花葬


正≠善

 高3の夏休みが終わると、周囲は一気に受験モードに突入する。休み前の期末考査で推薦が決まった者だけが、のうのうと日々を過ごすことを赦される。
 智影の墓参りから、始業式まで。陽汰は慶介と会うことはおろか、メールさえすることはなかった。それは渚とも同じで。リアクションのなさが、逆に、陽汰を不安にさせた。響子とは、休み期間中も何度か会った。ただ、何を話したりしたわけではなく。ただ同じ部屋で過ごし、気が向いたら躰を重ね。まともな、実のある会話は一度もなかった。
 始業式の翌日から、通常通りの授業が開始された。私立だからか、それとも何処の高校もそうなのかは知らないが、50分6時間、みっちり授業が組まれている。そのほとんどが演習で構成されていて、陽汰の所属する私立文系クラスにも少数存在する一般入試組は、目の色が少し違うように感じた。
「や。」
 屋上でぼんやりしていた陽汰に、渚が声をかけた。肩まで伸びた髪を後頭部でひとつにまとめて、まとめ切れなかったいくらかが、風に揺れている。
「どうしたの、授業はサボり?」
「自習なんだ、」
「うそつき」「……、」「小野寺さんの授業でしょ? 出ないと後からうるさいんじゃない?」「…良いんだよ、別に。そういう柏木こそ、授業は?」
「あたしの方はね、本当に自習なんだ。みんな不満たらたらでさ、この時期に自習なんかありえないって」
 渚の所属する国公立文系クラスは、私立文系クラスより、よっぽどぴりぴりしているに違いない。まだ9月なのに――なんていった日には、きっと袋叩きにあってしまう。
「そう、」
 屋上を吹き抜けていく風は、夏の湿気をはらんでいて、肌にまとわりつくよう。
「そこ、暑くない?」
「今日は曇ってるし、平気だよ」
「そっか、」
 グラウンドで体育をしている生徒の声が響いている。高校という、大人になりかけた無邪気な子供たちの、歓声にも似た声。
「2学期だからかな、やっぱりみんな―――」
「柏木」
 ぷつり、張り詰めた糸が切られるような。有り余った力は解き放たれて何処に行くのだろうか。
「…なに、」
「言いたいこと、あるんでしょ? 言いなよ」
 手足を投げ出して、柵に寄りかかる陽汰が、渚にはやけに小さく見えた。
「……、」
「柏木、」
 何か言わないと、否、何かではない。聞きたいことを訊かなければ。慶介は事実を知りたいといった。赦す赦さない、罪と罰、そう言う問題ではないと。
 ただ知りたいと。言った。
 渚もまた、”知りたい”。
 砂倉の兄のことは何も知らない。そう言う事件があったことすら、事実としては存在していても、渚自身の記憶にはなかった。ただ通り過ぎただけの出来事。ココロにも、耳に求めなかった。何も関わってこなかった。砂倉の兄のことも、智影のことも。事件として、渚は何ひとつとして知らない。
 智影はどうして死んだんだろう――、そう思うことはあっても。そこに何があるのかなんて考えたこともなかった。
 出来合いの真実ばかりを見て、事実を知らないままで。
 何も知らないまま。
 何も知ろうとしないまま。
 気が付いたときには、もう何もかもが遅すぎて。何もかもが、手遅れに限りなく近い状態で。
 何も出来ないまま。
 最後にひとつだけ、関わりたくて。知りたくて。
「兄くんが、弟くんを、」殺したの、言おうとして、言えなくて。気持ちがくじけてしまいそうになるのを、何とか抑えようと、唇を強く噛んだ。―――痛かった。
「埋めたの?」そう言うのが、精一杯。
「そうだよ、」
 あっさり。陽汰は言った。ずっと前から用意されていた出来合いのものを差し出されたような、感覚。
「僕が、智影を埋めた。僕が殺して僕が埋めた」
「……、本当に?」
「本当に」
「それが、事実なの?」
「それが、事実なんだ」
「嘘、だよね?」
「………」
「だって、誰が弟くんを殺したって、兄くんが殺すわけないよ。誰が弟くんを埋めたって、兄くんはそんなことしないよ!」
 叫ぶように、否、叫んで。否定して。そうだよね、同意を求めて。なのに、返った来たことばは。
「事実だよ」
 静かな、宣告にも似た。
 告白。
「僕が智影を殺した。僕が智影を埋めた。他には何もない」
「じゃあ、砂倉のお兄さんを埋めたのも兄くんなの?」
「そうだよ、」
