花葬


点→線

 いつの間にか。ニュースは終わっていた。
 ブラウン管には、カラーバーが映っている。
―――T川のすぐそばの雑木林から、白骨化した死体が発見されました。
 アナウンサーは、なんでもないことのように。なんでもないニュースを、読んでいるだけなのに。
 雑木林から白骨死体が発見された。
 だが、それが智影のものかと言えば、もしかしたら、そうではないかもしれない。
 違う。違う。違う。
 違うと、―――願う。
 それは、ごくごく、限りなく、低い可能性。白骨死体が智影のものであると言うのは、ごくごく、限りなく、高い可能性。
 可能性でしかない。
 どちらも。
 もしかしたら、誰かが。陽汰以外の誰かが、誰かを雑木林に埋めたのかもしれない。人気も人目も少ない場所だから、考えられないわけではない。
 そう。白骨死体が智影であるというのは、あくまでも可能性でしかないのだ。
 そう、ただの、可能性。
 身元のわからない今はすべてはただの可能性でしかない。
 テレビを消すと、頭にかぶったタオルに触れた。髪はすっかり乾いていた。


 一睡も出来ないまま夜を明かした陽汰は、翌日の新聞が来るとすぐにすべてに目を通した。
 地方紙だからか、白骨死体の発見は、割りと大き目の記事として、社会面に載っていた。
『H県紅灯市T川沿いの雑木林から、男性のものと見られる身元不明の死体が発見された。死体はほぼ完全に白骨化しており、少なくとも、死後2年は経過していると見られる。また、T川では5年前にも白骨化した死体が発見されており、関連性を唱える見方もある―――』
 5年前。
 砂倉智久。
 死後2年は経った白骨死体。
 関連性。
 関連。
 記事の一文字一文字から。目が離せない。口元が、小刻みに震える。”可能性”と”事実”と言う文字が、頭のなかで明滅する。
「あら、ようちゃん早いのね」
 声をかけられて、陽汰は顔をあげた。そこで、はじめて時間に気づく。いつの間にか、6時半を過ぎていた。
「え、あ…うん。なんか眠れなくって」
「そう。―――あら、”白骨死体”? ……何年か前にも、似たようなことがあったわよね。物騒な世の中ね」
「母さん、」
「、なに?」
「これ、」言うな。言ったら。何が起きるか。「これ、智影―――」
「ようちゃん」
 陽汰の台詞をさえぎって。母親が。
 普段は決して見せない表情で、陽汰を見ていた。「冗談でも、そんなこと言うもんじゃないわ」
「…可能性の、話だよ」
「可能性でも同じよ」
 ぴしゃりと言い放って。
「………」
 陽汰はそれ以上、何も言えなかった。
 新聞を閉じることも出来ないまま、父親がそれをとっても、気づかずに。
「遅刻するわよ」
 声に、ハタと我に返って。乾ききった眸を閉じると、じわりと痛かった。


 可能性でしかないと自身に言い聞かせながら、最悪の事態―――事の露見を恐れる自分がいる。
 誰に見つかったわけではない。個人に見つかったのではない。事は公になった。それだけは、確かな事実。少年―――砂倉智久のときには、捜査の手は陽汰や響子どころか智影にすら届かなかった。あのときは、見つかったのが雑木林ではなかったから、だから何事もなかったのかもしれない。しかし、砂倉智久が土に埋まっていたと言うことは、きっとすぐにわかったはずだ。それなのに、河川一帯は特に立ち入りが規制されることもなかった。
 今回は、どうだろうか。
 白骨死体は雑木林の地面が崩れたことによって発見された。死体は通常土のなかでは3年かかって完全な白骨になると言う。3年には、まだ半年足りない。ということは、まだ、骨以外の何かも残っているのだろうか。記事には、”完全に白骨化して”と書かれていた。しかし、実際には、わからない。
 身元不明の白骨死体が”誰か”にたどり着くのに、そう時間はかからないだろう。
 誰か。
 智影。
 習慣のように傘を持って玄関の引き戸を開けると、久しぶりに空が見えた。
 水彩絵の具を何十にも重ねて、塗りたくったような空。
 彩度は高いし、透明度も高いのに。何処か、重苦しい。
 傘を扉の横に立てかけると、足早に門を出た。


