒に―――」
「ごめん。ちょっと、行くところがあるんだ」
「…そか。んじゃ仕方ない。またな、ツッキー」
 ひらひら手を振りながら、慶介はさっさと教室を出て行った。
 忙しなく、視線が泳ぐのは、動揺しているからだ。
 振り返った、慶介の表情。
 何の気ないモノに違いない。
 だけど。
 でも。
 一瞬。ダブった。
 埋めた、少年の、顔と。
 5年前、響子が殺して、陽汰が埋めた少年の。顔。
「……まさか、」
 陽汰自身、聞き取れるか否かの声で。
 繋がるわけなんて、ないのに。
「莫迦だな、僕」
 わらって。気持ちを押し込めて。
 携帯を握りこんだ掌に、力をこめた。
 きし、と。携帯が泣いた。


     ***


 学校を出て、駅までの道を歩く。雨は相変わらず土砂降りだったが、風は収まり、横殴りではないので足元が濡れるだけですんでいる。
 生徒はちらほらとしか見当たらなかった。ほとんどが帰ってしまったのだろう。時計を見ると、解散を言い渡されてから既に2時間が経っていた。思いのほか、時間が経っていた。
 慶介が帰った後。ひとりになった教室で。
 陽汰はずっと考えていた。
 何故、慶介と少年の顔がダブったのか。
 少年について、陽汰は何も知らない。ただ、保護者が捜索願を出したのは”失踪”してから数ヶ月が経ってから、と言うことを除いて。
 少年のバックグラウンド―――名前。年齢。住所。家族構成。何も知らない。知ろうとも思わなかった。行動を起こすどころか興味すらなかった。
 彼がどんな人間であるのか。どんな表情をして、どんな声で話すのか。
 陽汰は何も知らない。
 それがどうして、慶介に繋がるのかも。
 人がひとり死んだのに。
 その死を悼むことさえ、陽汰はしなかった。ただただ、行為を、自分の罪が露見することばかりを恐れて。
 愚かだと、今になってはそう思う。だが、そのときはそうはいかなかった。すべてがいっぱいいっぱいで、頭が回らなくて。
 響子がいなければ、どうなっていたかわからない。
「響子、」
 世界でただ唯一。陽汰の犯したすべてを知っている人間。そして、世界でただ唯一。陽汰は彼女の犯したすべてを知っている。
 ズボンのポケットから、携帯を取り出す。
 するとその途端、着信を告げるバイブ。サブディスプレイには、”着信:響子”の文字。
 迷うことなく、通話ボタンを押した。
「もしもし、」


 エントランスのインターフォンに部屋番号を入力し、呼び出しボタンを押した。
 赤いランプが“呼び出しボタンを押してください”から、”相手先が出ましたらお話ください”に切り替わる。
「やあ、」
 黒い硝子の向こうのレンズに言うと、大仰な自動ドアが開いた。
 がちゃりと、回線の切れる音。
 陽汰が通ると、自動ドアはすぐに閉まった。
 エレベーターの昇降ボタンを押すと、ちょうど1階にいたらしく、すぐに開いた。7階を押して、壁に寄りかかる。
 機械音と引き上げられる感覚。目を閉じると、それをより強く感じる。
 エレベーターをでて、廊下を奥に進む。響子の部屋は突き当たりにある。
 つと外を見ると、雨脚は少し弱まっていたが再び風が出てきていた。止む気配はない。
「止まないな。」
 呟いたが、特になんとも思わなかった。異常なほどの長雨だとはいえ、梅雨時期に雨が降るのは当たり前のことだ。
 響子の部屋の前に立つと、タイミングよくドアが開いた。
「……」
 薄い青のシャツと、グレーのスカートを身につけた響子は、何も言わずに、身を引いた。その隙間に入るように、玄関に入る。閉まるままに任せて扉が閉めた。
 傘を立てかけ、靴を脱いで、後についていく。響子は何も言わなかった。
「響子、」
 居間のソファに座って、マグカップに入った紅茶が出されたところで、陽汰は口を開いた。