「でもそれは、神谷さんに頼まれたからでしょ? 兄くんは神谷さんがすきで、神谷さんが大事だから、だから、言うとおりにしただけだよ」
「響子は、関係ないよ」
「……っ」
「全部、僕がやったんだ。何もかも。砂倉智久を殺したのも、埋めたのも。智影を殺したのも、埋めたのも。全部僕がひとりでやったんだ」
「兄くん…っ」
「柏木がどんなこたえを望んでいるのかは知らないけど、事実はそれだけだよ」
 静かな静かな。
 落葉が湖に広げた波紋に似た。
 陽汰の台詞。
「僕はこれしか持ってないんだ。これで満足してよ、」
 立ち上がって屋上を出て行こうとする陽汰が、するりと、渚の横を通り過ぎて。巻き起こった風に、泣きそうになる。
「兄くん、」
「何か、こんなこと言うのも変だけど、」そう前置きして、振り返らずに。陽汰は言った。「ごめんね、」
 陽汰がどんな表情をしているのか、背中越しの渚には見えないけれど。かすかに汗ばんだ開襟シャツの背中は、まるで泣いているようで。
 返答は、出来なかった。


「ツッキー」
「………」
 屋上から下りる階段で。
 慶介が腕を組んで。待っていた、というように。
「単刀直入に訊く」組んだ腕をほどいて、向き直って。「お前、なのか?」
「………」
 “何が”、その台詞すら、陽汰には用意されていなかった。
 じっと、陽汰を見る慶介の表情。ぶれて重なる、砂倉智久の死に顔。
 砂倉智久。
 金髪。ちらりと前歯が覗いた口元、鼻の穴。黒ずんだ肌色のなかの、黒い穴。何かの抽象画を連想させる光景。土に埋もれて闇に消えていく躰。
 血だらけになった智影。学生服。何度も陽汰を呼ぶ声。うめき声。感触。色彩。記憶。キヲク。迫る恐怖、歪んだ表情。
 感覚と同時に。足元から這い上がる。
 陽汰が死ぬときも、きっと同じ顔をするに違いない。
「陽汰、」
 あだ名ではなく、名前で。呼んで。
「勘弁、してよ」
 陽汰にすら聞こえない声で。はは、顔がこわばって緩んで。
「柏木に訊いてよ」
 今度はきちんと聞こえる声で。言った。
「俺は、お前の口から―――」
「ごめん、」
 渚に言ったのと、同じ台詞で。慶介の肩を避けて。階段を下りる。きゅ、きゅ―――上靴の擦れる音が、低い天井に、響いて。響いて。
 頭のなかにはぐるぐる、肌寒い記憶が渦巻いて何処にも行かずに堂々巡り。


     ***


 そのまま、陽汰は早退した。
 教科担当の教師も、担任も、特に何も言わなかった。気をつけろよ、と、ただそれだけで。そのことばにも、たいした感情も含みもない。
 グラウンドから見上げた屋上には、誰もいなかった。否、誰かがいるかもしれない。ただ陽汰からは見えないだけで。
 空を覆う雲から、時々覗く太陽と。湿った風。肺の奥底まで、濃密な水の分子が入り込む。そのまま溺死してしまえれば良いのに。ふと、そんなことを思った。
 でもそんなこと、出来るわけもなくて。
 陽汰はただ、無為に。ふたりの人間を踏み潰して。生きている。
 生きている。
 力なく垂らした掌を。握って開いて。自分で、自分の体温が感じられる。確かに。確かに。
 慶介を埋めることは出来なかった。
 機会がなかったわけではない。墓参りの後だって前だって。まったく別の日であっても。出来ないことはなかった。ただ、陽汰が実行しなかっただけで。
 いつでも出来た。
 いつでも殺せた。
 いつでも埋められた。
 だけどそれをしなかったのは。
 しなかったのは。
 何故なの、だろうか。
 もうすべては露見してしまっていて。
 事実は事実として認識され。
 真実なんてかすんでしまうほどに。事実はそこに存在している。
 逃げられないんだ―――こたえが、視界の後ろで明滅する。
 逃げられない。
 慶介はやがて、陽汰を、響子を、告発するだろう。そう遠くない未来に。それは確実に。やってくる。
「響子、」
 陽汰は罪に対する罰を受けるとしても。
 響子は。
 響子だけは。
 護らなければならない。
 響子に罪がないとは思わない。ただ、罰を背負わせたくなかった。人殺しの十字架を背負うのは、陽汰だけで充分だから。
 ひとつの罪を背負うのも、ふたつの罪を背負うのも。
 質は違っても、重みは変わらない。
 罪は罪で。罰は罰。
 そうでしかありえないのだから。
 信号待ちで止まった横断歩道。陽汰の隣に、ベビーカーを引いた女が並んで立った。紺の庇の下で、赤ん坊が黒めがちな眸をくるくるさせている。