     ***


 耳慣れない音が。した。
 自分のあげた悲鳴に似た声にかぶさって。それは確かに。陽汰の耳に届いた。
 そして掌には。確かな感触。
 硬い、柔らかい―――卵を、割ったような。感触。
 力なく倒れた、自分と同じ顔の。弟。
 まるで、自分自身を見ているかのような、錯覚。
「……、…、………」
 口を開いても、出てくるのは息ばかりで。音は何処かに行ってしまったよう。
 動かなくなった智影の。耳から、粘り気のありそうな、どす黒い血液がゆるゆるあふれ出してくる。
 今まで一度も目にしたことのない、鮮やかではない血液。
 視線をおろすと、陽汰の手には、血のついたシャベル。手にも、学生服にも、きっと、顔にも。
 智影の血液が。ついている。
 かくん、と膝を折る。足が急に、言うことをきかなくなったように、力が入らない。
 シャベルにつかまって、ようやっと、上半身までもが倒れるのを防ぐ。柄の、荒い木目に触れる手が、震える。骨の軋むような音が、耳の奥から聞こえる。
「……、………ち、ちか、げ……」
 無様なほどに裏返った声。
「ちかげ、」
 バランスを崩して、シャベルが倒れた。一緒になって、陽汰も地面に頬を擦る。
 すぐ目の前の、厚手の生地。智影の着ているコートの。黒。黒から伸びた、空を向いた掌。髪に隠れて見えない眸は、きっともう何も見ていない。何も見ることが出来ない。
「智影、智影、ちかげっ」
 手探りで触れる、智影の躰は、人のものとは思えないほど力なく、ところどころ妙な感触。
「…僕、ぼ、ぼく……」顔に触れようと、手を伸ばした。「ち―――」
 学生服のズボンのポケットに入れている携帯が、突然震えだした。
 触れようと伸ばした手を、所在無く引っ込めて、携帯を取り出す。メールの着信。差出人は、響子。すぐそこに居るはずの、彼女。
 開いて、震える指で、受信メールを開く。押したボタンに、ぺたりぺたり、赤い指紋が残る。
『メリークリスマス』
 メールにはヒトコト。簡素な文句。
 画面の上部の日付表示には。
『12.25 17:14』
 メリークリスマス。
 顔を上げると、響子が。わらっていて。その手には、携帯電話。
 響子の笑顔は、今まで何度も見たことがあるはずなのに。記憶のなかのどれよりも、綺麗で。携帯の文字は、ただありのままに、今日と言う日を表していて。手を動かせばすぐ触れるその位置には、動かなくなった智影が。いる。
 そのどれもが。おかしいのに。
 ひとつになってはいけないのに。
 同じ時間軸に。同じ刹那に瞬間に。
 存在していた。
「それで……て、兄くん?」
「…うん、それで?」
 覗きこむ渚に、陽汰はなんでもない表情を向ける。
「なに? ちゃんと聞いてたの?」
「聞いてたよ」
「ぼぅっとしてるように見えたけど」
「気のせい気のせい」
 通学電車のなかで。久々に晴れたせいか、電車の乗車率は低い。
 どんな事件が起こっても、それが”事件”である以上、世界は何も変わらない。テロが起こった、核実験だ―――だからと言って、学校が休みになるわけではないし、社会が停止するわけでもない。
 何モノも、止まらないまま、流れていくだけ消えていくだけ。
「じゃあ、さっき言ってたことを要約すると?」
「………。もうすぐ試験だね」
「………。うそつき。やっぱり聞いてない」
 久しぶりに座れた電車。背後から差し込むひかり。緩やかに効いている、車内の空調。
 陽汰を取り巻く世界は、たいした変化など見せない。
「兄くんってさ、すきな人とか、いるの?」
「…それは、どういう意味のすき?」
「恋愛感情で、て言う意味で」
「……、コメントは控えさせていただきます」
 口の前、指で”×”を作る。
「…あ、そ。そういうコト」
 すねたような表情で。渚は陽汰とは反対側に躰をひねって、外を見た。緑が濃く、これから足早に夏に近づいていくのだと感じさせる。
「神谷さんと付き合ってる、」
 陽汰のほうを見もせずに、言う。
「………」
 渚がちらりと、陽汰を見て。
「そういうときは、なんか気の利いたこと言うもんなんだよ」
「どういう意味?」
「…さあ?」
 それ以上、渚は口を開かなかった。


