花葬


罪と罰

 家の中の灯りが、ひとつ切れたように。
 交換しても交換しても、元の明るさには戻らない。
 失われたひかりは、きっと永遠に、戻ることはない。
 母親はぼんやりとソファに座っていることが多くなった。陽汰が話しかけても、反応までにしばらくの間がある。そしてそれに反するように、父親の帰宅は早くなった。以前のように出張に行くこともなくなり、19時には家にいる。
「父さん、」
「もうすぐご飯出来るからな」
 振り返りもせず、父親が言った。母親に代わって、父親が家事のほとんどをこなすようになっていた。
「僕、手伝おうか」
「あ、ああ、じゃあそっちの鍋に味噌をといておいてくれ」
「わかった」
 冷蔵庫から味噌のパックを出すと、おたまで掬い取った。母親の好きな赤味噌で、普段の味噌よりも鮮やかな色彩が灯りに優しいような気がする。
「父さん、最近帰るの早いね」
 透明に鮮やかな赤茶色が広がっていく。
「そうだな、」
「仕事は、忙しいんじゃないの?」
「そうでもないぞー、父さん管理職だからな、意外と暇なんだ」
 手馴れた様子で魚を捌きながら、父親がわらう。落ち込んだ母親とは、対のような反応。父親は父親で、きっとつらいはずなのに。
「そう、なんだ。この間までは、2週に1回は出張とか、行ってたから。てっきり結構忙しいのかなって」
「ああ、あれか」
「……」
 何処行ってたの?―――ずっとわからなかったことを訊くタイミングは今なのに、ことばがうまく出てこなかった。
「陽汰は気づいてたんだろう? 仕事じゃないって」
 父親の手は止まることなく、一匹魚が3枚におろされていく。
「地方に行ってるんだろうな、とは、思ってた」
「何しに行ってたか、教えようか?」
 手を止めて、陽汰を見る。「沸騰してるぞ」言われて、慌てて火を消す。
「智影を捜してた」
 赤出汁の表面に、名残の泡がぽこりぽこり、ふたつ、浮いて消えた。
「……え…?」
「智影はいなくなった。それも突然。生きているかどうかもわからない。死んでるかもしれない。でも、生きてても死んでても、何処かに居るのは確かだ。何処かに居る智影を、この3年ずっと捜してた」
「………」
「灯台下暗しとは、先人も巧いことを言ったもんだと思うよ」
「父さん、」
 包丁を止めて、父親は陽汰を見た。陽汰も、視線を合わせる。
「僕…、」
 父親は何も言わずに、じっと、陽汰を見ている。その視線は、ただ普通に、息子に向けられるものでしかない。
「…なんでもない」
「そうか、」小さくわらって、水を出した。まな板の上にうっすら広がった血が、あっという間にシンクの銀色に飲み込まれていった。
 振り返ると、母親は横になったのか、ソファの背に隠れて誰もいないように見えた。テレビでは、当たり障りのない表情で、今日も誰かが死んだというニュースを流していた。
 誰が死んだとしても、それがごく親しい身内や友人でなければ、何を感じることも出来ない。可哀想にね、どうしてだろう、そんなことばはただの飾り文句で常套句。本当はどうでもいいのだ。自分に関係ない誰かが死んだとしても、こころも躰も、まったくもって、痛くも痒くもない。何かを感じることのほうが難しい。
 それが。
 身内が死んだらこの有様。
 息子をなくした母親は、常に放心状態でこころはどこかに置いてけぼり。
 息子をなくした父親は、母親とは逆に、何もなかったかのように振舞いながら口を開けばそのことばかり。
 弟をなくした兄は、秘密を抱えて病気になった散髪屋のような状態。穴を掘って叫んだら、誰かがそれを聞いて、告発してくれるだろうか。