 この子は、まだ何も知らない。
 世の中に罪があることも。それに対する罰があることも。
 護るべきものがあることも。護られることも。
 人は死ぬということも。自分が生きているということも。
 この子はまだ、何も知らない。
 赤ん坊と目が合った。赤ん坊はきゃらきゃらわらっていたが、不意に表情を歪めて泣き出した。陽汰が目を逸らしても、一度泣き出した赤ん坊はなかなか泣き止まない。
 母親だろう女がベビーカーの前に回って、赤ん坊を抱き上げる。ベビーカーを道の端に寄せて、その場であやしはじめた。
「泣かなくたって、」
 背後に泣き声を聞きながら、小さく小さく、呟いた。そんな、まるで人を化け物みたいに。
 化け物。
 思ったあとで、心臓の辺りからじわじわ、わらいがこみ上げる。
 化け物。
 人を殺した人間が、どうして”人間”なのだろうか。”人間”なんかじゃない。”化け物”だ。
 何も知らないのに。感覚でわかったのだろう。こいつは化け物だ。化け物だ。人間じゃない。怖い。化け物だ。
 信号が変わって、足を踏み出して。
「――っ」
 目の前を、猛スピードのタクシーがすり抜けていった。
 あと5センチ前にいたら、きっと撥ねられていた。それくらいの距離を。
 跳ね上がった心臓が、落下して。背骨に液体窒素を入れられたような寒気が襲う。
「あぶないなー、大丈夫か?」
 後ろから来た中年男性が、陽汰に問うた。
「あ、はい」
 胸に手を当てると、不自然なほど波打っていた。おかしい。どうして人を殺した陽汰が、自分が死ぬような場面で、こんなに愕いているのだろうか。
 砂倉智久も。智影も。
 もっと愕いていたはずなのに。
 実際に死んでしまった彼らは。今の陽汰よりもずっと。愕いて、恐怖を感じていたはずなのに。こんな、傷さえ負わなかった陽汰が、愕いていいはずなんてないのに。
 尋常ではない速さで鼓動を繰り返す心臓をなだめながら、改めて信号を渡った。今度は車は来なかった。
 轢かれそうになるのなら。
 いっそ、轢かれてしまったほうが楽なのに。
 先程の間での愕きとは逆に、思う。死ぬはずなんてない、その大前提をもとにした、臆病者の思考。
 死ねないし、死ぬ気もないのに。
 死ぬ勇気すら、持ち合わせていないのに。
 人は殺せても、自分は殺せないのに。
 とんだ、臆病者。
 改札を通り抜けて、ホームに上がる。
 中途半端な時間だからか、ホームには老女がひとり、待合室でうつらうつらしているだけだった。
 黄色い線の内側に立って。遠めに時刻表を見ると、後5分ほどで電車がくるらしいことがわかった。
 雲が少しずつはけていって、青空が覗く。これから徐々に遠ざかっていく空は、今はまだ近くて重い青色。
「ちかげ、」
 弟の名前。
 陽汰が殺した弟の名前。奪い取った残りの時間は、いったいどれだけあったのだろうか。あのとき死ななければ、智影は今、何をしているのだろうか。陽汰を止めてくれたのだろうか。
 否。
 すべては、仮定でしかなく。仮定ですら、ありえなくて。生きていたら、死ななかったら―――そんなの、殺してしまった陽汰の考えていいことではないのだ。
 埋めてしまった陽汰が、考えることではない。
 大事な弟だった。
 一緒に生まれて、一緒に生活して。徐々に現れる相互の違いや距離さえ、手を伸ばせばすぐになくなってしまう。離れてしまっても、せいぜいその程度でしかなくて。
 大事な弟”だった”。
 でも、奪い取ったのは他の誰でもない、陽汰自身。
 智影ではなく、響子を選んだのは陽汰自身。
 智影を排斥してまで、響子を選択した。
 だから、絶対に護らないといけない。護りきらないといけない。智影のぶんまで。こんなことを言うのはおかしいと、自覚しているけれど。
 陽汰にとって護るべきものは、響子でしかないのだから。
 過去を見て、過去にとらわれて。それはとても愚かなことだと思いながらも、忘れられるわけもない出来事。忘れられるわけもない存在。現在や未来をみるにはどうしても過去が必要で。無視することなど出来ないし、なかったことにも出来ない。
「きょうこ、」
 呟いた声は、電車の滑り込む音にかき消されて、ばらばらに粉々。
 気持ちも感情も。
 ばらばらになったらどんなに楽だろう。
 跡形もなく粉々になったらどんなに楽だろう。
 思うばかり。考えるばかり。