「なあに、」
 マグカップを両の手で持ってすすりながら、こたえる。
「……」手に持ったマグカップの、琥珀色の水面に視線を落とす。天井のライトが映りこんでいて、埃なのか何か点が浮かんでいる。「僕に教えたいことって、何?」
 つと顔を上げて、首をかしげる。
「あら、早速本題に入るのね」
「…うん、」
「そう、ねえ。もったいぶっても仕方ないものね。―――ひとつちょっと、興味深いことがわかったの。だから陽汰にも、教えてあげようと思って」
「興味深いこと?」
 響子はあごに指を添えて、薄く唇を開く。上のほうを見ていた眸は、徐々に伏せられて。
「陽汰の通っている高校、邑彩館、だったわよね」
「そうだよ」
「そこの3年に、サクラ、ていう男の子が、いるのを知っているかしら」
「サクラ…?」
「そう、砂の倉と書いて、”砂倉”」
 砂倉―――砂倉慶介。
「、知ってるも何も、クラスメイトだよ。砂倉慶介。今日もノートを貸した」
 言うと、響子は少しだけ、目を見開いて。
「愕いた。偶然って重なるものなのね」
 くすくす、わらいだした。
「…、どういうこと? 砂倉が、」
「もう5年近く前になるのかしら。埋めた人のこと、覚えてる?」
 なんでもない昔話をするように、響子は言う。
 すべての、原点になった。あの出来事。
「……、覚えてるよ、」
 記憶は、大事なことでさえ面白いように簡単に削除していくのに。消えないものは永遠とでも言うかのように居座り続ける。
 金髪。
 ちらりと前歯が覗いた口元。
 黒ずんだ肌色。
 歪んで、何も映っていない、硝子玉のような眸。
 徐々に土に隠れて、黒に侵食されていく躰。
「あの人の身元がね、1年位前かしら、やっとわかったみたいなの」
「…そんなニュース、聞いたことない」
 前ほどではないが、ニュースも新聞もずっとチェックし続けていた。しかし、あの事件は世間の喧騒に紛れて、もう誰の記憶からも消えて、見向きもしなかった。
「でしょうね。ネットのニュースサイトで、過去のログを遡っているときに、偶然見つけたの。ほんの数行の短い記事だったわ。新聞でもテレビでも扱ってはいないみたいだけど」
「もしかして、その人が―――」
「そう、砂倉っていうの。砂倉智久。その、陽汰のクラスメイトだっていう”砂倉”くんの、お兄さん。生きてたら、20歳になるらしいわ。私たちよりふたつ上だったのね」
「砂倉、智久」
 名前。罪に、さらに何かが付加したような。
 陽汰のことを”ツッキー”と呼ぶあのクラスメイトの、兄。点でしかなかった過去に、現在が。繋がる。点と点が繋がって、線になる。そして。ついさっきのことにも。
 説明が、つく。
「でも、そんな、数行の記事でどうしてそこまで―――」
「砂倉なんて苗字、珍しいもの。たどるのはずいぶんと簡単だったわ」
「………」
 俯いて黙り込んでしまった陽汰に、他人事のように、響子が言う。
「世間って狭いのね」
「怖く、ないの?」
 顔を上げて、響子を見る。彼女はいつもどおりの涼しい表情で。
「なにが?」
「繋がっていることだよ。過去が、現在に繋がって。一度は回避したことを、また目の前に突きつけられるかもしれない」
「怖くなんてないわ。だって、簡単なことじゃない」
 さらりと、響子。
「繰り返すだけだもの」
「繰り返す…?」
「そう。贖宥を望むのなら、繰り返さないといけないわ。繰り返すことを辞めた時点で、そこには贖罪しかないのよ」
「………」
「そして、陽汰が選んだのは、贖宥」
 何も、言えなかった。響子の言う通りだから。双子の弟を排陥してまで。陽汰が選んだのは贖宥。それなのだから。
 “怖い”なんていうこと自体が、間違っているのかも、しれない。そんなことをいう資格など、ないのに。怖がるくらいならば、はじめからしなければ良かったのに。引き返せばよかったのに。それをしなかったのは陽汰自身。