     ***


 真夏の日差しは、熱湯を霧吹きでかけられたよう。
 結局勉強に手をつけられないまま試験は終わり、軒並み最低記録を更新した。夏休み前の三者懇談でも、「頑張ってください」ということばをかけられた。何をどう頑張ればいいのか、訊く気にもならなかった。
 三者懇談には、母親の代わりに父親が出席してくれた。
「陽汰は将来、何がしたいんだ?」
 帰り道、父親が言った。高校3年の子供がいる親ならば、おそらく一度は言うだろう台詞。
「将来、」
 果たして陽汰にそんなもの、あるのだろうか。
「絵が、すきなんだろう? 専門は水彩か? それとも油彩?」
「…水彩、かな」
「そうか。どうせ大学でたら生活するために嫌な仕事でもしなきゃいけなくなる。学生のうちは、のびのびと自分のやりたいことをやりたいようにやりなさい」
 大きな掌で背中を軽く押されて、見た父親の顔は、穏やかにわらっていた。
「うん、」
 この笑顔の裏には、いったいどんな感情があるのだろうか。哀しみ、痛み、それとも責任感?
 そのどれだとしても、どれでもないとしても。
「父さん、」
「ん?」
「僕、大学には行かないよ」
「どうして、」言いかけて、口をつぐむと頷いた。「陽汰が決めたことなら、父さんは何も文句は言えないな」
「ありがとう、」
 言った後に、肺の奥から、名もなき感情がわきあがってきて。開襟シャツの胸を押さえると、父親が大丈夫か、と訊いた。うん、陽汰は喉の奥で、否定とも肯定とも取れる返事をした。
「じゃあ、父さんこれから仕事に行くから」
 駅に着いたところで、父親は陽汰を振り返ると言った。
「わかった、仕事頑張って」
「最近、陽汰はわらわないな」
 やさしく目を細めて、父親。
「そうかな、そんなことないよ」
 頬を持ち上げて、目を細めて。わらった陽汰の肩を何度か叩いて、「ま、無理しなくていいからな」
 笑顔のまま、父親は改札に消えた。
 頬に触れる。うっすらと汗をかいている。半袖の、剥き出しになった腕が紫外線に焼かれて痛い。わらっていない、改めて言われると、わらってないな、思う。
 両掌で顔をはさんで、ぎゅっと持ち上げた。こういう意味ではないんだとわかっていたが、せずにはいられなかった。
 終わりが近いんだ、漠然と思う。
 陽汰は響子を護ると誓った。智影よりも響子を選んだ。3年間、忘れられるわけもない事実を抱えて。それでも響子がいてくれれば耐えられると思った。
 でも響子は。
 響子は、陽汰を見棄てようとしているのかもしれない。切り捨てて、すべての罪は陽汰が犯したことになって。否、罪をかぶることが怖いのではない。響子に見棄てられることが、何よりも怖いのだ。もう要らない、そういわれるのが怖い。陽汰は響子を選んだ。
 響子が、今の陽汰のすべてで。
 智影という選択肢は、もうどこにもなく。それを永遠に破棄したのも、陽汰自身で。
 じわじわ、蝉が鳴いている。どの記憶とも符合しない暑さと湿気と、音の中で。陽汰はただひとり、肌寒い記憶のなかにとらわれている。
「あ、ツッキー!」
「…、砂倉」
 背後に、私服の慶介がいた。雰囲気とぴったり合った服装をしている。黒字に赤い文字のプリントされたTシャツに、穿き崩したジーパン。首や腕には、シルバーアクセサリーがセンスよく配置されている。
「どったの…て、ああ、三者懇だったんだ」
「うん、」
「どうだった? なんだかんだでツッキー成績いいから、余裕で推薦コースでしょ?」
「どうかな、」
「またまたーぁ」
 へらへらわらう。慶介の態度は、気が付く限り何も変わらない。事実を知っていて、おそらく響子にもたどり着いていて。陽汰のことも知っているかもしれないのに。
「此処暑いしさ、ちょっとマックでもいかね?」
「え、」
「良いって良いって。俺の奢り、奢っちゃうよ!」
 テンションからして押され気味なまま、陽汰は慶介に引っ張られてファストフードの自動ドアをくぐった。


 ただいま半額中、というシェークをすすりながら、慶介のなんでもないことばに耳を傾ける。最近観た映画の話、音楽の話、クラスの女子の話、教師の話、話題は果てなく続くように、慶介はしゃべり続ける。ときたま相槌を入れながら、陽汰は頷く。
「あ、そうそう。話はガラっと変わるけどさ、智影の納骨ってもう終わったの?」
 話の延長として、さらりと、慶介は言う。
「……え、ああ。来週あたりに」
「じゃあ、もう墓とか決まってんだ?」
「うん、」
「俺さ、」ぐい、と身を乗り出して。「智影の墓参り行きたいんだけど、案内してよ」
「墓参り…?」
「そうだよ。なんかさ、ホント他人事に思えないっつうか―――ツッキー?」
「………あ、ううん。なんでもない」
 レスの遅さに、慶介は乗り出した身を引っ込めて、シェーキを飲んだ。しばら間を取った後に、言う。
「もしかして、迷惑、かな」
「いや、全然そんなことないよ。ありがとう」
 迷惑なんて。
 仮に思っていても、言えるわけがない。
「うん、まあさ。俺も別に急がないし。ツッキーが暇なときでいいんだ」
「…じゃあ、また連絡するよ」
「サンキュー」
 わらった慶介の顔。何の他意もないだろう笑顔。もし他意があるのなら、その隠し方を教えて欲しいと、陽汰は思った。