 陽汰は何もしない。何も出来ない。変えられない。変えようという努力を、しない。
 ただそれだけ。
 変えようとしない人間に変革なんて、訪れるわけもないのに。


 響子のマンションの前に立って、見上げる。
 駅を出てから此処まで、何人かの人間とすれ違った。その誰もが、陽汰のことを避けているように感じた。自意識過剰もいいところだと思うけれど、感じるものは仕方がなかった。
 電車に乗ってから、ずっと考えていた。
 今のこの状況で、どうやったら響子を護れるだろうか。
 響子を、無傷で護れるだろうか。
 そう考えたときに、こたえは既に明示されていて。その、ただひとつでしかなく。
「響子、」
 会いたい。会って話がしたい。だが、平日のこんな時間に、彼女が自宅にいるわけもなく。いつまでも待っているのも手持ち無沙汰で。
 携帯の時間表示を見ると、まだ12時にもなっていなかった。
 もう一度マンションを見上げて、その場を離れた。
 何処に行けばいいのか。家に帰る気にはならなかった。かといって、特別に時間を潰せる場所もなくて。
 気が付いたら、川沿いの道を歩いていた。少し低い目線に広がる住宅街は、数年くらいでは姿を変えることはない。3年前の映像と比べたって、その差は微々たるものでしかないのだろう。
 目の前には、雑木林。
 河原に降りて、ぐるりと回り込む。鉤型にかみ合っていた河原と雑木林は、一部整備され、川沿いの道からも一望できるようになった。
 中央の小さな広場の周りには、「Keep Out」の黄色いテープが張り巡らされ、ぽっかりと穴が開いている。
 花は何処にもない。川の決壊によってすべて流されてしまったのか、それとも邪魔だったから処分されたのか。定かではないが、そこに花がないことだけは確かだった。
 ぽっかりと。穴だけが。ふたつの事実を物語り。
 吸い込まれそうな穴の底には、季節はずれの落ち葉がひとつふたつ。闇に呑まれて紛れて存在している。
 触れたテープは皮膚にへばりつくような。
 ユリオプスデージーの咲いていた木がどれなのか。砂倉智久が寄りかかっていた木は何処なのか。智影が死んだのはどのあたりだったのか。
 考えても確かな場所など思い浮かばないのに。
 その場所に目をやれば、確かな映像が現れる。幻だとわかっているのに、目を疑うほどに鮮明に。
 砂倉智久。
 陽汰が埋めたことは事実でも、それきり通り過ぎていく人間だと思っていたのに。再び、目の前に現れて。
 どうして慶介と出会ってしまったのだろうか。
 もし彼と出会わなければ。
 罪はあっても罰はなかったかもしれないのに。
 すべては陽汰の掌の中だけで。何も知られず誰にも知られず。
 あの穴の闇のように。底なしに消えてしまったかもしれないのに。
 開いた掌を見て。それから、閉じた。
 原点としてのこの場所に、確かに存在した事実は。
 逃れようのないほど大きくて。
 強く目を閉じても、ひかりは赤く視界を染める。
「―――、」
 ズボンのポケットで、携帯が震えた。差出人を確認せずに、メールを開いた。
 響子からだった。そこには簡素な文章が一文だけ。
『会いたい。』
 3度、読み返して。携帯を閉じた。もう一度見た穴は、さっきと同じはずなのに、さっきよりも深く深く、永遠のような闇の色を抱えて。


     ***


 何も言わずに、響子は陽汰を招きいれた。
 部屋の中に灯りはついていなかったが、レースのカーテンから、外のひかりがやわらかく差し込んでいる。
「響子」
 呼んでも振り返らず。「紅茶、淹れてくるわね」
 ひとり居間に残された陽汰は。それこそ何十回と来ているはずの室内で、所在無く立っているしかなくて。
 窓のに視線を向けながら、先程の響子の表情を思い返す。
 いつもとなんら変わらないようで、でも、何処かが違っていた。響子のほうから陽汰を呼び出したのに、態度は何処となく冷たい。どことなく―――否、確かに。
 室内に音を撒き散らしているテレビには、昼のワイドショーが映し出されていた。普段の響子ならば、絶対見ない種の番組。
「珍しいね、」
 マグカップを持って戻ってきた響子に言う。「響子がこのテの番組つけてるなんて」
 陽汰に指摘されて気が付いたのか、響子はテレビを見ると、嫌そうな顔をした。
「消して」