「ねえ、陽汰」
 マグカップをテーブルにおいて、陽汰のそばに移動した響子が。やさしく、語り掛ける。
「陽汰は、決して、間違っているわけではないのよ」
 縋るような眸で、響子を見た陽汰の表情は。3年前に怖いと言った、美術室での表情と同じ。
 陽汰の頭を、両腕でやさしく包み込んで。ささやく。
「陽汰は、ただ自分を護っているだけなの。それだけじゃないわ。陽汰は、私も護ってくれている。間違ってなんていないの」
 響子の腕に、触れる。薄いシャツの向こうに、確かな、肉感。温かさ。大事な何かを犠牲にして得た、存在。
 記憶のなかの虚像ではない。
 過去のように、触れられないものではない。
 響子は、確かに此処に存在している。
 響子は、陽汰のそばにいる。
「響子、」
 呼ぶと、抱きしめる力が少しだけ強くなった。
 温かさは、嘘ではない。贋物ではない。
 護るべきもの。護らなければならないもの。
「大丈夫、だよ」触れた掌を。「僕は、大丈夫」握り締める。「わかってるよ」
 僕は、響子を護る。


     ***


 陽汰が家に帰り着いたのは、4時を過ぎたころだった。
「おかえり、ようちゃん」
 LDでテレビを観ながら洗濯物をたたんでいた母親が、振り返って声をかけた。
「ただいま」
「あら、何、凄い濡れてるじゃないの」
 母親はたたんで置いてあったタオルを一枚取ると、慌てて立ち上がった。
「え、ああ、うん」
「傘持ってたでしょ? ささなかったの?」
 陽汰よりも頭ひとつ分身長の低い母親は、見上げて言いながら、陽汰の頭をタオルでぬぐう。陽汰は、やんわりとその手を退けた。
「あー…うん。濡れたい気分だったんだよ」
「まあ、カッコいいこと言っちゃって」
 おどけたようにわらう母親は、陽汰のことばをそのまま受け取ったようだった。
「着替えてくる」
「ついでにシャワー浴びて来なさい。この時期だからって、ナメてると風邪ひいちゃうから」
「わかった、」
「うん、」
 にっこりわらった母親の後ろで、ひかりが瞬いた。間髪なく、轟音がとどろく。
「ひゃあっ」
「……雷、近いね」
「ふー。ホントにね。雨だけならともかく、風と雷は厄介ねえ」
 胸をなでおろしながら背後を振り返り、母親が言う。そのままそろそろと窓に近寄って、空を見上げると、また雷が落ちた。
「ひゃああっ」
 面白いな、と陽汰は思った。とても50前とは思えないリアクションだ。
 母親は視線に気がついたのか、陽汰のほうを振り返り、不機嫌そうな表情をした。どうやらわらっていたらしい。
 視線を天井あたりにそらして、咳払いをすると、陽汰はそそくさとLDを出た。


 出張だと言っていた父親は、0時を少し過ぎたころに帰ってきた。
 LDでテレビを見ていた陽汰は、振り返って声をかける。
「おかえり」
「ああ、ただいま。母さんは?」
「お風呂。出張だったんだって? 今日は何処行ってたの?」
 父親の勤める会社には全国に支社があり、本社の管理職である父親は、しばしば”研修”と称して地方に出張に赴く。
「ああ、ちょっとな」
「…そう、」
 ことばを濁されても、特に追求はしなかった。
 父親が冷蔵庫を開けて、缶ビールを開ける音が、聞こえる。
 バスタオルをかぶって、Tシャツとジャージの寝巻きで。陽汰はその音に耳を済ませる。
 父親が仕事で地方に行っているのではないことは薄々感じていた。だったら一体何をしに一日潰して行っているのか、陽汰は知らない。聞いたこともない。ただ、地方に出向いている、と言うことだけは確かだった。
「あら、おかえりなさい」
 LDに入ってきた母親が声をかける。
「ああ、ただいま」
「疲れたでしょ? どうだった?」