     ***


 納骨の日は、いつもにも増して暑かった。両親と陽汰の3人だけで、霊園の一角に骨を収めた。
『平成11年 調川智影 享年15歳』
 墓石に彫られた文字が、視覚を責める。記憶と相まって、事実を突きつける。
 目を逸らすな、忘れるな―――文字が言う。頭に直接響く声で。
「智影」
 母親が、膝をついて墓石を撫でる。愛しんで、悼んで。父親はその行為をとめることなく、じっと立ち尽くしていて。
 3年間の空白が、すべて、徐々に埋まっていく。希望は途絶え、事実が現れ。たった数週間の間に、3年間のすべてが家族の間を駆け抜けていく。
 智影は”いなくなった”という事実から、智影は”死んだ”という事実への移行。記憶も意識も、書き換えに精一杯で。感情ばかりが置いてきぼりを食らって。
「ちかげ、」
 母親の声。
「………」
 立ち尽くす父親。
「………」
 何もいえない陽汰。
 ひとりだけ事実を知っている者の沈黙。
 蝉の声となぜるような風と。
 湿度の高い大気が。
 一緒に混ざりこんで、智影の”死”を記憶に刷り込む。
 父親の手が、陽汰の肩に触れた。ぎゅう、強すぎない握力で。開襟シャツ越しに、汗ばんだ掌の温度感じる。
「父さん、」
 呼ぶと、父親はつらそうに、目を閉じて。
「母さん、」
 母親はゆっくりと、振り返って。父親と陽汰を順々に見て。「ようちゃん」呼んだ。
「なに?」
「ようちゃんは、何処にも行かないでね。お父さんとお母さんを、置いていかないでね」
 うっすらわらった母親の笑顔。引きつった頬。目じりや口元のしわが、一気に老け込んでしまったことを感じさせる。
「かあさん…」
 父親の手に、自らの掌を重ねて。陽汰は出来るだけの笑顔で。「わかった、」言った。
 母親は笑顔を崩さないまま立ち上がると、空を仰いだ。つられて、陽汰と父親も上を向く。
 濃い青と、近い空。
 夕立でもくるのか、東の空には、大きな入道雲がわきあがっていた。
「帰ろうか、」
 墓石を見たまま、振り返らずに言った母親の表情は、どんなものなのだろうか。
 陽汰には、想像すら、つかなかった。


 翌日から、母親は以前のように家事をするようになった。父親が早く帰ってくることに変わりはなかったが、母親がくるくる家のなかを動いていると、何処となく事実が巻き返されたように感じた。そんなこと、ありえないのに。
「ようちゃん、電話よー」
 居間でテレビを見ていた陽汰を、背後から母親が呼ぶ。
「誰?」受話器を受け取りながら訊ねると、母親はわらいながら肩をすくめた。
「もしもし、」
『陽汰、』
「きょ―――」
 慌てて口を押さえて振り返ると、母親は昼食の洗いものをしていた。「どうしたの、こっちにかけてくるなんて…」
『ごめんなさい…』
「別に、謝らなくてもいいけど」
『陽汰、』
 声に、感じたことのないものが混じる。
「響子?」
『―――っ、っ』
「…泣いてる、の?」
『怖い、』
 怖い。
 それは、陽汰が言うことはあっても、響子が言うことはなかった単語。声に一気に嗚咽が混じる。幼子のように。普段の響子からは、まったく連想できない。
『怖いの、怖い…』
「今から、そっちにいくよ」
『こないで!』
 間髪入れない拒否に、耳を疑う。どういう意味なのか、即時には理解しかねた。
「、響子?」
『お願い、来ないで』
「でも、放っておけないよ」
『来たら、おしまいだわ』
「おしまい?」
『砂倉慶介が、』
「砂倉が?」
『彼はもう、事実を掴んでるわ』
「……、まさか、そんな―――っ」
『気をつけて、陽汰』
 “気をつけて”。その台詞に、被さるように声が聞こえる。おそらく無意識の、ココロの声が。
“埋めればいいんだよ”
「響子、今、何か言った?」
『…え?』
 受話器を当てていないほうの耳を塞ぐ。血液が血管の中を走り抜けていく轟音だけが、鼓膜に響く。
 今の声は、何だったのだろうか。
 何を、言っているのだろうか。
 でも、もし慶介が事実を掴んでしまったのならば。
 選択肢はふたつ。
 事実を受け入れ贖罪を受け入れるか、それとも闇に深く埋めるか。
「僕は、響子を護るよ、」
『………』
 聞こえた声が、こだまする。小さく、耳を澄まさないと聞こえないほどの音量で。なのに、聞き逃すことないほど確かに。
 こだまして、響いて、聞こえる。
「埋めればいいんだよ、」