 その言い方が本当に嫌そうで。陽汰はテーブルの上に無造作に置かれていたリモコンで電源を落とした。音が消えて、続いて部屋の照度も下がる。
「座らないの、」
 言われて、陽汰はようやくソファに腰を下ろした。
「こんな時間なのに、学校、どうしたの?」
 マグカップを両手で持ち、息を吹きかけながら、響子。
「メールが来る前に既に早退済みだったんだよ」カップを持ち上げると、ふわりとりんごの香りがした。「そういう響子こそ、どうしたの?」
「今日は休んだの」
「風邪でもひいたの?」
「違うわ。ただ、何となくよ」
「そう、」
 遠くで電車が汽笛を鳴らす音が聞こえた。この高さからだと、電車そのものどころか、電線さえ目線で見ることはできないけれど。
「会いたい、なんて。響子らしく端的なメールだね」
「そうかしら、」
「そうだよ、」
「会いたかったの」カップを膝に下ろして、響子はぽつり、言った。
「そう、」
 湯気はカップを離れると、すぐに空気に混じって見えなくなる。消え去った水の分子は何処に行くのだろうか。
「僕も会いたかった」湯気を追って視線を上げて、言う。「響子に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
「”言わなきゃいけないこと”?」
 静かな声で。ゆったりとした瞬きを添えて。
 護らなければいけない、再度認識する。
「僕は、自首するよ」
 響子の眸が、少しだけ、大きく開いて。唇が何か言いたそうに開いて、しかし洩れるのは息ばかり。
「すべては、僕がやったことなんだ。砂倉智久のことも、智影のことも。僕が全部やったことなんだ。響子は関係ない。響子に、罪なんてないんだ。罰も、ない」
「………」
「響子は何もしていない。何にも関与していない。何も知らなかった」陽汰は自身に言い聞かせるように。何度も何度も。「僕がやったんだ。何もかも。僕が、ひとりでやった」
「僕は、響子を護るよ。絶対に、護るから―――」
 だから、
「だから、僕は自首、するよ」
 本当は、もっと早くにこうするべきだった。響子を護るのならば。それが最優先ならば。だけど、陽汰には出来なかった。怖かった。罪に与えられる罰が、世間の目が、罪そのものの重さが。
 何もかもが、怖くて仕方がなかった。
 だから智影を埋めた。怖かったから、そこから逃れたかったから。
「響子――」
「うそ、」
 陽汰の呼びかけにかぶせて。まっすぐに陽汰を見る。まっすぐなのに、視線は何処か虚ろで。はっきりしない。「そんなの嘘よ、」
「…響子、?」
「そんなの、嘘だわ。そんなこといって、私を護るなんていって。本当は違うんでしょ? 本当はすべて私のせいにするんでしょ? そうやって、自分だけが助かろうとしてるんだわ!」
 叫んで立ち上がって。「響子、」名を呼ぶ陽汰に向かって、聞いたこともない声量で続ける。
「砂倉智久を殺したのは私、埋めたのも私。智影を殺したのは陽汰でも、そう仕向けたのは私! そう言うんだわ!」
「違う、響子、違うよ…!」
「何も違わないじゃない! 陽汰が護ろうとしてるのは私じゃないわ、自分だけなのよ!!」
「響子、」
 肩で息をして。震える唇。
「僕を信じて。僕は絶対に響子だけは―――」
「信じられない。信じられない…っ」
 いやいや、首を振って。キッチンに駆け込んだ響子は、すぐに姿をあらわした。
「もう、いや。いやよ!」
 その手には、包丁があって。
「………きょう――」
「みんな、みんなそうなのよ。私を見棄てていくんだわ。みんな、最後は自分が大事なのよ。陽汰だってそうなんだわ、」
「違うよ、聞いて。僕は、」
「違わないっ」
 怯えきった響子の眸。今まで一緒に過ごしてきた11年のなかで、はじめて見る感情。
「違わない違わない違わないっ」
 頭が飛んでしまいそうなほど首を振って。響子のすべてでもって、何もかもを否定しているようで。
 何もかもを。陽汰さえも。
 否定しているようで。
「きょう、こ…」
 今にも泣き出しそうな表情。愛しい人の。泣きそうな顔。そんな顔、しないで欲しい。陽汰は思う。思っても、声には、でなくて。
「僕を、信じて―――」
 陳腐な台詞だと、言いながら思った。こんなことばひとつで、響子のなかの、陽汰に対する猜疑心が消えるわけではないだろうに。
 でも、それしか言うべきことばを知らないのも、また、事実で。
「きょぅ、」