 学校についてから、慶介に捕まらないうちに、屋上に向かう。
 いくら校風に”自由”を謳っているからといって、何もかもがオールオッケーと言うわけではない。
 朝の屋上には、誰もいなかった。
 扉から見えない位置に移動してから、携帯を開く。メモリから響子の名前を呼び出して、着信を選択した。
『なあに?』
 2回のコール音のあと、聴きなれた声が聞こえた。
「あ、響子?」
『どうかしたの?』
「…あ、あの…」
『ニュースのこと?』
 見透かしたように。響子は言う。
「………」
『あら、図星なの』
「…あのさ、」
『何も怖がることなんかないわ。3年も前のことよ。誰も気づかないし、ましてや陽汰にたどり着くわけがないじゃない』
「でも、」
『”でも”、なに?』
「……なんでもない、」
『そう。良かったら今日帰りにうちに来ない? 陽汰の顔が見たいわ』
「うん。わかった」
『じゃあ、また後でね』
 回線の切れる音がして。
 鼓膜に突き刺さるような、機械的な音。
 その音を何度か聞いてから、電源ボタンを押した。
「響子、」
「先生に言いつけちゃうぞー」
 反射的に振り向くと、口に手を添えて、慶介が立っていた。
「――あ、何だよ、吃驚させないでよ」
「”吃驚”」
「で、なに?」
「いぃやぁ。ねえ、ツッキー」
 にたりとわらった慶介の顔。携帯を閉じてしまうと、慶介のほうに躰を向けて、腕を広げる。
「…なに?」
「さっきの、彼女?」
 小指を立てながら言う。今どき誰がそんなことをするだろうと言うような。しかしサマになっている。
「え…あ、どうして?」
「キョウコって。そんな名前の男はいないっしょ」
「ああ、そんな感じかな」
「へぇー。ツッキーもスミに置けないなー」
「そんなことないよ」
「すっごい美人なんだろうな」
「そんなこと、」
「謙遜しちゃってー。写メとかないの? 写メ写メ」
「…ぁ、」
 何を言ったらいいのかわからなくて、苦笑いをして。口を開いては、閉じて。
「ツッキー?」
 2、3メートル離れたまま。慶介はわらっていて。
 陽汰が何も言えずに俯くと、始業を告げるチャイムが鳴った。
「あ。」
 ぽっかり口をあけて、慶介。「始まっちゃうじゃん。一時間目は葛城さんだよツッキー」
「…あ、うん。行こう」


 黒。
 黒。
 違う、黒じゃない。
 これは、闇。

 寝返りを打つと、硬い枕の生地が髪に擦れて音がした。
 目を開けると、くすんだ白いカーテンが揺れている。
 柱にかけてある時計を見ると、まだ30分も経っていないことがわかった。
 素行の良い陽汰が、保健室で休ませてもらうことは容易い。これが慶介だったら、きっとこんなにすんなりとはいかないだろう。
 慶介。砂倉慶介。
 考えるのは、そのことばかり。
 浮かぶのは、闇に喰われていくふたつの躰ばかり。
 忘れたい。消したい。
 なのに、忘れないし、記憶は消えない。
 掌。
 皮膚の奥底に染み付いた土のにおいと汚れ。血のにおいと汚れ。
 穢れ。
 とれない。
 いっそのこと、切り刻んでしまえば楽になれるかもしれない。手首から切り落としてしまえば、忘れられるかもしれない。でも、そんなことが出来もしないことはわかっていた。
 忘れようなどと言うのは傲慢なのだ。
 ふたりの人間をこの掌で屠っておきながら、楽になりたいなんて。
 何よりも、間違っている。
 保健室の空調は教室よりもゆるやかで、そのかわりに扇風機が回っている。
 ゆっくりと、目を閉じた。まぶたの越しの闇は、紅灯のあかりのような、やわらかい赤いひかりに満たされている。
 世界は止まらない。動き続ける。
 世界に止まって欲しいとはいわない。動き続ければいい。陽汰が何を干渉したって、世界は無関心に進み続けるだけ。まっすぐ、まっすぐ永遠の未来に向かって。
 世界は止まらない。
 ならば、そう。
 陽汰が、止まればいい。
 動き続ける世界とは別に。陽汰が停止してしまえば。それは結局世界が止まることと同義なのだから。ただ、どちらが止まるか。その違いなどごくごく些細なこと。
「とまれ、」
 声に出さずに、呟く。「とまれ」
 鼓動も呼吸も、細胞も。陽汰のすべて何もかも。止まってしまえばいい。
 言霊と言うことばがある。ことばには霊威が宿っているという。ことばがもたらす事象。
 ならば、陽汰は後何回。「とまれ、」唱えれば。
「とまれ。」
 止まることが、出来るのだろうか。
 もしもその回数がわかるのならば。ずっとずっと、唱え続けるのに。それこそ、永遠に。