 響子は何も言わなかった。陽汰も適当にことばを繋いで、電話を切った。かたり、受話器を下ろす音がやけに重苦しく聞こえた。
 居間に戻った陽汰に、母親が、先程と同じ皿を洗いながら不思議そうに言った。
「何かいいことでもあったの、」
「どうして?」
 皿の模様に目を細めて、陽汰。
「だって、ようちゃん、愉しそうにわらってる」
 言われて見て。硝子戸に映った顔。確かに、陽汰はわらっていた。
「そんなことないよ、」
 頬に触れながら、ぽつり、呟いた。


     ***


「融けるね」
 道端の木陰にひょいと飛び込んだ慶介が陽汰を振り返って言った。「さすが異常気象」
「いや、夏に暑いのは当たり前だし」
「スルどいねツッキー。…ま、夏は暑い。そりゃそうなんだけどさー」
 黒地のTシャツの胸元を広げて、手団扇で扇ぎながら息をつく。
「ツッキーもそんな炎天下じゃなくてこっちにくれば? ちょっと休憩しようよ」
 手招きされて、陽汰は慶介の隣に並んだ。陽汰が並ぶと、慶介は幹に寄りかかりながらずるずると地面に座り込む。
「高3の夏休みってさ。宿題ないから楽だよね」わらいながら言う。「あ、でも予備校通いとかやってるんだよね。みんな。ツッキーも?」
「いや、僕は行ってない」
「そっか。ツッキー推薦希望だったっけ」
「いいや。大学には行かない予定だよ」
「それはまたなんで。せっかく良い成績とってきたのに。評定だってかなり良いじゃん。いくつだっけ、」
「4.6」
「っかー! そんだけありゃ選り取り見取りじゃん。一流大学だって余裕だよ」
「そういう砂倉はどうなんだよ。大学」
「俺? 俺は地元の三流私立だよ。ココに相応な場所に行くの」とん、人差し指でこめかみをさし、わらう。その指の形は、まるで拳銃自殺をするかのようで。
「よく言うよ。僕日本史で砂倉に勝ったことないのに」
「ありゃ別問題ですよおニイさん。覚えりゃいいんだから。ひたすら叩き込むだけ。何の苦労も要らないよ」
「でも時間はかかるし、努力はしてる」
「そういってくれると何か救われるね」
「そうなの、」
「そうだよ、」
「そっか、」
 じぃじぃ、頭の上で蝉が鳴いている。濃い緑の影に隠れて、その姿を探すことは非情なほど困難。影の隙間からは白い光があふれ出して、空の青さえ目視することは出来ない。
「ツッキー、」
 空を見上げたまま。慶介が呼ぶ。
「なに?」
「………」顔を下ろして、横目で陽汰を見て。なんでもない表情は、やがて小さな笑顔になった。「いんや、なんでもないザンス」
「なんだよ”ザンス”って」
 笑顔につられて、笑顔で返す。自然とほころぶような。そしてそのほころびは。
「知らないの? マダムの語尾だよ!」
「わけわかんないよ、」
 おそらく、すべてを壊してめちゃくちゃにしてしまう。
「そろそろ行こっか」
「うん、」
「引っ張ってー」
 差し出された掌をがっちり掴んで引き上げると、掛け声もなく慶介は立ち上がった。改めて近距離で並ぶと、慶介のほうが身長が高い。
「砂倉って、いくつだっけ。身長」
「181」
「うぁ、いつの間に」
 ちょっとしたショックを受ける。
「ツッキーは?」
「…、178」
「3センチなんて微々たる数字ですわよ」口元に指を揃えた掌を添えて。オカマポーズで言う。
「春には同じだったのに…いつの間にか大台を越えてる…」
「男は20代半ばまでが成長期なのです」
「ふぅん、」
「そういうわけでツッキーも180台なんてすぐすぐ」言いながら大またで木陰を出た。金髪がさらに陽に透けて。きらきら。
 まぶしい。
 ひかり。
「どうしたの、」
「……、なんでもない」
 長めのTシャツのすそを。小さく掴んで離して。陽汰は慶介の少し後ろを歩き出した。
 慶介を埋める。
 本当に出来るのか。