 不意に走りこんできた響子が、陽汰の肩にぶつかって。衝撃と一緒になって、感じたことのない熱が。
 何処が熱いのかもわからないほどで。
 上半身を起点に、全身にぞわりと広がってじわじわ馴染んで。しかし馴染みきらない熱は、脳を通じで痛みとして。
 陽汰に訴えかける。
「―――っ」
 陽汰の肩に顔を埋めて、表情の見えない響子は。いったいどんな表情をしているのだろうか。
「…、ぁ……、」
 何を言いたいのか、何を言おうとしているのか、陽汰自身、よくわからなくて。でも唇は震えてことばを紡ぎだそうと必死で。声帯は震えないで。細かい息だけが洩れて洩れて。音にはならない。
 響子がぐ、と身を引いて。何かが噴出す感覚。そしてまた、熱が。しかしその熱は、先程よりは酷くなく。痛いような痒いような。もどかしい痛みを伴う。
「陽汰、」呼んで。「陽汰。ようたようたようたようたようた」呼んで。何度も何度も。肩にぶつかって。
 ぱたぱた、音に床を見ると。
 赤い滴が点々と。あっという間に広がっていく。
 智影と同じ。色。
 陽汰が智影を殴って、殺して。出た血と同じ色。陽汰の服に染みをつくった血と同じ色。
 陽汰も、智影と同じで。
 生きていて。そして、死ぬ。
 生きているから死ぬわけで。
 死んでいたら死ぬことも出来なくて。
 死ぬのは、大事な人に殺されるからで。
 それは果たして、倖せなのか、不倖せなのか。
 膝がわらって。立てなくなって座り込む。左腕にはまったく力が入らなくて、まるで自分のものではないかのような重さ。
 真っ赤に染まった左腕。
 指先がぴくぴく、死ぬ間際の生き物みたいに。動いている。
 床の血は広がるばかりで。
 どうにかしないとな、思っても、何も出来ないでぼんやり座り込んでいるしかない。
「よ…ぅた、」
 見上げた響子は、血にまみれた包丁を持って。陽汰を見下ろしていて。響子の服や顔には、ぽつりぽつり、赤い染み。
 どくり、心臓が一度だけ、大きく鳴る。
「響子、」
 呼んで。もしかしたら、今の陽汰はわらっているのかもしれない。響子の表情が、少しだけ怯えて。
「僕を、殺すの?」
「………、」
「僕を、埋めるの?」
 繰り返すの? すべてを。でももし繰り返すのなら。陽汰が闇に埋もれてしまうのなら、誰が響子を護るのだろうか。
「よう、」
「響子、お願い…」顔を上げているのもつらくて、床の一点を見つめるけれど、それすらも視線はぐらついておぼつかない。「僕を、信じて、」
「ようた…」
 目の前が、かすんで。赤色とフローリングの木目が。交互に混ざって溶け合って。陽汰のすべてを支配していく。
「僕は、」酸素が足りない。重すぎる腕は、既に陽汰のものではなく別の生き物のよう。「響子を、護る…から…」
 血液はどんどん抜けていっているはずなのに、顔が、躰が熱い。周囲を巻き込んで、発火してしまいそうなほど。炎で何もかもが燃えてしまったら、いったい何が残るのだろうか。何も残らないのだろうか。
 もう響子を見上げることも出来なくて、頭が重くて。ぐらりぐらり、眩暈が。
「―――」
 響子が何か言ったように、聞こえた。否、陽汰には聞こえていない。ただ、言ったような気がするだけで。言っていたらいいなと、そんな、ただの希望的観測に過ぎなくて。
 希望的観測、なんて。なんて曖昧。なんていい加減。死ぬか死なないかの、この場面で。なんて滑稽な思考回路。
 わらいたいけどわらえなくて、顔の筋肉すら微動だに出来なくて。
 妙におかしい気持ちだけが残って。
 後はただただ、土のなかによく似た闇だけ。


 床に倒れこんで動かなくなった陽汰に、張り詰めていたモノが、ぱつと音を立てて。切れてしまったようで。
 響子が自身の手を見ると、そこには真っ赤な包丁があって。
 どうして自分がそんなものを持っているのか一瞬理解できなくて、反射的に手を離す。しかし血液は粘り気でもって離れるのを拒んで。結果、放り投げるように棄てた。同時に、腰が抜けてしまう。
 床に刺さった包丁と。目の前の動かない陽汰と。広がる赤い血と。
 徐々に徐々に、飛んだ意識が戻ってくる。どうして自分が包丁なんか持っていたのか、どうして陽汰が倒れこんでいて動かないのか、どうしてあんなにも血が流れているのか。
 ひとつひとつが、改めて事実として、響子のなかに整理されていく。
「…ようた、」