     ***


「砂倉?」
 響子のマンションの前で、慶介と鉢合わせした。
「あ、ツッキーじゃん。奇遇だねーこんなところで」
 ひらひら掌を振りながら、私服の慶介はいつもどおりにへらへらわらっている。
「あ、うん。どうしたの、家、こっちのほうじゃないよね」
「ちょっとねん。野暮用ってやつ?」
「野暮用…」
「そ。野暮用。俺も色々あるのよん。じゃ、電車の時間あるし、行くね」
「うん、」
「ばいばーい」
 あっけにとられたまま、陽汰には慶介の後ろ姿を見送ることしか出来なかった。
 どうして、彼が此処にいるのか。見当がつかなかった。家は電車でひと駅分離れているし、住宅街に買い物に来るとも思えない。ということは―――。
 このマンションの住人に、用があったのだろうか。
 見上げる。この地区では珍しい、背の高い建物。空の中に、突き刺さるような灰色のレンガ。
 自分の想像に、違和感を覚える。”このマンションの住人に、用があったのだろうか。”
「、まさか…」
 響子―――?
 そんなわけはない。慶介の兄である砂倉智久を埋めたのは、もう5年も前のこと。今更、何をどうやっても響子にたどり着くわけなんてない。
 でも。だったら。
 エントランスに入る。部屋番号を押して、呼び出しボタン。
 でない。
 もう一度呼び出しボタンを押す。
 ―――でない。
 携帯で、電話をかける。
 呼び出し音ばかりが何度も繰り返して。留守番電話サービスに繋がる。
 響子の声は、聞こえない。響子には繋がらない。
 電話と呼び出しを何度も繰り返して。
 何度やっても、響子には繋がらなかった。
「響子」
 ざわざわ。ざわざわ。耳の奥で頭の奥で躰のなかで。
 何かがざわめいて。不安が掻き立てられる。
「響子、」
 何が、どうなっているんだろう―――?


 一度も、響子と繋がらないまま。2週間が過ぎた。
 何度家を訪ねても、何度電話しても。繋がらなかった。メールも帰ってこない。朝、駅のホームで見かけることすらなかった。
 陽汰の世界から。ぽっかり、抜け落ちていなくなった。
 響子は、陽汰の”安定剤”のような存在で。いなくなって、はじめてそのことを痛感する。出会ってから一度も、近づくことはあっても離れることはなかった。
 智影よりも近くにいた。
 響子。
「兄くん、おかしいよ」
「…、そうかな」
「そうだよ」
 2週間、食事はおろか、まともに眠ることすら出来なかった。7月に入って、期末試験1週間前になっても、勉強すらまともに手がつかない。
 学校も休みがちになった。
 眠ることも出来ずに、ベッドの上で。ぼうっと、一日を過ごすことが多かった。
 神経が磨り減っていくのが、手に取るようにわかった。でもそれをとめる術を、陽汰は知らなかった。否、知っていた。だけど、陽汰だけでは、どうにもならない。
「学校だって、あんまり来なくなったし。やつれてるし。わらわなくなったし。おかしいよ」
「大丈夫だよ。心配されるほどじゃない」
「………」
 痛いものを見るような。憐れむような。精神に刺さる視線。
「うそつき、」
「うそじゃない」
「うそつき」
 声を出すことも億劫で、言い返すのをやめた。たかが3駅分。立っていることすらキツイ。出来るものなら座り込みたいし、許されれば横になりたい。
 ちらり、視線をずらすと、渚がじっと陽汰を見ていた。なに、と、問う気にもならない。
「神谷さんも、最近みないね」
 ぽつりと。
「何かあったの?」
 ゆるゆる、首を振る。何もない。何もないからこそ、こんな日々が続いているのだ。
「…そ、か」
「…、」
 何か言おう、思って口を開いたら、ポケットで携帯が震えた。
 口を閉じて、携帯を開く。メールだった。一瞬期待するが、送信者は母親だった。
『すぐに帰ってきなさい。』
 液晶には、ただ、それだけ。
「兄くん?」
「…家に帰れって、」
「え、何かあったの?」
 返事の代わりに、陽汰は首を横に振った。