 出来るのか、―――自問自答。こたえは、でない。決断は急がなければならないのに。決断しなければいけないのに。陽汰のなかの何処かが、これ以上罪を重ねることを拒む。これ以上の罪なんて重過ぎて、耐えられないと叫ぶ。
 だけど。
 でも。
 陽汰には護らなければならないものがあって。
 それはなにものにも変えられない。
 殺すんだ。埋めるんだ。
 何もためらうことなどない。
 僕は響子を護るから―――。
「あー、」
 突然の声に顔を上げると、慶介が振り返って陽汰を見た。「ツッキー、柏木サンがいるよ」
 小学生みたいな表情で、指差すその先には。黒いTシャツにジーンズという軽装の渚が木桶をもって立っていた。慶介の声に愕いたのか、きょとんとした表情でこちらを見ている。
「どうしたの?」
 慶介と一緒に渚に駆け寄って。慶介が渚に訪ねる。
「あたし? あたしは、おじいちゃんのお墓参り。今日月命日なんだよね」
「そうなんだ」
 笑顔で、慶介。「そうだ、柏木さんもさ、一緒に行こうよ」
「何処に?」
 軽く首をかしげて、渚が問う。
「智影の墓参り」ことばの終わりと同時に、奥二重の眸が、少しだけ見開かれた。
「そうなんだ、」片手で持っていた木桶を、両手で持ち直して、俯いて。ちらりと、一瞬だけ陽汰を見た。「いや、いいよ。遠慮しとく」
「どうして? いいじゃん、ねえツッキー」
「え…あ、うん。もちろん」言ってしまった後に、心臓がどくりと波打った。「いいよ、柏木も来ると、智影も喜ぶと思うし」
 今、ちゃんとわらえているのだろうか―――陽汰は、思った。慶介は相変わらずの人当たりの良い笑顔で。渚も、ほっとしたような表情で。たぶん、ちゃんとわらえているはず。
―――埋めればいいんだよ、
 聞こえないふりをして。掌には、じとりと汗が。


 手を合わせた墓石は。
 納骨の日と変わらない色で表情で、陽汰を迎え入れた。否、迎え入れているかどうかはわからない。物体は物体であり、生き物ではないから。
「殺された…んだよ、な」
 ぽつり、呟いていた。陽汰自身に言い聞かせるように。
 線香を立てた渚が、振り返って。眸を伏せた。
「兄くん、」
「………」
「…なんでもない」
「どっちが、良かったんだろうな」
 ひょい、しゃがみ込んで。慶介が小さくわらう。それは、皮肉っているようにも、聞こえた。
「あのまま土の下で、何処かで生きてると思われてたときと。死んでしまったとわかって埋葬された今と」
―――どっちが良かったんだろうな。
 現実味の薄い、しかし確かな希望と。
 現実だけが押し寄せる、喪失と。
 いったいどちらが良かったというのだろうか。
 そんなことをいうのなら、死んでしまったこと自体が。はじまりからして、間違っている。
「どっちも、同じだよ」
 渚が言う。ふたつに分けた髪、覗く首の産毛に、きらきら、汗が光っている。「生きてても死んでても、近くにいないんだもん。会えないんだもん」掌を、額に当てて。目を強く閉じて。「同じだよ」
「違う、」とっさに陽汰の口を付いて出たのは、否定。「同じじゃない。生きてるに越したことはないんだ。生きてたら、近くにいなくても今は会えなくても。会える可能性は残ってるんだ。どんなに低くても、可能性として、確かに存在しているんだよ」
 しかし。
 その存在をなくしてしまったのは。
 すべて奪い取ってしまったのは。
 陽汰自身で。
 ことばを終わらせた後で。じわりと湧き上がってくる気持ちの名前は、いったい何と言うのだろうか。
 胸がざわめいて。キンと、耳鳴りがする。
「…ごめん。―――あ、何か、飲み物、買ってくるよ。何がいい?」
「何でもいいよ。ツッキーに任せる」
「あたしも、」
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
「わかった。気をつけてね」
 慶介のことばに頷いて、陽汰は墓石に背を向けた。否、事実に。逃げられないから、せめて、背を向けただけで。