 呼んで。でも反応はなくて。
「ようた」
 揺すって。でも反応はなくて。
「陽汰」
 掴んだ肩は、ぐっしょり、血で濡れていて。
 飛び上がるほど熱いのに、床に流れ出ている血は冷めて冷たい。
「私、わたし…」
 湧き上がる感情と、あがる呼吸と。混乱する思考回路。なのに何処かは急速に冷めていく。
 陽汰は動かない。
 でも、まだ死んではいない。
 死んではいない。
 どうしたらいい。どうすればいい。
 止めを刺すべきか、否か。
 埋めるべきか、否か。
 どうしたらいい。どうすればいい。
 今、響子が床に刺さった包丁を拾って、陽汰の胸に刺せば、愕くほど簡単に、陽汰は死ぬだろう。何の苦労も要らない。そこにいるのは最低限の労力ともいえない労力だけ。
 でも、もしそうしたら。
 罪はすべて響子に。
 罰はすべて響子に。
 もう此処まできたら、何を怖がることもないのに。でも、響子は恐れている。
 罪を。
 罰を。
 陽汰を失うことを。恐れて。
 無条件に響子を求めて護ってくれた存在を失うことを。
 双子の弟よりも、他人である響子を選んでくれた陽汰を。
 失うことへの恐怖が。
「…ぁ、」
 自首すること。
 それが正しいことだなんていうこと、響子にもわかっていた。
 でも、出来なかった。陽汰にも、させたくなかった。
 黙っていれば誰にも露見しなかった。沈黙は確かな免罪符で。
 自首をすることが正しいことだと、良識にかなった、良心にそったことだと。わかっていたけれど。
 それが響子にとって善いことだったのかといえば、そうではなかった。
 正しいことがすべて善いことに繋がるわけではなくて。正しいことがすべての判断基準ではありえなくて。結局は自分が可愛くて、自分に善いようにしか判断できない。
 正しいことがすべてなんて、そんな聖人君子みたいな人間が、この世の中にどれだけ存在するというのか。
 おそらく、一握りもいはしない。
 今のこの状況で、響子にとってどれが最善なのか。正しいのではなくて、何が善いのか。考えて考えて考えて。
 導き出されたこたえは。
「―――だめ、」
 殺せない、ということで。
 罪よりも罰よりも、喪失感が勝っていて。
 いつか見たことのある情景で、やるべきこともわかっていて。どうしたらいいのかもわかっていて。
 なのに。
 殺せない。
 失くしたくなくて。
 もうきっと、会うことすらままならなくなるのに。
 それでも可能性を残しておきたくて。
 死んでしまったら、もう会えないから。可能性すらなくなってしまうから。
 会いたいのは事実で。真実で。響子の何の虚勢もない、ただの想いひとつで。
「陽汰、」
 殺してしまえたらどれだけ楽だろう。どれだけ今の響子の気持ちが救われるだろう。たとえそれが、一時しのぎに過ぎないとしても。
 でも、そんなこと。
 出来るわけもなくて。


     ***


 それぞれに花束をもって。
 渚と慶介。躰ひとつ分離れて、信号待ち。
 目の前を掠めて過ぎていく車。他に信号を待つ人はない。
「今、」ぽつり、渚が言った。「一歩前に出たら、死ぬよね」
「……」渚をみて。「だね」慶介はただ肯定した。
「人って、いつ死ぬかわかんないよね」俯き加減に、視線を落として。
「だから生きてるんじゃん」花束で肩を叩いて、キシシ、と慶介がわらう。つられて、渚もわらった。「いつ死ぬか、なんて考えながら生きてても愉しくないし」
「砂倉は前向きだね」
「いんや、俺は後ろ向きよ。後ろ向きで、でもときどき前を見んの。そうしないと危ないじゃん」
「わけわかんない」
「哲学的なことは他人に理解されにくいのだヨ」
 おどけた口調に、わらいは声になる。
 車の騒音にかき消されそうな、その程度の声量だけど。
「ねえ、砂倉」
「んー、」
「お兄さんのお墓って、何処にあるの?」
「秘密」
「なんで?」
「なんとなく、だよ」
「けちー」
 車道の信号が、青から黄色に変わる。
「まあ、そうだにゃー。すぐ近くだよ、とだけ言っておこう」
「…ここら辺って霊園あったっけ?」
「はてさて、それはどうかな」
 肩をすくめた慶介に、渚は瞬きしか出来なくて。
「まあ、いいや」
 青になった信号の、横断歩道を渡った。


 慶介と信号を渡ったところで別れて。渚はひとりで智影の墓前に立った。
 花束を墓前に置いて、墓石の文字と同じ目線の高さにかがみこむ。