     ***


 父親も母親も、呆然と。
 警察署の一室で、家族三人、横一列に座って。目の前には、私服の警官。
 彼は、家族の反応に出す台詞もないのか、麦茶を飲み干した。
 こつ、机とグラスのぶつかる音で、緩んだ焦点が締まる。
「あの、それは、間違い、ないんですか?」
 父親が、ことばを捜すように、言う。
「本当に、うちの…智影、なんですか?」
「間違いありません」
 警官はグラスの表面の滴をぬぐうように指で撫でて。こたえた。「調川智影さんに、間違いありません」
「…、そうですか、」
 警官の口から事実が伝えられてからの数分で、両親がやけに老け込んだように見えた。たぶん陽汰の、目の錯覚ではないと、思う。
「…あの、でも。あの子は殺されるような、そんな子じゃありません」
 ハンカチを両手で握り締める母親の弁に、警官は短髪の頭を掻く。僕にそんなこといわれても、そうとでも言いたそうに。
「あの子は、確かにふらっと何処かに行っちゃうような子でしたけど、でも、凄く、やさしい子で、それで、」
「落ち着きなさい」
 そういった父親の眸には、何が映っているのだろうか。
 事実。
 埋められていた白骨死体が智影のものであること。
 あちこち不自然に骨折していると思われること。
 他殺の可能性が限りなく高いと言うこと。
 真実は。
 警官の口から語られることは、きっとないだろう。
「智影は、―――弟は、苦しんで死んだんですか?」
 ぽつり、言う。
 自身の腿の上に置かれた陽汰の掌には、折れた智影の躰、妙な感触が。
 蘇る。
「骨折などの外傷は、すべて生前に与えられたものだそうです。致命傷は、頭蓋骨陥没による脳挫傷だと思われます」
「………」
「相当苦しまれたのではないでしょうか、」
「…そう、ですか」
―――相当苦しまれたのではないでしょうか、
 そんなことは、聞くまでもないのに。あれだけ殴られて、痛くないわけがない。あえいだ呼吸、立たない足。痛くないわけがない。聞くまでもなく。陽汰はそれを見知っているのに。
 でも、もし。
 一般的な見解ででも、智影が苦しむことなく死んだというのなら。
 少しは、救われるような気が、したから。
 一般的な見解なんて、事実に繋がるとは限らないのに。
 それでも、少しでも、免罪符が欲しい。どうしようもなく、贖宥を望んでしまう。
「遺骨だけですが、ご自宅にお持ち帰りになりますか?」
「つれて帰ります」
 “もって”帰ります、ではなく、”つれて”帰ります、と。
 父親は、警察署に来てからはじめて、芯のとおった強い声で言った。
 母親のすすり泣く声が、陽汰の耳に障った。


 家に帰るまでの間、車中で、誰も口を開かなかった。父親は、どんどん空調の温度を下げていく。最低温度まで下げてもなお、ボタンを押し続けている。寒いと訴えたかったが、陽汰は何も言えなかった。
 後部座席で、目を真っ赤にした母親が、俯いていて。腕の中には、智影がいる。ずいぶんと小さな入れ物に収められた、智影が。
 その箱をさすりながら、ぶつぶつ、呟いている。
 空調の音が邪魔をして、うまく聞き取れなかったが、母親の様子が尋常ではないのはわかった。
 智影は”いなくなった”。
 今までの3年間、両親の認識はそうだった。
 だが今日、それは覆された。彼らがまったく予想だにしなかった方向に。
 智影は”死んだ”。
 智影は”殺された”。
 事実だけを、ぐいと押し付けられて。読めない言語をずらりと目の前にしたような戸惑いと、咀嚼しきれない事実の大きさと。
「父さん、」
 窓の外に視線を向けたまま、陽汰は問う。「哀しい?」
「………」
 父親はこたえなかった。「父さん?」見ると、いつもと変わらない表情で、目を真っ赤にした父親が、いた。
 いたたまれなくなって、慌ててことばを継いだ。「ごめん、」
 父親はやっぱり、何も言わなかった。


「火葬?」
 信じられない、母親が声を上げる。
「どうして、今更そんなことをする必要があるの?」
 母親の腕の中には、まだ、智影がいる。声も上げない、動きもしない。ばらばらになった骨だけになった智影。
「ちいちゃんは、智影は、もう充分苦しんだのよ? 3年も埋まって、土のなかで苦しくて、今度は燃やすって言うの? これ以上、あの子を苦しめたく、ない…」
 声は嗚咽に摩り替わって、母親は俯いて肩を震わせる。
―――ひょっこり帰ってきて、ご飯がないと淋しいでしょ?
 そういっていた、母親の笑顔は。智影がいなくなっただけだという、根拠があったから。でもその根拠には根拠がない。理由に理由はない。
 何をどう転がしてもひっくり返しても、智影はもう帰ってこない。否、帰ってくることは出来た。ただ、智影はもう生きてはいない。既に死んでいる。3年前に。
 母さんの目の前にいる、僕が殺したんだよ―――?
 そんなこと、言えるわけがない、事実。真実。すべて。
 陽汰の前には、沈黙という選択肢しか、用意されていない。
「ちゃんと供養してやらないと、智影も浮かばれないだろう」
「でも、」
「土のなかで、何の供養も悼みもないままに骨になって。その責任は、親である私たちにもあるんだよ」
「……、」
「そのうち帰ってくるだろうとタカをくくって、真面目に捜そうともしなかった。それを、ちゃんと供養してやることで、少しでも、晴らすことが出来たら…」
「私たちが、悪いの?」
「非はある」
「確かに、真面目に捜したりしなかった。あの子は、ふらっと何処かに行ってもおかしくない子だったもの。でも、問題はそこじゃない。そもそも、どうして智影が殺されないといけないの? あの子が何をしたっていうの? なんで埋められなきゃならなかったの?」
―――どうして智影が殺されないといけないの?
―――あの子が何をしたっていうの?
―――何で埋められなきゃならなかったの?
 母親のことばのひとつひとつが、陽汰の心臓に直に突き刺さる。殺した人間が陽汰だと知って、埋めた人間が陽汰だと知って、その理由が罪の上塗りだと知って。
 母親はやはり、同じような台詞を吐くのだろうか。
 すべてを知ったら、母親は陽汰を責めるだろうか。
 それとも、予想も出来ないような、違うことを言うだろうか。
「僕は、火葬、したほうがいいと思う」
「ようちゃんっ」
「智影は、もう充分苦しんだ。だからこそ、ちゃんと解放してやらないといけないんだと、思う」
 双子の兄に殺されたという事実から。埋められたという事実から。
 解放されるべき。
「……、」反論しようとしてか、口を開いた母親は。「………」口を閉じて、首を振った。「そうなの、かもしれないわね…。楽にしてあげないと、いけないものね」
―――違う。
 解放したいのは。
 解放されたいのは。
 智影ではない、陽汰自身。
 罪から解放されたいのは、陽汰。
 智影を供養するという名目で、火葬して、燃やして、それで自身の罪も燃えてなくなれば良いという、子供じみた、幻想。
 供養したくらいでは、何も変わらないだろうに。
 それでも、したら。何かが変わるような、気がした。