「ねえ、柏木サン」
「…なに、」
「前にも訊いたんだけどさ、また訊いてもいい?」
「何だっけ、」
 陽汰の走っていった方向に視線を向けたまま、渚はココロここにあらずといったふうに。
 慶介は墓石の前にしゃがみ込んだまま、頬杖をついて。真新しい灰色を眺めて。蝉の鳴き声が、近づいて遠のいて。日差しは容赦なく照りつけ、木々の緑は気持ち悪いほど濃く、水をはらんで揺れている。
「陽汰と智影、どっちがすきかってやつ」
「………」
 返ってこない返答に顔を向けると、渚はまっすぐ慶介を見下ろしていた。逆光で、慶介から、その表情の細かいところまでは見て取ることは出来ない。
「あたしは」いったんことばを切って、口をつぐんだ。先をせかすことなく、慶介は緩慢な瞬きを繰り返す。「あたしは、」
 じぃじぃ、鳴いている蝉の声が。途切れて。
 それが合図だったかのように。
「兄くんがすきだよ」言った。「陽汰がすき」
「……。”事実”を知っても?」
 表情を変えずに、今日は暑いね、そういうかのように。
「事実、」
「”真実”なんて甘ったるいものじゃないよ」
「どういう、こと…?」
「そのまんまのこと」
「そんなのじゃわかんない、」
 首を振った渚に、慶介はかすかに眉を寄せた。それはまるで憐れむような。
「智影は、殺されたんだよ」
「それは…」
「誰にだと思う?」
「誰って………っ」
 “誰”
 “誰”なんて、そんなこと。
 今のこの状況で、思い当たる人物はひとりだけで。
 違う、脳細胞が、理性が、全力で否定する。そんなわけがない。そんなことなんてありえない。あっちゃいけない。駄目。駄目。駄目。
 思うばかり、考えるばかりで。
 何処か取り残された―――本能は。
 静かにこたえを読み上げていく。
「やだ…」
 陽汰が行ってしまった方を振り返って。
 停止する。
 10数メートル先の。陽汰の姿。
 中学ではじめて出会ったころよりも、ずっと背も伸びて、大人びた、陽汰の姿。
「兄くん、」
「柏木?」愕いたように駆け寄って。「どうして、泣いてるの?」
 小さな子供が母親に問うように。心底不思議そうに。
 言われてはじめて、泣いていることに気づいた渚が掌で顔をぬぐうと、きらりと陽のひかりに乱反射した。
「なんでも、ない。ごめん、」
「ツッキー。ごめん、俺らちょっと帰るわ」
 立ち上がった慶介が、突然切り出す。
「え、」
「ホラ、彼女、ツッキーに用があるんだと思うし」
 指を指されて、振り返った先には。
 薄手の水色のワンピースを着た、響子が。
 立っていた。
「いこ、柏木サン」
 渚の腕を引いて、陽汰のすぐ横をすり抜けていく慶介の横顔は。
 見慣れない表情を描いていて。
「砂倉、」
「じゃ、またな。学校で」
「…、わかった。じゃあ、また」
 わらった慶介の顔。何も言えなくなる眸。ちかり、ピアスが煌いた。
「響子、」
 慶介が見えなくなったところで、声をかける。
「………」
 響子はこたえなかった。
「どうして、此処に?」
「………」
 響子はこたえなかった。
「響子?」
 俯いた響子は、白い指先を、地面に向けた。
 指差された、その先には。
 蝉の死骸が転がっていた。綺麗に足を折りたたんで、まぶたのない眸を何処かに向けて。無表情で。すぐに動き出しそうで。
 地面に、静かに横たわって。羽の茶色が、地面に小さく陰影の模様を描き出している。
「きょうこ、」
 呼ぶと、すっと、腕を下ろした。斜めに分けた前髪にかすかに隠れた眸が、ゆっくりと陽汰を捕らえる。
「私たちも、きっと最期にはこうなるのね」
「え…」
「生きてるのか死んでるのかもわからない。でも、確かに死んでいる。抜け殻になってしまうんだわ」
 響子が何を言いたいのか、陽汰にはよくわからなかったけれど。脳の奥底で、小さく小さく何度もひらめくように、理解した。