「ふたりきりなんて、中学のときにもなかったよね」
 同じクラスになったのは一年間だけ。智影と会うときは、いつも誰かがいた。それは陽汰だったり、他のクラスメイトだったり。
 陽汰と同じ容姿をしているはずなのに、まとう雰囲気のせいか、智影は陽汰ほど友人関係は広くなかった。トモダチは少ない、といってもいいくらいで。
 渚もその雰囲気に圧されて近づきづらかったひとりで。
 でも今になれば。どうしてもっと近くにいなかったのだろうかと思う。それは酷く自意識過剰で、たかが結果論だけど。
 それでも。そんなことを思ってしまう。
 渚が近くにいたら、何が変わったか。きっと何も変わりはしなかった。何もかもが、今のままで、智影は死んで、埋められて。事実としては何も変わらなかっただろう。
 でも、渚の気持ちは、きっと違った。
「自意識過剰な上に、自己中だな」
 頬杖をついて。ごめんね、謝る。何もかもが後の祭り。だけど、謝らせて。お願い。
「ごめんね、」
 あたしは泣けないよ、弟くん。哀しいけど、哀しいよりも、情けないよ。何も知らなかった自分が。関わらなかった自分が。それはただ単に、蚊帳の外だっただけなのかもしれないけれど。
 でも。
 “でも”―――何なのか。渚自身、よくわからないままで。
「あたし、何しに来たんだろう」
 ぽつり、呟く。
「何となく、弟くんに会いたかったのかな、」
 彫られた文字は、何も言わずにそこに居て。
「事実だけ知っても、何も変わらないなんて。なんか、哀しいね」
 陽汰が智影を殺したという事実。
 陽汰が砂倉智久を殺したという事実。
 何もかも。認識できているのは事実だけ。その過程には、何ひとつ関わっていない。
「まあ、あたしが関わったところで、何も変わらなかっただろうけど」
 言って、苦笑い。「でもね、あたし思うんだ」
 ざわざわ、木々が揺れて。はらりはらり、落葉が舞う。
「どんな理由があっても―――なくても。弟くんは、兄くんを憎んだりはしないんだろうね」
 救いのような。
 永遠の咎のような。
 ふたりだけのつながり。絆。
 渚には、計り知れない。
 じわり、混みあがってきた涙に。わらった。
「おかしいなー、何で今更なんだろう。ね、」


 置いた花束のビニールが、風にはためいて。
 飛ばされないように、慶介は屈みこんで手で押さえた。
「智兄、」
 この名前で呼ぶのは、いったい何年ぶりなのだろうか。兄が死ぬ何年も前から、そんな呼称で呼んだことはなかった。
 顔を見るのも嫌で。同じ空間にいることさえ耐えられないほど苦痛だった。
 死ねばいいと、思っていた。いなくなればいい、自分の前から消えてくれ。何度も願った。
「ごめんね、」
 もっと話をすればよかった。会話じゃなくても、挨拶程度でも。ことばを交わしておけばよかった。”いなくなればいい”と平然と思えたのは、”いなくなるわけがない”という確信が何処かに確かにあったからで。
 本当にいなくなるなんて、思ってもいなかった。本当に死んでしまうなんて、想像すら出来なかった。
 いなくなったらココロが痛いなんて。
 なんて自分勝手なんだろう。
「俺がたどり着いたのは、ちゃんと、事実だったよな?」
 神谷響子も、調川陽汰も。
 慶介が捜し当てた彼らは、強い絆がゆえに、脆くて。
「智兄、俺、知りたかっただけなんだよ」兄はどうして殺されたのか、どうして埋められたのか、どうしてどうしてどうして。
 そのこたえが知りたかった。それだけで。
「だから、俺はあいつらに対して、何もしない。犯した罪への罰も要求しない。告発もしない」
 灰色と黒と。様々な色の、まだらの墓石。
「ごめんな。俺はちょっとだけ、感謝してるんだ。あいつらに」兄を殺したことを。苦しいし哀しいけど。でも。少しだけ、感謝している。
「あいつらが智兄を殺したから、俺、智兄を兄貴だって、ちゃんと思えたよ。莫迦げてるけど、でもそうなんだ。そうじゃなきゃ、俺はずっと智兄のこと、嫌いなままだった」
 死んで。それからやっと兄だと思えた。
 莫迦莫迦しいし、ありえないほど滑稽だけど。
「ごめんな」
 兄の墓石のすぐ後ろに覗く、智影の墓石。
 すぐ近く。
 死んだのが同じ場所なら、埋葬された場所さえも。
 すぐ近く。
 “偶然”――”運命”。
 安っぽいことばが、慶介の頭に浮かんで消えた。