     ***


 御棺の蓋は開けない。
 その代わりに、両親と陽汰で、棺いっぱいに花をつめた。菊だけでなく、百合やカスミソウ、智影が好きだといっていた花をすべて。智影自身が埋もれてしまうほどに、入れた。
 葬儀は家で行った。寺を借りるよりも、家で静かにあげようということになったからだ。
 ごく近い親戚と、陽汰と智影が幼いころから顔見知りの近所の人以外には、特に報せは出さなかった。始まってすぐに、渚が来た。少し遅れて、慶介も。
「やあ、」
「うん。……あは、なんて言ったらいいのか。ことばが見つかんないや」
 情けないな、笑みを浮かべて、渚は言う。
「とりあえず、行かなきゃって思ったんだよね。挨拶しなきゃって」
「うん、」
 陽汰が頷くと、見上げた渚の眸が、歪んだ。見る間に涙が溢れ出す。
「ごめん、」ぬぐいながら、言う。「いいよ」
「あ、柏木サン」
「砂倉、?」
 振り向いた渚は、急いで涙をぬぐうと、いつもどおりにわらった。「おはよう砂倉」
「おはよう、」
 言ってから、頭を下げた。
「お悔やみ申し上げます」
「…ありがとう、」言ってから。「でも、どうして砂倉が?」
「…ま、それはまた後ほど」
 へらりとわらって。
 ふたりは記帳すると、家に入っていった。
「陽汰、」
「響子…」
 門扉のところに、響子が立っていた。2週間以上、会いたくて会えなかった響子が。
「響子、」
「お焼香、してもいいかしら?」
 開口一番口にした台詞に、陽汰は戸惑いながら。「どうぞ、」言った。
「ありがとう」
 にこりともせずに、響子が言う。2週間前となんら変わらない。白い肌、闇色の髪と眸、何事もないかのような態度。
 門扉で。
 奥に入って行く響子の後姿さえ、見ることが出来ずに。
 胸に痞える不安も、言いたいことも訊きたいことも。何も言えなくて。この2週間、会いたかったのに。それは陽汰だけだったのだろうか。響子の態度には、何も感じられない。不安も恐怖も、虞も。何も。何もないのだろうか。
 もしかしたら。
 響子は陽汰を見棄てようとしているのかもしれない。
 そう考えれば、慶介が響子のマンションから出てきたことも説明がつく。砂倉智久のことも、智影のことも。すべての罪は陽汰にあって、響子はそれを慶介に告発した。そして会えなかった2週間。陽汰は着実に、最悪の方向に向かっていたのかもしれない。
「響子、」
 振り返ることも出来ずに。俯いて。
 僕は響子を護る、そう決めた。だけど響子は、僕を見棄てるの?
 唯一無二だと思っているのは、僕だけなの?