 河原まで来たところで、慶介は腕を離すと、振り返って問うた。「落ち着いた?」
「…うん、」
 はぁ、息をついて。「ごめん、」ぽつり、謝った。
「いいよ。別に」
「ねえ、さっきの」
「……」
「根拠は、あるの? 証拠は?」
 見上げる渚の視線に、慶介は顔を逸らすと、人差し指で眉間を掻いた。
「ない。」
「え?」
「根拠も証拠も、ないよ。だけど、もう考えられるのはそこしかないんだ」
 ちょっと、あっちいかない? 指差した方向は、雑木林。
 歩きながら、背中越しに、言う。
「俺さ、兄貴がいたんだ」
「いた、?」
「そう、”いた”の。3年前に、T川の河口で骨になって見つかった」指を組んで頭の後ろを支えて。器用に歩きながら伸びをする。
「俺さ、兄貴のこと心底嫌いだった。ホント、死ねばいいっていっつも思ってた。もう喧嘩もしなくてさ。相手にしないんだよね。会話どころか、挨拶だって何年もしたことなかった。行方不明になったときは、ホンット、嬉しかった。すーっとしたね」
 雑木林の入り口で。
 川のせせらぎの聞こえる場所で。
「でも、いざ死んだって言われたら、なんか、ココが」拳で一度、どん、叩く。「やたら苦しくなってさ」
 ひとつ、木に寄りかかって、流れる川を眺める。
「殺されたかもしれないって説明受けたときに、絶対探してやるって思った。赦すとか赦さないとかじゃなくて、探してやる――って。誰が兄貴を殺したのか。兄貴は誰に殺されたのか」
 大嫌いだった兄だけど。
 やっぱり兄は兄で。
 それに気づいたのが死んでからなんて。
 わらえない茶番よりしらけてる。
「たどり着いた先が、兄くんだった、てこと?」
「いいや。たどり着いたのは、神谷響子のほうだよ。陽汰はその次。神谷響子の周りを見ていくうちに、突き当たった」
「じゃあ、兄くんは違うんじゃないの? それに、それはあくまで砂倉のお兄さんのことで、弟くんは、」
「関係ないこと、ないよ」台詞をさえぎって、断言。「兄貴のときがそうだったから、智影のときも同じように考えてみた。あくまで仮定として。兄貴も智影も、14、5とはいえ、男なんだ。神谷響子みたいな華奢な女じゃ、仮に殺すことは出来ても、埋めることなんか出来ない。確かにここは人通りも異常なほど少ないし、木が邪魔になって、なかのことなんてそこからは見えやしない。でも、そんなにひとつの作業にだらだら時間をかけることは出来ないんだよ」
「でも、他の誰かだったのかもしれないし…兄くんがやったって決めるのは乱暴だよ」
「だから、俺にも確信はないよ。本人の口から聞くしかない」足元の小石を蹴り上げると、斜めに飛んで、転がって、ぽちゃり、川の流れに落ちた。
「でも、可能性は限りなく高い」
「可能性、でしょ?」
「”可能性”だよ、」
「もし、兄くんは関わっていたとしたら…、」
 警察にいくの―――?
 すがるような眸の渚に、慶介はちいさくわらって、返した。
「俺は、何が欲しいわけじゃないんだ。罪には罰だ、なんて、言うつもりもない」
 夏の近くて青の濃い空を見上げて。息を吸って――吐いて。
「俺はただ、事実が知りたいんだ。本当とか嘘とか、そう言うのじゃなくて。事実が欲しい。あのとき何があって、どうして兄貴は殺されて、埋められて、河口で発見されて―――その、すべてが”知りたい”」
「知りたい、だけなの?」
「そうだよ、」俯いて、目を閉じて、開いて。見えた地面には、茶色いまだらの地面だけが広がっていた。「それだけだ」