「…どうにもこうにも。いつもどおり、だな」
「あら、そう」
 軽い会話。牽制しあっているのか。どうなのか。
 母親だって気づいているはずだ。父親が仕事で遠出するのではないと言うことに。それなのに、陽汰は両親が喧嘩はもとより、口論しているところなど、ここ数年見たことがない。かといって、冷戦状態なのかと言えば、決してそんなことはないのだ。
「ようちゃん、」
「なに?」
「母さんそろそろ寝るし、お父さんも寝るって言うから。ちゃんとテレビ消して、布団で寝なさいよ」
「うん、わかった」
「おやすみ」
 にっこりわらった母親の顔。しかし何処か、曇っているようにも。見える。
「……、」
「どうかした?」
 母親を見つめる陽汰に、不思議そうに言う。開きかけた口を、閉じて。当たり障りのない台詞を吐いた。
「なんでもないよ。おやすみなさい」
 わらって、陽汰が言うと、母親は父親と一緒にLDを出て行った。
 首の辺りがそわそわ、撫ですぎるような気が、した。
 ソファに座りなおして、テレビを眺める。
 感覚。今朝、慶介との会話の後に感じたものと、似ている。
 砂倉慶介。
 砂倉智久。
 兄弟。
 身元不明で見つかった死体。1年前に身元がわかったと言う。
 慶介はどう思ったのだろうか。兄が、白骨死体という尋常ではない死体で見つかったことを。
 兄の死を、哀しんだだろうか。悼んだだろうか。
 平静でいられらなかっただろうか。
 動揺しただろうか。
 それとも、素直に受け入れただろうか。
 1年前と言えば、既に陽汰は慶介と知り合っていた。しかし慶介は、陽汰が見る限り何の変化もなかった。
 陽汰が、何も見ていなかったのだろうか。何にも、気づかなかっただけなのだろうか。
 確かめることなど、陽汰には出来ない。聞くことなんて出来ない。触れてはいけない、そんな気がした。決して侵入してはいけない不可侵の領域。
 深夜の、つまらないバラエティー番組。クラスで面白いと話題になっているが、どんなに面白くても話題になっていても、所詮は深夜番組だ。ゴールデンで通用しないからこんな時間に放送枠が取ってあるに他ならない。それが、陽汰の持論。
 考え事をしていると、テレビなんてほとんど頭に入らない。それでもつけているのは、いつでも現実に戻れるようにと言う、一種保険なのかもしれない。
 耳を澄ますと、さあさあ、雨の音が聞こえる。
 雨が降る音を、ザーザーと表現するように、雪の降る音をしんしん、と表現するが、本当にそんな音がするのだろうかと、幼いころに智影と一緒に確かめたことがある。
 地面に耳をつけて、躰が半分雪に埋もれるのにも気づかないくらいじっと耳を澄ましていたが、結局音らしい音を聞き取ることは出来なかった。
 雨の音ならば、室内でも耳を澄ませばすぐそこのように聞こえるのに。
 バラエティー番組が終わって、時間つなぎの、数分間のニュースが始まる。
 いつもは、全国区の主なニュースがほとんどなのに、今日は珍しく陽汰の住む町のことが報道されていた。
 1週間以上続く長雨で、地盤が緩み、高台の団地や住宅街などで崖崩れが多発していること、T川は過去に例を見ないほどに増水し、ついに決壊したこと。
「そりゃ、川も決壊するよね」
 近くに住んでいる人はいろいろ大変なんだろうな、思ったところで、ハタと。思考が停止する。
 T川が、決壊した。
 拡張工事が行われた川。
 雑木林の、あの広場は、川の流れが聞こえるほどの距離しかない。
 水は土を溶かして流して。
 埋めたものが。
 埋めたものは。
 地表に、現れる。
 カーテンの向こうで、光が瞬いて。
 逆光になった、テレビの。ブラウン管の中で。
 アナウンサーは、平然と、原稿を読み上げた。
『また、T川のすぐそばの雑木林から、白骨化した死体が発見されました』