「砂倉」
「なに?」
 焼香を済ませて、家の廊下で、渚は斜め後ろの慶介に問う。
「どうして、今日来たの?」
「来ちゃいけない、みたいな言い方ってどうかと思うよ」
「だって、弟くん―――智影くんとは、面識ないでしょ?」
 半身振り返った渚に、慶介は頭を掻きながらうなった。
「あー。まあ、そりゃそうなんだけどね。…ま、その辺のことは、機会があったら教えてあげるよ」
「今は駄目?」
「今は駄目」
 あっさり、しかし頑なな言い方に、渚は引き下がった。「そりゃ仕方ない」
「柏木サンは? 同級生だったんだっけ?」
「そだよ。中学時代、2年のときだけだったけど。同じクラスだった」
「ふうん。じゃ、生前の智影にも会ったことあるんだよね。もちろん」
 “生前”。その単語が、智影が死んでしまったことを、確かに表している。渚は胸に、小さな痛みを感じた。
「あるよ。トモダチだもん」
「写真じゃあんまりしっくりこなかったんだけどさ、やっぱりその、智影は、ツッキー…陽汰に似てたわけ?」
「そりゃあね。見分けはついたけど。並んで立ってたら、みんなちょっと迷ってたな」
「……ねえ、柏木サンはさ、兄と弟、どっちがすき?」
「……はぁ?」
 突然飛んだ話に、思わず大きな声が出る。慌てて口を塞ぐと、慶介を引っ張って、玄関を出た。
「何を突然言い出すの?」
「何って、……興味本位?」
 へらりとわらった慶介に、脱力する。
「絶対教えない。」
「ちぇー」
「ちぇーじゃないっ」
「…何してんの?」
「ひゃあっ、兄くんっ」
 いつの間にか背後にいた陽汰に、渚はとっさに慶介の後ろに隠れた。
「…柏木?」
「え、あ、いや。吃驚したなーもう。ココロの準備が…」
「…何の話してたの?」渚の態度に首をかしげ、陽汰は慶介に問う。「さぁーあ?」自身の後ろを見ながら、慶介は肩をすくめた。
 つと、顔を上げて、慶介は陽汰に問う。
「この後って、どうするの?」
「…夕方になったら火葬場に行くよ」
「そう。火葬場って、山のほうにあるあのでっかい?」
「そうだよ。よく知って…」
 言いかけて、声が詰まった。
「どったの?」
「いや、なんでもない」
「柏木サン、ちょっと席はずしてって言っても良い?」
「え、」
 背後の渚に向かって、言う。
「どうし…」
「どうしても。」
 ヘらっとした顔なのに、強制を含んだ声。「…あ、うん。わかった、」愕いたのか、困惑した表情で、渚は門扉のほうに歩いていった。
「なに?」
 渚が門扉を通ったのを見て、陽汰が問う。
「な、ちょっと、そこの裏のほう」
「え?」
「そっち行こう」
「…わかった、」
 庭の奥、縁側のほうに行くと、ざわめきが少しだけ遠のいた。
「砂倉、」
「今日、何で俺が来たか、って、さっき訊いたよな?」
「…うん、」
「それってやっぱり、俺と智影が面識ないから、どうしてって、思ったんだよね?」
 慶介がさも見知っているかのように”智影”と呼んでも、たいした違和感がなかった。実は知り合いだったんだ、そういわれても、そうかと納得してしまうほど。
「その通りでさ、俺、智影とは面識ないよ。ツッキーが双子だって言うのも、実は最近知ったんだよね」
 腕を組んで、外壁に寄りかかる。「結構年季の入った家だな、」わらって、言うが、陽汰が無反応なのに、ため息をつく。
「智影ってさ、つい最近T川の近くの雑木林で発見された白骨死体、なんでしょ?」
「……なんで、そんなこと―――」
「”知ってるのか”? そうだな、ひと言で言えば、同類だから、だな」
「同類?」
「あー、知ってるかなー。3年くらい前になるかな、俺たちがまだ中坊だったころにさ、T川の河口近くで、白骨死体が見つかったってやつ。知ってる、ていうより、覚えてる?」
 砂倉智久。5年前に、響子が殺して陽汰が埋めて、3年前に、智影が掘り起こして、露見した事件。
「…覚えてるよ、」
「へえ、意外」本当に愕いたように、わらう。「その白骨死体って、俺の兄貴だったんだよね」
「砂倉智久…」ぽつりと、口が固有名詞を。吐き出す。
「河口で見つかったくせにさ、ホントは土に埋められてた、みたいなこといわれて。不思議だよな。あのころは今みたいに梅雨でもなんでもなかったのに。何で埋まってたはずの兄貴が、河口なんかで見つかったんだろう」
 聞こえなかったのか、聞き流したのか、慶介は話を続ける。「まあ、アレだ。兄貴も智影も、似たような感じで死んでたってことだ」
「………」
「誰が殺したか、なんて、わかんないけどな」
 ことばに、違和感。そしてその違和感は、考えるまでもなく、ひとつの結論にぶち当たる。
―――誰が”殺した”か、
 “死んだ”、ではなく、”殺した”。
「でも、もしかしたら、殺されたんじゃないかもしれないし…」
「……どうして?」
「どうしてって、言われても困るけど…」
 所在無く俯いた陽汰に、慶介の表情は見えない。
「まあ、ツッキーがそう思ってるなら、それでもいいけど。俺は確信してるよ。兄貴は殺された。智影も、殺された」陽汰が顔を上げると、慶介ははっきりと、言った。「誰かに」
 誰かに、それが陽汰には、”お前に”―――聞こえた。


     ***


「砂倉は?」
 問われて、「帰ったよ」陽汰はなんでもないような顔をして、返事をした。
 葬祭場に向かうバスのなかで、見上げた空は、青く透き通っているのに不透明。綺麗なのに、汚れている。雲は濃い白に、銀色の陰影を乗せて。湿った風は目には見えないのに絶え間なく雲を運んでいく。
「空、」
「え?」
「汚いね」
「…そう? この季節にしては綺麗だと思うけど」
「……そう、」
 まるで、陽汰の眸にだけ、フィルターがかかっているかのよう。
 負うものが何もなければ、この空も慶介のことばも、素直にありのままを、受け止められたかもしれないのに。
 既に存在しているものを、ないことなんて出来ない。真実は隠せても事実は隠せない。
 郊外の郊外にある葬祭場までは、バスで30分ほど離れた場所にある。
 最後の挨拶を済ませた後、智影は小さな黒い穴に飲み込まれた。がちゃり、錠がかけられて、ロビーで待つように言われる。
 両親は寄り添って、母親の眸はずっと鉛色の扉を捕らえたまま。父親に肩を抱かれて、引き剥がされるように、移動の最後尾をついていった。


「何の意味が、あるんだろうね」
 ぽつりと、渚が言った。
 何の意味、何の意味だろう。
「炎で綺麗にしてやんないといけないんだよ」
 口から出たことば。父親が言ったのと同じことば。有意識か無意識か。定かでない思考回路。
「何で、死んだんだろう…」
「………」
 こたえなかった。否、こたえられなかった。
 何で? どうして?
―――何で?
 こたえは。
 真実は、否、事実は。
 掌を閉じて開いて、眺めた掌に。
 かすかに汗ばんだ、掌にあるのに。
 陽汰はそれを。
 誰かに伝える術を知らない。
 否、伝えようとしていないだけだろうか。
 いつか誰かに、話さないといけないと思う。でもそれは、ただ思うだけで。きっと誰にも話さないまま、時間だけが過ぎて、やがて陽汰自身も火葬されるときがくる。
 響子はどうなのだろうか。陽汰と同じ思いだろうか。それとも、そうではないだろうか。
「何処に行くの?」
「…トイレ」
 紅灯市唯一の葬祭場は、無駄に思えるくらいだだっ広い。標示を頼りにトイレまでたどり着くと、トイレの前の長いすに響子が座っていた。黒い制服に身を包んで、胸元に結ばれた紐だけが赤く異彩を放っている。先程のバスでは見かけなかったような気がしたが、気がつかなかっただけなのだろう。
「響子」
 呼ぶと、彼女は顔だけ、ゆっくりとこちらを向いた。薄暗い蛍光灯の下でもわかる、抜けるように白い肌、黒と言うより闇のような髪。黒目がちの、作り物じみた、整った顔。
 改めて、人形のようだと、感じる。その躰のなかに、魂魄は宿っているのだろうか。今まで疑いもしなかった感情はあるのだろうか。
「もえているの?」
 まっすぐこちらを見たまま、響子は言った。低めの甘い声で。低い天井に、よく響く。
「もえているよ」
 視線に視線で返しながらこたえる。吸い込まれて呑み込まれてしまいそうな、深い闇色の双眸。天井の灯りなどないかのように、眸にはひかりがなくて。それはいつもどおりなのか、それとも響子なりに智影を悼んでいるからだろうか。
「そう、」
 かすかに唇の端を上げて。ノーメイクのはずなのに、ルージュを塗ったような色。
「響子、」
 呼んだ。変な声が出るかと思ったら、意外と普通の声が出た。
「なあに?」
 小首をかしげて、間延びした口調。いつもと同じようで、違う。
「僕は、」
 言って、―――やめる。何を言おうとしているのだろうか、いったい。わらおうとして、でもわらえなかった。
「、なんでも…ない…」
 来た方に戻ろうとしたその視線の端で。
 響子が。
 聞こえない声で。何か言ったような気がしたけれど、陽汰は振り返らなかった。
 何か言ったのなら、何を言ったのか。きっと、よくないことだ。陽汰は理由も理屈もなく、心臓に響く不安を感じた。